作品紹介・あらすじ
「僕とコジマの友情は永遠に続くはずだった。もし彼らが僕たちを放っておいてくれたなら-」驚愕と衝撃、圧倒的感動。涙がとめどなく流れる-。善悪の根源を問う、著者初の長篇小説。
感想・レビュー・書評
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いじめを受けている主人公の「僕」、同じクラスで女子からいじめられている「コジマ」という女の子、いじめる側にいる百瀬、主犯格の二ノ宮…
いじめられている側といじめている側、一見2つ分けられそうな状況なのですが、読み進めていくうちに、そうではないことがわかります。
「僕」が見ている世界と、「コジマ」が見ている世界は、あきらかに違うのです。
同じように、いじめている側であるはずの「百瀬」と「二ノ宮」も、実は見ているものが違うのです。
私は「百瀬」の考え方がいちばんゾッとし、「僕」と「百瀬」の相容れなさに、絶望みたいのものを感じました。
悲しいけれど、この世界のどこか、いじめている側に、今もきっと「百瀬」みたいな人はいるのです。
でも「百瀬」のように生きる人がいることを知っていることが、大事です。
話し合ってもわかりあえない人がいる。
同じ、似た境遇にいても、根本的にわかりあえないことがある。
そこに自分がいたら、どうするか。
逃げるしかありません。
とにかく、相容れない理不尽からは、逃げるしかないのです。
「話せばわかる」
そういっている人は、まず読んでほしい小説ですが、いじめの描写がかなりリアルなので、暴力的なものがひどくつらい方にはおすすめしません。
なので平均をとり、☆3つとしました。
斜視であった主人公「僕」は、手術を終えて斜視を治し、「ただの美しい世界」にきます。
視点を合わせて見ることが当たり前な人にとっては、「ただの世界」であり、当たり前の景色で何とも思わない世界です。
でも「僕」にとっては、そこは今までと別世界なのです。
今までいた世界から別の世界へ行くこと、それには誰の許可もいりません。
自分が行くと決めて、行く。
逆に行かないと決めて、行かない。
それは自分の自由です。
どこにいっても自分と同じ人間はいないこと、どこへ行くか決められるのは、やはり自分しかいないことを、強く強く教えてくれる小説です。
苦しくて、痛ましくて、二度と頁を開きたくないけれど、胸に突き刺さる物語。
「ロンパリ」と、斜視で生まれてきたことが罪であるかのように罵られ、
筆舌に尽くしがたい暴力に晒される日々を送る中二の「僕」。
別れた父を忘れないための「しるし」として、敢えて汚れを身に纏い、
「わたしたちは仲間です」と僕の筆箱に手紙を忍ばせ、
自分と同じように苛めに静かに耐える「君の目がとてもすき」と言うコジマ。
ふたりは手紙で心を通わせ、時にはふたりきりで会って励まし合いながら
教室では目も合わせず、まるで弾圧下のキリシタンのように苛めに耐え続けるけれど
「したいからするんだよ」「良心の呵責みたいなものなんてこれっぽちもない。」
「僕にとっては苛めですらないんだよ」としれっとして言い放つ、
苛めの影の首謀者 百瀬の態度に端的に表れているように
人間サッカーボールとして蹴られて血みどろにされても
暴力で報復しようなどとは露ほども思わない僕の倫理も、
人を苛めるしかない人間のためにも、美しい弱さで苦難に耐え
乗り越えることこそが自分の使命だと信じるコジマの自己犠牲も、
酷薄な苛めを積極的に続ける人間には届かない。悲しいけれど。
「理論武装」という言葉をそのまま3D化したかのような百瀬の
自分が思うことと世界の間には関係がない、という主張はある意味正しいけれど
だからといって、自分の価値観の中に相手を引きずり込めた方が勝ちと嘯き
そのためには手段を選ばない、彼のような人間が病巣となって
悪意が蔓延していくような世の中になったら・・・と思うと、ぞっとしてしまう。
斜視で全てのものが二重に見えてしまう僕よりも、
自己犠牲に酔って壊れていくコジマよりも、百瀬がいちばん病んでいる。
雨に打たれ、痩せた身体を晒し、自己犠牲の恍惚の中で苛める側に微笑むコジマにも
コジマが好きだといった斜視を手術で治してしまったことを懺悔するかのように
はじめて像を結んだ世界の美しさを誰とも分け合えないと思う僕にも、伝えたい。
身体の不自由さや、不幸な環境を敢えて維持して繋がって
痛々しいほどの自己犠牲に耐えてまで、理不尽な苛めに対抗することなんてないんだよ。
「目なんて、ただの目だよ。」と言ってくれたお母さんや
