一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (266ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062173988

作品紹介・あらすじ

民主主義は熟議を前提とする。しかし日本人は熟議が下手だと言われる。だから日本では二大政党制もなにもかもが機能しない、民度が低い国だと言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちは、もはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。そして、もしその構想への道すじがルソーによって二世紀半前に引かれていたのだとしたら、そのとき日本は、民主主義が定着しない未熟な国どころか、逆に、民主主義の理念の起源に戻り、あらためてその新しい実装を開発した先駆的な国家として世界から尊敬され注目されることになるのではないか。

感想・レビュー・書評

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  • <要約>
    「熟議」だけが理想とされる民主主義の限界を、Googleなどのネットワークによって見えるようになった「一般意志2.0」を使ってツッコミを入れ、風通しをよくしましょう、という話。行き着く先は、個々人の世界に対する考えに折り合いをつけながら実現される社会ではない。個人の信条は、個人の領域にとどめられる社会になる。

    「熟議」は人間の理性を信用して、話し合いでよりよい世の中にしていこうという考えで、それはとても大切なことである。しかし同時に、動物的反応が社会に影響を与えることも(極端なナショナリストなど)また真実で、それを押さえようとしてもムダ。各々の思想を政治的にコントロールするのは不可。

    様々な思想を持つ人がバラバラのまま存在する、という状態が理想的とした人が、ローティ。相対主義者。しかし、相対主義というのは矛盾を持つもの。相対的で居なさい!と人に押し付けることが出来ないから。そして彼はこれに耐えることこそが重要だと考えた。「神の存在を信じながら、神の存在を信じない人との対話を続けること」つまり、自分と違う人との対話を諦めない。イデオロギーが違う人とでも、時々、場当たり的に「想像力」によってつながれるはず。(これは動物的反応とも言える)これが一般意志2.0の世界。

    ルソーの言う「一般意志」とは、数学的な存在であり、その意志を適切に実現することが出来る者を政治の執行者とすればよいと考えたため、民主主義でも、王権でも、独裁でもよいということになる。東さんの提案では、ルソーの言った一般意志は、ネットワーク技術の発達によってかなり高精度で可視化できる。人々の欲望を無駄なく計算することが実現可能になるのでは?それを可視化し、熟議の場で利用すればよいのでは?ということ。(彼はニコニコ動画等でそれを実践している)

    フロイトが言う「無意識」の発見は、革新だった。フロイトは、無意識を認めた上で、意識の上で、いかに飼いならすかを考える必要がある。これは、熟議(=意識の世界)の中で、いかに一般意志(=無意識)をコントロールするか、という考えとつながる。

    <思ったこと>
    「日本人は話し合いが下手だが、代わりに空気が読める」という言葉があった。ニコ動のコメントを読むこと等の例が上げられていたが、日本人らしい政治のあり方についてもう少し知りたくなった。ローティーの思想を聞いて、村上春樹の「説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ」というセリフを思い出した。「神の存在を信じながら、神の存在を信じない人との対話を続けること」この言葉には何故か無性に感動した・・・

    一般意志=数学的・動物的・ベクトル的・無意識的・バラバラのまま存在・ルソー的・ロールズ的

    熟議=コミュニケーション的・理性的・スカラー的・合意形成・カント的・ヘーゲル的

  • 成田悠輔による『22世紀の民主主義』を思い出しながら読んだ。ルソーの社会契約論を基礎に、独自の論理を展開していく。頭の体験というか、心地良い脳の疲労感が知的充足感を齎す良い読書体験。

