99.996%はスルー 進化と脳の情報学 (ブルーバックス)

  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062579018

作品紹介・あらすじ

インターネットやスマホの普及によって流通する情報量は飛躍的に増加した。われわれのまわりを飛び交う全情報量の0.004%しか受け止めていないとしたら、この情報化社会の中で生き残ることができるのか? 進化の過程で膨大な数の遺伝子を取捨選択し、脳を大きくしながら記憶を捨て去ってきた人類が次にすべきことは? 生命科学と脳科学からそのヒントを探る。

「現代は情報爆発の時代といわれています。でも、実際の数字はどうなのでしょう? 本当に情報は爆発しているのでしょうか?(ええと、してます…) しているとしたら、その膨大な情報は、どれくらいスルーされているのでしょうか?(ええと、99.996%がスルーされてます…) この本には、うまく情報をスルーしつつ、自分はスルーされないための『基本情報』が詰まっています。是非、手にとってみてください。」(竹内 薫)

感想・レビュー・書評

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  • 近年、流通する情報量が爆発的に増えてしまって、 人は情報を受け取り切れず、殆どの情報がスルーされている ことが書かれていると思います。 情報の発信や受信について考えさせられました。

  • どこかの書評で情報理論の話、と紹介されていたので興味を持って買ってみたが、情報理論の話はほとんど出てこない。

    「現在社会は情報が多すぎる」というテーマで、まとまらないエッセーといった内容。世界で一年に流通するデータと消費されるデータの差(これがタイトルにもあるように99.996%は使われることのないデータ)、感覚として入力される情報と我々の意識に上る情報の差などの話がダラダラと語られる。で、どうすりゃいいのか、という選択の話は出てこない。ほぼ全ページに関西弁でのツッコミが入るのだが、これもどうかと思う。

    初めて知ったこと。ヒトの遺伝子の数は26000から少し減って、20000ちょっとというのが最近のコンセンサスだと思っていたが、その後ずいぶん認められたものが増えて41000というのが定説になっているらしい。

    他は正直、読むべきこともない。ブルーバックスとして売るのはいかがなものかと思うレベル。

  • 946

    竹内薫
    サイエンス作家。1960年生まれ。東京大学教養学部教養学科、同理学部物理学科卒。マギル大学大学院博士課程修了(高エネルギー物理学専攻、理学博士)。「ひるおび!」(TBS系)、「サイエンスZERO」(NHKEテレ)など、テレビでの科学コミュニケーションでもお馴染み

    丸山篤史
    1971年生まれ。大阪大学大学院医学系研究科単位満了退学。医学博士。生命科学(生理学、神経科学、医用工学)専攻。理化学研究所、長岡技術科学大学を経て、基礎生物学研究所在籍。特別協力研究員


     ただ、普段からラジオを聴く人にアンケート対象を絞ると、もう少し数字が変わってくる。首都圏だけで行った調査ではあるけれど、ラジオのリスナーを対象にした2008年から2012年のデータでは、1日あたりの個人聴取時間が2時間程度で、ほぼ横ばいだ。つまり、そもそもラジオのリスナーは少ないが、ある一定の固定されたファン層があるのだろう。


    そういえば、工場で働く人やデザイナーなど特定の仕事をしている知り合いには、ラジオのリスナーが多い気がする。いわゆる「手と目は離せないけど、耳がヒマ」な人たちに好まれるメディアなのかもしれない。つまり仕事中のBGM感覚なのだろう。

