- Amazon.co.jp ・本 (490ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062170956
作品紹介・あらすじ
相貌論、懐疑論、ウィトゲンシュタインの転回、過去、隠喩、自由…。スリリングに展開する著者会心の「哲学的風景」。
感想・レビュー・書評
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図書館で借りましたが、あまりに面白いので読みながらにやにやしてしまい、家族他周りの人に不審な目で見られる始末です。例がとっても面白くてわかりやすいです。けれども内容はやっぱり深いので、何回も読んで楽しめます。
野矢先生の本は好きで他にも読むのですが、野矢ismにやられてしまわないよう彼の意見は彼の意見として、自分は自分で考えるということを常に忘れないようにしています。鵜呑みにしてはやっぱりいけないと思うので。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ウィトゲンシュタインの論理哲学論考を出発点に、野谷先生が平易な言葉で哲学の諸問題を語ってくれます。
この本を起点に論理哲学論考などに挑戦したくなりました。 -
本書は幾人かの現代哲学者の考えを引用しつつ、著者の見る“哲学的風景”を読者に伝えようとする本です。執筆時点で著者は自らの哲学を完成(?)させておらず、「私はこう考えたいと思っているが、まだ見通しきれていない」といった表現が多く見られます。哲学者の思考を辿れて面白い本でした。
本書単体で読んでも面白いですが、タイトルから明らかなようにウィトゲンシュタインの哲学についての議論を背景としているので、その辺りを多少理解していると、より楽しめます。
前期ウィトゲンシュタインの『論考』には「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という言葉があります。これに抗して本書は、何とかして「言語で表現しきれないものがある」ことを明言しようと、様々な観点から語り尽くそうとします。まさにタイトルのとおり、「語りえぬものを語る」わけですね。
基本的には、言語を通じた現実の認識の仕方について思索されていて、【相貌】という見方を中心に、【行為空間】という考え方、【概念】について、【自由】について、【真理の相対主義】について、など、多岐の話題に触れられています。
私はミドリムシが動物なのか植物なのか考えるための参考のひとつとして、本書を読みました。感想、学べたことなどをnoteにまとめています。(https://note.com/midori_elena/n/n9c41411adb62?magazine_key=mb1d3161dcc72) -
通読しただけでは、簡単に理解できない・・・それが哲学というものか。読みやすいと思っていると、壁にぶつかったりする。そこを乗り越えていくと、世界が広がっていく気がする。
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京都には「哲学の道」があるが、読み進めながら、私は、著者に誘われて、「哲学の道」を散歩しているような気分になった。一人で散歩していても、道端の石ころや木々の梢、小川などが目に入るが、それらは哲学的思索を呼び起こすには至らない。しかし、この書物に一歩足を踏み入れると、周囲の相貌が一変する。
それもそのはず。ここに収められた26の文章は、講談社のPR誌『本』に連載されたもので、読者は、著者の哲学的思考が生成する現場に立ち会うことになるからだ。著者はあとがきで、「本書は、既出論文を水割りにして口あたりをよくしたものではなく、原酒であり原液なのである」と記しているが、私には泡がふつふつと湧いている発酵中のもろみに放り込まれているような感覚であった。
そのことが、はっきり感じられたのは、第10回「翻訳可能でも概念枠は異なりうる」の章あたりからだ。著者はこの章の末尾に「どうやら、『論理哲学論考』から『哲学探究』への、ウィトゲンシュタインの転回点に触れるところに来ているようだ」と書きつけている。
そして、第11回「そんなにたくさんは考えられない」では、その転回の内実が明かされる。「私はまず行為空間に生きている。そこからのみ、論理空間は語られる。論理空間を囲い込んだものが行為空間であるというよりも、行為空間を延長したものが論理空間である。さもなければ、論理空間もただの砂上の楼閣にすぎない」と。
そして、決定的な覚悟がウィトゲンシュタインの言葉を借りて語られる。「ツルツルした氷の上(=論理空間)から、ザラザラした大地(=行為空間)へ戻れ!」(第13回)と。『論理哲学論考』が「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という言葉で終わっていることはあまりにも有名だが、著者は<論理空間>から<行為空間>へと足場を移し、「語りえぬものを語る」という決意を書名に込めたに違いない。
この単行本には、各回の末尾に本文よりも長い註が付されているが、そこにはザラザラした大地に立つことで、さらに思索を深めようとする強い意志が感じられる。「私はまだそれを明確に見通すには至っていない」「だが、私はまだそうしたことを見通せていない」という言葉が各所で吐露されていて、今後の思索の深まりを予感させてくれる。
「野矢センセイ、今度また、どこかで、散歩に連れて行って!」 -
面白かったー
ウィトゲンシュタインの論理空間の話から始まり、彼なりの経路で現代哲学の諸問題を一つ一つ回っていく感じ。
論理空間で考えるがゆえに生まれてくる独我論を廃し、行為空間を中心において他者との共存という事実を認める。そのために援用される規則のパラドックス、アスペクト論、対戦相手としてのデイヴィッドソンなどなど。懐疑論を斥けたり、隠喩の問題や自由論・決定論の問題や科学の位置づけの問題にも踏み込んでいく。
読書体験として、いい本 -
1350 早稲田ブコフ
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著者が「哲学者」なのか「哲学研究者」なのか、どっちを自認しているかは不明である。しかし、アリストテレスやデカルト、スピノザなどのいわゆる哲学者と呼ばれる人たちは少なくともその時代の科学的知見を知ろうとし、また研究していた。
もちろん、科学的知見が即この世界の正体の全てを(例えば価値観や美観など)を全て説明しうるとは限らない。しかし、少なくともその時代の科学的知見をほぼ全ての領域に渡って知り、或いは少なくとも知ろうとする努力は必要なのでは無いかと思う。
著者の主張するところは、自分も8割方同意見なのである。しかし、例えば、決定論と自由論を論ずる上において物理的な知識を踏まえないと言うことが許されるのであろうか。特に量子力学における知識を「私は量子力学についてはズブの素人で何もわかっていない」と言い切ってしまうことは自由論について哲学者として語る資格は無いと言ってもいいだろう。
例えば、地動説を論ずるにおいて、「私は今の天文学の知識に全然詳しくないのであるが、恐らく地球は動いていると思う」と論じて平然としていられるとしたら哲学者とは呼べないし、それを哲学者と呼ぶならば哲学者とは何ぞやという話になる。
また著者は科学的知見について散々素人であることを強調しておきながら、「科学は決して世界を語り得ない」と断定するのである。少なくとも現代における科学的知識を全方位的かつ包括的に知った上で断定するならば、そこに少しの説得力も資格も可愛げもあるというものである。しかし、何の最先端の科学的知見も無しにそれを断ずるのは、傲慢、不遜の誹りを免れ得ないであろう。
これは著者だけで無く、日本の、世界の「哲学者」にほぼ当てはまることでは無いかと思う。 -
途中、神秘的な話になっていってどうなるのかと思ったけど、一応まとまっていました。
今、仕事上で考えている機械のアナロジーではない「生命らしい」生命システムの理解というものに通じるところがある。けど全体で理解するとしても、きっとどこかに飛躍を残したままになってしまうのだろうか。
果たしてそれが法則を見つけたといえるのかなぁ。
こういう人こそ、理研文化の日で呼ぶとかしてほしいですねー。
議論することで何か新しいことが見えてきそう。