<世界史>の哲学 古代篇

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 210
レビュー : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (354ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062172066

作品紹介・あらすじ

世界史は、謎の殺人事件から始まる一種のミステリーである。イエスはなぜ殺されたのか。その死と復活を記した福音書の物語は喜劇なのか。常識を覆しつつ紡がれる、まったく新しい「世界史」という物語。

感想・レビュー・書評

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  • キリスト教を宗教として考えると、「神」を信じるかどうか、というところで議論は止まってしまうかもしれませんが、ある種の哲学や思想として考えると、その時代背景や出どころをあれこれ考える議論につながっていくことができるんですね。

    ギリシャ哲学とキリスト教を同じフィールドで考えたことがなかったので、なかなかおもしろかったです。

  • タイトルと内容の不一致。キリスト教の本。有名な『ふしぎなキリスト教』の著者の本。世界史の中心に君臨するキリスト教を理解して、世界史とは何かを解くのが主題。

     論理的な記述にしようと努力すんだけど、結局論点が飛びまくってわかりづらくなっている。リタイアする読者が多そうな本である。
     読了しても、結局わかったようで全然わからない読後感。別の本で世界史やキリスト教の知識を仕入れなおしてまた読めば少しわかるが、やっぱりまとまってないなと思わざるを得ない。残念。でもわからなくないし、面白いと感じることもある。意外と奥の深い本だと感じた。

     あと、装丁がカッコ良さそうに作ってある。

    _____
    p25 普遍性(特殊→普遍の発生)
     社会には時代ごとに普遍性と特殊性が存在する。しかし、普遍性は以前特殊だったものが次第に広まっていった結果完成するものである。
     キリスト教は今日、世界の普遍性の一つである。いや、歴史上も長く普遍性となっていた。だから、その特殊性という性質の時代にさかのぼってキリスト教とはどんなものだったのか考えていくのがこの本の主題である。

    p27 資本主義
     現代の普遍性「資本主義」も西欧から発生したという特殊性を持っている。これを考える。すると西洋のもう一つの普遍性であるキリスト教との接点が見えてくる。
     西洋からしか生まれなかった資本主義、その西洋を形作ったキリスト教、材料の用意が整った。

    p30 等価交換が剰余のせいで
     市場は正当な等価交換のみがゆるされていた、しかし、剰余の発生のせいでそれを扱った格差が生まれ、争いや欲望が絶えない。
     資本主義の核心であり、害悪の根源でもある「剰余」を重要視しよう。

    p33 守銭奴の宗教性
     資本主義の主役である資本家(守銭奴)は重商主義であり、多く売って少なく買い蓄財する。金銭が無くなるのを恐れるようにそれを増やし続けようとする。金を信奉するようなその態度は、金という偶像を崇拝する異教徒のそれとみなされる。しかし、マックス=ヴェーバーは守銭奴に宗教性を見出した。
     敬虔な信者は、自分の信仰が深まるほどその信仰が不足しているのではないかと不安に駆られる。そういうものである。ここに信仰の過剰と欠如がセットになる。
     金銭を信仰するものも、敬虔な信者同様、金があればあるほど不足を感じているのである。
     ここに資本主義と宗教の共通点を見る。

    p47 イエスの死は非合法
     イエスが磔刑にかけられた罪状はあまりにも不当である。にもかかわらずなぜイエスは死ななければいけなかったのか。その死がキリスト教という宗教を生むきっかけになったのか。

    p61 死による遍在性
     フロイトによれば、法の起源には、息子たちによる原初的父の殺害がある。殺害の罪責感が法の効力を支えているのである。
     殺害された父は抽象化・象徴化され、死以前よりもより強く子供たちの意識を支配する。死によって怨霊化して、人々に強い影響を与えるというのは日本も海外も変わらないんだな。
     このフロイトの論理をイエスにも充てれば、イエスも死んだことで抽象化され、より多くの人々に影響する力を得た。つまり遍在性を持った。特殊から普遍性に発展したのである。
     ユダヤ教が民族の宗教に対して、キリスト教は民族を超えた普遍的な宗教になっている。これはイエスの死がきっかけであるといえる。

