アガサ・クリスティー完全攻略

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 93
レビュー : 13
  • Amazon.co.jp ・本 (426ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062189682

作品紹介・あらすじ

作品の魅力、そして作品を語ることの魅力を余すところなく伝える、英国ミステリの女王、アガサ・クリスティー全99作品評論集。

読もう読もうとずっと思っていたのである。アガサ・クリスティーのことだ。
 ミステリ評論家を名乗り、ミステリについて語ることでお金まで頂戴し、数千冊のミステリを読んできたというのに、クリスティーの作品をわずか七作品しか読んだことがなかったのである。ーー「はじめに」より抜粋

感想・レビュー・書評

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  • 一、前置き

    ずいぶん前から「クリスティー解説腕くらべ」というものを書いている。アガサ・クリスティー作品の解説は、昔のハヤカワ・ミステリ文庫版と今のクリスティー文庫版のどちらがすぐれているか、一作ごとに見てゆく企画だ。
    最初は解説ばかり見ていたけれど、だんだん本編についても考えることが多くなった。しかし筆不精で、いまだに三分の二ほどしか書いていない。ブクログを利用するようになる前、本の雑誌社のWEBサービス「たなぞう」にいたころから書き始めているというのに。初めのレビューを見返してみると、2006年12月1日記とある。もう8年前! なんというなまけ者なのだろう。

    一方、ここにわずか三年ほどでクリスティー文庫すべてのレビューを書き上げた人がいる。その名は霜月蒼。そして彼はその文章を一冊の本にした。それが『アガサ・クリスティー完全攻略』。さすがはプロの書評家だと感心した。彼は二週間に一度、ちゃんとレビューを更新してきた。締め切りを守っている。すごい! 私のようなしろうととは意識が違うのだ。おのれのいたらなさを痛感する。

    二、決闘文

    意外にも彼はこれまでクリスティーを七作しか読んでいなかったという。ハードボイルドやノワールや冒険小説が好きで、紅茶と編み物が似合う年寄りくさそうなコージー・ミステリは敬遠してきたそうだ。こんな自分がクリスティーを語っていいのかと何度も悩んだ。しかし、こういう自分だからこそ新しい視点でクリスティーを語れるはずだ。これまで培ってきた小説観をすべてこのミステリの女王にぶつけ、真っ向勝負に挑もうではないか!

    ――その意気やよし。買おうじゃないか。
    私は中学のときからずっとクリスティーが好きだった。ほとんどすべて読んでいる。何度も何度も読み返してきた。だから、ここは譲れない、どうしても譲れない、というところが山ほどある。霜月蒼がアガサ・クリスティーと全力で闘うのなら、私も自分の小説観を全面に押し出して霜月蒼と闘おう。適当な定型文でほめて終らせるのは、かえって失礼にあたる。
    さあ、お互い血みどろになろう。

    三、弁護側の証人

    この本は、本格的にクリスティーをよむのは初めてというういういしさと、数千冊もミステリを読み論じてきた蓄積という、相反する二つの要素によって支えられている。
    大人数のミステリ評論家が出入りするブログ「翻訳ミステリー大賞シンジケート」での連載に気づいてからは欠かさず読んでいた。

    彼が徐々にクリスティーにはまってゆくのを見るのは楽しかった。最初は淡々と義務的に片付けていたのが『ABC殺人事件』あたりから熱を帯びはじめ、『五匹の子豚』に至って恍惚の表情さえ浮かべるようになる。私はその過程を「そうでしょうそうでしょう!」と子供の成長を見守るように読み進めていった。
    普通なら批評家は私達読者を導く立場の人間だ。しかし今回に限っては逆。彼がクリスティーの深みにはまってゆくのを追体験しながら、私もはじめて『五匹の子豚』を読んだころのことを思い出していた。

    今でもずっと心の中に残っている。
    即物的なフィリップ、夢見がちなメレディス、野性的なエルサ、固い意思を持ったウィリアムズ先生、無邪気なアンジェラ、そしてアミアスとカロリン……。「僕があの子の荷物を送るのをみてあげるよ」、退屈なプラトンの朗読、「スペインはすばらしいところらしいわね」、なめくじさわぎ、ビール瓶、愛情のこもった手紙。
    あの殺人現場をすぐ思い出せる。そしてあの忘れがたい犯人も。犯人が最後にポアロに告げた、あまりにも痛切な一言……。

