今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇

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  • 講談社
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感想 : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (370ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062180115

作品紹介・あらすじ

戦後文学とはなんだったのか。タカハシさんの長い思索に思わぬ中断をもたらした3・11。強制終了された戦後、発見したものとは!

感想・レビュー・書評

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  • あの傑作『日本文学盛衰史』(https://booklog.jp/users/yamaitsu/archives/1/4062747812)の続編=戦後文学篇。前作ほどの目からウロコ感はなかったけれど、それなりに面白かったです。

    最初のほうは、大学講師をしている著者の実感と思しき、いまどきの若者が、著者世代にとって常識である作家の名前や作品などを全く知らないという事象から、しかしそれを不安視するというよりは、彼らなりの感性でそれらを読みとくことの面白さのほうに着目している感じ。そして『「純文学」リストラなう』では、文学界(だけでなくひいては出版業界)の現状の悲惨さと未来への希望を。

    4回にわたる『サイタマの「光る海」』では、『SR サイタマノラッパー』という映画が良かったという話からなぜか石坂洋次郎論へ雪崩れ込む。しかしここで、連載中に2011年3月11日を迎えてしまい『タカハシさん、「戦災」に遭う』が始まる。著者は震災後の世界を戦後と重ね、震災被害を戦災と呼んでいる。あのとき何かがズレてしまった感じ(SFでいう時震と著者は重ねあわせている)とてもよくわかる。

    ※収録
    プロローグ 全身小説家/ラップで歌え、サルトル!/今夜はひとりぼっちかい?/政治家の文章/twitter上にて/twitter上にて・続/「革命」について/「純文学」リストラなう/アナーキー・イン・ザ・JP/サイタマの「光る海」①~④/タカハシさん、「戦災」に遭う①~③/エピローグ なんでも政治的に受けとればいいというわけではない

  • 日本文学を巡る破天荒な長篇小説として話題を集め、伊藤整文学賞を受賞した「日本文学盛衰史」の続篇。
    前作で度肝を抜かれ(こんなのアリ? という意味で)、本作も面白く読みました。
    内田裕也が登場するわ、ラップやパンクが出て来るわ、ツイッターで小林秀雄や大岡昇平、石川啄木、中原中也が出てきてつぶやき出すわ、終盤は東日本大震災についての論考、さらに震災と原発事故に材を取った短編と、相変わらず自由奔放。
    次は何が飛び出すかのかとワクワクしながら読みました。
    ところで、ぼくは著者の文学観が好きです。
    本作には、こんな記述があります。
    □□□
    なになに? 
    文学者はそんなつまらないことはしないって?
    その代わりに、もっと高尚なことをするって?
    たとえば、小説を書くこととか?
    そんな「常識的」なことをいってるからダメなんだ。
    そんな「健全」なことをいってるからダメなんだ。
    なぜなら、おれの考えでは、文学というものは、なにより、
    真面目な人間(読者)を困らせるもの、
    そんなものと付き合ってることが知られると恥ずかしいもの、
    消費も消化も理解もできないもの、
    見て見ぬふりをしておきたいもの、
    であるべきなんだ。
    いままでもそうだったし、いまも、これからも、そのことに変わりはない。
    それが、文学というものの、いちばんわかりやすい「あり方」なんだ。
    そして、それは、要するに、
    内田裕也みたいなもの、
    ってことなのだ。
    わかりやすい説明でしょ。
    □□□
    文学とは、内田裕也みたいなもの。
    胸を撃ち抜かれました。

  • 高橋源一郎の本は、およそ出たものはほぼすべて買って読んでいる。その行動の元には、読者として、著者との間に信頼関係が成立していたように思う。タカハシさんの思想信条と自分のそれとは少し違うところがありそうなのだけれども、作者と読者の信頼関係はやはり続けていけそうな気がする。それがこの本を読んだ感想でもある。

    本書は『日本文学盛衰史 戦後文学編』と銘打たれている。2001年に書かれた『日本文学盛衰史』は、夏目漱石や樋口一葉が登場するポップな小説だった。一方、続編のようなタイトルのこの本は、最後の章が小説風な形を取っているが、評論調の文が並び、明らかに『日本文学盛衰史』とは異なるフォーマットである。そうなった裏には、続編となるべきこの本を、かつてのように小説の形を借りて書くことができなかった理由があるように感じた。

    タカハシさんは、この本で戦後文学を語ることによって、いわゆる「文学」の死を看取る覚悟をしながら書いているのではないか。

    「誰かが、「文学は終わった」といって、そういう言い方もあるのかも、と思ったのは、少し前のことで、ほんとうはそんなことを信じてはいなかった。
    けれど、目の前にいる善男善女たち、この世の中に生きとし生けるほとんどの人たちにとって、「文学」なんかもう存在しないのかもしれない。
    理由は簡単。
    その人たちは、「文学」なんか、きれいさっぱり必要としていないのである。必要としていないから、見えないのである。見えないから、存在していないのと同じなのである」

