<世界史>の哲学 中世篇

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  • 講談社
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レビュー : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062172073

作品紹介・あらすじ

殺されても死なない死体が創った「中世」という時代。死体を中心に繁栄する都市。なぜセックスは「原罪」で「隣人」は嫌なやつなのか。愛と矛盾とドラマに満ちた時代を鮮やかに読み解く。

感想・レビュー・書評

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  • キリスト教徒が世界の本質になった理由を考える本。古代編の続編:中世編。ここからがキリスト教の歴史の本番だ。


     相変わらず装丁がカッコ良さそうに作ってある。かっこいいとは言っていない。カッコ良さそうなだけだから。


    ______
    p21 ルネサンスと中世
     中世の定義は教科書的には14Cのイタリア=ルネサンスまでである。その中世の中にはいくつものルネサンスが含まれる。カロリング=ルネサンスとかね。
     中世には絶えず新しいものが想像されているのにそのおおくがルネサンス(再生)という過去への回帰という形式をとっているのが面白い。
     
     中世はキリスト教が深く人々の生活に根付いた時代である。また、この中世の時期にヨーロッパという文明単位が完成したといえる。だからこそ中世は重要なのだ。

    p26 西・東ヨーロッパと先進・後進国
     中世では東ヨーロッパが穀物や原材料などの一次産品の生産地で「後進国」、西ヨーロッパが工業製品などの二次産品の生産地で「先進国」だった。
     また、東西の違いはキリスト教にも表れた。西のカトリックと東のギリシア正教である。

    p28 見せること・隠すこと
     カトリックは「見せる」、ギリシア正教は「隠す」
     教会の造りを見ればその違いは明らか。

    p29 西ローマ帝国はフワフワした存在
     西ローマ帝国はその存在した時期を一貫して、教皇と皇帝で宗教的権威と俗物的権威で独立した権力を持っていて、神聖ローマ帝国はヴァーチャルな帝国として存在していた。
     対してビザンツ帝国は教皇と皇帝が一致しており、統治の論理としてはこちらの方が正当である。

     しかし、世界の中心になっていくのは安定した東ヨーロッパではなく、不安定な西ヨーロッパなのである。

    p42 大学の開放性と世俗性
     近代以前に大学にあたる教育施設を持ったのは西ヨーロッパだけであった。
     大学の性質には開放性と世俗性がある。
     ギリシア時代のように数学専門の学問集団などのような閉鎖性はなく、リベラルアーツという普遍的な学問が一般から入学した生徒に必須科目として教育された。
     また、他国にも宗教の教理を追及する研究施設はあったが、大学は宗教から独立していた。教員は聖職者ではないし、宗教者を育成するための機関ではなかった。宗教者を育成するためではなく、総合的な知を育むという考え方を持つ教育機関は西ヨーロッパにしかない。

    p46 大学は哲学vs宗教の場
     大学の命は哲学部だとカントは言った。中世哲学の
    主要命題は「神の存在の証明」である。キリストの時代である中世において、その神の存在を懐疑する学問が大学では行われていたのである。
     これは宗教に敬虔でありすぎるゆえに、その本質を追及する姿である。
     神を信じるからこそ、存在の矛盾を追及できる。他の地域では神への冒涜として断罪される行為が西ヨーロッパの大学では可能だったことに注目したい。

    p54 大学は神への疑心
     キリストの時代である中世でもその信仰に猜疑心は少なからずあったはず。その芽を出した不安の種を囲って研究したのが大学である。中世の大学はキリスト教への猜疑心の象徴ともいえる。

    p83 神は我関せず
     偉大な神がちっぽけな我々人間一人一人を熟知し施しを与えてくれるだろうか。神は超越した存在として細かいことに一喜一憂することなく、普遍的な世界の法則だけを決定しているのだ。
     だからと言ってここを見捨てるのかと言ったらそうではなくて、神の決めた普遍的な法則に則って、その使者である天使や預言者が神の代理として人々を導いてくれる。これがキリスト教の一般摂理と種別摂理である。
     西ヨーロッパの教皇と皇帝の分離独立もこの性質に寄せられる。普遍的な法則を決める権威として皇帝(一般摂理)がいて、個別の救済を司る宗教の権威として教皇(種別摂理)があるである。

    p98 禁欲の効果
     中世の性道徳が高かったとは言えない。聖職者の妻帯もあったし、一夫多妻も当然のようにあったはずである。しかし、キリスト教の禁欲主義の効果は少なからずあった。宗教儀式のある一定の期間には禁欲が徹底されるということは間違いなくあったようである。
     完全に性の乱れをコントロールできなかったにしても、性道徳向上の始まりとして機能していた。

    p106 イエスの血肉と嫌血肉
     キリスト教の時代である中世には、血や精液などの体液が嫌悪された。また、肉食も謝肉祭などの機会以外は避けられた。血肉に対する軽蔑が強かったのである。
     しかし、イエスの最後の晩餐での言葉にあるように、パンとワインはイエスの肉であり血なのである。
     血と肉は聖なるものであるはずなのに中世において嫌悪軽蔑されているのは興味深い。

