アサッテの人

著者 : 諏訪哲史
  • 講談社 (2007年7月21日発売)
3.15
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  • Amazon.co.jp ・本 (202ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062142144

アサッテの人の感想・レビュー・書評

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  • 疎外、逸脱、アサッテとつながり、次第にアサッテに取り込まれ見失う。
    通念から身を翻すには、まず通念に取り巻かれていないと翻そうにも翻し得ない。
    哲学的で物悲しくて面白い。

  • この小説を乱暴に一言で説明すると、叔父の「アサッテ」に対する作者の考えが語られてゆく小説、つまり「アサッテの考察」といえるのではないでしょうか・・・。

    (感想)
    僕は、「アサッテ」とは本来、予想の否定だったのではないかと思います。ありきたりな日常を突き崩す予想外の要素(いわば衝撃的に訪れる”何か”)であり、それは自らの中にある予想さえ覆すものだったのではないでしょうか。

    その予想とは、容易に想像される「日常の一コマ」であったり、言語と言うルールに対する予想や、「意志(≒本能)」と言う概念的なものにも及びます。

    ところが叔父は「アサッテ」を意図的に作り出そうとしてしまう。予想外であるべき「アサッテ」を追い求めてしまう。こうして叔父の「アサッテ」は崩れ去ってしまう。

    僕自身と言う存在も、現在の社会全体も、あらゆる日常は「予想」の上に成り立っていると思います。僕はそれを便利だと感じるとともに、どこかでそれを「つまらない」と感じることもありますし、「窮屈だ」と感じることさえあります。

    陳腐な表現をしてしまえば、「アサッテ」とは、こうした窮屈さから解放されたいと言う欲求、いわば自由への欲求とも言えるのではないでしょうか。吃音と言う逸脱から解放されると、言語と言う”規則”に対する”自由さ(”吃音”や”アサッテ”はそれだったのでしょう)を求めはじめる叔父。そして、自由を求めるあまり、自由さに雁字搦めにされてしまった叔父。

    繰り出される独特の言葉遊びは愉快でありながら、少なからず叔父に同情してしまう部分があるのは、こうした側面によるものなのかもしれません。

  • 作者の文章の上手さに感心してしまいました!

    若さと爽やかさもある、そして意外性のある物語と思われます。

    群像新人賞とのW受賞として話題になりましたが、
    ニクイばかりの演出に、なんかグウの音も出ない感じ・・・。

    こういう方がこれからもっと増えてくれればいいのに、と
    思う反面、もう少し真面目な作品が生まれてくれればいいのになぁ
    とも、思いました。

    チューリップ男やテポンテュー、朋子さんの儚げなイメージなど
    とてもイキイキとしている反面、難解な学術的な理解しがたい
    謎が並び立ち、渋面の老いた顔も覗かれます。。。

    これって一体なんなの?って感じです、素朴な疑問なんですけど、
    答えてくれない、様々なイメージが重構造になっていて
    (評義員の方達は入れ子とおっしゃってました)なんとも判定しがたいような・・・。

    とにかく、文章はとても上手いと思いました!

    それと、女房の詩には笑いを誘われてしまいました。。。

    二人の童子のハナシって、なんか昔読んだ『日本霊異記』、
    菅原道真の住まいの件が連想されます。

    ほかにも夢魔が出てきたり、ライプニッツやその他哲学者の名が登場したり言語学や社会学・・・作者の方は相当な勉強家と思われました。

  • 構成的には、少し粗雑さがあると思った。それでも、芯を貫く意識のようなものを感じました。それは、とても若者的な情熱のような感覚。それは日常的な感覚の逸脱を論理で迫るという大胆な試みである。一見、それは矛盾に見える。日常の感覚の逸脱を、日常の感覚の一つである論理で探るという手法には、それ自身に限界が見えているような気がする。それでも、そういう非言語の領域を、どこまで言語として炙り出されるのか。そういう野心は、とても哲学者的な意思を感じる。それもとても大きなエネルギーを持った熱意として、この文章を通して如実に伝わってくるものがあった。

  • 読み始めはなんだか読みにくいなぁと思って少し我慢して数ページ読んでいたのに、ある瞬間からうゎこれおもしろい!って思いました!楽しみ!

  • 読んだときはこの造語が流行っているに違いないと思ったのに、世間はほとんどスルーだったな。ラストのケンケンとびは泣ける。

  • 他人との差異についてどのように折り合いをつけるかを考えさせられた。

    文章自体は読みやすい。

  • 「読みやすい」「抵抗が少ない」と評される作品が多く存在する中、あえて滞りや宙吊り感を持っている作品を読むことは〈ことば〉そのものへの注意を高めることになる―
    と、この本を読んでいる最中の授業で先生が話していた。まさに、これは読者を〈ことば〉そのものへ引き付ける本だと思う。

    「ポンパ」とか、草稿を並べたような形式には度肝を抜かれたのは確かだし、正直意味わからn…って部分もあったけど、打ち捨ててしまうには勿体ない作品のように感じた。
    私がこの作品を通じて強く印象に残ったのは「作為」という問題。冒頭、「私」は自らの書いたものを評して、「作為」というものを忌み嫌った叔父の物語にしては、この文章自体「作為」にあふれているとし、それを嘆いている。
    この本を読んだ多くの読者は、この文章を「小説」と称することに、多少なりとも違和感を感じるのではないだろうか。その原因はこの文章がこれまで「小説」とされていたもののパターンから大きく逸脱しているからかと思われる。小説家が小説を書こうとするときに意識的にしろ無意識的にしろ働くであろう「作為」。それを、この文章は否定している。
    私たち読者は「作為」に踊らされてた方が心地いいのでしょうかね?
    「泣ける」と帯に書かれた本を読んで泣く。満足感を得る。
    それが悪いとは思わないけど、私は何か物足りない気もする。
    とは言え、「作為」に踊らされることが小説を読むことだっていう感覚は、もう自分の身体に染み付いてしまっているようだ。
    だとすると、この「アサッテの人」という作品はなんなのだろう?小説ではない?いや私たちの考えが凝り固まっているだけでこれも小説?うーん…うーん。
    だけど、最後の方に、叔父さんが自分の日記で事故死した朋子さんについて触れるようになるのを読んで、それから一番最後のあのダンス、あれを読んでうっかり叔父さんに同情してしまった私は、やっぱり「作為」に踊らされたいのだろうか…。それともこれも作者の意?

  • ポンパ!言葉について深く考えさせられる一冊。

  • おもしろくなさすぎて途中で読むのてきとーになってしまった。

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