テクストから遠く離れて

著者 : 加藤典洋
  • 講談社 (2004年1月17日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (328ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062122078

作品紹介・あらすじ

いま求められる批評の原理とは?小説の核心的「読み」を通して、テクスト論・ポストモダン理論の限界と文学思想における批評の停滞を超え、新たな普遍性の原理を提示する脱テクスト論の地平へ。

テクストから遠く離れての感想・レビュー・書評

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  • 「小説の未来」と兄弟関係にある一冊。
     本書は「理論編」となっており、「小説の未来」はその「理論」の「実践編」となっている。
     先に「実践編」を読んでしまったのが、もしかしたら間違いだったかもしれない。
     それはともかく……きちんと内容(理論)が把握できたか、と問われたら「うーん」とくちごもってしまうだろう。
     全く理解できなかった訳ではないのだが、完全に理解出来たとは自信を持って言えない。
     斜め読みしてしまった箇所もいくつかあった。
     乱暴な書き方をしてしまえば「テクスト論」における「作者の死」に真っ向から反論している、というよりも「きちんと作者に死を与えなければ意味がない」といったようなことなのだろうか、と思ったりもしている。
    「実践編」を読んで、漠然と理解していたことを、明白に文章化されたら、頭の中のクエッション・マークが増大した、ってところ。
     要するに頭が悪いんですね……ハァ。

  •  作品を引用の織物として発見し意味づけたいから誰もがこう感じるはずだというような読みはやめようとしたけれど、作者と作品の関係を脱臼させる試みがあらわれた。十分に洞察しているかはわからない。踏み抜いてしまっただけかもしれない。それでいい。言表行為に作者の像をとらえ意図を感じる権利を主張しよう。読み手の読みの現場性の息吹きにさらされよう。

    『まともな人士なら、誰もが、自分と同じように、これを傑作だと感じるはずだ、という形で、人は、ある作品を「傑作だ(美しい)」と言うのであり、その美の言明が、一つ一つは違いつつもそれぞれが普遍性への企投として行われる。そしてその一つ一つがせめぎあう。これがいわば美の世界の構成の本質なのである。』73頁

  •  どうしても「作者の死」について知っておきたくて、ついでにポストモダン、テクスト批評についてもざっと把握しておきたくて資料を探していたら、ちょうどうまい具合に「作者の死」と書いてあったので読みました。半年はかかったかしらん。
     でも、結局全部が全部わかったわけではないです。その辺がおつむの限界なんだろうか。いや、それよりもちゃんと買ったうえで(図書館で借りたのである)長く付き合って行くうちににわかるかしら。少なくとも、多くの批評家をとりこにした「テクスト批評」の利点と問題点、また、テクスト論から一歩先に踏み出したところの「作者像」のくだりについてはものすごく面白く読みました。

     今年(2009年)の上半期の芥川賞・直木賞の候補を見ていて、「本職でずっと小説ばかりやってきた人」の影の薄さに唖然としまして、実はコレ、大江健三郎だの高橋源一郎だのの重鎮が、いわゆる「テキスト論破り」に奔走した結果なんじゃないかとちょっと思った。それだけテキスト論そのものは世の中が求めている「文学」シーンからかけ離れてきているのではないか。そんなことを思ったのです。

     結局最後の最後まで内容を把握することはかないませんでしたが、もうちょっと時間がたてばわかってくるかもしれない。などと思いつつ、今度はちゃんと買って、じっくり取り組んでみたいと思います。

  • およそ、小説について何かを語ろうと試みたことのある者なら、そのなかで、作者について言及することをためらいはしなかっただろう。書かれた物を統べる唯一の存在として作者が君臨することは、古い時代はともかく近代以来、疑われることはなかった。

    ところが、構造主義が世界に登場してよりこの方、作品は作者から切り離されるのみか、「作者は死んだ」と言われ、作品と作者を結びつけて論じる批評的な試みは時代錯誤的であるとして退けられてきた。作品は織物を意味する「テクスト」として受容され、作品を統一する特権者としての作者の呪縛が解かれることで、読者の多様な読みが開かれるという点で、それは画期的であり、批評の主流は、それまでの作家論的な批評からテクスト論的批評へと移行した。

