レヴィナス 無起源からの思考 (講談社選書メチエ(333))

著者 :
  • 講談社
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感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062583336

作品紹介・あらすじ

存在を・欲望を・責任を・正義を・国家を考え抜いたレヴィナス。「他者」の「顔」が私に到来するとき哲学が始まるとは、どういうことなのか?「砂嵐のような文体」で語られた真理に迫る渾身の書き下ろし。

感想・レビュー・書評

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  • 圧倒的である。
    レヴィナス=斎藤、恐るべし。
    レヴィナスとフッサールを接続し。
    レヴィナスの他人と責任概念を掘り下げ、他者が複数の場合をぶつけ。
    従来の社会契約論が説く国家観とは違う国家を構想する。
    すごい本だった。絶版なのが惜しい。

  • 軽い読み物として。 筆者自身の思想とレヴィナスの思想が注意深く区別されている点は好感。レヴィナスはカントを実存主義的に注釈した… が、国家と正義に関してはポスト実存主義に接続しているように思う。

  • 読み終わったがとても眠かった。

    非常に丁寧に説明しているのだろうと思う。「ある(イリヤ)」の段階から亡霊、享受する糧、顔、理性、倫理、そうして無限責任と正義へ言及。ただし論の筋は行ったり来たり(後ほど説明する、がしばしば登場する)、もとから特殊な言葉遣いをする分野なので仕方がない部分はあるかもしれないが用語も括弧書きに太文字がこれでもかというほど登場して集中力がいる。わかりやすい言葉で、難しいことを一生懸命説明しようとしているのを感じた。例えでわかりやすく説明しているのだが、接続詞を見るとぎちぎちに文章が詰めてあって、一度集中が切れるとまた数ページ遡らなければならず、少々しんどい。

  • 尊敬する先生がレヴィナス嫌いなんで、その影響で。内容的にはレヴィナスに対する筆者の理論、みたいな感じ。

  • 全ての間違いの始まり。

  • レヴィナスの思想を、著者がみずからの足でたどりなおした本といってよいだろう。レヴィナスの議論に即して解説がなされているわけではないが、著者の議論はレヴィナス以上に明晰であり、一つの解釈としてはたいへんおもしろい試みだと思う。

    著者によると、本書は前著『フッサール 起源への哲学』(講談社選書メチエ)の姉妹編に当たる。前著で著者は、「すべては「思われ」の内にある」というところに、著者自身の現象学的思考の出発点を定めた。「思われ」の外部を考えたとたん、それもまた「思われ」たものになってしまう。それゆえ、「思われ」こそがいっさいの起源だと考えなければならない。

    この「思われ」を支えるものは何もない。だがこのように考えたとき、ひょっとして「思われ」はそれ自身ではないものに触れているのではないだろうか。「思われ」という「起源」から思索を開始する前著に対して、「思われ」の向こうにけっして思考しえないはずの「無起源」に接しているのではないかという可能性をめぐって著者の思索は展開されてゆく。

    著者は、端的な充満でしかない「思われ」の内に亀裂が走ることで、「何か」が「在る」という事態が生まれると考える。こうして充満する「思われ」に穴がうがたれ、そこへ向かって「もの」が吸い寄せられる。こうした著者の議論は、レヴィナスの「イリヤ」から「私」が「糧」を「享受」するに至るまでのプロセスに重なる。

    だが、ひとたび「思われ」に亀裂が生じて「何か」が「在る」という事態が成立するという事態は、「ほんとうにすべては「在る」のだろうか」という疑念が生じうるということと表裏一体である。私が享受している「もの」は、ひょっとして享受しえないものだったのではないか。こうした疑念を私はけっして拭い去ることができない。著者はここに、レヴィナスの「顔」の到来を位置づけている。顔の到来とともに、「思われ」にうがたれた「穴」へと向かって「もの」が吸い寄せられていく運動は逆転する。私は他者に答えなければならない。しかも、「顔」はけっして「思われ」の内に存在することができない以上、私の責任はどこまでも限りがない。おおよそ以上のような仕方で、レヴィナスの倫理学が「思われ」とはべつの可能性としての「無起源」の思想だと著者は論じている。

  • スタート地点は、「なぜ私/世界というものが存在して良いのか?」という疑問ですよね。存在の根拠。フッサール現象学でいう「起源」。
    「意識」されることによって私/世界が存在し得る。これを「思われ」と呼んでいて、一般的に言う物理的な実在の話ではない。そういうものも含めて、なぜ存在していると言えるのかという話です。
    今、僕の机の上に爪切りが乗ってますけど、これは「思われ」る事によって爪切りで有り得ると同時に、私を規定する。このとき、私=爪切りで有り得るわけです。そういうもの全てで世界が存在し得、かつ私が存在し得るわけですが、それは「思われ」によって包含されている。
    > これこそ現象学がこの現実の「起源」と見定めた「現象」ないし「現出」に他ならない。
    というわけです。

    まあこれって唯識論で言ってることそのまんまなんですけどね。

    ---2010/6/20---
    約ひと月もかけてちょっとずつ読み進め、ようやく読了。非常に面白かった。
    倫理とは何か、なぜ倫理に従わざるをえないのかを、神の存在抜きで、ここまで明確に叙述したものは少ないのではないでしょうか。
    国家とは、あるいは組織とは、どのように有り得るのか、責任とは何で有り得るのか、存在論の立場から言及しうるものだと言うのは本書で初めて理解しました。

    少々読みづらい部分もあるのですが、読む価値があります。

  • どうせならこういう本に「泣ける!」とか帯つけるといい。

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著者プロフィール

1957年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学博士。現在、慶應義塾大学文学部哲学科教授。専攻は現象学、西洋近・現代哲学。
著書に『フッサール 起源への哲学』『レヴィナス 無起源からの思考』『知ること、黙すること、遣り過ごすこと』『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』(以上講談社)、『「実在」の形而上学』(岩波書店)、『デカルト――「われ思う」のは誰か』『デリダ――なぜ「脱-構築」は正義なのか』(以上NHK出版)、『生命と自由――現象学、生命科学、そして形而上学』(東京大学出版会)、『死の話をしよう――とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門』(PHP研究所) など。

「2018年 『私は自由なのかもしれない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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