たった1万5千円で済む手術の可能性を知らせてくれたお医者さんのように
今、手に入れられるものを素直に健やかに受け入れて自分を救うことで
大切な誰かに手を差し伸べられる人にだってなれるんだよ、と。
2022.5.31読了
いじめを題材にしている作品は、読むのに体力がいる。自分は暴力描写がとても苦手で、読んでいるだけで疲れてしまう。
それでも本作を読むのをやめられなかったのは、主人公の僕とコジマの関係がどういう結末を辿るのかを知りたかったからだ。
物語は、コジマが僕の机の中に手紙を貼り付けてきたこてから始まる。
僕もコジマもクラスでいじめられている。コジマは僕に自分達は仲間だと手紙に綴り、二人はやがて人目を忍んで会い、語り合うようになる。心を通わせ合う二人だったが、そんな中僕にある事件が起きる。その事件によって、二人の関係が変わってしまうのだった。
作中、いじめる側のグループにいる百瀬と僕が偶然会い話す場面があるのだが、百瀬の言葉が興味深い。
僕を放っておいてくれと言う主人公に、まわりがそれに対してどう応えるかは100%まわりの勝手だという百瀬。
この言葉に、世の中は自分の思った通りには回っていかないという現実を突きつけられる。
自分はいじめを決して肯定しない。しかし、世間の理不尽さがこの一言に集約されており、やり切れない気持ちにならずにいられなかった。
著者の作品は初めて読んだが、かなり重かったので次の作品は覚悟して読みたいと思う。
川上未映子さんの作品、初読みです。ちょっと期待とはずれていたかな…ってのが正直な感想です。壮絶ないじめにあっている僕とコジマ…いじめのシーンを読むのは結構応えました…。序盤から納得できない描写もあったりして…次は別の作品を読んでみたいと思いました。
苛められる僕と苛められるクラスメートと苛める人たち。同じ場所にいるけれど、それぞれの心の在り様と世界の構造は違っていた。
強い斜視の僕はそれが原因でクラスメートから苛めを受け、それに反抗することなく日々を過ごしていたが、もう一人の苛められているクラスメートの女子・コジマから手紙をもらう。
コジマは僕の救いのように思えたがそれはただの彼女の傲慢ともいえる考えだし、イジメの主犯の友人・百瀬に「なぜ苛めるのか」と尋ねると、思いもよらない返事が返ってくる。そして僕はそこから抜け出そうとする。最後、僕の目を通して見えるものはとても美しい。
苛めは凄惨で陰湿。頼りになる大人(特に教師)は物語途中まで全然出てこない。けれど、文章・文体が綺麗なのでなんとか読み進められた、けれど。
14歳のわりに全員が大人びた口調(コジマは女子なのでこの口調はなくはないかな)で違和感を感じ、「どこかで読んだ気がする」という読み心地。「これは、村上春樹では?」という結論に達し(村上春樹は2冊しか読んだことがないというのに)、ブクログのレビューを読むと、他にもそういう方がおられたので、「あぁやっぱり…」と腑に落ちた。
僕とコジマがお互いを「君」と呼びかけたりするところがなんか、うん。
2022年ブッカー国際賞にノミネートということで手にしてみました。
2009年発行ですが読み始めると「内容が古いな?」と思ったら物語の舞台は今から30年ほど前の1991年。書かれた当時でも20年ほど前ですね。なにか意味があるのかな。
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「ヘヴン」(川上未映子著/講談社)
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川上未映子は神を殺した。
「ヘヴン」は恐ろしい作品だ。それは単なるいじめに関する物語ではない。今回の評はその恐ろしさについて記したい。だからいわゆる「ネタバレ」などは気にせずどんどん書く。内容を知りたくない人はこの評を読む必要はないが、「ヘヴン」自体は是非手に取ることを勧めたい。
簡単にあらすじから。
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十四歳の主人公の「僕」は斜視で、中学で日常的にいじめを受けている男子。「僕」はあるきっかけで女子の中で「汚い、臭い」といじめを受けている「コジマ」と文通をするようになり、ときどき会っては心を通わすようになる。凄惨ないじめはとどまるところを知らぬが、「コジマ」はそれを「すべて意味のあること」と引き受けようとし「僕」に同志としての連帯と同調を求める。ある日、いじめによる怪我をみせに病院にいった「僕」は斜視が簡単な手術で治ることを知る。それを「コジマ」に告げると二人の関係にはひびが入る。「僕」がなんとか二人の関係を修復させたいと思っていた矢先に、「僕」と「コジマ」の関係がいじめっこグループにばれ、さらなる事件につながり物語はクライマックスを迎える。