    p152 マルコ
     ヴェネツィアの守護聖人マルコ。聖マルコ広場とかに名前が残る。福音書書記のマルコである。
     9世紀にヴェネツィア商人がイスラム圏のアレクサンドリアから遺骸を盗み出し、ヴェネツィアに持ち帰った。
     それ以来ヴェネツィアは聖遺物のある都市として有名になる。このように中世における聖遺物への信仰は、ものすごい。

    p158 中世都市は聖遺物の町
     中世の人々は聖遺物にひかれるように巡礼をした。その巡礼地に合わせて都市は発展し、都市同士は結節し、経済が結びついた。十字軍もこの巡礼の一つの形態である。

    p205 カニバリズム
     カニバリズムは食人主義。肉食はこれを連想させ、気色悪がられる。しかし、世の中で血を滴らせ、死体に齧り付きながら肉を食べるような人がいるだろうか。たいてい調理して食べる。それは美味しさの追求だけでなく、倫理的にこのカニバリズムの姿を隠すために料理しているのかもしれない。
     これを性的に言い換えるなら、映画のラブシーンを直接的に描くか、暗示的に描くかという対比に似ている。映画のラブシーンを明るく激しく描けば、節操なくなんのロマンスも感じないだろう。しかし、暗く断片的に移すことで、官能を誘い登場人物の愛情を感じられる演出になる。
     これと同様、料理によって肉食を演出することでグロテスクなものを芸術の域に昇華しているのである。しかし、食事には根源的にはカニバリズムの精神があるのである。
     肉を食すというのは、食す対象が自分の中に入っていく、最も身近な存在になっていく過程である。この他者性は神が人々のそばにいるという暗示を表現するのにつかわれている。
     最後の晩餐でイエスがパンとワインを自分の血肉に喩えたのは、キリスト(神)が食事によって側にいる存在になることを示しているのである。

    p216 死の必要性
     人の死は後世の人間を動かす。
     1960年の60年安保闘争で、東大生の樺山美智子は反スターリン主義の共産主義団体の一員として国会議事堂に突入して殉死した。彼女の死はその後の左翼主義者の心に焼き付いて、運動に勇気を与える象徴となった。
     村上春樹の小説『ニューヨーク炭鉱の悲劇』という小説は、内ゲバ(セクト間の抗争)の死者に対する思いが込められている。
     日本でもこのように人の死で反政府運動や小説が書かれるなど、死者がひとつの象徴になっている。
     イエスの死もひとつの象徴(神や精霊)になるために必要な通過儀礼だったのである。

    p227 神と人の共依存
     神は普遍性の象徴として必要である。しかし、その普遍性を進めるには神だけでは役不足である。人々の中で殉死する使徒が必要である。それが子なるイエスなのである。
     父なる神が普遍性をもたらしても、人々はそれを盲信して逆に人々を苦しめる。パリサイ派の律法が人々を苦しめていたのと同じように。ゆえに神は自身の神性を否定して、人性を用いて人々を幸福に導くときがあるのである。その人性として顕現したのがイエスなのである。
     神は超越者でありながら、あまりに抽象的過ぎて人の世に干渉できない。だから神は時に人に近い存在を必要とするのだ。神でありながら人に依存しなければならないときがあるのだ。
     三位一体の神性と人性の矛盾はこの神と人の共依存で説明できる。

    p246 忠誠vs名誉
     忠誠心と身分的名誉の間にはトレードオフの関係がある。誰かに仕えて保護を受ける時に生まれるのが忠誠心だとすれば、主君の庇護に遜ることこそ忠誠心であり、そこに名誉欲は不要である。
     しかし、西洋の封建制では忠誠と名誉が両立して見える。それは、双務的契約関係の上にきまる仕官制度だったからである。互いの契約上の責務を果たすだけのドライな関係、だから忠誠と名誉が両立するのである。
     では騎士が本当の忠誠を示しているのは誰なのか。主君のその先にいる誰かを心のよりどころにしているはずである。

    p254 抽象的なものへの忠誠
     人間は期待する。困難があればその先にはすごいお宝があるのだろうと期待を膨らまし、その期待に忠実に行動する。期待という抽象的なモノへの忠誠を誓う生き物なのである。
     イエスの存在は、神への期待を喚起する。イエスという神の代理人がいるということは、本当に神は居るしそれはすごい者なのだろうと期待する。その期待に忠誠を誓い、信仰するのだ。この人の期待という性質上、イエスは抽象的な神を演出するうえで必要な存在なのである。
     
    p260 利子
     利子とは元来、忌み嫌われるものだった。他人から必要以上に物を奪う行為が利子である。自分が与える以上に人から奪ってはいけないという聖書の記述があるようにキリスト教でも利子は嫌われた。例えば、教員の仕事も、生徒にしゃべりかけているだけで何も生み出していないのだから、対価を受け取ることは不徳だとされていた。高利貸しも、何も生産せずに金を増やす不徳な行為だったのである。
     しかし、キリスト教の西洋世界でこの利子は発達し、資本主義を生んだ。
     キリスト教では利子を一方では否定し、他方では許容したのである。

