神様 2011

著者 :
  • 講談社
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レビュー : 154
  • Amazon.co.jp ・本 (50ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062172325

感想・レビュー・書評

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  • 怒っているのだな、ということがわかる。川上弘美は、怒って、怒りながらこれを書いたのだな。
    だって、くまと散歩して魚をとったりお昼寝したりする、一読してのんびりとも牧歌的とも感じる「神様」を、いくつもある自作の中からわざわざ選んで、そこに、「あのこと」の後の世界を上書きしてしまったのだから。

    読み比べてみればわかる。そこここに彼女が差し込んだ、「防護服」「除染」「被爆許容量」などの、くまと散歩して魚をとる昼寝をする世界とは、明らかに異質な単語。
    3世帯しか残っていないマンション、子どものいない水辺。
    「神様」には出てくるのに「神様2011」には出てこないものと、「神様」にはなかったのに「神様2011」には当然の顔で居座るもの。

    その異質なものが、いつか日常になってしまうことを恐れる。
    今だって、まだ家に帰れない人々、故郷をうちやったままで断腸の人々がいるのに、そこ以外では、停電もとりあえずなくなって日常を取り戻したつもりになっている。原発も放射線も、何も解決などされていないのに。
    その日常に、かつてはSFの中のものだったガイガーカウンターや除染が、言葉としても実質としても、忍び込んでいる。そして忍び込んでいることに慣れてしまうことが怖い。

    人智を超えているからこそ、触れてはいけないものがあったはずだ。今だってあるはずだ。
    ウランは自然界にあって、ウランの神様はいた、ずっといた。触れずにいる間は牧歌でいられたけれど、でも触れてしまった。触れてしまった後の世界になってしまった。
    知りませんでした、で済ませるには、あまりにも大きな破壊、あまりにも長いこの後の何千何万何億年だ。

    それでも、「大いなるよろこび」を信じて最善を尽くしてゆくしか、手だてはない。
    と、くまの、思ったよりも冷たい体温を想像しながら、やっぱり思う。

  •  2011年3月11日に東日本大震災が起こり、川上弘美は3月中にこの小説を書き、自ら出版社に持ち込んだ。掲載されたのは「群像」2011年6月号だから、5月初旬発売で原稿の締切はおよそ4月20日あたり。刊行された小説として福島の原発事故をとりあげた最も早いもののひとつだった。本書にはこの時に発表された「神様 2011」の前に「神様」というタイトルの短編がおさめられている。並置されていると言うのが正しい。ぼくは2012年になったくらいか、当時勤めていた会社の同僚女性に本書を、短いし読みやすいだろうなと考えて、貸した。神戸の出身で阪神淡路大震災を経験していて、東日本大震災のすぐあとに東京へ引っ越してきたひとだった。
     「神様」は川上のデビュー作だ。『神様』(中公文庫)のあとがきから引用する。
    〜” 表題作『神様』は、生まれて初めて活字になった小説である。
    「パスカル短篇文学新人賞」という、パソコン通信上で応募・選考を行う文学賞を受賞し、「GQ」という雑誌に掲載された。
     子供が小さくて日々あたふたしていた頃、ふと「書きたい、何か書きたい」と思い、二時間ほどで一気に書き上げた話だった。
     書いている最中も、子供らはみちみちと取りついてきて往生したし、言葉だって文章だってなかなかうまく出てこなかった。でも、書きながら「書くことって楽しいことであるよなあ」としみじみ思ったものだ。「めんどくさいけど、楽しいものだよなあ、ほんとにまあ」と思ったのだ。
     あのときの「ほんとにまあ」という感じを甦らせたくて、以来ずっと小説を書いているように思う。
     もしあのとき『神様』を書かなければ、今ごろは違う場所で違う生活をしいていたかもしれない。不思議なことである。
     やはりこれもなにかの「縁(えにし)」なのだろう。と、『神様』に登場する「くま」を真似て、わたしもつぶやいてみようか。
    (後略)”
    「神様」の書き出しは、
     
     くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。
    「神様 2011」の書き出しもまったく同じだ。川上はデビュー作を改変して発表した。お茶の水女子大学理学部生物学科を出てから田園調布雙葉高校の理科の先生もしていたひとは、東日本大震災の直後から「原子力」に関する勉強をはじめる。本書のあとがきから。
    〜” 1993年に、わたしはこの本におさめられた最初の短編「神様」を書きました。
     熊の神様、というものの出てくる話です。
     日本には古来たくさんの神様がいました。山の神様、海や川の神様、風や雨の神様などの、大きな自然をつかさどる神様たち。田んぼの神様、住む土地の神様、かまどや厠や井戸の神様などの、人の暮らしのまわりにいる神様たち。祟りをなす神様もいますし、動物の神様もいます。鬼もいれば、ナマハゲもダイダラボッチもキジムナーもいる。
     万物に神が宿るという信仰を、必ずしもわたしは心の底から信じているわけではないのですが、節電のため暖房を消して過した日々の明け方、窓越しにさす太陽の光があんまり暖かくて、思わず「ああ、これはほんとうに、おてんとうさまだ」と、感じ入ったりするほどには、日本古来の感覚はもっているわけです。
     震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうともしないで来てしまったのだな」ということでした。(中略)
     2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様 2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段に構えた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性を持つものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。”
     本書を貸した当時の会社の同僚だった女性は、すこしして、もう一度この本を貸して欲しいと言った。小ぶりで可愛らしい本なのだ。川上はデビュー作を書き換えて、もう一度原点から歩こうと考えたんじゃないかとぼくは思う。原子力開発にまつわる諸問題、あらゆる面からまだいっこも解決していないことを覚えていますか?