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さてまずは著者の川上未映子について。「乳と卵」で第138回芥川賞を受賞し一躍有名になった作家。
彼女の小説は大阪弁をはじめとする独特の言語感覚が特徴的だ。気になる作家ではあったが、あの文体の方が先に来てしまって彼女の本来の価値が今ひとつ計りかねるというようなところがあった。
しかし本作は彼女が恐らくはじめて変化をつけずド直球で勝負した長編小説。そしてその破壊力はかなりのものだ。
あらすじにも書いたし、よく引き合いに出されるが本書では「いじめ」を取り上げている。「いじめ」が描かれる理由は色々あろうがいずれにせよ小説などの創作においていじめがテーマになる場合、その表現は目を覆いたくなるような凄惨なものでなくてはならない。さもなくばいじめの先にある苦悩や人間の本質を描くことなど到底できないからだ。
そういう意味では本作では虫唾が走るようないじめがきちっと書き込まれている。そしてそのいじめの「加害者」と「被害者」の意識レベルの差も見事に表されている。
しかし本書は必ずしも「いじめ」だけを題材にした小説ではない。もちろん「いじめ」は中心に置かれているが同時に「善悪とは」という哲学的な問いかけもなされている。
あまり指摘されていないようだが、本書では主人公の「僕」の他に二人の重要人物がでてくる。一人はいうまでもなく「コジマ」だが、もうひとりはあらすじには名前は登場してこないが「百瀬」といういじめっ子グループの一員だ。
「僕」へのいじめの中心には二ノ宮という男子がいるのだが、「百瀬」はいじめグループの中でどこかクールで超然とした雰囲気を持つキャラクターとして描かれている。
あるとき「僕」は病院の待合室でたまたま「百瀬」に遭遇し、高ぶる感情を抑えきれなくなり思わず彼に詰め寄る。そこで「百瀬」は「僕」の詰問にことごとく反論する。
***
「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」
「放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ」
「君のことをロンパリと呼んでるのも知ってる。でもさ、そういうのってたまたまのことであって、基本的なところでは君が斜視であるとかそういったことは関係ないんだよ。君の目が斜視っていうのは、君が苛めを受けてる決定的な要因じゃないんだよ」
「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」
「君の苛めに関することだけじゃなくて、たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか?」
「僕の考えに納得する必要なんて全然ないよ。気に入らなきゃ自分でなんとかすればいいじゃないか」
「なあ、世界はさ、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ」
***
「百瀬」は答えていく。自分がいじめている相手から一対一で詰問されて応えるにしては異様な冷静さだ。そこで読者ははじめて気づく。「百瀬はジョーカーなんだ」と。
ジョーカーとはもちろん映画「ダークナイト」のジョーカーのこと。
「ダークナイト」でのジョーカーを「血も涙もない残酷な冷血」と描写する人もいるが、おそらくそんな単純なキャラクターではないだろう。ジョーカーは絶対的な善とか絶対的な悪なんてものは果たして存在するのかといテーゼを人々に突き詰めるキャラクターなのだ。そしてそれは色々なところで指摘されるようキリスト教的価値観に対するニーチェ的挑戦である。
「百瀬」はジョーカーだったのだ。善悪という価値判断の世界を超越したひとつの現実世界の象徴なのだ。
このことは本書を解くのに、そして川上という作家を考えるのにおいてとても大切な点だ。川上は哲学に傾倒していたと公言しているが、日本人の小説家でキリスト教的善悪観をニーチェ的コンテクスト上で否定し、これほど見事に小説を構成する作家はなかなかいない。それは同時に「いじめ」というとても根深い問題を善悪という二元論から切り離して考えなけばいけないという川上からの警鐘でもある。