    霜月蒼はあの名作をはじめて読んでいる! なんと幸せなのだろう。彼も名作だと言った。最高傑作だとも。異論はない。『五匹の子豚』こそアガサ・クリスティーの最高傑作だ。
    なんだか、彼と秘密を共有したような気がした。アクロイドやオリエントだけじゃないもんね。ね、知ってるもんね、とささやき合った。

    彼が後期ミス・マープルへの共感を示したときも「そうだそうだ」と思った。あの名探偵の美しく孤高な姿に気づいた人がまた一人増えた!
    お茶やうわさ話を軽蔑していた男が「私はすっかりミス・マープルのファンだ」と言うようになる。なかなか痛快だった。
    実際、あのヴィクトリア朝生れのおだやかな老婦人が復讐の女神(ネメシス)と化す『ポケットにライ麦を』以降のかっこよさといったらない。(私はそれ以前も好きだが、残念ながら彼はそうではないようだ)特にあの崇高な感動をもたらす『鏡は横にひび割れて』の美しさ、悲しさ、痛ましさ!「わが命運も尽きたり」というあの顔! シャロット姫の葬送を見届ける、あの荘厳な絶望!

    彼はこの犯罪悲劇に比肩する傑作として結城昌治『幻の殺意』、ロス・マクドナルド『縞模様の霊柩車』、マーガレット・ミラー『狙った獣』、ローレンス・ブロック『暗闇にひと突き』、河野典生 『他人の城』を挙げている。海外勢はともかく国内勢は題名すら知らなかった。勉強になります。あの『鏡は横にひび割れて』に匹敵するというのだからきっと面白いのだろう。また一つ、世界が広がった。

    『マギンティ夫人は死んだ』がハードボイルドだという指摘にも蒙を啓かれた。私は戦後の根なし草的不安しか感じとることかできなかったが、彼は構成や捜査法を分析して自分じゅうぶんの相撲を取っている。

    もっとも感心したのは『ABC殺人事件』評だ。現代に発表されたら、本格ミステリとしても見事なサプライズを仕掛けた疾走サスペンスとして評価されたはずだ、と言い
    「ポアロが走り、ヘイスティングズが走り、ヘイスティングズの語りも走るから、それに乗る読者も走る。作中の大衆もマスコミとともに走り、それら大衆と同じ立場で事件を対岸から見守るわれわれ読者は、こちらにも乗せられて走るのだ」
    と書く。『ABC殺人事件』を読んだときの高揚感が甦ってくるかのような勢いのある批評だ。

    四、検察側の証人

    とはいえ、その評し方や文体には大いに疑問を感じる。
    たとえば「クリスティーは演劇である」という特に目新しくもない説のために
    「ご存じのように映画は、無数のカットを文法にそってつなぎ合わせて構成されている。エイゼンシュタインが発明したとされる「モンタージュ」の技法は、ひとつひとつでは多義性をはらむカット(絵)を連ねることで、ひとつながりの意味を生み出す技術だった。ただ淡々と現実を写しとるのみだったリュミエール兄弟のフィルムと比較すれば、エイゼンシュタインのフィルムの意味の明快さは一目瞭然である。
    つまりモンタージュは、「絵」にはらまれうる無数の意味をひとつに収束させ、その連なりで「物語」を組み上げるものだった。そうやってできあがるのが映画だ。つまり編集されているがゆえに、「映画」は、一枚の静止画に比べて多義的でない。誤解の余地が少ない。『杉の柩』第一部では、意味の曖昧な出来事が心理描写を欠いて描かれてゆく。それを形容するにあたって、私が「映画」でなく「動画」と言ったのは、そういう理由からだったのだ。『杉の柩』第一部はエイゼンシュタイン的ではなく、リュミエール的だった、と言ってもいい。
    一定の時間内に起こる現象/言動を無編集で提示し、それを観察する方法が観察者の自由である「多義的な絵」。
    それこそが、『杉の柩』にとどまらず――「一定の時間枠」はいくらでも縮減可能だから静止画もここに含まれる――アガサ・クリスティーのミステリの核心なのだ。
    ここまでくれば、答えまであと一歩だ。必要な最後の手がかりは、クリスティーのことを多少知る者ならば誰だって知っている事実。それを投入すれば答えは出る。
    つまり、
    クリスティーは演劇である。
    ということなのだ」
    という長々しい文章が必要だろうか。
    私には無駄に衒学的な、実り少ない試みに思えてならない。
    しかしこれは私が抽象的な議論を苦手としており、小説原論を好まないゆえに拒否反応を示しているだけなのかもしれない。

    では各論に移ろう。霜月蒼はクリスティーの作品群をどう評したか?