    スコットペイジの多様性予測定理。集団の多様性が高ければ高いほど、集合知の精度が上がる。一般意志についてのルソーの主張はその定理と全く同じことだという。三人寄れば文殊の知恵、と言えばピンと来るが、問題は議論の展開方法、結論の絞り込み方だ。叩き台があるかどうか。あるいは、多数決、熟議。それらをアナログかデジタルで処理するかという話だ。論点はボンヤリ分かる。しかし、データベースを活用したとて、アナログな手法との違いは規模感と処理速度の差異程度。ルソーが社会契約論で述べる立法者とは、一般意志を掴み、制作や制度として具体化可能な一部の天才。独裁者がその役目を務めること。他方、データベースとアルゴリズムであれば人は不要と著者は言う。成田悠輔に発想が近い。しかし、両者とも、では実務的にアルゴリズム開発に人が介入する点に触れていない。自動生成したアルゴリズムを多数決というアルゴリズムで自動選択し決定するという事だろうか。無理がある。

    結局、政治とは境界、属性ごとに利害調整を行う場合に必要となる意思決定、決定事項の渉外代表機能だ。つまり、内政と外交が政治機能に求められるわけだが、その一般意思反映に民主主義が取り入れられ、選挙制度がある。しかし、データは内政にはある程度活用できても、外交は難しいだろう。実務想定をするなら、例えば、外国と相互にデータベース間で利害調整をする場合、領土問題をどう解決するのか。自国優位にアルゴリズムを調整したくもなるし、それだから、境界単位が異なれば、別の論理、別のアルゴリズム、纏まらない一般意思という事なのだ。その点では、カールシュミットの政治論の方が地に足が着いているし、データベースに夢を求めるには、まだ、論理薄弱ではないのか。

  • グーグルで「百獣の王」を検索すると、候補としてあがってくるのは、ライオンでも他の猛獣でもない。「武井壮」という芸人である。「百獣の王」といえば昔はライオンだったかもしれないが、今は武井壮である。さらに年月がたてば別の物に変わるだろう。多くの人が今まさに見たいと思っている「百獣の王」を、グーグルはかってに判断して見せてくれるのだ。アマゾンが検索履歴をもとにおすすめを知らせてくれるサービスとも似ている。

    多くの人が思っていること、それが一般意思である。誤解の多いこのルソーの言葉が、ネット社会の成立により、ようやく可視化されたとするのが本書の主張。みんながやりたいことを思い思いに話し合い、1つの結論に達する。そんな合議的な民主主義は、もはや限界に達している。政治的無関心はそこから生まれる。それをこえる政治・社会の在り方を提示する。

    要するに、ルソーの一般意思を現代のネット社会と接続するものである。アメリカやフランスなどでは、こんな風に古典的な著作を大胆に読み替えて、アップグレードすることが少なくない(日本では一字一句を忠実に読んで、訓詁学みたいになる)。それは拡大解釈、あるいは誤読ともいえるが、ある意味では、刷新、創造といもいえる。

    後半、やや失速気味。ルソーを何らかの形で最後まで使えたら、作品としての完成度はさらに上がったかもしれない。

    装丁が良かった。

  • 「思想」という概念に距離を置いて生活している身としては、読むのに集中力を要した。逆を言うとそこまで読まされた感もある。筆者も述べていたが、『一般意思2.0』 に対する『新しい民衆主義の提案』としての世間の期待、そしてそれに基づく誤解に対しての、説明に時間を割いていた感じがする。確かに、結論だけを簡潔にまとめると そのようにはやとちりする人も出てくるだろうが、東氏の著書の多くがそうであるように、結論(本人の言葉では”エッセイ”)は奇抜であったり、熟議の背景を持っていない がために、軽く感じられたりするのだが、その反面その説明が素人にも大変理解し易いように、繰り返し、判りやすい例を引いて解説している。だから、東氏の著書は私に
    『集合知』をいかに一般意思として民主主義に反映させるか、その一つの提案をされているが、一見軽すぎるとみる過去の政治慣習を背負った人たちも多いだろうが、聞き、想像するに値する発想だと思う。

