グランド・フィナーレ

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 741
レビュー : 155
  • Amazon.co.jp ・本 (210ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062127936

感想・レビュー・書評

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  • 暗い・・・最近の人のをと思ってこの人のと次の人のを試しに借りてきましたが、タイプ違うけれどどちらもわたしにはだめだった。

  •  唐突に終わったな、というのが読み終わった最初の感想。題名は「グランド・フィナーレ」だが、話の内容では本当にグランドフィナーレなのかはわからない。続編が出るのではないだろうか? とすら思う。
     中身は時折出てくる不可解な比喩と掴みにくい文章のリズムが気にならなければ楽しめるのではないだろうか。「大の大人が何やってるんだ」と思わせるためのロリコンという設定だと思うが、その設定がなくても充分駄目な男を表現できたのではないだろうか。後半部分は「再生」というよりも「自戒」に近い。そう考えると、主人公が立ち直ったわけでもなく、何か解決したわけでもないんだなということがわかる。文章のところどころに「ニッポニアニッポン」や「シンセミア」とリンクする部分があるが、それを読まないと理解できないというわけではない。

  • 面白いと進められ借りた本なのですが、私の想像していたものとまったく違うのもでした。

    まず、グランドフィナーレ。
    ・・・・、う〜ん、私には最後がどうしてもグランドフィナーレでは無かったです。

    そして、端的に言うと、ただのロリコンのお話。
    読んでいて、妙に半端というか、どこにも落ち着く感じがしない、
    入り込みにくい感じがするのは私の読み方の問題なのかしら。

    なぜ芥川賞なのか、ちょっと分かりません。
    私には文学は無理なのかしら。

  • 芥川賞は作品におくられ直木賞は作家におくられるとか、芥川賞は可能性や才能におくられ直木賞は実績におくられるとか俗説は多くあるが、なぜ阿部和重の「グランドフィナーレ」が芥川賞だったのかと思う。芥川賞は短編もしくは中篇小説におくられ、直木賞はどんなジャンルの小説をも対象になると区分した黒井千次さんの見解が一番正しいことをこの小説が証明した。
     余談はさておき、本小説の評価であるが、ラストのあり方には大いに疑問をもつ。もっと書いていただきたかった。あとは読者の解釈に任せるにはあまりにも横着過ぎやしないか。前半から中盤までのディティールの詰め方がうまいだけに残念に感じる。それが阿部氏の特徴なのかもしれないが、私は物足りなさを感じる。書ける能力がある作家だけに何故と思ってしまう。

  • 阿部和重といえば「モー娘。好きのおじさん」というくらいの認識しかなく、『アメリカの夜』も『シンセミア』も読んだことがなかった私が初めて読んだのが、芥川賞を受賞したこの作品でした。感想:「何か中途半端じゃねぇ?」という、その一言に尽きる作品です。世間の「阿部和重評」からすると、すごくガッカリさせられる作品。主人公のパーソナリティに関しても、すごく表層的な部分での描写に終わってしまっており、テーマ設定としてはどんな風にも面白く出来そうなものなのに、これがビックリするぐらい普通の話で終わってしまっているのでした。帯のところに、「文学がようやく阿部和重に追いついた」とありますが、この作品が芥川賞を取ったというのは、結局のところ「文学が阿部和重に追いつけなかった」ことの裏返しなんじゃないかなと、そんなことを思ったり思わなかったりしました。

  •  巷でロリコン文学と呼ばれているわけだが、多分そこに焦点を当てすぎると良く分からなくなるような気がする。この物語は「過ちを犯した男の再生の物語」なのか、或いは「ロリコンは死んでも治らないという絶望の物語」なのか、図りかねるものがある。自分はひたすら前者であることを願って読んでいたのだが、この作品の締めくくり方ではとてもじゃないが安心して前者だと言い切ることはできなかった。