    彼は一作ごとに五つ星満点で点をつけている。
    五つ星をつけたのは『死との約束』『白昼の悪魔』『五匹の子豚』『葬儀を終えて』『カーテン』『パディントン発4時50分』『鏡は横にひび割れて』『カリブ海の秘密』『NかMか』『謎のクィン氏』『死の猟犬』『検察側の証人』『春にして君を離れ』『終りなき夜に生れつく』の十四作。
    私もこのうちの半数以上は名作だと思っているし、『死との約束』『白昼の悪魔』『NかMか』『春にして君を離れ』も、高得点をつけるのは納得できる。しかし――『カリブ海の秘密』は明らかにほめすぎだ。たしかにあの小説でのミス・マープルの恋路はすばらしい。しかし本筋はただのB級二時間サスペンスじゃないか! 完成度はミス・マープルものの長編十二作の中でもかなり下の方だ。霜月蒼はミス・マープルに惚れ込んだあまり目が曇ってしまったとしか思えない。
    『パディントン発4時50分』は私も大好きな作品だが、これは謎解きとしては失格だ。 なぜこの人が犯人なのか、まったく根拠がない。それに気づかず礼賛しているようでは困る。クリスティーをミステリとして読んでいきたいと高らかに宣言しているのにこの調子では看板倒れとしか言いようがない。
    そして『死の猟犬』。これの高評価もピンとこない。クリスティーの幻想小説で傑作といえるのは『終りなき夜に生まれつく』と『謎のクィン氏』のみだと思っているのだけど……。

    反対に、低い点をつけた作品を見ていこう。
    採点不能の最低点「BOMB!」が『フランクフルトへの乗客』、星半分が『ビッグ4』『複数の時計』『死が最後にやってくる』、一つ星が『ヒッコリー・ロードの殺人』『バグダッドの秘密』『死への旅』、一つ星半が『おしどり探偵』『アクナーテン』。
    たしかにこのあたりは駄作が多い。私も『ビッグ4』や『ヒッコリー・ロードの殺人』を擁護しようとは思わない。というより、擁護の余地などない。正真正銘、ひどい小説だ。
    しかし、『死が最後にやってくる』は面白いだろ! 不穏な空気にどきどきしながら、ヒロインのロマンスに心躍らせるだろう! 『バグダッドの秘密』はキュートだろ! 嘘つきヒロインという設定が最高に楽しいじゃないか! 『おしどり探偵』は、うーん、たしかに中途半端だけど、そこがトミーとタペンスらしくて愛くるしいじゃないか! 20年代のモダンな雰囲気もちょっとだけだけど出てるだろ!

    と、クリスティーのことになると、ついつい熱くなってしまう。私の悪い癖だ。
    本を読んでの感想は人それぞれ。他人の感想を否定するのはよくない。心を広く持ち、そうか、そういう考え方もあるな、と受け入れるのが礼儀……と自分に言い聞かせる。
    だからあの軽快で優雅な『ひらいたトランプ』を硬質で空虚と言われても、違和感を押し殺して愛想笑いを浮かべる。『書斎の死体』をユーモア・ミステリとして評価する彼に「それならむしろ『牧師館の殺人』の方がふさわしいんじゃない?」と言いたくなってもぐっとこらえる。『親指のうずき』でタペンスのパートは退屈だがトミーのパートになると引き締まる、というのは逆じゃないかと思ってもまあ些細なことだからと見過ごす。ヘイスティングズに向けたポアロのセリフがまるでドラえもんみたいだという「指摘」に 「そんなのホームズとワトスンでもよくあることだよ」とぶつくさ抗議したくなっても、まあ間違ったことは言ってないんだからと我慢する。

    しかし『予告殺人』については別だ。これに関しては「人それぞれ」「大人の対応」で済ませるわけにはいかない。どんなに見苦しくても、了見が狭いと言われても、器が小さいと思われても、口汚く反論せずにはいられない。

    五、告発

    霜月蒼は『予告殺人』に二つ星しかつけなかった。そして「退屈」「つまらない」と言った。トリックはなかなか凝っているが「描写」ではなく「説明」にすぎないから小説としての味わいに欠け、読むのが苦痛だったと――。

    愕然とした。あきれ果てた。

    あなたはどこを読んでいるのか?

