- Amazon.co.jp ・本 (236ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062123228
作品紹介・あらすじ
自分の内面世界に封じ込めてきた「在日」や「祖国」。今まで抑圧してきたものを一挙に払いのけ、悲壮な決意でわたしは「永野鉄男」を捨てて「姜尚中」を名乗ることにした。初の自伝。
感想・レビュー・書評
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在日2世が、日本を、日韓日朝、中朝や世界をどう見ているのか、歴史的事件と個人的出来事とともに綴られている。
在日といっても、多様な考えを持つ人々の集団だから、在日の方々の考え代表というわけではなく、1意見なんだろうけれど、様々な場面での心境を知ることができた。
きっちりと言葉の意味が理解しきれていない単語も多々出てくるけれど、そういう言葉を知らない事は、その言葉を意識する環境で生きていないという事なんだろうな。
東北アジアに生きる…
自分がアジア人と意識することはこれまでもあったけれど、東北アジアという意識はなかった。東南アジア、南アジア、西アジア、中央アジアは自分でも使う。東アジアではなく、東北アジアか…。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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2016/9/8
カン サンジュン -
どうも文章が入ってこないんだな。回りくどいというのか、読んでてクリアに意味が入ってこない日本語文だ。生い立ちから当時(2004年ぐらい)の雰囲気について書いているのだけれど、あいまいというか深さがないというか、誤変換や改行ミスっぽい部分がそのままだったり、かなり荒いつくりの本だと思う。これは講談社なのに文庫は集英社から出ているようで、何かあったのかも知れない。
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在日の人々の自らのアイデンティティーを探し求める過程が克明に記されている。当時の政治・文化も併せて述べられており当時の社会情勢を思い出した。
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日本を代表する政治学者である姜尚中氏の自伝的エッセイである。自身の半生への反省を通して、「在日」である「自己」、「在日」という「存在」、「在日」と「朝鮮半島」・「在日」と「日本」の関係、さらには「在日」であることの「可能性」への思考が鏤められている。
日本の「独立」と同時に国籍を一つの「通知」によって一方的に剥奪された「日本人=大日本帝国臣民」は、「元日本人」というカテゴリーも許されない「在日=パーリア(被差別少数者)」として錯綜とした存在の「傷痕」を強いられることとなった。結果、絶対的マイノリティーとして陰日向に生きざるをえない「非日本人」が誕生したのである。著者もこの歴史の傷跡を刻印された一人として生まれたのである。
細かい内容は読んでいただくしかないが、著者の経歴とともに多くの興味深い事実を知ることができた。共に六〇年の出来事である日本の「60年安保」と韓国の「4・19革命」の「共振現象」、日本人が「ポスト68年」の「三無主義」に雪崩を打っていった70年代は、在日にとっての「政治の季節」に他ならなかったこと。学校での「パトリ=祖国」という図式が成り立つ「一世」と、「パトリ=日本/祖国=半島」、「パトリなき祖国」を強いられる「二世」「三世」との「断絶」などである。
快活に日々を送りつつも微妙な「違和感」を感じ始めた時期、「在日」であることの「後ろめたさ」に言いようの無い苦悩に苛まれた続けた時期、反転「通り名」を脱ぎ捨て、熱烈な「民族主義者」として鬱屈した闘争を繰り広げた「熱い」時期、ドイツ留学時代の鬱状態になりながら黙々と取り組んだ「ウェーバーとの対話」の時期、「日本人」市民との共闘、韓国の民主化を経ての累々とした「ルサンチマン」の超克の時期などが深い内面への省察に基づいて描かれている。とくに、「東北アジアにともに生きる」ものとしての不退転の決意表明の段は、今尚も活発な氏の活動の根源として非常に胸を打たれるものがある。
「日本のエドワード・サイード」とはいささかの飛躍に聞こえるかもしれない。しかし、報われることの決して多くない「発言するマイノリティー」としての自らの人生・存在へ、絶えず身を曝け出し断固として「コミット」し続ける氏の誠実なる姿勢は、サイードのいう「知識人像」からもそう遠くはないだろう。今後も変わらぬ活躍に大いに期待したい。