    タカハシさんは、一応の皮肉を込めてそう言うのだけれども、そう言われるまでもなく「文学」の社会の中での位置づけが変わってしまったことは誰もが否定できない事実だ。『日本文学盛衰史』と銘打つ本書はそのことに目を背けることはしない。なにしろ「盛衰記」であるからには、その隆盛から衰亡までを描くものであるからだ。そしてむしろ、その状態からこそ「文学」は新たに培養されて違う形として再生されうるものであるのかもしれないからでもあるからだ(たぶん)。

    ジブリの宮崎駿監督が、「一つのジャンルは、持っても五十年です。五十年で、どんなジャンルもその生命を終えるのです。日本のアニメは、ぼくで終わりです」と語るとき、タカハシさんは「文学」というジャンルのことを思う。日本近代文学というジャンルでいうと、それが『浮雲』に始まったとすると、戦前に書かれた『墨東奇譚』と『雪国』で終わったという。それはあの戦争とは関係なく、戦後の歴史にも関係なく、いずれにせよ終わる運命であったのではないかと。

    そして今、「文学」は商品として消費されなくなった。消費は、「コンテンツ消費」と「コンテクスト消費」に分けて考えられる。そして「文学」はつねに「コンテクスト消費」されてきたのではないか。「戦後文学」というコンテクストの上で、あのころの小説は読まれ(消費され)てきた。そして、その「文学」が依って立っていたコンテクストが失われてしまったのが現在なのではないか。
    そのことをタカハシさんは、別の表現で次のように述べる。

    「実は、なにかを「読む」ということは、個人が、単独で、机の上に向かってすることではない、ということに、ぼくは気づいていなかったのだ」

    そうではなく、「『みんな』が『読む』」が最初にあっるのだ。

    タカハシさんは、「近代文学」や「現代文学」というものは、一時の流行であり、いつのまにか終わる運命なのかもしれないと気づく。「近代文学」や「現代文学」というサブカテゴリーだけでなく、「文学」そのものも、もしかしたらそういうものなのかもしれない。さらには「本」というコンテンツ自体も終焉を迎えるのかもしれない。タカハシさんは、愛する「文学」の「最後の日」を遅らせたり、回避したりするために、その理由を知りたいと思う。もしかしたら、その欲求は「文学」の運命を甘受するためなのかもしれない。それが、あえて石坂洋次郎の小説をあえて取り上げる理由であるのかもしれない。

    石坂洋次郎の小説(『青い山脈』など)は、この本に引用されている部分を少し読むだけでももう読めない、と感じる。その読めない小説がかつては売れていたという事実に対してわれわれは謙虚でなくてはならない。もちろん戦後文学とは野間宏、太宰治、武田泰淳、などを挙げてもいいのだろうが、高橋さんはこの奇妙な、そしてかつては一般的に受け入れられていた(端的に売れていた)石坂洋次郎に拘る。

    そして石坂洋次郎の小説だけではなく、タカハシさんは相変わらず、いろんなものに「文学」を見つけ出す。ただ、この本ではそれらを恐る恐る手にとって、これは「文学」だよね、たぶん、といった感じで扱う。その感じは、何かに抗っているようにも見える。

    井上光晴の小説
    野間宏の小説
    内田裕也の東京都知事選立候補者政見放送(!)
    小説家 武田泰淳の文章
    Twitterでのつぶやき
    セックスピストルズの歌詞と「死ね死ね団のテーマ」の歌詞
    石坂洋次郎の小説
    宮崎駿監督の作品
    そして、原発事故

    ふと思う。「戦後文学編」という副題。そうなのだ、「戦後」つまり戦争がキーワードなのだ。常にそこには「戦争」との関係性があった。タカハシさんは、震災のことを「この戦争」と呼んだ(『「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3』)。本書でも、震災がいくつもの意味でタカハシさんの考えに影響を与え、行動に影響を与えたことが書かれている。そして、きっとそのときに改めて「文学」がすでに衰亡して久しいことに気が付いてしまったのかもしれない。それが、震災についてこの本の中でも語る理由でもある。

    「「揺れた」のは、地面だけではない。あらゆるものが「揺れた」のである。」

    「揺れた」ことのひとつは、「正しさ」についてだった。
    タカハシさんが教壇に立つ大学で、行われることのなかった卒業式での卒業生へ送る言葉では、『正しさ』への同調圧力へ抵抗することを強調する。

