神様 2011

著者 :
  • 講談社
3.61
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本棚登録 : 927
レビュー : 154
  • Amazon.co.jp ・本 (50ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062172325

作品紹介・あらすじ

くまにさそわれて散歩に出る。「あのこと」以来、初めて-。1993年に書かれたデビュー作「神様」が、2011年の福島原発事故を受け、新たに生まれ変わった-。「群像」発表時より注目を集める話題の書。

感想・レビュー・書評

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  • 怒っているのだな、ということがわかる。川上弘美は、怒って、怒りながらこれを書いたのだな。
    だって、くまと散歩して魚をとったりお昼寝したりする、一読してのんびりとも牧歌的とも感じる「神様」を、いくつもある自作の中からわざわざ選んで、そこに、「あのこと」の後の世界を上書きしてしまったのだから。

    読み比べてみればわかる。そこここに彼女が差し込んだ、「防護服」「除染」「被爆許容量」などの、くまと散歩して魚をとる昼寝をする世界とは、明らかに異質な単語。
    3世帯しか残っていないマンション、子どものいない水辺。
    「神様」には出てくるのに「神様2011」には出てこないものと、「神様」にはなかったのに「神様2011」には当然の顔で居座るもの。

    その異質なものが、いつか日常になってしまうことを恐れる。
    今だって、まだ家に帰れない人々、故郷をうちやったままで断腸の人々がいるのに、そこ以外では、停電もとりあえずなくなって日常を取り戻したつもりになっている。原発も放射線も、何も解決などされていないのに。
    その日常に、かつてはSFの中のものだったガイガーカウンターや除染が、言葉としても実質としても、忍び込んでいる。そして忍び込んでいることに慣れてしまうことが怖い。

    人智を超えているからこそ、触れてはいけないものがあったはずだ。今だってあるはずだ。
    ウランは自然界にあって、ウランの神様はいた、ずっといた。触れずにいる間は牧歌でいられたけれど、でも触れてしまった。触れてしまった後の世界になってしまった。
    知りませんでした、で済ませるには、あまりにも大きな破壊、あまりにも長いこの後の何千何万何億年だ。

    それでも、「大いなるよろこび」を信じて最善を尽くしてゆくしか、手だてはない。
    と、くまの、思ったよりも冷たい体温を想像しながら、やっぱり思う。

  • 川上さんのデビュー作「神様」は、くまにさそわれて散歩に出るという不思議で温かくて、なんか哀しくもなる小さな日常のお話だったけれど、それを今年のあの地震&原発事故を踏まえて少しずつ書き変えたら…。 オリジナルの「神様」で、主人公は三つ隣の305号室に引越してきた くまに誘われて散歩に出る。くまは、たぶん少しシャイながら大人の心を持つ、主人公の見方では、昔気質だったり大時代的だったりする くまなのが、ほんのりと可笑しく、でも、くまはくまなのだから、どこかで全ては通じ合ってない、と思わせるところがまた好きだった。
    同じ人間同士だってとことんわかりあえるわけではない、ということ、でも、人間とくまという間柄で始めから何でもわかりあえる存在になれるはずがない、という前提を基に一緒に時間を過ごしてみると、あれこれ気持ちが通い合うところがとても嬉しく感じられ、うん、それでいいじゃないの、人間だってさ、なんて優しい気持ちにもなれたような気がしたり。

    そして、思うことは、タイトルの「神様」ってなんだろう、ということ。
    小さなハイキングの後に、くまが

    「今日はほんとうに楽しかったです。遠くへ旅行して帰ってきたような気持ちです。熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように」と言ってくれ、

    主人公は、眠る前に日記を書きながら

    熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、検討がつかなかった。悪くない一日だった。

    と思うところでこのお話は終わるのだけど、川上さんはこのタイトルで何が言いたかったのだろう、と、これは誰でも思うことだろうけど。

    私は、特定の宗教は持たない、いわゆる一般的な日本人だけれど、神様という存在はどこかしらに感じているように思う。神様=おてんとうさま、と言ってもいいかもしれないけど、(川上さんも後書きに書いてらした。)どこか人間たちの知恵の及ばないところに大きな存在があり、普段は優しく見守ってくれているのではないか、なんとか道を踏み外さないように、言い方は変だけど味方(*^_^*)してくれているのではないか、とも。

