- 講談社 (2014年7月31日発売)
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感想 : 23件
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Amazon.co.jp ・本 (266ページ) / ISBN・EAN: 9784062190169
作品紹介・あらすじ
第67回野間文芸賞受賞!2013年2月、突然の高熱と激痛に襲われた作家は膠原病の一種、「混合性結合組織病」と診断される。不治、希少、専門医にも予測が難しいその病状……。劇薬の副作用、周囲からの誤解、深まる孤立感。だが長年苦しんできたこの「持病」ゆえの、生き難さは創作の源だった。それと知らないままに病と「同病二人」で生き、書き続けた半生をここに――。
みんなの感想まとめ
テーマは、著者が「混合性結合組織病」と診断されてからの闘病生活とその影響を描くことで、人間の生き様や感情の深さを探求しています。作品は詳細な記録と専門用語を交えた説明があり、闘病記としての側面をしっか...
感想・レビュー・書評
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「混合性結合組織病」と診断された作者の記録。
記録は詳細で、専門用語を使った説明もあって、ちゃんと「闘病記」として成り立っている。
でも、笙野頼子らしさは全開。
当たり前だけど、ある病気と診断されたからといって人は急に変わるわけではないし、逆に人が全く病気に影響されずに生きるというのも無理な話、と気づかされた。
病気の症状もその人らしさに影響するんだな、と思った。
あと「あとがき」がものすごく良い。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自由自在な文に翻弄されながら、引き込まれる。闘病記というより、頭の中の取り留めも無いものを徒然に…という感じで、生身の感情とか、病と幸福感とか、後書きなどでもまた、人類の普遍的なものに通じるような。
病が日常になると、欲が出ることは、我が身を持って、頷く。 -
*あとで書く
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表紙の猫が可愛かったから。あと、病気のことか多少気になったから読んだ。うわー、話進まねぇーと思いながら読んでました。生まれ育った時代も場所も自分とは違うからわからないから、なんとも言い難い。とりあえず、知らない人の売り言葉までも、作品使って買ってるのは難儀だなぁと思う。ただ、具合が良くなくて周囲と話が噛み合わない件は自分も経験があるなぁと思う。他の人のこと、『こんなに苦しいのに元気に生活しててすげぇな』とずっと思ってたんだけど、そうじゃなかった事がわかったのは私の体調が上向いてきてからだったから。
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ほんと書き殴ったかのやうな文章ですねぇ…難しい病気ですけれども、著者がなんとなく前向きですのでそこまで暗くならずに済みます…社畜死ね!!
ヽ(・ω・)/ズコー
表紙の猫ちゃんがイイですね…! まあ、それだけ…と言ってはナンですけれども、うーん…これまでの著作にも言及されていますねぇ…。
実は著者…気が付かなかっただけでずっと「膠原病」だったような…そんな述懐をされておられますねぇ…その症状については何度も自らの作品の中に書いてきたとか…。
僕はまだ彼女の作品をあまり読んでいなのでなんとも言えませんが…まあ、著者のファンなら読まずにはおれないエッセイでしょう…! 多分…。
さようなら…。
ヽ(・ω・)/ズコー -
病気であったことがあとから分かった。今までなぜ人と比べて出来ないのだろう、苦しいのだろうと思っていたことは、病気のせいであることが分かった。
タイトルの通りの膠原病、混合性結合組織病である著者の病名の確定から安定した段階までの手記というか何というか。
もともと純文学で独特な表現として受け取られていた、表現が病状だったというのは腑に落ちる。その人にしか見えないものを書くのだろうから。しかし、この病状が安定しない時から安定したときまでを淡々と、己を他人のように突き放して表現し続ける著者の執念はどこから来るのだろう。遺伝子を持ったとしても発現は後天的なものだという。生きることは書くこととなる性質は後天的なのだろう。すごい。
この人にしか書けないな、と思う本はたくさんある。けれども、もしかしたらすべての物語は、その人にしか書けないものなのかもしれない。 -
闘病記だから、ちょっと手に取るのを迷う部分もあったのだけど、いざ読んでみればやはりいつもの笙野節。そもそも私小説と幻想小説の境目の曖昧な作風ゆえ、今回も私小説部分多め、でもノンフィクションでもエッセイでもなくやはり小説仕立て、として面白く読めました。面白いというと語弊があるのかもしれないけれど、つまり難解な病名や薬名や症状についての説明などを退屈と思わずすらすら読めたという意味で。
ご本人もおっしゃってる通り、今までの作品でもかなり身体的不調の描写は克明だったし、病気には昨日今日「なった」わけではなくて、おそらく慢性的な不具合を「そういうもの」と受け入れていたら実はとんでもない病名がつくことが「判明した」という感じ。名前がつくことで芽生える「死ぬの!?」という恐怖もあるけれど、逆に今まで単に自分の要領が悪いのだと思っていたことが「病気のせい」であったことがわかって、楽になれる部分もあったのだと思う。
基本的に私は健康だけど、やはり加齢とともにあちこちに不具合が出てくるし、逆にこれは加齢のせい、プレ更年期のせいでなんでも片付けがちだけど、もしかして全く別の病気の可能性もゼロではないわけで。「しんどい」と思う基準は他人と比較しようがないので、「甘えてる」「その程度で」と言われれば「そうなのかも」と思わざるをえず、逆に他人の「しんどい」を、やっぱりそこまで親身に思いやれない場合も多々あったりして、自分の不具合は自分で上手に調整、なおかつ他者の不具合にももっと敏感かつ寛容にならなきゃなあとしみじみ考えた。