  • (2011.10.18読了)(2011.10.18拝借)
    【東日本大震災関連・その30】
    「神様」「椰子・椰子」などを読んで、川上さんにはまりました。
    それ以来、川上さんの本は大体読んできました。
    「神様2011」は、「神様」を福島原発事故後の世界に置き換えてみた作品ということです。
    ほとんど変化がないとも言えるし、たいへんな世界になってしまったとも言えます。
    それでも、人間は、生きていかなければ、生活していかなければなりません。「神様2011」は、そう言っているのかもしれません。

    この本には、1993年に書かれた「神様」と2011年に書かれた「神様2011」が収められています。いずれも短篇ですので、50ページ足らずの薄い本です。
    「神様2011」の中に、以下のような会話が出てきます。
    「今年前半の被曝量はがんばっておさえたから累積被曝量貯金の残高はあるし、おまけに今日のSPEEDIの予想ではこのあたりに風は来ないはずだし」(26頁)
    放射能は、このあたりにはあまり来ていないだろうと気にしないで、暮らしているのですが、本当は、熊のように、きっちり、測りながら暮らした方がいいのかもしれません。
    川で捕った魚に関しては、
    「魚の餌になる川底の苔には、ことにセシウムがたまりやすいのですけれど」(31頁)
    と言っています。

    ☆川上弘美さんの本(既読)
    「東京日記(2) ほかに踊りを知らない。」川上弘美著・門間則雄絵、平凡社、2007.11.20
    「風花」川上弘美著、集英社、2008.04.10
    「どこから行っても遠い町」川上弘美著、新潮社、2008.11.20
    「これでよろしくて?」川上弘美著、中央公論新社、2009.09.25
    「パスタマシーンの幽霊」川上弘美著、マガジンハウス、2010.04.22
    「機嫌のいい犬」川上弘美著、集英社、2010.10.30
    「ナマズの幸運。東京日記3」川上弘美著・門馬則雄絵、平凡社、2011.01.25
    「天頂より少し下って」川上弘美著、小学館、2011.05.28
    (2011年11月15日・記)

  • 『くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである』-『神様2011』

    川上弘美はやはりしなやかだと思うのである。言いたいことをしっかりと言いながら(けれども、それは、あからさま、ではない)、それでいて言われた側に拒絶反応を起こさせることがない。それを自分は川上弘美のしなやかさだと思うのである。

    反発ということは、文脈によっては物理的現象を指すけれど、心理的にもその類推は成り立つように思う。反発の起こり方は衝突するものの速度と接触する物質の粘性度の高低に依存する。速いスピードでぶち当たれば、たとえさらさらの水であってもコンクリートの壁のように振る舞い激しい反発が起こる。反射係数に速度項が入っている通りである。反射係数は入射角にも依存するけれど、硬い石を投げつけたって速度が十分早ければ角度に依らず跳ね返ることもある。それと同じように強い言葉を投げつければ、心はそれを同じくらい強い気持ちで押し返す。しなやかな言葉だけが心の奥深くまで何かを届けることができるのだ、と思うのだ。蛇足になるけれど、ピントがずれた言葉は角度の浅い入射と同じで容易に跳ね返されてもしまう。

    敢えて、自分自身を世に押し出してくれた作品を書き改めるくらいなのだから、あとがきの中でどう言っていたとしても、川上弘美には何か大きな決意のようなものがあったのだろう、と想像してしまう。それを意識することはかならずしも必要なことではない、というのがあとがきの言わんとしていることなのだと思う。意識する必要がないだろうと思うのは、作品中に埋め込まれた「括弧つき」の言葉が(括弧さえなければ何でもない普通の言葉が)、あたかも別のものに変換してしまって今まで持っていなかった能力を獲得してしまったかのように見え、そして読む者に文脈以上の意味を放射してくるように思えるからだ。そこに敢えて大上段に構えた主張は不要だ。

    日常は、目に見えないもので満ちている。それをただ単に「括弧」でハイライトしてやるだけで、昨日までと何も変わっていないとも見える筈の日常は「異常」となる。しかし「異常」事態も、括弧に慣れ、括弧が取れてくると環境の中に埋もれ、それ程異常なことではなくなってしまう。それがいいとか悪いとか、そういうことではないのだと思うし、そんなことは川上弘美も主張している訳ではないだろうと思う。ただたた異常に括弧を付けるのも付けないのも、日常に溢れている目に見えないものに気付くのも気付かないのも、全て自分の決めることである。