    p64 ユダヤの法は、関係を断絶するための手段
     ユダヤ人の律法はそれゆえに各地の民族と相容れなかった。逆に言えば、律法があったからユダヤ人は各地で溶け込むこともなくアイデンティティを維持し続けられたといえる。
     普通、法律は利害調整のための「結合の装置」であるが、ユダヤの律法は「断絶の装置」だったのである。

    p72 神と争う
     イスラエルという言葉の意味は「神と争う」である。それは創世記に書かれている。
     イスラエル十二部族の祖といわれるヤコブが、カナンの故郷に戻ろうとした旅先で神と格闘して勝利した。その結果、神からイスラエルの名前を授与されたからその名前がカナンの地につけらえた。

    p75 合理化
     ヴェーバーが説いた「合理化」を定義すれば、「呪術からの解放」に集約される。
     呪術と奇蹟は何が違うのか。
     呪術は人間が神に依頼して現実を変えようとすることである。これは人が神に超越していることを意味する。ゆえにありえない。
     奇蹟は神が人に与えたもう現象である。神が人に超越しているのである。

    p80 神に見放されたのに…
     ユダヤ人は何度も神に裏切られている。バビロン捕囚はその最たるもの。なぜこれだけ神に裏切られているのに、ユダヤ民族は神を見放さないのか。
     この疑問がユダヤ教の最大の特徴なのである。

    p86 美と崇高
     「美」は人を落ち着かせ、慰撫する。「崇高」は人を興奮させ、不安な気持ちにさせる。単純に対比すれば、快楽:不快の対照である。
     しかし、ただ不快なだけでなく、その不快に快感を覚えるようになると「崇高」になりうるのである。
     ユダヤ教徒はこの崇高さをもっていたから、神をいつまでも見放さなかった。
     苦しい不快の環境に耐えることで、奴隷になっても頑張り続ければ救われるという快感を得られたから、ユダヤ人は神を信じ続けられたのである。

    p114 不足が神
     苦難があるから多幸感を、不快感があるから快感を得られる。それを感じたときに、神の存在を感じられる。
     つまり神は不足な現象そのものである。人が欠乏を感じたところに神が発生するのである。イエスも死ぬから神なのである。有限な人間であることが証明されたことが「神」の証明になっている。

    p116 貧しき者は幸い
     このイエスの言葉の本意は「貧しい者も天国に行けば幸せになれる。だからもう少しの辛抱だ。」という意味ではない。
     「貧しき者は幸福を勝ち取る可能性を残している。ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん。」という変革を喚起する意味合いを持っているのである。
     不足こそが神の存在を示すといった。貧しく不足する者にこそ、神はそばにいる。

    p117 神の国に来たら人々はより苦しむ
     宗教の倫理観と言えばいいのか。
     人々は救いが施される以前は苦難の中にいる。だから神の国を求める。しかし、いまだ神の国にいないのならば、神の国の規律に縛られることもないということである。
     イエスは「神の国はすでに手の届くところにある」と神の国にすでに入っていることを示唆している。人々が神の国にもう入っているならば、人々は神の国にふさわしい生き方をしなければならない。神の国に入る以前よりも縛られた生き方を求められる。
     イエスはそう言って、人々の意識の向上を呼び起こそうとしたのかな。

    p137 イエスは悪である
     キリスト(神):イエス(人間)の二元論的対比はこう言える。
       神:人間=霊:物質=善:悪
     極論的にはイエスは悪であり、罪人なのである。イエスは罪人を神の国に招くためにやってきたといった。つまり、神の国は罪人のためにあるのである。罪人が善人に更正したら入れる場所ではなく、罪人のまま入る場所なのである。