    だから、熊の神様もきっとそんな存在で、うん、目には見えないけど、私たちは守られているんですよ、人間だけでなく、熊にもその他の生き物にも、いや、生き物以外にも神様っているんじゃないの? という嬉しさをも含むお話だったのでは、なんてね。

    そして、今回の「神様2011」は、一行目から“防護服”が出てくるという、放射能が蔓延してしまった後の地が舞台になっている。でも本文はほとんどオリジナルと変わらず、だからこそ、ほんの少し折々に差しこまれる異変の描写がとても怖ろしい。
    主人公とくまは、「あのこと」呼ばれる3月11日の前と同じように、ハイキングをし、話し、昼寝をし、抱擁を交わしあう。でも、たぶん、人の心も風景も「あのこと」以前とは全然違ったものになっているのが静かな怒りを持って書かれているのがよくわかる。

    川上さんは、声高に何かを非難してはおらず、ただ、当たり前の生活が奪われたこと、そして、その異常事態である今が既に日常になっている悲しみを描かれている。

    私自身、「あのこと」の後の政府や東電の対応には、腕をブルンブルンと振り回したいほど怒りを覚えているけれど、あの事故そのものについては、人智を越えた災厄という認識を持っている。事故が起こってから、後付けで、あれこれの不備や心得違いがあったことがわかっても、今年の3月11日まではそれでよし、としていたじゃん、私だって、あなただって、と思うから。
    それはもちろん、いくら後悔しても後悔しきれないことで、誰に対しても、御免なさい、御免なさいと言いたくなるのだけど・・・。

    こんな小さなお話が今、大きな評判となっており、売り切れの書店も多々ある、という情報に、なんていうか、まだ日本も捨てたもんじゃないんじゃない?と思えるところが嬉しい。
    それこそ、神様っているんじゃないか、何もしてくれなくていいからいてほしい、と思える、とまで言ったら言い過ぎかなぁ。

  • 前作ができた1993年は私が生まれた年で、「あのこと」がこんなにも風景を一変させてしまったんだなと感じた。『神様』と『神様2011』を読み比べることで、その変化が一層浮き彫りになった。それでも生きるということを熊の神様が静かに投げかけているように感じた。

  •  2011年3月11日に東日本大震災が起こり、川上弘美は3月中にこの小説を書き、自ら出版社に持ち込んだ。掲載されたのは「群像」2011年6月号だから、5月初旬発売で原稿の締切はおよそ4月20日あたり。刊行された小説として福島の原発事故をとりあげた最も早いもののひとつだった。本書にはこの時に発表された「神様 2011」の前に「神様」というタイトルの短編がおさめられている。並置されていると言うのが正しい。ぼくは2012年になったくらいか、当時勤めていた会社の同僚女性に本書を、短いし読みやすいだろうなと考えて、貸した。神戸の出身で阪神淡路大震災を経験していて、東日本大震災のすぐあとに東京へ引っ越してきたひとだった。
     「神様」は川上のデビュー作だ。『神様』(中公文庫)のあとがきから引用する。
    〜” 表題作『神様』は、生まれて初めて活字になった小説である。
    「パスカル短篇文学新人賞」という、パソコン通信上で応募・選考を行う文学賞を受賞し、「GQ」という雑誌に掲載された。
     子供が小さくて日々あたふたしていた頃、ふと「書きたい、何か書きたい」と思い、二時間ほどで一気に書き上げた話だった。
     書いている最中も、子供らはみちみちと取りついてきて往生したし、言葉だって文章だってなかなかうまく出てこなかった。でも、書きながら「書くことって楽しいことであるよなあ」としみじみ思ったものだ。「めんどくさいけど、楽しいものだよなあ、ほんとにまあ」と思ったのだ。
     あのときの「ほんとにまあ」という感じを甦らせたくて、以来ずっと小説を書いているように思う。
     もしあのとき『神様』を書かなければ、今ごろは違う場所で違う生活をしいていたかもしれない。不思議なことである。
     やはりこれもなにかの「縁(えにし)」なのだろう。と、『神様』に登場する「くま」を真似て、わたしもつぶやいてみようか。
    (後略)”
    「神様」の書き出しは、
     
     くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。
    「神様 2011」の書き出しもまったく同じだ。川上はデビュー作を改変して発表した。お茶の水女子大学理学部生物学科を出てから田園調布雙葉高校の理科の先生もしていたひとは、東日本大震災の直後から「原子力」に関する勉強をはじめる。本書のあとがきから。
    〜” 1993年に、わたしはこの本におさめられた最初の短編「神様」を書きました。
     熊の神様、というものの出てくる話です。
     日本には古来たくさんの神様がいました。山の神様、海や川の神様、風や雨の神様などの、大きな自然をつかさどる神様たち。田んぼの神様、住む土地の神様、かまどや厠や井戸の神様などの、人の暮らしのまわりにいる神様たち。祟りをなす神様もいますし、動物の神様もいます。鬼もいれば、ナマハゲもダイダラボッチもキジムナーもいる。
     万物に神が宿るという信仰を、必ずしもわたしは心の底から信じているわけではないのですが、節電のため暖房を消して過した日々の明け方、窓越しにさす太陽の光があんまり暖かくて、思わず「ああ、これはほんとうに、おてんとうさまだ」と、感じ入ったりするほどには、日本古来の感覚はもっているわけです。
     震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうともしないで来てしまったのだな」ということでした。(中略)
     2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様 2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段に構えた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性を持つものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。”
     本書を貸した当時の会社の同僚だった女性は、すこしして、もう一度この本を貸して欲しいと言った。小ぶりで可愛らしい本なのだ。川上はデビュー作を書き換えて、もう一度原点から歩こうと考えたんじゃないかとぼくは思う。原子力開発にまつわる諸問題、あらゆる面からまだいっこも解決していないことを覚えていますか?

  • 有名な原作に加え、先の震災を踏まえリライトした2011版の計二作が収められた本。
    高校時代、現代文の問題集で原作に出会って以来、通しで読みたいなあと思いながら5、6年。ようやく本棚に並ぶ姿に惹かれて手に取ったわけだけど、完全に消化不良感。あの頃、2011版は世に出てなかったのかと思うと、不思議な気持ち。
    読み手の受け取り方も大きく変わるだろうに、原作を書きかえる。二作並べて本にする。この作品を肯定も否定もできないけど、その決断を実行した作者の思いがあるってことは心のどこかで覚えていたい。

  • 1993年に出された短編『神様』と、2011年の3月末にあらためて書かれた『神様2011』が収められている。

    『神様』~「くまにさそわれて散歩にでる」から始まる、懐かしい風景と慣習、どこにでもある日常とそれをくまと過ごす不思議が描かれている。
    熊の神様ってどんなものかと考える主人公とともに生活のなかにいる「神様」について想いをめぐらすことができる。

    『神様2011』~『神様』と設定とストーリーは同じだけれど、「あのこと」の後だとわかるように書きなおされている。

    ふたつの作品ともすばらしいけれど、それより「あとがき」が圧巻だと思う。理系女子の川上さんらしく原発のウランの話が文学的に紹介されていて、そこに出てくる「ウランの神様」へ想いをはせることで、人間のエゴに対する静かな怒りが感じられる。

    日常は一見かわらず続いているようにみえているのに、ほんの少しのことで大きく変わり、とりかえしがつかない道を歩み始めてしまう。
    それを選択しているのは自分自身にほかならないと。
    そしてどうにもならない状況になったとしても、生をなげだすことは、自分自身に対する一番の背徳であると、言葉を尽くしている。
    P44だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。

    この本を紹介してくださった方、どうもありがと~~感謝!してます。

  • 「くまにさそわれて散歩に出る。」
    想像をかきたてる印象的な冒頭。
    ほのぼのとしているのに、どこか切ない雰囲気のただよう不思議な物語。
    「あのこと」以前には、非日常とされていたことが日常になってしまう哀しさ。慣れてしまうことの恐ろしさ。