     すでに書いたように、以前、僕はJ-WAVEのJAM THE WORLDという番組で4年半ほどナビゲーターを務めていたのだけど、ラジオは、とてもニッチなメディアだな、と思ったものだ。というのも、ときどき、タクシーに乗って運転手さんと話していると、「あれ?」と不思議がられることがあるのだ。もちろん初対面のドライバーさんである。たぶん「どこかで聴いたことのある声だな」と認知されるのだろう。つまり、 声しか知られていない、面が割れていない、というヤツだ。「あぁ、アナタがあの声の主!」と気付かれて、すごくスッキリした顔をされるのが、こちらとしても何とも不思議な思いになる。いや、これは余談だった。  実は、ラジオも頑張ってはいるのだ。例えば、2010年に始まったradiko(ラジコ)というサービスがある( 3)。これはインターネットを使った、ラジオ放送のライブストリーミングだ。元々は、高層建築物や雑音源、地形の関係による難聴地域への対応など、ラジオ業界特有の問題に対応する試みでもある。もちろん全ての放送ではないのだが、AMやFMに関係なく、 37 都道府県の民放ラジオ 99 局のうち 68 局のローカル配信を聴くことができる(2014年5月現在)。しかし、伸び悩んでいるのは変わらなかったりする。  総じて、ラジオというメディアは、 すごくニッチなところに情報が伝わるけど、それ以外の人々にとってはスルーされてしまうメディア のようだ。そもそも、もう大多数の人たちには、最初からラジオは聴かれることがないし、ラジオ番組が流れていたとしてもBGMとして聞き流される(スルー!)のかもしれない。そんなわけで、ラジオのスルー格付けは「Dマイナー」といったところだろう。

     最近は本が売れなくなったとよくいわれる。しかし、2014年版の『出版年鑑』によると、2013年の書籍の売上高は約8400億円で、ここ数年は8500億円前後で横ばいが続いている。新刊の出版点数は約8万2000点で、2005年以降は、ずっと8万点前後といったところだ。実は、1960年の新刊出版点数は、1万点ほどに過ぎなかった。それが2001年に7万点を超え、いまや8万点。  これは、ちょっと恐ろしい数字だ。なにしろ、1日あたり200点以上新刊書が出版されていることになる。どんな読書家でも、この新刊本の洪水を泳ぎきることなど、事実上不可能だろう。つまり、 大半の書籍はスルーされざるをえない。そして書店にしても、これだけの本を全て平等に扱うことなど無理だ。小さな本屋さんでは、この数の新刊を並べる売り場を確保することは、実質的に困難だろう。こうした事情は、大型書店だけが生き残り、町の本屋さんが減ってしまったことにもリンクしているかもしれない。事実、毎年200から300店舗の書店が閉店しているにもかかわらず、全体の売り場面積(坪数)は増えていることが知られている。ただし2011年からは売り場面積も減少に転じていることは注目に値する。

    アルバイト店員に指示しながら棚に本を並べているところに、僕は、遭遇した。そのとき、少し離れたところで、僕は、次のように、確かに聞いたのだ。 「それは、もう並べないで、返本しておいて」  心の中で、僕は驚愕の声を上げ、何とも冷たい汗が流れた(ように感じた)。僕の目的の本ではなかったが、書店員の彼がいう「それ」とは、どこかの出版社から配送されてきた数学の新刊本だったのだ。アルバイト店員くんは「はい」と返事をして「それ」を箱に戻したのだった。 「え! 出版社から本屋さんに送られてきた本やのに、本棚にも並べんと、そのまま返本すんの?」  その通り。その書店では、 数学の本は売れないと最初から決め付けていた のだ。確かにベストセラー小説のように売れることはないだろう。しかし、数学書を買いたい人だって、一定数はいるのだ。せめて並べてくれさえすれば、もしくは目に触れることさえあれば、手に取る人もいるだろうに。あぁ、何たること。配送された 箱からも出してもらえず店員さんにスルーされてしまう なんて。まさに「陽の目を見ない」とは、このことではないか。  しかし、僕も一人の書き手として、この書店員を責める気にはなれない。なぜなら、これは「8万点の悲劇」なのだから。実際、新刊書籍の全出版を平均すると、昔から返本率は 37%前後から 40%前後もあった。もちろん、「それにしても、ねぇ……」と、嘆息せざるを得ないほど哀しいことも事実です。

     前に紹介した佐藤尚之さんのインターネットに対する評価を僕なりに 咀嚼 すると、次の3つにまとめられる。(1)インターネットは、有史以来、一般消費者が世の中に発信できる初めてのメディアである。(2)インターネットは、情報を距離や国境を越えて迅速に拡散し、常に更新する強力なメディアである。(3)インターネットは、消費者を横につなげ、マスメディアに対抗する手段となりうるメディアです。