    「「正しさ」の中身は変わります。けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。...「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません」

    この感動的なスピーチの全文をタカハシさんはTwitterでツイートした。これは広く読まれるべきものだと思う。
    http://togetter.com/li/114124


    そして、もうひとつの「揺れた」ことは、「死」についてであった。
    タカハシさんは、父や母の死体を見て、「「意味」というものが急速に失われてゆく」瞬間を目撃したという。
    そして、タカハシさんは震災という非常時において、言葉を失った。
    死において戦争と死者を結びつけるとき、死に向き合うということ、そして将来の死者である自己に向き合うことを高橋さんは考えていたのだと思った。震災の後に言葉を失ったと告白するタカハシさんは、すでに理解をしていたと感じていた死に対して、ちっともそんなことはなかったことを痛感をしたのかもしれない。その態度は決して世が強いる「正しさ」を前にした自粛による言葉の喪失とは違うものだ。

    「正しさ」の中身については、ハンナ・アーレントをやや批判的に引いたツイートもある。ホロコーストの問題は「正しさ」と「死」とをつなぐ歴史的な事実でもある。
    https://togetter.com/li/267309


    エピローグのタイトルは、「なんでも政治的に受けとればいいというわけではない」となっている。
    そして、「あずみ」をモチーフにしてドタバタ劇が続く。その中に、いろいろとタブーとされるものを書き込んでいく。思えばタカハシさんは、デビュー作『さようなら、ギャングたち』以来、こういう小説を書いている。この本のこの部分を読んで、初めてタカハシさんの意図が少しだけ分かったような気がした。

    そして、小説の意味や作者の意図などを尋ねる人たちに対して次のように続ける(【】内は太字強調)。

    「なぜ、このような認識の相違が、作者と読者の間に生まれるのか、わたしにとっても、長い間、謎であった。
    もしかしたら、【そこにはないもの】を読もうと、無駄な努力をする人びとが多いからではないか。たとえば、【意味】とか。
    誰かの伝記を読む。そして、深い感動と共に、こう呟く。
    「なんと豊かな人生なんだろう」
    【間違ってます。「人生なんてありません。】ある人が、何十年にわたって、なにかをした、という事実があるだけ。でも、それではつまらない。だから、ないものをあることにするのである。【そういう意味では小説家たちもずっと犯罪に加担してきたのだ。】
    小説には【メッセージなんかない。モデルもいない。現実とはなんの関係もない。】そのことは、小説家なら、みんな知っている。...
    【なにをやっているのかやっている当人にもわかりません。楽しいからなんとなくやっているという点では、強いていうなら子どもの泥遊び?あれがいちばん近いかも。】」

    タイトルの「今夜はひとりぼっちかい?」は、内田裕也が政見放送で歌ったエルビス・プレスリーの歌詞である。タカハシさんが衝撃を受け、そこに「文学」と、その終わりを見たのである。「今夜はひとりぼっちかい? (Are You Lonesome Tonight?)」と問いかけられているのは「文学」なのかもしれない。そして、「ぼくがいなくて寂しいかい?」と問いかけているのかもしれない。

    「結論を出すのは早すぎる。ぼくたちは、ようやく、自由に読む術を手に入れようとしつつあるのかもしれないのだから」

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    『「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4163901809
    『非常時のことば 震災の後で』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4022509910
    『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309020925

  • 著者の身辺の出来事、中でもそれらのものから自らの感性の琴線に触れるものを抽出しつつ「文学の現在」を問うおもしろさ。
    宮崎駿監督と会った際の「サイタマの光る海④」での「音」の下りには、行間から立ち上ってくるイメージに、えも言われぬ懐かしさを覚えた。
    「タカハシさん戦災に遭う」では、東日本大震災に際して、どう言葉を紡いでいけばいいのかと煩悶する著者の真摯な姿に、心を打たれる。

  • 都築響一さんが美術館に展示された作品だけがアートではないというように、吉本ばななさんが違うことをしないことというように、作家が綴った文章だけが文学ではない。大学の教え子がこれから直面し思考し選択し行動し表明したあるプロセスもまた相手の心をゆさぶる文学になるだろうと、言いたかったのかなと思いました。

  • 高橋源一郎の小説は、異世界に行って帰ってくるものではない。本作も例外ではない。
    あちら側の世界に行くための助走としての小説。そして、あちら側へ行くためには、かぎりなく身軽で不謹慎でなくてはならない。

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著者プロフィール

1951年生まれ。81年、『さようなら、ギャングたち』で群像新人賞長篇小説賞を受賞しデビュー。三島賞、伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞他各賞を受賞。近著に『一億三千万人のための『論語』教室』他多数。

「2021年 『「日本」を読む(仮)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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