選書日本中世史 1 武力による政治の誕生 (講談社選書メチエ)

著者 : 本郷和人
  • 講談社 (2010年5月7日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062584661

作品紹介

天皇から幕府へ。「文」から「武」へ。中世は日本のヘゲモニーの大転換期だった。宮廷と幕府=二つの政権の並立から幕府中心の日本へ。日本史の大きな流れを分節する歴史の「構造」を解明し、移行の画期としての鎌倉幕府の意義を再検討する。

選書日本中世史 1 武力による政治の誕生 (講談社選書メチエ)の感想・レビュー・書評

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  • 著者は誰に対しても喧嘩をふっかけずにはいられないたちのようで、舌鋒鋭くコテンパンに批判していく筆致は大変小気味好いが、一方で私怨に満ちたひどく個人的な話題を個人的なたとえ話を持ち出して語り出すところなど、曲がりなにりも学問書として世に問うている書物としてどうなのかということが気になって肝心の中身があまり頭に入ってこなかった。

    学問に対する姿勢として、地道な実証が重要であるということ、それを抜きにした学問は畢竟砂上の楼閣であるとの主張はある程度首肯できるものである。しかし、そこは役割分担の問題ではなかろうかという気もする。著者は結局のところ権門体制論に対する自身の理論を全く示しておらず、その手がかりとしての史実を積み重ねたに過ぎない。権威よりも暴力が重要だと言ってみたところで、それは盾の両面でありどちらが欠けても機能しないのだから、鎌倉幕府があれば朝廷がなくても同じ歴史になったとは到底いうことはできないし、それこそ著者の批判対象とするところの浅薄な歴史認識であるというべきである。

  • 読みやすく、分かりやすかった。
    一つの視点として筆者の提示する歴史像に納得する部分があった。

  • 基本的には東国国家論からの権門体制論批判、実証主義からの「皇国史観」・史的唯物論批判の啓蒙書。鋭い指摘もあるが、変にくだけた嫌みたらしい語り口が台無しにしている。

  • 面白かった。実証的なのでイメージがわく。著者は東大資料編纂所に努めているので、実際の書状がたくさん出てくる。(現代語訳してくれるのが嬉しい。)
    自分自身の、会社経営の視点とてらしあわせて、よく分かるなと思った。
    「書状」というから手紙を想像して話が分かりにくいのであって、これは書式も機能も、現代で該当するものは「契約書」である。

    私は、この本に出てくる字の汚い右筆と同じように、何も知らないところから契約書を書きまくってきたので(書きまくった、は言い過ぎか。でもよく書いた。)書式や形式や宛先の書き方も含めて、なぜこうしたか、それにはどういう背景があったか、よく推測できる。
    「ああ、こういうの、いまでもやっているよ」って。
    「取次ぎ」で出てくる、同じ身分の相手に書状をだすって、いまでもやる。
    むしろ、「昔もこんなことしてたの?」と驚いた。

    考えてみれば、中世の自力救済の世界って、今の会社(とくに中小企業)の世界そのままだ。
    道端で倒れても、つまり倒産しても、だれも助けてくれない。
    理不尽であったところで、訴訟を起こすには金がいる。それなりの主体でないと訴訟そのものが起こせない。

    鎌倉幕府は(室町も江戸も)幕府と自称していなかった、鎌倉幕府という政庁があったわけではなかった、というのは本書の中でも書いているし、今までになんども聞いたことがある。
    「そうなのか」と思う反面、ピンとこないのも事実だった。
    しかし、始めてしっくりきた。たしかにそうなる。
    企業の内側(特に創業者)からみてみると、企業というのは、本社ビルでもなければ、組織図でも肩書きでもなくて、取引の塊なのだ。で、その取引というのは、一般的には、契約書という外形を取る。

    自力救済の世界においては、たしかにそうなる。
    そして、律令体制の頃は比較的わかりやすかった朝廷が、いつの間にか、わけのわからん軟体動物のようなものになっているのも、こう考えると自然な進化だ。