    今やウェブ上に存在すれば、要領と根気と語学力で、誰でも世界中の情報にアクセスが可能になった。実際に、僕らも毎日、GoogleやYahoo!を始めとした各種の検索サイトに、お世話になっているだろう。  そういえば、僕らが大学生の頃は、今ほどウェブの恩恵に 与ることもできず、勉強するときに資料を探すといえば、図書館に通ったものだ。集密書架の、縦にギッシリ並んだ高さ2mほどの本棚を一架ごとにズラして(これが結構、重い!)、目的の本棚の前に隙間を作っては、一冊々々、書籍や論文誌を見つけたものだ。それが今では世界中の論文に一瞬でアクセス可能なのだから、研究者や学生にとっては有り難いことです。

     ということは、なんと僕らは、流通する情報量のうち、たったの0・004%しか消費していなかったことになる。つまり、身の回りにある情報の 99・996%を僕らはスルーしていたのだ! テレビを観たり、本を読んだり、ウェブでネットを 彷徨 ったり。僕らは、寝る間を惜しんで(?)メディアに接していた、と思っていた。だが……しかし……僕らは、自分が消費した情報に比べて、約2・7万倍もの情報をスルーしていたのです。

    僕らの情報処理能力が年々向上するわけではない。毎年、本を読むスピードが速くなるわけではないし、ビデオの再生スピードが上がるわけでもない(そんな早送りで観ても、面白くないし聞き取れない!)。ましてや、一日の時間が増えるわけでもないのです。

    つまり、情報という曖昧模糊とした概念をしっかり定義して、具体的に足したり引いたり……要は計算できるようにしたいのだ。 「え? そんなことできるの!?」読者の疑問の声が聞こえてきそうだが、実は、そんなことをするために、情報の大きさを数学で表す「情報理論」を創始したのがクロード・シャノンだ。シャノンは情報の大きさとしての「情報量」を次のように考えた。 「まず第一に情報の意味はどうでもいい」( by クロード・シャノン) 「なんでやねん! どうでもエエわけないやろっ!」( by 読者)  うーん、気持ちはよく分かるが、ツッコミを入れるのは少し待っていただきたい。ここで問題にしたいのは「意味」ではなく、あくまでも「大きさ=量」なのだ。例えば「人間の大きさ」を比べるときに「人間性」や「人徳」「懐の深さ」といった曖昧なものでは比較が難しいではないか。潔く身長や体重で比較すべきだろう。

     で、「情報が生まれること」と「何かが起きること」が同じだとしたら、「生まれた情報の大きさ」は「何かが起きる確率の大きさ」と表せないだろう。

     例えば0・01と0・0001を比べると、もちろん後者の方が小さな数字だ。ということは、確率0・0001で起きる「何か」は、確率0・01の「何か」よりも貴重で、情報が大きいということになる。あるいは確率0・000001の「何か」だと、もっと貴重で情報が大きいといえる。しかし「確率が小さい」ことを「情報が大きい」と表現するのは、何となく違和感がある。そこで、確率の数字のゼロを数えることにしよう。つまり確率の数字のゼロが多いほど、情報が大きいと考えるのだ。確率0・01のゼロの数は2個、確率0・0001は4個、確率0・000001は6個である。確率が小さくなるほど、ゼロの数は増える。確率1の「何か」は、ゼロがないから、情報の大きさもゼロ。小さな確率の「何か」は、たくさんゼロが付くから、大きな情報だ。お、これは上手くいきそうだ。「何か」の情報量は、「何か」が起きる確率のゼロの数だ、と仮に定義してみよう。

     つまりシャノンは2進数(binary/バイナリ)を定義に採用したことになる。ビット(bit)という、コンピューターでも使う情報量の単位は、これに由来する。  元々、シャノンは『通信の数学的理論』という論文および同名の書籍の中で情報量を定義した(この論文から情報理論が始まったといわれている)。だから、最初から電気信号で情報をやりとりするためにコンピューターのことを意識していたのだろう。