    あなたには犯人の悲痛な叫びが聞こえないのか?
    この犯人は、クリスティーの全作品の中で私がもっともかわいそうだと思った犯人だ。
    自白する際の、あのあまりにあわれな叫びが、なぜ聞こえないのか?

    本作の書き方が描写ではなく説明などというのもとんでもない話だ。終戦後、まだ配給が続いている苦しい暮しの中、いきいきと動いている人々が、なぜ見えないのか? とりわけバンチ・ハーモンのあざやかさ! いつも陽気な彼女がミス・マープルと話すうちにぞっとするような自己否定をする、あの独白を忘れたのか? 一章しか登場しない、死の床にいるゲドラー夫人が思いがけない優越感を示す、あの会話を覚えてないというのか?

    『予告殺人』は推理小説の傑作であり風俗小説の傑作であり初老小説の傑作でありレズビアン小説の傑作である。
    推理小説としてはドラのあのとりとめもないおしゃべりの洪水を見ればその凄みが分る。読み返してみると、なんとおそろしいことを言っていたのだろうと思う。ピップとエンマや真珠の首飾りや「彼女はそこにいなかった」の話のそらし方はどうだ。まさにミステリの女王という称号にふさわしい、見事なものではないか。
    風俗小説としては新聞に始まって新聞に終る巧みな構成を見ればいい。この新聞をめぐる一幕のおかげで、悲劇が喜劇として終ることができるのだ。野菜畑や家畜小屋といった、これまでになく土くさい舞台も見どころだ。チッピング・クレグホーンという村が匂ってくるようではないか!
    初老小説。老人小説ではなく、初老小説と書いた。高島俊男によると初老という言葉は本来四十歳くらいをさすらしいが、ここでは六十代、老いを自覚しはじめた年齢として使う。ミス・マープル、ミス・ブラックロック、そしてドラ・バンナーが嘆く老いの悲しさ。小さいころの自分を知っている人がいなくなり、この世でひとりぼっちだと感じるむなしさ。それが胸に迫ってこないのか?
    そして意外なことに、本当に意外なことに、本作は先駆的なレズビアン小説でもある。ヒンチとマーガトロイドの二人は明言こそされていないがあきらかにレズビアンのカップルであり、ミス・ブラックロックとドラ・バンナーも、友人として扱われてはいるが、愛で結ばれていたといっていい。ドラを失ったミス・ブラックロックの心からの悲しみ、嘆き、慟哭。これが愛でなくてなんだろうか? おそらく表面的には異性愛しか認めなかったであろうクリスティーが自分でも分らないままに書いた同性愛小説だ。

    この傑作を前に、あなたは恥ずかしくないのか?
    言い訳は認めない。いますぐ、一から読み返せ!

    六、告白

    人にはどうしても譲れない一線というものがある。彼にとってはそれがハードボイルド/ノワールなのだろう。
    霜月蒼は『複数の時計』の中でポアロがハードボイルドを蔑視しているのに怒り、「ミステリとは、その出自からして反倫理性を抱えている文学なのである。暴力を遊戯の道具としているミステリと、暴力の暴力性から目をそらさぬミステリと、どちらが罪深いだろうか?」と激烈な調子で書きつけている。
    私はここを読み、趣味の話をしてるのに、なんで倫理を持ち出すかなあ、と当惑した。ポアロは「 暴力のための暴力かね? いったいいつから あんなものが興味を持たれだしたのかね? わたしなどは警察官をしていた若い頃に、じゅうぶん暴力を見てきているよ。ばからしい。医学の教科書でも読むほうがましだよ」としか言ってないのに。私が大川隆法だったら小泉喜美子の霊を呼び出して説法するところだ。(ただし小泉喜美子はチャンドラー党だったので深くつっこむとややこしいことになるけれども)
    とはいえ、彼がムキになった気持ちも少し分る気がする。クリスティーは自分が大切にしているものを侮辱した。それは彼にとって、決して越えてはならない一線だったのだろう。
    私が『予告殺人』に関してムキになったのも、彼が越えてはならない一線を越えたからだ。