  • 怒っているのだ、この人は。福島原発の事故に、デビュー作を書き直すという表現で静かな怒りの声を上げた。そしてとても深く、半減期のない悲しみを。元の作品と、手を加えた作品がともに収録されている。身を守るため放射能に詳しくなっていく。でもそれは際限ない喪失感と裏表の関係であると教えてくれる。

  •  川上弘美が福島原発事故を受けて、デビュー作『神様』を書き直したという話題は知っていた。本屋でたまたま見つけてその薄っぺらさにびっくりしたが、迷うことなく購入した。どちらも、初めて読む。
     熊との会話も自然で違和感はない。熊の神様というのも分かる気がする。大きくて獰猛で、しかし憎めない動物だからか。アイヌは熊を崇拝したというが、アイヌの人々は人間の卑小さを直感的に知っていたのかもしれない。自然の恵みに感謝していたからこそ、熊を神と崇めたに違いない。著者があとがきで書いているように、自然とともに生きていた日本人は、万物に神が宿ると信じていた。自然に対する畏怖の心を忘れるとどんなことが起こるかを、3.11の原発事故は突きつけたとも言える。石原慎太郎の言う意味とは違って、<罰が当たった>のかもしれない。
     そう言えば、中沢新一と内田樹が、原発を<一神教的技術>であり、<荒ぶる神>だと指摘していたことが思い出される(『大津波と原発』、『日本の大転換』、『日本の文脈』)。
     熊の神様の背後に、ウランの神様がいることを忘れていたと感じて、川上弘美は書き直しを思い立ったのではないかと、勝手に考えたりもした。

  • 神様
    神様2011


    熊の神様って、やっぱり熊なのかな?

  • これを読んで、
    作者が「何かを書かなければいけない」
    と思ったことだけは間違いありません。
    「原発は神」と言った、内田樹と重なりました。
    311以降、これ、っていう311の作品に、
    まだ出会っていません。そのことを、
    この作品で強く思いました。
    「神様2011」は、
    川上弘美の全作品を駄目にしたと同時に、
    今後、書かれる新しい川上作品の序のように思います。
    最低な作品であり、今後のための記念の作品でもあるという、
    妙な感じを持ちました。
    誰もが駄作を作らないと、
    311は書くことができないと思っています。
    まだ、誰も311を書くことはできない。
    時間がかかる。
    これからです。
    原発事故が戦争である、
    ということを痛感した作品です。
    (伊藤比呂美の傑作のあとに読んだので、ちと、辛口になりました)

    • 小久保圭造の本棚さん
      kutsushitaさんへ
      コメント、ありがとうございました。
      「小説でまで地震について考えることが嫌いで避けてきました」
      おっしゃる...
      kutsushitaさんへ
      コメント、ありがとうございました。
      「小説でまで地震について考えることが嫌いで避けてきました」
      おっしゃる通りです。お気持ち、お察しいたします。申し訳ありませんでした。
      2011/12/13
    • 小久保圭造の本棚さん
      了解です。ホッとしました。
      重ねての、
      コメント、
      ありがとうございました。
      了解です。ホッとしました。
      重ねての、
      コメント、
      ありがとうございました。
      2011/12/15
  • (2011.10.18読了)(2011.10.18拝借)
    【東日本大震災関連・その30】
    「神様」「椰子・椰子」などを読んで、川上さんにはまりました。
    それ以来、川上さんの本は大体読んできました。
    「神様2011」は、「神様」を福島原発事故後の世界に置き換えてみた作品ということです。
    ほとんど変化がないとも言えるし、たいへんな世界になってしまったとも言えます。
    それでも、人間は、生きていかなければ、生活していかなければなりません。「神様2011」は、そう言っているのかもしれません。