     少し脱線するようだが、個人情報というものを考えてみると興味深い。例えば、日本に住んでいる僕のことを説明するのに「日本人である」という情報だけでは、情報量としては少なすぎるだろう。日本に住む日本人の割合なんて 99%近い。つまり情報量としてはlog 0.99で、ほとんどゼロである。さらに「男である」という情報を加え(log 0.48)、「住所」「生年月日」「氏名」「身長・体重」etc.と情報が増えていくと、僕という個人が特定できる情報量になる(僕のことを間違う確率が下がる、と言い換えられる)。つまり「情報量が増えること」と「何かを特定すること」は、大いに関係があるのだ。さらにいうと、特定個人の情報には意味を見いだせなくても(有名人なら別だ)、大量の個人情報がまとまると、その中に何かの偏り(確率が低い「何か」)、つまり大きな情報量が抽出できる可能性が出てくる。個人情報を集めることに価値が見いだされて、売買される背景が、ここにあります。

    実は、スルースキルと知能指数(IQ)には関連があるらしいのだ。端的にいえば、賢いほどスルースキルが高いかもしれない! 簡単に説明してみよう。  アメリカのロチェスター大学教授であるマイケル・メルニック氏らの研究成果によると、IQの高い人ほど「視覚テスト」の成績がよいことが分かったそうだ( 1)(図4‐2)。より厳密には「背景のノイズに惑わされにくい」「より小さな視覚刺激に反応する」、そんな能力がIQの高さに相関していた、というのです。

    これを言い換えると、IQが高い人の方が「余計な情報をスルーする能力が高い」ことになる。ようするに「IQが高い人」は「物事への集中力が高い人」なのだろう。  そう、目先の感情に捕らわれず、不必要な情報を上手くスルーできることは、頭のよい証拠なのだ!

     ちなみに、上記の研究では、少し面白い結果も表れている。それは「IQの高い人ほど、大きな図形の識別が苦手」ということだ(図4‐2下段グラフ)。もしかしたら(IQ的な意味で)頭のいい人ほど、優れた集中力を発揮できる代わりに、少し視野が狭まる傾向にあるのかもしれない。うむむ。何とも、示唆に富む研究です。

    意識は、100万倍の「意識されなかった感覚情報」の上に成り立つ幻のようなものなのだろうか。無意識を発見した、かの有名なジークムント・フロイトは、心を氷山に例えた。海の上に見える氷塊が意識なら、7倍の無意識が水の中にある、と彼はいったそうだが、とんでもない。100万倍なのだ。処理する情報量だけでなぞらえるなら、体長 16 mの鯨(約 30 t)を無意識とするなら、意識なんて、カランと音を立ててグラスに転がるロックアイス(約 30 g)に過ぎないではないです。

    僕らの無意識は、文字や単語に注目して文を眺めると、意識の中に、文の意味を浮かべてしまうのである。よく「木を見て森を見ず」というが、実は「しっかり木を見ると森が見えてくる」のです。

    記者には、Facebookで2000人の友人がいるそうだ。特別、増やそうと思ったわけではないらしいが、ダンバー数の約 10 倍である。ところが、いざ、その2000人に彼から連絡を取ってみると、スルーされるわ、「あなた誰だっけ?」と返されるわ、散々だったらしい(実際は1000人で頓挫したそうだ)。ちゃんとした繫がりが確認できた友人は200人に満たなかったのだ。つまり、彼は、挑戦どころか、ダンバー数のもっともらしさを確かめたことになります。

    ケビン・ビッカートは、「感情」や「好き嫌い」「記憶」などに関係する脳部位として知られる、 扁桃 体 に注目した( 3)。彼の研究によれば、社会的ネットワークが「大きく(定期的に連絡を取っている人数)」「複雑(所属する友人グループの数)」なヒトであるほど、扁桃体が大きかったそうです。

    僕が家庭教師をしていたときの話だが、勉強のできない子供ほど、本が読めなかったのである。国語の成績というより、文章を読むこと、そのものに問題があるようだった。音読させてみると分かるのだが、つっかえひっかえして、滑らかに読めない。ようするに、英語がダメとか、数学がダメとか、理科がダメとかいう以前に、問題文がキチンと理解できていない可能性があるのだ。こんな状態では、いくら机の前に座っても、成績が伸びるわけがない。逆に、こういう子供たちに国語力が付いてくると、見る見る間に成績が上がるのだ。  