    p149 神はそばにいるだけ
     神は人を直接救わない。ただ、どんな時でも人を見捨てずそばにいてくれる。人が自ら立ち上がり、困難に立ち向かうのをそばで見守っていてくれる。それが何になるのか。何の意味もないと感じる人も多いだろうが、自己肯定をしてくれる存在が外部にいるということがどれだけ救いになるか。わかる人にはわかるのだ。
     イエスは巡礼の旅で、人々を救ってきた。それも手を触れるだけで盲目の人やライ病の人を完治させた。
     イエスは何もしていない。ただ側にいただけである。病人がイエスというきっかけで自ら病気を克服したということを示しているのだ。

    p181 悲劇は威厳を表し、喜劇は惨めさを表す
     悲劇の英雄やヒロインは、救いようのない凄惨な最期を遂げ、失意と憎しみを残していく。しかし、その死には尊厳を感じられる何かがある。それが悲劇の演出である。後世の人々はそんな彼らを威厳ある者として讃える。
     喜劇の主役は、滑稽さと惨めさがある。そこに尊厳を保つものはいっさいない。
     一見悲劇的なものにも、行き過ぎて喜劇になってしまうものもある。尊厳を保てないほどの悲惨な出来事は、惨めさと非現実的な滑稽さとが残ってしまい、喜劇になってしまう。
     例えば、アウシュヴィッツの悲劇も、死んだユダヤ人は尊厳なんて保てない。ただ殺されていく惨めさと、抵抗すらできなかった滑稽さが演出されてしまっている。
     イエスの磔刑も悲劇ではなく喜劇である。イエスの死は弟子に裏切られて実現し、イエスも威厳を持って抵抗することもしない。そして、死の間際には神の存在を否定するかのような悲鳴を上げる。そこには惨めさしか残らない。

    p190 ソクラテスのお話
     ソクラテスの死は有名な「悪法でも法」という言葉を残して、若者に異教の神を信じさせたという罪状で処刑されたというものである。
     アテナイでは有罪判決後、量刑の決定を原告と被告両方から聞いて決められた。原告は死刑を求め、ソクラテスは減刑を求めると思われた。しかし、ソクラテスの求めたのは「公会堂での無料の食事」という刑であった。公会堂での食事はオリンピックの勝者など英雄に与えられる名誉であった。ソクラテスは自分の行為に最期まで尊厳を求め続けたのである。
     ソクラテスの死とイエスの死を比べれば、尊厳の差をはっきりと感じられる。

    p224 ソロンのお話
     ソロンはペイシストラトスの僭主性に対して抵抗した老賢人である。ペイシストラトスは個人的な傭兵を認めるように民会に承認を求めた。傭兵を手に入れれば、権力と暴力を一手に獲得できる。ソロンはその権力の集中に反対した。
     ソロンはペイシストラトスの傭兵決議をする民会に甲冑を着て参加し、「私はペイシストラトスの姦計に気付かぬものより賢明で、奴の姦計に気づきつつも見て見ぬふりをする者よりもはるかに勇敢である。」と演説した。
     結局ソロンの行動でペイシストラトスの僭主政は止められなかった。しかし、その後ペイシストラトスは大した独裁者にはならなかったし、後世のクレイステネスの陶片追放制度などギリシアの民主制度は発展していく。

    p226 カエサルのお話
     カエサルの死は有名な「ブルートゥスよ、お前もか」である。ブルートゥスもソロンと同じように独裁者になりそうなカエサルに対抗し、暗殺という凶行に至った。
     ブルートゥス達とソロンの行為の違いは後世に現れる。カエサルを殺して独裁者の登場を防いだが、それから間もなくアウグストゥスという独裁者が結局登場した。
     カエサルを殺して、皇帝(カエサル)が登場したのはなんたる皮肉であろう。
     カエサルも死んで抽象的な存在として皇帝を表す存在になった。これはイエスが死んで神になったのに酷似している。