その役割を担った「百瀬」は独特な存在感を持ったキャラクターに仕上がっている。それでも「百瀬」は「ダークナイト」のジョーカーほどの輝きを放たない。なぜなら本書の狂言回しは「百瀬」ひとりではないからだ。「百瀬」との対立軸上の対称に存在するキャラクターがいるのだ。それが「コジマ」だ。
先述のとおり「コジマ」も「僕」同様いじめられっこだ。「僕」が斜視でいじめられているなら「コジマ」は不潔と悪臭で嫌われている。しかし「コジマ」は自分が服や体を洗わないのは蒸発した父親を忘れないようにしているだけだという。そして「コジマ」と「僕」は汚くしているという事実と斜視という事実で仲間としてつながっていると主張する。
「コジマ」はこの主張を教条主義的に、原理主義的に貫こうとする。そしてそれを貫くことによっていじめを乗り越えられると信じている。その証拠に物語が進んでもいじめが改善されないと次は自らを保つことに加え断食に近いことをすることによって困難を乗り越えようとする。
いうまでもなくこれはキリスト教における信仰により贖罪を得ようとする行為に他ならない。その証拠に「コジマ」はいう
「そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなすぎるもの」と。
また断食にまで至り「コジマ」はなんともいえない強さを増していく。信仰の力だ。そして信仰の先にあるのが「ヘヴン」なのだ。
繰り返しになるが本書は単なるいじめの物語ではない。いじめにより「僕」が死をも考えるほどぎりぎりの状態に追い詰められる。ぎりぎりの状態まで追い込まれたとき、つまり生を突き詰めたときに人間が拠るべきは宗教的普遍なのか実存なのかを問うてる物語なのだ。それを神を信じる「コジマ」と実存を象徴する「百瀬」という二人の狂言回しが引っ張っているのだ。
そして本書で川上は明白に結論を出している。
ラストで受難に耐え続けていた「コジマ」の自我は崩壊し、「僕」は純化されたものの象徴だった斜視を捨てるのだ。そうして川上はニーチェばりに高らかに神の死を宣言するのだ。
しかし川上の巧みさはこれだけでは物語を終わらせない。
斜視を捨てた「僕」は何を得たのか。それは立体的な視野だった。物語は立体的な視野を得た「僕」がいじめから抜け出すことを暗示している。つまり「僕」は斜視という肉体的特徴を正すことによっていじめから抜け出すのではなく、立体的な視野を得ることによって初めてていじめに向き合えるのだ。こういう形で小説としてもきちっといじめという題材に決着をつる技量は見事だ。
それでも最後「僕」の目からは涙がとめどなく溢れる。彼が捨てたのは斜視だけではなかった。彼はそれと同時にやはり純化された何かを失ってしまったのだ。そうすることによって今後いじめにうまく立ち向かうことができるかも知れない。しかし損なわれた「ヘヴン」は永遠に取り戻すことができないこともやはり「僕」は気づいていたのだ。
最初っから軽いなーなんかと思いながら、なんとなくほのかな村上春樹臭を感じつつ、途中まで読んでるのだけど、村上春樹的に書いて村上春樹を越えられる人ってほんとにいないな。
などと思いつつ読んでいたら、p.49の「その小さな長方形は暗闇の中で僕にむかってぼんやりと温かく光りかけているような気がした。手を伸ばせばその光にさわれるような気がした」というくだりで、『ノルウェイの森』の蛍を思い出し、『ノルウェイの森』をぱらぱらめくってみた。
「蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。僕はそんな闇の中に何度も手を伸ばしてみた。指には何も触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんのすこし先にあった」
引用終わり。うーん、たまたま思いつきがかぶってしまうとか、読んだものが自分の内部に深く沈んでいて、書くときに浮上して来て、読んだもののことは忘れてた、とか当然あるとは思うんだけど…ちなみに『ヘヴン』の上で引用したのの続きは「そして僕が書いた手紙もコジマがつらい気持ちのときにそれをやわらげ、こんなふうな気持ちにさせるものであったらいいのになとそんなことを思った。」と締めくくられている。『ノルウェイ』と方向性は違うけれど…でもあそこで『ノルウェイ』を思い出し、そのせいで川上未映子の筆の力及ばず感を思わずにはいられないという人も必ずいると思う…。まあまだ全部読んでないわけだけど…。うーん。『ヘヴン』執筆の様子は情熱大陸で見たのだけど、なんかなーと思ってしまった。あれだけ背後の本棚に哲学書を並べておいて、これかよっていう。川上未映子さんのことをネットで調べていたとき、『わたくし率…』がなんかの著作の盗作である、みたいな記事が出て来て、その時の「検証してみた」みたいなところでも、今の私があげたのと同じような調子の似通い方をしていた。盗作うんぬんとは思わないけれど、もし似通っていても全体のエネルギーが強かったらそんなに気にされないような気もする。中途半端に弱いから、読者が似通っていて、かつ川上未映子より強烈だった文章の記憶を呼び起こしてしまうというか。