    とはいえ、何も特別な訓練は必要ない。音読させて、引っかかるところをチェックしてあげるのだ。分からない漢字の読み方は、その都度、教えてあげればよい。その代わり印を付けて、後から書き取りさせるのだ。まずは読むことを優先しよう。目安となるスピードは、アナウンサーくらいがいいだろう。第2章で紹介したように、NHKのアナウンサーが1分で300~400字を読み上げるというから、だいたい新書の見開きを3分、といったところだろう。これが、平均的な成績、つまり偏差値 50 くらいの読書スピードと思ってもらえればいい。まずは、それくらいのスピードで、すらすら読めることを目標に、音読をチェックしてあげるといいだろう。それだけで、そこそこ成績が上がってくるはずだ。  その次の段階は、集中力の持続になる。勉強ができる子供というのは、ようするに集中できる時間が長いのだ。しかし、できない子供に、無理にやらせても苦痛なだけだから、まずは 15 分を目標にしてみよう。つまり、 10 ページを連続して読めるようにするのだ。音読を 10 分もすれば、くたびれるものだ。休憩を挟みながらでも、 10 ページくらいのキリのよい章を続けて読めるようになれば、読書の要領も分かってくるだろう。

    読書も同じことだ。スピードに慣れれば、音読しなくても問題なく読めるようになる。ブレーキをかけているのは、音読の癖なのだ。よく、速読法としていわれるような、飛ばし読み(単語を拾って読む)ではない。いちおう、全ての文字は目でなぞっている。そんなに速く読んで、内容が分かりますか?  と聞かれることがあるが、問題なく読めている。あんまり速く読むと、せっかく買った本がもったいない、と思わなくもないけれど、物語や話の先が、次々と知りたくなって、どんどんスピードが上がってしまうので仕方がない。調子がよければ、新書を 1時間かからず読んでしまえるから、僕は見開き 30 ~ 40秒で読んでいることになる。もちろん、ゆっくり味わいながら読みたいときもあるから、気分次第という感じではあるけれど。

  • タイトルは、全情報のうち、自分が対処できないものの割合。時々刻々と増え続けるのが情報だから、本作から少し時間が経った現在、更に数字は増えているかも。もはや誤差の範囲かもしらんけど。正直、心に残ったのはその点だけなんだけど、翻ってその他もろもろは、論を引っ張るためにしか思えなかったりして。対数の説明とかも、頁稼ぎにしか見えんし。あと何よりしんどいのは、特に後半で顕著なんだけど、関西弁の多用と、カッコ書きで繰り返されるしょーもないひとり突っ込み。そもそも、論文内で(特に地の文で)繰り出される関西弁に少なからぬ反感があるんだけど、せいぜい、本書と同時に読んだ中野徹氏くらいの使用が限度。本作は度を越えているから、イライラしてせっかくの中身も素通りしてしまう。著者としてもそれは本意でないと思うし、是非やめて頂きたいと思います。本書は共著なんだから、せめてどちらが書いたかを示して欲しかった。これまで読んだ竹内薫氏の著書では、上記を感じたことがなかったので、責はもう一人の方にあるのかな、きっと。

  • 悪くない。

  • 両生類はヒトよりゲノムの数が多いとか、ダンバー数、フレーム問題、ヒューリスティック、ブーバキキ効果…。私には馴染みのない言葉が沢山出てきた。スルーの定義もされてて、スッキリした。SNS疲れがなんだっていうんだという気持ち。ヒトっていうのは無意識に、無意識の選択をしてるんだなあ。

  • 信州大学の所蔵はこちらです☆
    https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB18018357

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著者プロフィール

たけうち・かおる サイエンス作家。1960年生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学理学部物理学科卒業。マギル大学大学院博士課程修了(高エネルギー物理学専攻、理学博士)。フリースクール「YES International School」校長も務める。著書に『99・9%は仮説』(光文社新書)、訳書に『WHAT IS LIFE? 生命とは何か』(ポール・ナース著、ダイヤモンド社)などがある。

「2021年 『人と数学のあいだ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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