    この本には、1993年に書かれた「神様」と2011年に書かれた「神様2011」が収められています。いずれも短篇ですので、50ページ足らずの薄い本です。
    「神様2011」の中に、以下のような会話が出てきます。
    「今年前半の被曝量はがんばっておさえたから累積被曝量貯金の残高はあるし、おまけに今日のSPEEDIの予想ではこのあたりに風は来ないはずだし」(26頁)
    放射能は、このあたりにはあまり来ていないだろうと気にしないで、暮らしているのですが、本当は、熊のように、きっちり、測りながら暮らした方がいいのかもしれません。
    川で捕った魚に関しては、
    「魚の餌になる川底の苔には、ことにセシウムがたまりやすいのですけれど」(31頁)
    と言っています。

    ☆川上弘美さんの本(既読)
    「東京日記(2) ほかに踊りを知らない。」川上弘美著・門間則雄絵、平凡社、2007.11.20
    「風花」川上弘美著、集英社、2008.04.10
    「どこから行っても遠い町」川上弘美著、新潮社、2008.11.20
    「これでよろしくて?」川上弘美著、中央公論新社、2009.09.25
    「パスタマシーンの幽霊」川上弘美著、マガジンハウス、2010.04.22
    「機嫌のいい犬」川上弘美著、集英社、2010.10.30
    「ナマズの幸運。東京日記3」川上弘美著・門馬則雄絵、平凡社、2011.01.25
    「天頂より少し下って」川上弘美著、小学館、2011.05.28
    (2011年11月15日・記)

  • 作家の生き様を見た気分になった。本は薄いが、中身は深い。

  • 「神様」を、「あのこと」をふまえてリメイクすると……こうなるのね。「神様」は牧歌的でほんわかとした物語だと思うのだけれど。「あのこと」を要素として投入しただけで、一気にシュールでシビアな光景になってしまいました。でもこれが現実なんだね。
    神様というものがいるならば。世界はいつか元通りになるのでしょうか。

  • 『くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである』-『神様2011』

    川上弘美はやはりしなやかだと思うのである。言いたいことをしっかりと言いながら(けれども、それは、あからさま、ではない)、それでいて言われた側に拒絶反応を起こさせることがない。それを自分は川上弘美のしなやかさだと思うのである。

    反発ということは、文脈によっては物理的現象を指すけれど、心理的にもその類推は成り立つように思う。反発の起こり方は衝突するものの速度と接触する物質の粘性度の高低に依存する。速いスピードでぶち当たれば、たとえさらさらの水であってもコンクリートの壁のように振る舞い激しい反発が起こる。反射係数に速度項が入っている通りである。反射係数は入射角にも依存するけれど、硬い石を投げつけたって速度が十分早ければ角度に依らず跳ね返ることもある。それと同じように強い言葉を投げつければ、心はそれを同じくらい強い気持ちで押し返す。しなやかな言葉だけが心の奥深くまで何かを届けることができるのだ、と思うのだ。蛇足になるけれど、ピントがずれた言葉は角度の浅い入射と同じで容易に跳ね返されてもしまう。

    敢えて、自分自身を世に押し出してくれた作品を書き改めるくらいなのだから、あとがきの中でどう言っていたとしても、川上弘美には何か大きな決意のようなものがあったのだろう、と想像してしまう。それを意識することはかならずしも必要なことではない、というのがあとがきの言わんとしていることなのだと思う。意識する必要がないだろうと思うのは、作品中に埋め込まれた「括弧つき」の言葉が(括弧さえなければ何でもない普通の言葉が)、あたかも別のものに変換してしまって今まで持っていなかった能力を獲得してしまったかのように見え、そして読む者に文脈以上の意味を放射してくるように思えるからだ。そこに敢えて大上段に構えた主張は不要だ。

    日常は、目に見えないもので満ちている。それをただ単に「括弧」でハイライトしてやるだけで、昨日までと何も変わっていないとも見える筈の日常は「異常」となる。しかし「異常」事態も、括弧に慣れ、括弧が取れてくると環境の中に埋もれ、それ程異常なことではなくなってしまう。それがいいとか悪いとか、そういうことではないのだと思うし、そんなことは川上弘美も主張している訳ではないだろうと思う。ただたた異常に括弧を付けるのも付けないのも、日常に溢れている目に見えないものに気付くのも気付かないのも、全て自分の決めることである。