    しかし、どのような思想も時代的な制約を受けており、次代からの批判は免れない。西欧中心主義、言語中心主義的な偏った世界観から自由になるという意味では、構造主義はまさに解放の思想潮流であったわけだが、世界を共時的に見て、近代的な世界観と「野生の思考」を並置する構造主義的な思考は、硬直化した世界を解きほぐし、価値の相対化をもたらしはするものの、新しい普遍的な価値の構築という方向への動きははじめから禁じられていると言える。

    構造主義に対する批判は、フーコーに代表されるポスト構造主義者と呼ばれる一群の思想家たちを生んだが、一度死んだものが甦ることはなかった。作者の死は、そこでは「主体の死」の言説として、ニーチェの「神は死んだ」を模して「人間は死んだ」とまで表現されるようになったのである。

    加藤は、そういう潮流に対し、デリダやフーコーを嚆矢とするテクスト論の誤謬を突くとともに、自身の読解を例にして「作者」抜きのテクスト論的批評では不可能と考えられる新しい小説群に対する批評を試みている。採り上げているのは大江の『取り替え子』、阿部和重の『ニッポニアニッポン』、村上春樹の『海辺のカフカ』、そして三島由紀夫の『仮面の告白』である。

    加藤は、一般に作者と括られる存在が、事実その作品を書いた「作者」と、読者が作品を読みながらそれを書いたと考える<作者の像>の二つあり、テクスト論者はその二つを混同したまま一緒くたに切り捨ててしまったと非難する。作者一般を切り捨てたために、従来のテクスト論では読めない、あるいは読んでも充分に理解したと言えない作品が、近頃現れてきている。時代は一回りして脱テクスト論の読みこそが今求められているのだという。

    「作者の死」と言うとき、はじめから存在しない作者には喪失感がない。あえて、作者を死なしめてこそ、あるはずのものがなくなったという効果を生じさせることができる。作者から完全に切り離された無名者によるテクストには、そういう効果は期待できない。「誰が話そうとかまわないではないか」という発言をあえてベケット(有名な)の言葉として引用するフーコー自身の侵している誤謬を引きながら、テクスト論者の「作者の死」の中に含まれているパラドックスについて言及するあたり、なかなかスリリングな論考である。

    ただ、テクスト論が切り開いてみせたのは、単に文学の世界だけでなく、世界を理解しようとする知の枠組みそのものであった。現代日本の数編の小説(それ自体はおそらくかなりの意味を持つ作品ではあるが)の読解をもってして、時代が脱テクスト論に回帰したと言うのは、鶏を割くに牛刀を用いる類の沙汰であろう。『敗戦後論』でもそうだが、ポレミックな言い方を好む論者の言葉をそのままにとる必要はあるまい。「作者の死」論をめぐる一変奏と考えたらいいだろう。なお、本書は理論編であり、実践編とも言える『小説の未来』が他の出版社から並行して出版されている。興味のある向きは併せて読まれるといい。

  • ・・・その頃まで、カミュ、サルトルに加え、ブランショ、ソレルス、ル=クルジオ、ヴィアン、ユグナン、ジャリ、アルトーなどを好んで読んでいたが、しだいにそれらと自分のいる場所の「へだたり」がモノのように立ちはだかるようになり、それらから隔離された。徐々に読めるものが少なくなり、最後には、本そのものがほぼ読めなくなった。
    まだ比較的元気な時期に、卒論の題目にはプルーストを選び、・・・ある日、ふいにそのすべてがばかばかしくなり、卒論題目を24歳で死んだロートレアモンに代えた。・・・

    ソシュールの言語学と吉本の言語論を対立的に捉えるのではなく、重層されうる新しい観点に向けて1歩踏み出す。

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