    私がはじめてクリスティーにはまったのは中学のとき。『ナイルに死す』の豪華絢爛な世界に圧倒され、それ以後は意外な犯人をむさぼり求めた。少し時が経ってからは、ちょっとした会話や描写の楽しさにひたった。
    そして今は、彼女の人生まるごとに興味がある。若いころの軽率さをほほえましく思い、円熟期の豊饒さを堪能し、それから……老年期における老いとの闘いに、胸がしめつけられる思いがする。
    もちろんポアロも闘う。けれどあの灰色の脳細胞は神話的なまま退場した。トミーとタペンスも闘う。だけどあの夫婦探偵は絶望とは無縁の明るいアマチュアだ。ありったけの気力をふりしぼり傷つきながら老いと闘う挑戦者、という大役はミス・ジェーン・マープルに一任されている。
    ミス・マープル老いのサーガは『予告殺人』に始まり『魔術の殺人』でその片鱗を見せた後『鏡は横にひび割れて』で最高潮に達し、『バートラム・ホテルにて』で空しく幕を閉じる。『カリブ海の秘密』『復讐の女神』はまた別の流れだ。
    あの感動的な『鏡は横にひび割れて』で果敢に己の苦境を打破しようともがいたミス・マープルが「人生って、本当に一方通行なんですねえ?」とあきらめのため息をつく『バートラム・ホテルにて』の、なんという苦さ! 妙な言い草になってしまうかもしれないが、この苦さに私は何度も励まされた。人生は苦しいのだ、老いは悲しいのだと、若輩者に教えてくれた。それは私の生きる糧となっている。
    その美しい闘いの端緒が『予告殺人』なのだ。だから私にはこれを軽視することなど断じて認められない。
    そういえば霜月蒼は『鏡は横にひび割れて』評でも事件のことのみ語り、ミス・マープルの私生活を問題にしていなかった。これも私から見れば実に奇怪な態度だ。あの小説は殺人事件の捜査とミス・マープル個人の老いとの闘いが渾然一体となっているからこそすばらしいというのに!

    いや、大事にしているものがお互い違うのだ、仕方ない……私は次第にそう考えるようになっていった。

    七、最後の一撃

    アガサ・クリスティー完全攻略を終えた霜月蒼は「 クリスティーって無茶苦茶おもしろいんじゃんか! なんで早く教えてくれなかったんだよ! !」と叫ぶ。
    (「翻訳ミステリー大賞シンジケート」2014年5月19日)

    その姿を見て私は、はてここはどこのパラレルワールドなのだろうと首をひねる。
    彼によると、語られるのは『アクロイド殺し』『オリエント急行の殺人』『白昼の悪魔』『そして誰もいなくなった』『ABC殺人事件』くらいで残りの95冊については情報は皆無だったという。

    なにを言っているのだこの人は?

    江戸川乱歩は『予告殺人』を読んで「クリスティーに脱帽」を書いたではないか。
    『深夜の散歩』では福永武彦が『ゼロ時間へ』を、中村真一郎が『無実はさいなむ』を、丸谷才一が『クリスマス・プディングの冒険』を語っていたではないか。
    植草甚一は『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』で新作の『象は忘れない』『運命の裏木戸』に出会っていたではないか。
    小林信彦は『親指のうずき』にすばらしい解説を書いていたではないか。
    上記の文章は、植草のもの以外は『アガサ・クリスティー読本』に収録されている。入手が難しいものでもあるまい。ましてミステリ研究家と名乗る人間が存在を知らないはずはない。

    いや、もっと重要な本がある。ロバート・バーナード『欺しの天才』! これへの言及がないとは一体どういうことなのか。
    『欺しの天才』はクリスティー論の名著である。ひねくれたユーモアをまぜながらクリスティーのだましのテクニックを解説してゆくこの本をもし知らないというならとんでもない不勉強だし、知っていて書かなかったのなら歴史の捏造にほかならない。