    そんな風に、短篇の文字通りの意味やくまのメタファーの意味するもの(そういえばオリジナルのくまは随分と熊であることの意味が薄くて性的な暗喩が効いているなあと思ったものだったのを思い出した)を越えて、つらつら考えてしまうということ、それこそが川上弘美のしなやかな言葉が深く侵入して来ているということの証なのだと思うばかりなのである。

  • 著者のデビュー作。
    くまと私が散歩するファンタジー。
    熊の神様が印象的。

    微笑ましくて、クスッと笑えるストーリー。
    気軽に何度でも読み返したくなる本。

    非日常体験よりも、
    日常でちょっと楽しかったことを重ねていく方が
    安心して幸せな気持ちでいられる。


    今回、新たに作品が加えられているのだが、
    (タイトル神様のあとに2011が追記されているように)
    原発事故後を時間軸に置かれている。

    同じ登場人物、同じ場所、同じシチュエーション。

    けれども日常そのものが変わってしまった。

    著者のあとがきが印象的。
    「日常は続いてゆく、
    けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう
    可能性をもつものだ。」

  • 静かな怒りが伝わる

  • 2014年の締め括りに改めて読む。
    かの震災から早3年、喉元過ぎれば熱さ忘れると言うがだがそれは被災地復興の労働力を奪うことも知らずにオリンピックだなんだと浮かれている部外者に限ったことであり原発事故が起こった福島の人たちにとっては未だ烈火の塊が喉に詰まったままなのである。
    20世紀の終わりにのほほんと現れてわたしとピクニックをしお土産に干物を残し抱擁をして去って行ったくまが何故また21世紀に現れなければならなかったか?
    目先の利益だけを追い求めるご都合主義の政治家や経済人など放っておいて先ずは私たち一人ひとりがこの国の未来を考えなければならないんじゃないか。
    そんなことも怠り次にまたくまが現れなければならなくなった時、間違いなくこの国は滅びる

  • 2011年3月11日東日本大震災。
    直後、「被災地に対して、自分のできることをする」が流行った。
    正しいと思う、でも、選択肢は多くなかったと思う。
    被災地で身体を使い救援にあたるか、多めのお金を出すか。
    実質的にはこの二つしかなかったと思うんだけど、なぜか芸術系のひとたちの「被災地の人を歌で励ます」的なものが流行って、関東の片隅で、自分は、首を傾げながらも、銭湯に行ったり計画停電に備えたり、自分としてはかなり多めの募金を振り込んだりしていたのだった。

    「結果として励ますことになる」なら良いのだけれど。

    川上弘美はもちろん違う。
    励ましでもなく、説教でもない。

    川上弘美の「神様2011」は、1993年に書かれた「神様」を書き直したもの。同じお話である。
    川上弘美らしい、異空間に読者を連れて行く書き出しは変わらない。
    「熊にさそわれて散歩にでる」。
    しかし、散歩に出たはいいが、2011年では、それが、放射線量マイクロシーベルトを気にしなければ成り立たないものと変わってしまっていた。

    これは結構、心を抉られる。
    これは物語内の日常が変わっただけじゃなく、現実の日常が本当にこうなったわけだから。
    福島だけではない。
    新聞には毎日、各都市の前日のマイクロシーベルトが掲載されている。
    これが2011年3月11日から変わってしまった、私たちの日常だ。

    東日本大震災以前に戻ることはできないけれど、では、私たちはこれからどうしたらいいのか。
    自分はどうするべきなのか。
    いつの間にか異界へ連れ去られている、川上弘美の作風色濃いふうわりとした物語に、大変大変重いものを突き付けられた感じがする。

    私は、放射線量を気にして日常を送りたくはないし、どの人にもそんな日常がこれから起こらないよう、ちゃんと考えたい。

  • 『あのこと』の後から人間の生活、考え方は変わったのだ。

  • 名久井直子さん装丁の美しい本です。
    1993年の神様と2011年の神様、並べて1冊になっています。あの日を境に被災した方々はもちろん、直接には被災していなくとも世界はこんなにも変わってしまったのだということを思わずにいられません。
    それでも日常は続いていくのですね。
    著者によるあとがきも心に響きます。
    「わたしは何も知らず、また、知ろうとしないで来てしまったのだな」
    この言葉を私自身もしっかり受け止めたいと思います。

著者プロフィール

川上 弘美(かわかみ・ひろみ)
1958年生まれ。96年「蛇を踏む」で芥川賞、99年『神様』でドゥマゴ文学賞と紫式部文学賞、2000年『溺レる』で伊藤整文学賞と女流文学賞、01年『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、07年『真鶴』で芸術選奨、15年『水声』で読売文学賞を受賞。ほかの作品に『風花』『どこから行っても遠い町』『神様2011』『七夜物語』『なめらかで熱くて甘苦しくて』『水声』などがある。2016年本作で第44回泉鏡花文学賞を受賞した。


「2019年 『大きな鳥にさらわれないよう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

川上弘美の作品

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