- Amazon.co.jp ・本 (554ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062208802
作品紹介・あらすじ
人間の言語能力をめぐる先端科学の画期的転回から日本人の美意識を貫く天台思想まで――人間存在の根源を問い直す刺激に満ちた論考。
感想・レビュー・書評
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時間を置きながら読んだので、理解出来ているか不明なまま、ひとまず所感を残したい。
そもそも孤独とはいかなる状態か。
全く一人であることが孤独ではないように思う。
一つには、他者との距離を感じることだと言える。
この、距離を測るために人間は眼を駆使してきた。
目で見える範囲だけではなく、俯瞰するという能力にまで発展させた。
この俯瞰によって、自分を客観視することも、他者に憑依することも出来るようになった。
ただ、孤独にはもう一つ要素がある。
それが、自身との対話である。
つまり、言語があることで人間は孤独を発見することが出来た(と言いたいのではないか、笑)
この、視覚と言語と俯瞰という繋がりの中で、社会や森羅万象に論を展開させていく。
見る、見られることの話の中で、先日読んだ『Ank』というミステリー小説を思い出した。
チンパンジーのアンクが人間を操り、暴動を起こしていくその源には、見る、見られることを媒介とする「共感」があった。
宗教的感動にも文学的感動にも、感動には「共感」が含まれているように思う。
そして、その「共感」において、自身と他者が一体化する、またはもっと大きく世界と一体化するような、ある種の幻覚を抱くのだと思う。
私たちは見えるものも見えないものも、例え騙されていても、言葉によってそれが在るように認識し、また自身のように、肉体という分かりやすい現実を持つ存在であっても「ここにいない」ような認識もする。
非常に歯応えがあったけれど、記憶に留めておきたい内容ばかりだった。
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本書は間違いなく三浦雅士が思想家として大成したことを示す最高傑作だ。
多くの知的巨人たちを発掘し、有名にした「現代思想」誌の名物編集者として夙に名を知られた三浦が、彼がプロデュースした知的巨人たちと肩を並べた著作だ。
詩人大岡信の「うたげと孤心」をベースに、その射程を徹底的に拡大することで、哲学的な新たな地平を切り開いてみせる。
大岡信の「うたげと狐心」という評論集の表題にある<うたげ>とは、宴会を行う集団を表しているし、<孤心>とは個人を表している。
吉本隆明の、「共同幻想」と「個人幻想」を想起させる概念だ。
その大岡信の概念を研ぎ澄ますことで、三浦は独自の言語発生論を展開する。
驚くべきは、その言語発生の探求が、<私という現象>発生の謎を暴いていくことに通じることだ。
三浦はかつて大岡信を担当した編集者だった。
本書で三浦は、大岡に師事していたこと、大岡の古典アプローチにおける詩人としての感覚の鋭さに敬意を表していたこと、大岡の逝去におおきなショックを受けたこと、を語っている。
その意味で、この書は大岡信に捧げられたと言っても良い。
大岡が読んだら、喜んだことだろう。
彼の「うたげと孤心」をこれだけ読み込み、それを超えて新たな哲学的境位に達したことを寿いだ筈だ。
三浦は、大岡信に加えて、折口信夫、白川静(白川における折口の影響をはじめて明確にしたのも本書の特長)の方法論を活用して、そこから三浦哲学を推し進めて行く。
三浦が描く、折口信夫と大岡信の対比が印象的だ。二人は同じ詩人としての魂を持ちながらも、どこまでも妖しく暗い折口と、明るく笑う大岡との対比が際立つと言うのだ。
白川静が漢字(文字)の発生に呪術を見たことは有名だが、その白川が本当にやりたかったことは、「万葉集」の解析だった。
白川漢字学の偉大なる達成は、万葉仮名で書かれた「万葉集」を読み解くことが目的だったのだ。
白川の「初期万葉論」に柿本人麿<阿騎野冬猟歌>に関する驚嘆すべき分析があり、その感動を今も忘れないが、三浦もこの分析に衝撃を受けていたことを知って嬉しかった。
三浦は本書の目的を批評家である自己が、文学を批評する精神は何なのかを問うことにあると述べる。
それを問うと、言語の発生にまで問題を広げなくてはならない。
かくして、三浦は言語発生の謎に取り組むことになる。
そして、それは「私という現象」の謎に取り組むことそのものだった。
この問題意識は、吉本隆明が、文芸批評をやる前に、方法論を確立しなければ正当な文芸批評はあり得ないと言う認識を踏まえた、「言語にとって美とは何か」と言う言語論に取り組んだのと同一だ。
その意味で、本書は三浦にとっての「言語美」だと言える。 -
尾崎 真理子の2018年の3冊。