「ヘヴン」が私の求めている「ヘヴン」からは大分逸れていて、私はちっとも救われなそう。
なんとなく読んでいて、「書いているのが辛そうだな」と感じることが多かった。そういう自分の中の空白になってしまう部分を埋めることができるかどうかが作家としての大きな分岐点になると思う…。情熱大陸を見た限りだと、締め切りを踏み倒しに踏み倒して旅館に缶詰になって書いたりしたらしいがこの小説のテーマである「いじめ」という壮大なテーマに対する彼女なりの答えがないように私には読めて、私が虐められてるときにこの本読んだらなんか救いになるか?って疑問になった。私との相性が悪いということもあるかもしれないけれどこの人にはいつも「核」がない気がする…
人間のありかたと社会との関わりを根本的に問い直す本。読みやすい文章で率直に様々なことが書かれている。乳と卵の前衛性とは随分違った、率直で正統派の雰囲気に驚かされた。
内容は、端的に集約すれば、コジマの主張と百瀬の主張にある。しかしこの本はその正反対なあり方のどちらを取るかに重きが置かれているわけではなく、両方の間揺れ動きながらただ結末を迎える。コジマの主張は揺るぎなく強く美しいが、現実味を欠いた部分があり、特に最後のくだりではひとりよがりさも露呈したかな、という印象。一方の百瀬は、達観していて現実的だが、どこまでも冷酷ではっきり言って人間の情のようなものがかけらもない。こちらも、自分は自分、世界は世界というある意味のひとりよがりの側面も見える。どちらが正しいとかではなく、極論に近いものをふたつ並べることで、自分の求める真理や正義のようなものに近づいていくという姿勢は非常に学問的であり文学的であり、ストーリーも面白い上ここまでの内容を含むという本はなかなかないと思う。
個人的には、あえて語られていない様々な伏線が気になります。僕がトイレで聞いた二ノ宮と誰かの声。体育の授業をいつも休んでいる百瀬が病院にいた理由。百瀬の妹について。二ノ宮の百瀬への過剰な反応。またコジマや僕の家庭環境についても、描写はあったけれどもまだまだ設定はあったのに出し切っていないような、そんな印象を受けました。小出しにするのがとても上手い。ひとつ言えるのは、百瀬はかなり死に近いものとして存在しているかもしれないということ。それこそが百瀬の主張を固める素材なんじゃないかなあ。どちらにしろ、色々な側面から見てとても上質な小説だった。もう一度読みます。
もし自分の子供がいじめられてたら、学校なんか行かなくていい、と言おうと思っている。
では、自分が教師だったらどう言うだろう。いじめられてる子どもを守れるだろうか。ニュースや新聞で見るような無責任な教師には絶対なりたくないと思いつつ、どうすれば子どもたちを守ってあげられるかが分からずにいる。
無闇に助けても、裏でいじめが悪化してしまうこともあるし、その場しのぎの仲直りなんて無意味だ。
わたしが教師だったら、学校だけが全てじゃないと言うことしか出来ないかもしれない。
学校という場所は、不安定な気持ちが子どもの数だけあるから、難しい現場だと大学で勉強をしながら、常日頃感じている。
とても身近なものになってしまったいじめについて、もっとしっかり考えていかなくてはいけないと、強く考えさせられた。
いじめの描写を読むのが辛くて、本当にこんなことやる人間がいるの?って思ったけど実際いるんだよな…
自分の子どもや孫がこんな目にあったら、この物語のお母さんと病院の先生のように困難を解決するよう導くことができる大人でいたいと思った。
以下読んでいて憤りを感じた部分。
百瀬がしたいことをやってるだけだ、したいことは正しいとは限らないって言ってるのに、大人に見つからないようにやるのは何でだ?って主人公に聞かれたら、面倒だからだよと言った時。
コジマが斜視の手術の話を聞いて、自分だけ逃げるのは許さないという反応をした時。
川上未映子の作品
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