  • ルソーの理想とした一般意志に基づく政治を、現代のウェブを用いて実現できないか、その可能性を探る内容です。そしてそれが実現したとき、ウェブが政治的なものの定義を変える可能性を示唆しています。
    著者はルソーの思想を、敵味方をつくるカールシュミット的全体主義とは別だといいます。一般意志はコミニュケーションレスな数理的なものだと。また、当然コミニュケーションを排する点でハーバマス的な熟議民主主義も否定します。ここにジャン・ジャック・ルソー問題が解消されます。そのうえで、グーグルによる検索、ツイッターによるつぶやきの発信など、無意識に近いかたちで人々が行ウェブ上の操作を一般意志の形成に役立てようというのです。
    この思考の根底にあるのは既存の政治的常識を超えた価値一般の否定です。人はいくら議論しようが分かり合えない、理性は利害を乗り越えられない、市民が高い意識によって政治に関与することはない。そういった19世紀から20世紀にかけ隆盛した価値観の否定を受け入れられるか受け入れられないかで、本書の評価が分かれているように見えます。そして、ネットツールの話などが大変今時で目立っていますが、そんな手段の追求は枝葉のはなしであり、既存の価値観を変える選択を我々が決断するか否か、またするとしたらいかに政治的なものを再構築していくかを考えなければなりません。ツールがあるから乗っかろうではなく、論じる順番こそ重要だと思いました。

  • 「本」に連載中に読んでいたので再読になるが、面白い論考だ.p151にある選良主義者と熟議主義者の主張はそのまま自民党と民主党の姿になるが、彼らの主張は現実には機能しないことは納得できる.そこで、ルソーの「一般意志」をIT社会に当てはめると何故かしっくりするという議論だ.「総記録社会」の現代は無意識のうちにデータが集約される訳だから、このビッグデータを使った政治体制の模索を試みている.最終章の100年後の政府は治安維持と防衛だけを担当しているだろうという予測は同感だ.

  • あずまんの社会システム設計論は「リアルのゆくえ」で垣間見ていましたが、ついに読みました。端的に言ってこわかった。「夢」というポジティブな言葉を使うし、学術的なはなしを入れているようにも見えるし、ファシズムとはちがうんだと強調するし、いろいろな予防線を貼りまくってはいるのですが。もうあずまんって、人間と社会にほとんどなんの期待もしてないんだろうなとひしひしと感じさせられた。エリートとは言わず「選良」というわりと馴染みのない言葉を使うし、はっきりと明言はしないんだけれども、明らかに強固な愚民観に裏打ちされたこの社会デザイン。読んでいてとても悲しい気持ちになりました。倫理とはなんなのか。もしかしたらポストモダン的な徹底の先になにがあるのか見せようとしているのかもしれない。これがいやなら、じゃあどうするのモダンにもどるの戻れるの?って言われてる気分。

  • 間あいちゃって分かんなくなって2回読むという。発想がおもしろい。馬鹿にも分かるように書いてくれててありがたかった。

  • 本書はこれからの政治の在り方はどうなるか、国家はどう機能していくかが書かれている。主旨としては、一般意志2.0という、ウェブ2.0より生じた巨大な無意識の個人個人の意見を尊重していくというもの。またルソーの人物像についても触れていて、ヲタク気質という表現が新鮮だった。

    ただ単に、人々の無意識のデータに頼った政治ではなく、必要に応じては指南役が必要になり、その両輪が必要ということであって、無意識データに頼りきったみんなの政治が良いとは限らないとも述べられている。

  • ルソーのいう「一般意志」は、討議を介した意識的な合意ではなく、情念溢れる集合的な無意識を意味しているという大胆な解釈を打ち出し、その「一般意志」は情報技術の発展により現代では「可視化」できるようになったので、その可視化された「一般意志」=「データベース」を制約条件として熟議と補いながら統治に活かしていくべきという内容。データベースを熟議を補うものとして統治に取り入れるということには賛同するが、データベースを社会の集合的な無意識=「一般意志」と高く評価する点には疑問を感じた。これまでの民主主義にとってかわるようなものがツイッターなどの呟きのデータベースにあるとはとても思えない。特に政治についての呟きは結局一部の人間だけが盛り上がっているだけであって、大衆全体の無意識が反映されているとはいえないのではないか。

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著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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