     ソロンのクーデタが失敗したのに成功して、ブルートゥスのクーデタが成功したのに失敗したのはなぜか。
     それはギリシア世界では独裁政治の準備が社会にできていなかったからであり、ローマではすでに独裁政治の世の中になっていたからである。


    p237 イデア
     プラトンの言うイデアは目で見られるものではない。抽象的な一般性のことをイデアという。目の前にあるイス、これは固有性を持つ一個のイスであり、一般的なイスとは言い切れない。
     普遍的な定義を表すのがイデアである。
     イデアとは「イデイン/見られたもの」を語源としている。しかし、イデアという語では観られることの否定性が含意されている。

    p259 羞恥心が古代ギリシア
     古代ギリシアの宗教観の態度に「アイドース/羞恥心」がある。羞恥は見られることによって発生する。アイドースには性器の意味も含まれる。
     羞恥を感じるのは、規範的意識から逸脱している自分を他者に見られることである。羞恥を引き起こすのは規範的な視線なのだ。その視線は超越的な存在から発せられる。つまり「神々が私を見ている」という宗教態度である。

    p323 「語る」は両義的で、パレーシアに神が宿る
     ギリシア語のパレーシアは「包み隠さず語ること、公益のため危険を冒してでも真理を語ること」を意味する。
     何かを語ることは、表の意味と裏の意味の両義性を持ってしまう。「公の正義のために真実を語る!」と表向きに言っても、裏には「個人の尊厳を高めるために語る!」という意味を含むことから逃れられない。
     人の「語る」という行為にはこの両義性が付きまとう。ゆえに真実を語ることは不可能である。
     この両義性を克服した存在こそが神であり、パレーシアを達成できるのが神である。

    p346 偶有性
     偶有性=偶然性だが、これは容易に必然性に感じ方を変容できる。 
     9・11テロがあったが、事件以前までニューヨークであんなことが起こると誰も想像もしなかった。しかし、一度事件が起きてしまえば、あの偶然もアメリカの外交政策の帰結点として必然性を感じられるようになる。
     

    ______

     古代世界の中心がギリシアからローマへ移って、どうしてイエスがキリストになったか。
     ローマ世界はギリシア世界の文化を多数受け継いでいる。宗教観もギリシアの多神教を受け継ぎ、「観る」の宗教観を持っている。
     第三者の審級を神の存在意義とするキリスト教。神は側にいるだけで、現実世界で人々が自立し互いを助け合うことが大事なのだ。
     ギリシアの観られるという宗教観を持っていたローマ世界だからキリスト教は受け入れられたのだろう。



     これがこの本の結論かな。読み解くの大変だった。大変だけれど、何度も読んで理解するのもいいな。

     ローマ世界でキリスト教が広まって、後期ローマ帝国で政治と結びつくことで権威を得るようになり、中世で世界宗教が学問と結びつき、新たに生まれた剰余経済の発端になる。

     この本にはあとがきが無いのだけれど、本当にそれが欲しい。それがあるだけで大分この本の理解度が変わると思う。単行本とかにでもなったらあとがきつくかな?

     再読の可能性あり。

  • ギリシャ哲学から読まないとさっぱりわからん。

  • (チラ見!)

  • ユダヤ教~キリスト教世界を知るための必読の一冊

  •  特異でありながら普遍性を帯びることとなった近代への問いの解を、キリスト教を軸に追求。この古代篇では特にイエスの死を中心に据え、ソクラテスの死と比較したり、フーコーやハイデガー、レヴィナスなどの言葉を引用したりしつつ、「推理」を展開していく。
     そう、まるでミステリーを読んでるような「謎解き」の爽快さを感じながら読み進めてしまうのだ。歴史書でも思想書でもなく、ミステリーとして楽しむべきでありましょう。

  • 世界史とは言っても、キリスト教の起源に特化している。

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著者プロフィール

1958年、長野県松本市生まれ、社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。専門は理論社会学。2007年、『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を、2015年、『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』で河合隼雄学芸賞を受賞。主な著書に『〈自由〉の条件』『夢よりも深い覚醒へ』『日本史のなぞ』『可能なる革命』『〈世界史〉の哲学』『社会学史』、共著に『ふしぎなキリスト教』などがある。

「2019年 『支配の構造』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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