    ミステリ評論には長い歴史がある。どうしてそれに敬意を払い、参照しようとしないのか。連載中に読まず触れなかったのには意義があったと思う。ドライブ感が崩れるからだ。しかし本にする段階でまったく触れず、読書案内でも小説ばかりをすすめ(ただしこの読書案内自体は良心的)ミステリ評論、過去のクリスティー論を無視しているのはおかしい。この本だけを読むと、まるで霜月蒼の前には本格的なクリスティー論などなかったように錯覚してしまうではないか。

    誰も教えてくれなかったのではない。あなたが教わろうとしなかっただけだ。
    情報は入ってこなかったのではない。あなたが入れようとしてこなかっただけだ。

    八、別れの挨拶

    彼と私の闘いも終りに近づいてきた。
    霜月蒼が選んだクリスティーベストテンは
    1位『カーテン』
    2位『五匹の子豚』
    3位『終りなき夜に生れつく』
    4位『ポケットにライ麦を』
    5位『春にして君を離れ』
    6位『白昼の悪魔』
    7位『鏡は横にひび割れて』
    8位『謎のクィン氏』
    9位『死との約束』
    10位『NかMか』

    私の場合、8位以降はその時によって変るけれど
    1位『火曜クラブ』
    2位『五匹の子豚』
    3位『ナイルに死す』
    4位『葬儀を終えて』
    5位『ABC殺人事件』
    6位『スリーピング・マーダー』
    7位『鏡は横にひび割れて』
    8位『ゼロ時間へ』
    9位『ヘラクレスの冒険』
    10位『謎のクィン氏』

    違う日なら8位以降は『予告殺人』『杉の柩』『ひらいたトランプ』などを挙げたかもしれない。
    1位はこれが最高傑作だとはまったく思わないけど一番好きな作品。あの雰囲気がたまらない。2位こそ最高傑作。2~5位は全てポアロものだが、3位と5位が派手系名作で、2位と4位が地味系名作。6位はロマンティックなゴシックロマン。7位は愛着度なら3位にはねあがるけど中盤がだれるので下がってしまった。しかし名作。8位は運命的な暗さを感じるサスペンス。9位はおしゃれな、10位は幻想的な短篇集。

    これほど小説観の違う彼と私がともにベストテンに選んだ『五匹の子豚』と『鏡は横にひび割れて』はぜひ多くの人に読んでほしいと思う。(私の場合『謎のクィン氏』は暫定的なので……)実際この二作こそクリスティーの真の代表作だ。ロバート・バーナードも『五匹の子豚』について「私個人としては、思いきってこれぞクリスティの最高傑作だと言いたいくらいである」と書いていた。何度も言おう。アガサ・クリスティーの最高傑作は『五匹の子豚』だ。

    結局、彼と私は合わなかった。これは小説観の違いのみで片付けてよいのだろうか。いや、そうでもないだろう。彼と同じようにハードボイルドをホームグラウンドとする池上冬樹は、常に私に刺激をもたらしてくれる。小説を読む視野を広げてくれる。霜月蒼を読んでそのような快感は、ほんのわずかしか得られなかった。つまり霜月蒼は池上冬樹と比べてはるかに劣る批評家なのだ。『アガサ・クリスティー完全攻略』には杉江松恋や千街晶之の名前も出てくるが、この二人がクリスティー文庫に寄せた解説はどちらもいいものだった。つまり霜月蒼はこの二人よりも劣る。

    さようなら霜月蒼。あなたを信頼することは、もう二度とないだろう。

  • クリスティ大好きな私ですが、その良さを語るのはなかなか難しいんだよなーと思っていたところへ、思わぬ良書が!著者はむしろハードボイルド好きな方らしいですが、だからこそのその再評価がかなり腑に落ちてくる感。
    書いてくれてありがとう!と言いたい一冊。
    そう、ミス・マープルは正義と復讐の女神なのですよ皆さま!

