- Amazon.co.jp ・本 (267ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062125338
作品紹介・あらすじ
社会主義国のベトナムから、東ベルリンへと向かう少女。ふとしたきっかけで、彼女は西ドイツ・ボーフムへと連れ去られてしまう。ボーフムから逃げ出した少女は、やがてパリへとたどり着く-。言語、国家、政治体制、さまざまな"境"を越え移動する少女は、行く先々で、カトリーヌ・ドヌーヴの映画と出会う。境界の向こう側に見えるものを生理的感覚で捉えた長編小説。
感想・レビュー・書評
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まだまだ知識不足というか経験不足というか・・・難しいなあ・・・
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「?」だったけど、アマゾンのレビューを読んで良さが少し分かった。
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2012/3/6購入
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感情は動かない。
文字が言葉が眼から入り込んで脳内をめぐる。
その不思議な感覚の虜になってしまう。 -
全く関係のない出来事があたかも必然的な結びつきを持っているかのように思えてしまうことがある。常々、それは個人的な癖というよりは人類の脳の仕組みに根ざす性向なのではないかとと訝しんでいる。
例えば、この本は多和田葉子の作品ということ以外には何の予備知識もなく読み始めたのだが、主人公がサイゴン出身のベトナム人であることをホーチミン市のとある日本食屋で知ったりする。あるいは主人公が東ベルリンのホテルでロシアからやって来たバンドの音楽を聴いている場面を読んでいたら、観光スポットからは外れた場所の、現地日本人滞在者をターゲットにしたその日本食屋にロシア語しか話せないロシア人カップルが入って来てメニューを指差し鮨を注文していたところに出くわしたりする。そこに、偶然以上の何かを感じる。
多和田葉子の小説は、そんな一回限りの出来事や偶然を装って存在するものの中に、人生を変えてしまうほどの力が潜んでいることを暴きだす。そんな力の存在を詳らかにすることができるのは、多和田葉子の意識が常に「外へ」と向いているせいなんだろう。対称的に、同じ日本食屋で観光客と思しき日本人の口から「ドラゴンフルーツってあり得ない」という言葉出てくるのを耳にして、常に「内へ」向かう意識を持つ人には、何も起こり得ないのだ、という思いにも耽る。自分自身がどうかと問われれば、ベトナムでわざわざ日本食を食べていたりする位であるので偉そうに言えるわけではないけれど、異国にあってどうにもならないことは受け容れて行くしかないと思う位には外へ気持ちが向いているかも知れない、という程度か。
ところで、この内か外かという対比は、あるいは「定住」か「流浪」かという対比に繋がるものであるようにも思う。家族の住む家もあり帰る場所はあるのだけれど、定期的に住む場所を移動し一年に地球を何周かする位に空を飛んでいると、自分の定まった場所という感覚がぼやけてくる。その輪郭の消滅と外へ向かう意識とは裏表の関係にあるように思うのだ。
多和田葉子という作家にも、実は似たような感覚があるのではないかと想像する。「容疑者の夜行列車」「アメリカ非道の大陸」など多和田葉子の小説の主人公は常に何処かへ向かっているような気がする。流浪の人々、などと呼んでみたところで何も定義される訳でも合点が行く訳でもないけれど、定住地の輪郭の消滅というものは、常に何かを求めて移動しつづけなければならないような衝動を内から呼び起こすものだ。そしてそれは、この「旅をする裸の眼」の主人公が感じている、何かから常に逃げ続けなければならないという焦燥感ともとても似ている。であるとすれば、この主人公の行く末は最初から想像するに難くないはずだ。
一つ残る根源的な疑問は、この感染症にも似た流動性は移動を止めた時に完治するものなのかどうか、ということである。残念ながら、今のところその仮説を証明するための条件は整いそうにもないけれども。 -
多和田葉子を敢えて人に勧めるならば、この本かな。
社会主義国であるベトナムで生まれ育った少女が、ある日突然連れ去られ、資本主義であるヨーロッパ各国を転々としていく話。
というもうこの説明だけでも、十分に面白そうなんじゃないかと思わせますね。
しかし決して政治的な話ではありません。パリに辿りついた少女は、マリアという謎の女性の家に居候し、
毎日映画館に通うこととなるのですが、言語が全く分からない彼女は、フランス映画に対して独特の解釈を付加していきます。
その後も十数年に渡って言語を一切覚えようとせず、身の回りで起こる様々な事態に対して独特の解釈をし続ける様は、
読者に不思議な高揚感を与えてくれます。異なる視点とか感覚といったものはとても面白い。まさにタイトルの通りの内容ですね。 -
国境、言語、その境界の先に見えるもの…。
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考えすぎて耳から脳みそ出そう。