本編のいつもの笙野節に比べて、あとがきの文章のほうがザ・純文学の文体で大真面目に決意表明されていたことが印象的。 -
2016/9/21購入
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916(闘病記文庫・疾病49)膠原病
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2015年6月新着
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ひとくせある文体で最初は読みづらかったけど、だんだん慣れて楽しめるようになった。これはエッセイ?私小説?他の作品はどうなんだろうなあ。
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916
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難病になった著者。いや、難病であったことが判った著者、というべきか。
専門医にかかり、治療をうけて、今までの(人には判ってもらいにくかった)種々の不調や難がそれなりに軽快し、へたりへたり、ぶり返しぶり返しながらも一応「なんでも/できる」ようになった、その自分なりには「上出来」のようすを綴る軽やかさ。
調子が悪くないって、こういうことやったんかーという感動。それは、体力なし子で一時は慢性の病名を告げられたことのある私にも少し分かる。想像できる。
「あとがき」に、著者が自分のこの身体性こそが社会性だと書いていて、そこに共感した。腑に落ちた。
▼心の内側から見た時見えるものがある。構造から自由なもの、生きているかのように描かれるもの、それが文学だ。
精神とは個人の中で宇宙となり、外との直な関係性なしで動きうるものだ。それを描き究めることは自分のしたいこと、文学の役割のひとつだと言いたい。
…(略)…
結局、どんなに私小説から遠い作品を書いても、どんなに身の回りの「自分の事だけ」を書いても、「他者がない」と言われても私にはこの病がちの肉体があった。どう出るか判らない他者としての持病。 …(略)…
これからも「他者がない」と誤解される小説を平気で書いていく。身体性は私の社会性だから。(pp256-258)
この著者の名は知っていて、なんどか本を手にとったこともあるのだが、難しかったり、よくわからなかったり、これまでどうも読めなかった。が、この本を読んで、ちょっとまた挑戦してみようと思い、なんどか文中にも出てきた過去の作品が入った『三冠小説集』の文庫を借りてきてみた。
(3/14了) -
膠原病の中でも難病という混合性結合組織病だと診断されたのちのお話。
自分はこういう病気ではないのだけれど、おろそしい冷え性なので、指先の感覚のなさや、動きづらさが想像出来て、しかもその数倍でも足りないだろう苦痛まで加えたものはいかばかりかと、すさまじい。
自分の不器用さも自覚しているので、著者が子供のころからしにくかったことが関節痛のせいであり、それがステロイドを飲むことによって、制限つきの「なんでも/できる」と表現していたくだりの伝え方に、何度もうなずく。
関節が痛く、力が込められないがために、自販機のボタンを押したり、キャップを開けたり、ガス栓をひねったりがうまく出来なかった著者。
しかしステロイドのおかげで、あとちょっと力を込めること、が出来るようになる。
器用な人は器用にこなせるからわからないだろうけれど、不器用は、そのちょっとのコツがわからない。
私が言われてなるほど、と思ったのは、ナイフの使い方。
ナイフとフォークを不器用ゆえにうまく使えないのだけれど、それを見ていた人が
「不器用な人って、上から押さえて切るってことが出来なくて、ただ力を込めて、潰すんだよね」
って言われたときの、衝撃。
なにか、そこからして違うんだ!
でも何が違うのか、見てもわからない!
でも、他の人にはわかるんだ!?
出来ないなりに、どうにか出来るやり方を探してやってきたけれど、病気と折り合いをつけるというのも、そういう、出来ることをやっていく、ということなのかなあ……と、著者の行動を読んで思う。
それにしても、本人書かれているとおり、ストレスにつよい方だ……
この著者の『タイムマシン・コンビナート』が評判高かったので読んだけれども、好みでなかったらしく、あらすじを読んでも内容が思い出せなかった。
しかしエッセイなのか、私小説なのか、笙野頼子の文体なのだろうなという文章でずっとつづられているので、ちょっと不思議な表現をする人だったな、というのは思い出した。
現実と空想の混じりあった世界の描写、この著者の現実なのかもしれないが、それが気味悪かったり、とても美しかったりする。
その連想から、ふと、「あ、この人が私が黄鉄鉱好きになった発端の人かな?」と思い出す。
黄鉄鉱のようなマンション、という代物が書かれていた。
でもたぐっていくと、この人ではなく、ほぼ同時に読んだ寮美千子の「小惑星美術館」だった。
久しぶりにこちらの著者のものを読んでみようと思う。 -
作品中ほどの自己責任についてのフレーズと、最後のあとがきの所有についての部分が心に残った。
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もの凄いエネルギーのようなものを感じた。
笙野頼子本人が、私小説作家として、自身の作品に新たな解釈の手掛かりを与える? 与えているようで与えていないのかな。作家研究と小説の解釈は違うような。過去の小説を書いていたとき、笙野本人は病気について知らなかったのだから。
もちろん、読者に新たな読み方を与えてはいる。でもそれは解釈とは別物であるような。
著者プロフィール
笙野頼子の作品