  • 数年前に「翻訳ミステリー大賞シンジケート」にて著者のクリスティ読破&レビューの連載を毎回楽しみに読んでおりました。それが一冊にまとまってからは、クリスティの指南書として常に手元に置いてます。とはいえ、紹介された99作品中、まだ7作品しか読めてない。。。ライフワークとして少しずつ読んで行きたいと思います。

  • アガサ・クリスティーを少しづつ読んでいるけれど、著書の全容が知りたかった。採点されているが、参考に。

  • クリスティーを全て読んでまとめられた努力には敬意を表するし、とてもまねできない芸当だが、これは評論本であり、私がほしいと思うガイド本ではなかった。このクリスティーの小説はどうしても読んでみたいと思わせる文章ではないと思うから。

  • 日本語で翻訳刊行されたアガサ・クリスティ作品99作の書評を収録。一つ一つの解説が丁寧ですし、スミ塗りや巻末ノートなど、ネタバレをしないための措置もしっかりされています。作品の美点だけではなく、霜月氏ならではの視点でばっさりと切り捨てているところも清々しくて好感が持てます。
    また、シリーズごとの総括やマイベスト10が紹介されているので、評論として大変面白い一冊です。日本推理作家協会賞と本格ミステリ大賞のW受賞も頷ける内容だと思います。

  • 参考にさせていただきます。
    クリスティは結構読んだのだけど、子供の頃だったから、どれが未読か既読か覚えておらず、未読の案内とともに振り分けをしたくて読みました。

    正直、既読のものもあらすじと感想みただけで内容が思い出せるものは多くなかったかな。もう何十年前だもんね。。。有名どころくらいしか思い出せなかった(^^;;

  • 装丁が凝っていて、好きです。
    完読、というわけではないんだけど、読んだ事ないのは斜め読みで。これはある程度目録的な扱いで見てもいいかなと思って、いままで読んだ感想。
    面白かった。
    自分と違うなぁと思ったり、同じだなぁと思ったり。
    私、意外にクリスティー読んでた。

    以下、それぞれ。

    ポアロものは、五匹の子豚読んで以降、あまりピンと来なくなってあまり読まなくなってしまった経験があったのだけど、そうか、傑作に含まれるから、それ以降が色あせてしまってのかもしれない、また読んでみようかなと思った。
    一作目から。

    トミー&タペンスのシリーズ好きだから、概ね好意的で嬉しい。
    タペンスのキャラいいですよね、キャラ。
    短編には辛口だけど、このごっこ遊び感と他の探偵真似てるのに結局できてないとこと、同じ感じが繰り返される、というのもわりと私には楽しかったんだけどなー
    あ、そういうの、コージーミステリっぽいのかもしれない。
    著者の趣味ではなさそう。

    そして、ミス・マープル好きになってくれてありがとう!みたいな。そう、カッコいいんだよー
    けっこうピリッとしたおばあちゃんなんだよね。
    わたしは"無駄な会話"(ブルシット)が上手な作家が好きなんだよな、だからクリスティー好きなんだなと、改めて思った。

    ノンシリーズや戯曲、ミステリ以外などは、なかなか読んでないなぁ。

    あと、演劇であるっていうのも、そうか、だから好きなのかも。みたいな。
    トリックそのものがすごいわけではなくて、そこに至るまでの物語がすごい的なクリスティー像は、私にもあったなぁ。うん。

  • 読書会まわりのレファレンスとして購入。

    同じ作家の作品のコンプリート癖のない者としては、コンプリート+読了(最新刊の『ポワロとグリーンショアの阿房宮』除く)という点のみでただただ賞賛を惜しまない。装丁も凝っていて好き。評価は著者・霜月さんの判断なので、各方面から異論が出ることは当然だし、それが自然なこと。科学方面のネタじゃないんだから(まあ、そういうことは科学方面でもあるわけだけど)。

    ただ、私はこの本も読了するのは難しいよう…なので☆はつけられません。

  • 誰もが知っているミステリーの女王アガサ・クリスティー。
    文庫で読める全作品を著者が読破して批評し・★を付けて行ったものです。

    私も子供のころからミステリが好きだったので読んでました。
    でも、ちょっと成長して本格ミステリにハマり始め、その中で”そして誰も居なくなった”を読んだあたりで
    「あぁ、私もクリスティーは卒業だなー」と思ったものです。
    そこから、ほとんどクリスティーは読まずに来たのですが、
    この本で改めて全作品の解説を読むに、
    「まだまだ、読むべき作品がたくさんあるなぁ」という思いが湧いてきました。
    謎解きのトリックの素晴らしさではなく、【物事は見た目通りではない】というための
    仕掛けの素晴らしさが随所に書かれてあって、オトナの今読み返したら、また違った感想を持ちそうな気がしました。
    とりあえず、★の多いものからいくつか、読んでみようかと。

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