- Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062138611
作品紹介・あらすじ
記憶に生々しく残る殺人事件の数々、それらによって狂わされた被害者や遺族の人生…。「なぜ人を殺しても罪に問われないのか?」「なぜ被害者遺族は『知ること』が許されないのか?」「裁判はいったい誰のものなのか?」ある日突然、悲劇に襲われた人たちの心の叫びがここにある。
感想・レビュー・書評
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本書に対して「被害者遺族の復讐心や応報感情に肩入れしすぎ、公平でない」という評を目にしたことがあり、手にしたもののしばらく食指が動かずにいた。
返却期限も迫り、どちらかというと著者の姿勢に批判的な先入観を抱きつつ、なにげなく読んでみた。
驚いた。
本書に書かれた数多の、圧倒的に苛酷で理不尽な運命を目の当たりにしてなお「復讐心」「応報感情」などといった言葉を吐ける輩の血は、いったい何色なのだろうか。
被害者遺族の人生というのは、それはそれは悲惨である。
もちろんその第一は、愛する者を無理やりに奪い去られた現実ではある。しかし、それは手始めにすぎない――などと、ひどすぎる言いかたをあえて選んでしまうほど、艱難辛苦は次から次へと限りない。
加害者、その弁護人を始め関係者、世間、マスコミ。さらには警察、検察、裁判所まで、ありとあらゆる存在が「敵」に回る中、孤立無援の戦いを強いられる。それも、事件がもたらした精神的・肉体的・経済的苦難にうちのめされた状態で。
本書にもあるが、善良な市民であれば、被害者という立場は「明日は我が身」と知るべきだ。そうすれば、何の落ち度もない被害者遺族がここまでの辛酸を舐めさせられる状況を、座視できようはずもない。
徹底的に踏みにじられている被害者遺族の権利回復、それがまず一番の急務であろう。
死刑廃止論だの、犯罪者の権利擁護だのは、すべてそれからの話である。
2011/8/30読了 -
フェアではない。ことを頭に入れて読めばいいと思う
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図書館で借りてきた本
もう犯罪被害者の本はたくさんだ!
と思われるような凄惨な内容で、なんとも。。
ただ、読んで思うのは、加害者ってホント全部こんなに贖罪の意志がない人たちなんだろうか、と。
もちろん、贖罪されても仕方がないと被害者や被害者遺族の人たちは考えているわけなんだけど。でも、もっと自分の罪を認めたり、自分の行なったことを素直に陳述していたら、このようなことはなかったとは言わないが、様相がだいぶ違っているのでは?と思えてしまって困る。。
ただ、最後に「当事者しか本当のところは分からない」というのは本当だと思う。だから、わたしも軽々しく論評してはならないだろうと思う。それは「その人にとって本当に大事な人が殺される」ということは、想像を絶することだと思うから。 -
一気に全部読みました。非常に読みやすく、構成も良い。
非常に考えさせられる一冊。
死刑廃止論者には絶対に読んでほしいと思わずにはいられません。
日本の司法と権力の前に、闇に葬り去られてしまう犯罪被害者遺族たちの声、そして考え方というのを丁寧にすくいとって書かれた一冊です。
「殺された側には論理がある。殺された側にしか主張しえない考え方がある。殺された側にしか見えない矛盾がある。殺された側にしか感じることができない人間の心がある。」
第一章は、少年によって妻と娘を殺された遺族、本村洋さんの闘いについて。
第二章は、父親が通り魔によって殺害された遺族、大鞭孝孔さんの独白。そして、同じように通り魔によって家族を殺された宮園誠也さんと曽我部とし子さん、そして大鞭さんとの鼎談。
第三章は、少年法改正の前日に、少年からリンチを受けて我が子を殺された青木和代さんの闘い。
第四章は、警察官に「殺された」大学生、松岡正浩さんの記録。彼の母親、則子さんの闘い。
第五章は、26年前に行方不明になった姉が殺されて床下に埋められていたことを、「時効」のために罪に問われないことを知った加害者の出頭により、告知された石川憲さんの闘い。
ここまでで、被害者遺族の哀しみの深さ、苦しみ、日本の司法や警察への不信感、いらだちなどを知ることができる。
そして、第六章、七章では、「生きて償う」ということがいかに「きれいごと」か、そして犯罪被害者が求めている本当の支援について触れる。
読み物としても面白いし、死刑賛成の立場から書かれたこの本は、特に大切な「被害者遺族の声」を拾い、死刑制度の本質についても考えさせてくれます。
仮に死刑廃止の立場に立つとして、この本の中の死刑存置論を論破できるとはとても思えませんでした。 -
山口の母子殺害事件遺族であった本村さんの死刑論は正に心を突き動かされるものがあります。賛否コメントは控えますがビジネス書以外で
今年一夢中になって読んだ本になるかもしれません。 -
加害者が守られ被害者が守られてない仕組はほんと不思議だ。「人を殺すとはどういうことか」の著者は,塀の中で出会った受刑者のうち,人命を奪った自らの行為を後悔し,真摯に反省している者は僅かであると指摘している。「殺人」の場合,犯罪者の更生を期待することよりは,一生苦しめられる「殺された側」の感情を最大限に慮るべきではないか。
■極刑は通過点 -
すべてに賛成はできない。これらはすべて「殺された側の論理」だから。
そして私は殺されたことがないから。
本当に、あまりにも酷いことが多くて、それは事件だけでなくその後の対応や保障のなさにも言えるだ。
被害者のその後のために必要なのは、被害者へのケアであって加害者に苦痛を与えることじゃない。
罰とケアは別の問題。
「加害者への罰や更生に必要なこと」と「被害者が癒されるため・傷をこれ以上えぐられないために必要なこと」は違う。
被害者のためと声高に叫ぶ人の中には、そこをごっちゃにして加害者を痛めつけるために被害者の痛みを利用している人がよくいる。著者にもその臭いがする。
しかもここに出てくるのは他人に殺された非のない被害者のために声を上げた遺族たち。
その人たちの声は真実だけれど、この本からは声を上げられない遺族や家族に家族を殺された遺族たちの姿は見えない。
だけど、罰の前に保障をどうにかしろと思うのは、罰について考えるのがあまりに難しいからなのかもしれない。
保障が必要だと叫ぶことは誰も傷つけないし、絶対に間違いじゃないと思えるから難しくない。
いずれにせよ殺された側の話を、もっともっと知っていかなければならない。 -
明日は自分が、被害者かその遺族になるかも知れない昨今、人ごとには思えませんでした。