    そんな風に、短篇の文字通りの意味やくまのメタファーの意味するもの(そういえばオリジナルのくまは随分と熊であることの意味が薄くて性的な暗喩が効いているなあと思ったものだったのを思い出した)を越えて、つらつら考えてしまうということ、それこそが川上弘美のしなやかな言葉が深く侵入して来ているということの証なのだと思うばかりなのである。

  • 「神様」は、ほわーんとしたメルヘンチックな作品で、取り立てて大事件が起きるわけでもない、ほのぼのとした物語です。それが「神様2011」になると、ほとんど同じストーリーなのに、物語ちょっとしたところに3・11が顔をのぞかせてきます。些細なこととして流せるようでいて、決して流せない、些細なくせに妙に引っかかって気になってしまう。ちょうど歯に挟まった小骨のような3・11。恐らく被災された方々は、なんてことないように暮らしているけど、こういうチクッチクッとした日常の違和感にさいなまれながら暮らしているのでしょう。「この地域に住みつづけることを選んだのだから」(P.35)という言葉が胸に突き刺さります。

  • 高橋源一郎『恋する原発』の「震災文学論」で紹介されていて興味を持ちました。川上弘美さんの小説はほとんど読んでいるつもりだったけど、なぜかこれは抜け落ちていたようで。

    「神様」は1993年に書かれた川上弘美のデビュー短編。しかし2011年に「あのこと」が起こり、リメイクされたのがこの「神様2011」。ハードカバーだけどとても小さなこの本には、この2作が両方収録されている。牧歌的な1993年の神様に比べ、2011年の神様はディストピア的だ。もはやそこに子供はいないし、くまが獲ってくれた魚は食べられない。

    余談ながら高橋源一郎が「震災文学論」で紹介していたのはこの「神様2011」と、石牟礼道子「苦海浄土」、宮崎駿「風の谷のナウシカ」で、震災文学論とはいえ、実はこの3作いずれも天災ではなく人災を扱っていることに今更気づく。苦海浄土は水俣病、ナウシカは核戦争後の地球、そして神様2011は、地震でも津波でもなく原発事故を。

    あとがきで作者が書かれている「静かな怒り」がひたひたと伝わってくる。そしてその怒りは「最終的には自分自身に向かってくる怒り」だということも。自分に何ができるのか、何をするべきか、改めて考えさせられます。

  • 神様 のほんわかした感じがすき。このくま、すき。

  • ふんわりとしていて涙を誘う、貴方と言われることを好む心優しきくまの世界が、「神様2011」では、変化していた。

    「食べないにしても、記念に形だけ」になってしまった魚の干物。
    この地域に住み続けることを決めた上でのくまとの抱擁。

    心の中に悲しみと、どこにぶつけたらいいのか分からない怒りが沸々と生まれる。
    一度起こってしまい、失われてしまった自然はもう元には戻らない。
    こうして二つの物語を読み比べることにより明らかになる差に衝撃を受けてしまった。

  • 「神様」は以前読んだときと同じく、不思議でぽかぽかしたお話で好きでした。
    「神様2011」と並べられることで、「あのこと」が起こって変わった日常と、それでもここで生きていくわたしのくまとのひとときが心に迫ってきます。
    2011年からは何年も経ちましたが、薄れさせてはならない思いです。
    あとがきも好きです。

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著者プロフィール

川上 弘美(かわかみ・ひろみ)
1958年生まれ。96年「蛇を踏む」で芥川賞、99年『神様』でドゥマゴ文学賞と紫式部文学賞、2000年『溺レる』で伊藤整文学賞と女流文学賞、01年『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、07年『真鶴』で芸術選奨、15年『水声』で読売文学賞を受賞。ほかの作品に『風花』『どこから行っても遠い町』『神様2011』『七夜物語』『なめらかで熱くて甘苦しくて』『水声』などがある。2016年本作で第44回泉鏡花文学賞を受賞した。


「2019年 『大きな鳥にさらわれないよう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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