    p272 煉獄
     高利貸しが扱う商品は「時間」である。自分が生産する時間を前借りして、高利貸しに金を借りるである。時間は人に干渉できない神の所有物である。それを勝手に商売している。これが高利貸しの罪状である。
     中世キリスト教は「煉獄」という概念を発明した。人は死んで天国か地獄に行く。しかし、天国に行けないものがすべて地獄に行くというのも酷な話である。軽犯罪を犯しただけで天国に行けず、責め苦の地獄に突き落とされるのは納得がいかない。
     そこで発明されたのが「煉獄」という天国と地獄の中間地点である。煉獄では、地獄行きの執行猶予が与えられる。その期間に罪を償えば地獄行きは免れるという場である。これによって軽犯罪者の救済措置が与えれたのである。
     この「煉獄」のおかげで高利貸しはその存在を許されたのである。この煉獄の仕組みが生まれなければ資本主義は生まれなかったかもしれない。
     そうそう、「利子/interest」はinter-est中間期間を語源にしている。煉獄という地獄までの中間期間で浄化される高利貸しを意味する言葉がこれになったのは面白い。

    p281 愛は剰余を生む
     愛とはギブ・アンド・テイクを超越した献身性である。相手のためなら自分を犠牲にしても与えられる、0から発生した生産物である。つまり、剰余である。
     キリスト教の説く「愛」は剰余なのである。人間の中で0から発生する愛を、お互いに交換し合うことで、次々と愛の再生産が起きる。この愛の生産性が向上することこそ宗教の目指すところである。
     よく見ると経済的な見方をしているようだ。
     この「剰余の愛」は「利子」に対照できるのである。

     つまりキリスト教には利子を許容するポテンシャルがあった。利子も正しい徴収の仕方であれば、剰余の愛と同質のものなのである。キリスト教が完全に普及した11~12Cから貨幣経済は発展し、高利貸しが活動を活発にする。キリスト教に即した、愛ある高利貸しが経営されたからであるからか。

     確かに、金貸しは金のやりくりに困っている人を救う仕事と捉えることもできる。現実には存在しない貨幣を信用だけで発生させて、借り手の生産活動を支援する、愛ある行動でもある。

    p307 虚である神をめざし利子を生む
     人々はこの世に存在しない神を求める。それは「怖いもの見たさ」のように、存在しないもはずの物への好奇心の高まりの結果である。
     ここに神が好奇心という剰余を生み出している。例えば巡礼の旅は、人々が移動することで価値が発生する。その価値は神が生み出させたものである。

     このように人は虚なる神を求めて、0から価値を生み出す。これが利子の契機になっている。

    ______


     「利子」という資本主義の根源、これがキリスト教から生まれたものであるということがこの本の主題であろう。

     プロテスタントの勤勉性が資本主義の準備になったというプロ論は有名だが、この利子についての考え方は、経済学部出身の身ながら大して勉強できていなかった。

     古代編に比べ、今回の方がグッとくるところが多かった。近代編もあるのかな??

     この2冊分くらいある東洋哲学編も頑張って読もうと思う。

  • 12/28 読了。

  • 筆者の知識の広さと深さに驚嘆した.西ヨーロッパの中世社会の二面性を詳細に考察している.教会と国王・領主との対立といった視点や,肉食や大食が罪悪視される時期と許容される時期が存在することを事例として取り上げての考察,さらにキリスト教の三位一体についても詳細に論じている.死体に対する考え方でキリスト教の特異性を述べているのに興味を持った.”重要な中世都市の中心には死体がある.その死体が人々を惹きつけ,人口を密集させ,派生的に,その都市に繁栄をもたらしていた.”

  • キリスト教世界をより深く知るための必読の一冊

  •  イエスの死に焦点を絞った古代篇に続き、イエスの死体が都市を形成していく中世篇。レヴィナスから「悪童日記」まで引用して展開される突飛な論理は、さらにパズル的な面白さを増しています。
     次々と謎を投げかけては、消化しきれなくてもさらに次の謎を投げかける、そのリズム感も好し。世界史でも哲学でもなく、なんというか「探偵!ナイトスクープ」的な面白さであります。

  • 近代篇マダー??

  • キリスト教の成り立ちと中世ヨーロッパの醸成を関連付けた考察。

  • 展示期間終了後の配架場所は、学士力支援図書コーナー(1F) 請求記号 209//O74

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著者プロフィール

1958年、長野県松本市生まれ、社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。専門は理論社会学。2007年、『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を、2015年、『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』で河合隼雄学芸賞を受賞。主な著書に『〈自由〉の条件』『夢よりも深い覚醒へ』『日本史のなぞ』『可能なる革命』『〈世界史〉の哲学』『社会学史』、共著に『ふしぎなキリスト教』などがある。

「2019年 『支配の構造』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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