- Amazon.co.jp ・本 (378ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062165563
作品紹介・あらすじ
"私"は他の多くの「私」とは違う、唯一無二の独在的な"私"である。-多くの人々を魅了してきた永井均氏の哲学は、では、どのような問題であり、そしてどのような哲学的可能性やひろがりを持っているのか?スリリングに思考する。注目の哲学者4人による本気のコラボレーション。
感想・レビュー・書評
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マニアックな哲学書である。
永井均の哲学、特に『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店)で展開されている自我論の永井自身による解説と、その自我論に対する三人の哲学者の論評によって本書は構成されている。永井哲学を知らない読者に対しては軽々しくお薦めできないほどレベルは高い。
『なぜ意識は実在しないのか』の中で永井は「内包」という概念を自我論に導入している。例えば「酸っぱさ」という概念は、酸っぱいものを食べて顔をしかめる経験と、その感覚の「酸っぱさ」という名称を言語的に学習することによって成立するであろう。そのようなプロセスを経て完成した「酸っぱさ」の概念を第一次内包とするならば、その「酸っぱさ」が発生する因果的輪郭(「酸っぱいものを食べる」「顔をしかめる」等)を取り除いてもなおかつ残留するものを「第〇次内包」、「酸っぱさ」を物理的客観的に記述し直した内容(味蕾からシナプスを通じて脳の神経細胞に伝達されるある一定の化学的変化等)を「第二次内包」と呼ぶことができる。また第〇次内包が形成される過程を永井は「第一の逆襲」、第二次内包が形成される過程を「第二の逆襲」と呼んでいる。
この考え方を「私」の概念に適用したらどうなるだろうか。「私」に適用することがそもそも可能なのだろうか。
永井の問題提起を受けて、入不二はさらに「内包」を深堀りし、「マイナス内包」と「無内包」という新たな概念を抉り出す。「マイナス内包」とは「第〇次内包」から概念性を除去した「潜在性」であり、「無内包」とは「現に」という副詞でしか表現できない、内容とは無縁の「現実性」である。上野はラカンを援用しながら「私」の起源としての大文字の他者を主張し、青山は言語そのものと言語伝達との違いに着目しつつ、累進化は後者によって発生するのではないかという論点を提示する。
永井の自我論は初期は存在論的な立場に終始していたが、昨今は意味論的な方向にシフトしながらますます進化(深化)しているように思われる。第Ⅳ部『あとから考えたこと』では「ゾンビ一家の神学的構成」というタイトルで、今後の永井哲学の方向性が示唆されている。少々オーバープロデュース気味の嫌いはあるが、四人の哲学者の応酬を楽しむことができるだけでも、永井ファンのみならず哲学ファンを納得させる一冊である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
上野さんだけ浮いていた感じがした。 それでもまあまあ良かったと思う。議論されていたと思う。
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私についてとか、言語や現実についてとか、僕には向いてないと毎回思うけど、それでも哲学系の本って読んでいて楽しい。やっぱり個人的に適当でも色々考えてると、気持ちが適度な重さで軽くなる感覚があるかも。
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「<私>(精神としての私)と、身体としての私が関係する」なんて、そんなことが何故可能なのか。この問いは、<私>とは”すべて”である、という端的な事実に着目すると、驚きがとてつもなく大きくなる。この問いを生涯かけて考え続けた哲学者、永井均の最新作です。理系の私でもわりと読めます。
九州大学
ニックネーム:jun -
何がわからなかったのかわからなかったなぁ。