     作品を通じて常に感じる違和感は、この主人公が本当に自分の過ちに気付けたのか、という部分。当然、冒頭部分の待ち伏せからは微塵もそんなことは感じられないし、Iにホテルで他人事のように自らの罪を独白する場面でも違和感は拭えない。おそらく違和感の根底にあるのは、ひたすら主人公のモノローグとして語られるこの作品が、一見するとまともな人間の語り口で紡がれる単なる記録のように思えるからだ。おそらく客観性が恐ろしいくらいに薄れている。客観性を持って自分の行為を自戒しているという記述でさえ、違和感を感じざるを得ない。本当の意味で自分のしたことの大きさを理解したのだ、と読者が安心できる流れになっていない。自身の行為の取り返しのつかなさがIからの言葉という形で書かれているというのが、さらにその違和感を増幅させる。

     その違和感を引きずったまま、作品は進み、地元に戻った主人公の自戒の日々が後半で始まる。そこでムリに子供を見ないように、接しないように努力する主人公。そして、二人の少女、亜美と麻弥と始まる自らの再生を賭けたような演劇の日々。主人公は全財産を叩いて言葉通り自らを賭して、最高の本番を迎えさせようと努力する。ただ、その自戒する姿、演劇に尽力する姿にも違和感を感じるのだ。「今まで少女たちから奪った時間は取り戻せない」のに、演劇に打ち込んで亜美・麻弥に尽力することによって、「自分の罪を浄化することが出来る」と勘違いしているのではないか。他人(I)の言葉ではなく、自ら自分の罪を認識するのはいつなのか。

     結局のところ、物語の最後までこの主人公に感じる自己中心的性質は払拭できない。そして、迎えるラスト。おそらく、誰もが自らが描くハッピーエンドを作品の最後に付け加えたいと思うはずだ。つまりは「過ちを犯した男の再生の物語」としてこの作品を消化したいと思うはずなのだ。しかし、それが出来ない不気味さ、どうしても拭えない違和感がこの作品にはある。他人の痛みを素で理解できない人間は恐ろしい。

  • この方の短編はすばらしいと思います。

  • 長門が読んでいたからという理由で読んでみたが、そんなに面白くも無かった。ロリコン男が立ち直るお話。

  •  つまんない。

     ほんまにこれは『シンセミア』を書いた人の作品なんやろうかと疑ってしまうほどに面白くなかった。なんでやろ…。『シンセミア』で見せたあのあふれるほどの良さはどこに消えてしまったん?

    そもそも表題作以外はページ数とかから考えてもあたし好みの作品ではないだろうなぁと、予測はできたからともかくとして、表題作までこのつまらなさとは…。

     まず圧倒的に主人公のキャラクターが弱すぎる。そのくせに枠組みや環境だけはあまりにも特異だから、そこに消化不良の乖離が生じている。もしかしたらそれが狙いなのかもしれないけど、その消化不良感を生かすような物語設定でもないから、やっぱりそれも疑わしい。

     主人公がアレなので、その背景を見ようとしてもどっかで冷めた視線になってしまう。この作品において阿部和重が何を表現したかったのかが、あたしにはまったく理解できなかった。

  • 読みにくかったー…。
    「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」っていう帯が巧いなって思いました。
    神町は、他の著作を読めば別の物語があるのかしら…?

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著者プロフィール

1968年生まれ。『アメリカの夜』で第37回群像新人賞を受賞し作家デビュー。’99年『無情の世界』で第21回野間文芸新人賞、2004年に『シンセミア』で第15回伊藤整文学賞・第58回毎日出版文化賞、’05年『グランド・フィナーレ』で第132回芥川賞、’10年本作で第46回谷崎潤一郎賞をそれぞれ受賞。他の著書『クエーサーと13番目の柱』『IP/NN 阿部和重傑作集』『ミステリアスセッティング』ABC 阿部和重初期作品集』対談集『和子の部屋』他多数。

「2013年 『ピストルズ 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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