    ----

    そんなわけで、個人的にツボに入った本だったのだけど、ちょっと期待はずれでもあった。それは、タイトルそのままの「武力」のこと。
    第4章「車の両輪に比される文・武の骨格」は素晴らしかった。冒頭で著者自身が暴力にさらされた経験を書いている。

    よくぞ書いてくれたと思った。まさにそれが、読みたいところだったからだ。この本のタイトルから、もしくは中世史から、知りたいところだった。

    暴力というのは、まずもって身体的なのだ。核爆弾やコンピュータのある時代においても、殴るとか怒鳴るというのは「効果的」なのだ。
    一個人の身体レベルでの殴られて痛いとか、殴られそうで怖いとか、そういうものが、どうやって国家レベル社会レベルの統合手段として拡大していくのか。
    それを、実証的な手法で、知りたかった。

    しかし、次章の井上章一の「日本に古代はあったか」への腰の座らない反論あたりから、内容が迷走してくる。
    私はこの本を読んだのだけど、あまりにひどい内容なので呆れた。名指しで批判されて堪えるのは分かるけど、あんな愚書のために、せっかくの内容がぶれ始めるのは残念だ。皇国史観と権門体制論への批判と発展していくけど、それは不要だったと思う。
    それに、批判するにしても、あまりいい批判になっていない。

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    これは私の私見だけど、文武は対立的な概念ではないと思う。
    拳や剣を使うばかりが武ではない。暴力を「相手の意に反して身体財産を奪いとるための手段」と広めに定義するのならば、優雅ににこやかに理路整然と暴力を行うことはできる。

    (オーウェルの1984年のラストシーンを考えると、あれこそ究極の暴力だと思うが、「相手の意に反して」という条件すら満たしていない。
    これを言い募ると、人間の行為の全てが暴力になってしまうので、厳密にはいえないのだけど。)

    上記の定義における「手段」で、言語や社会システムや概念やシンボルの操作を利用するやりかたを「文」といい、個人の身体レベルでの苦痛や恐怖を利用するやりかたを「武」というのだと、私は思う。

    そう思ったときに、本書の第4章で問う、「人名をやすやすと奪う武」 頸とりが広域統治の為政者の資質に何の関係があるのか、というのにはっとする。それはまさにその通りなのだ。
    著者はそれを、ある種の覚悟の決め方、腹のくくり方だといっている。「こちら側の人間」かどうか。最終的には大量虐殺もやってのけるような素質があるかどうか。

    それはあると思うのだけど、表層的だと思う。
    個人の身体レベルでの苦痛や恐怖の利用方法が発明されたのだ。それは「死」の利用だ。
    考えてみれば、死ぬことが賞賛される理由は、鎌倉武士にだってないのである。
    幼少から特別の訓練を受け、精神的肉体的に鍛錬した「武士」というのは、今でいえば戦闘機とパイロットのようなものだろう。墜落が賞賛されるのはおかしいというのは、当時だってそうだろう。難しい話ではなくて、代替の効かない戦力の消耗は大変困るだろうし、死ぬことと勝利(新領の増加)が必ずセットというわけではないのだから、算術的に困るだろう。

    しかしそれでも、死を大切にしたのは、まさにそれが、個人レベルの感覚を社会の構成原理にする、自己相似形の社会を作るための「方程式」だったからだ。
    だから、頸をとったりしなければならなかった。
    私はそのように思う。

  • メモ

    唯物史観に変わるものがない
    日本史は応仁の乱以降を学べば足りる、天皇制は近代の産物
    源頼朝は東国の王
    鎌倉幕府は1180年に成立とみなす
    権門体制論に反対

    武を遠ざけ文を重視、世襲 平安時代-果たして平和だったのか?

    後鳥羽上皇-大内惟義、藤原秀康
    鎌倉時代の朝廷は幕府とルートを持った九条氏、西園寺氏が力を持ったといわれるが、上皇も独自にルートを持ち、そうともいえない
    武士は同時に複数の主人に仕えた
    頼朝は御家人の任官に否定的=謀反の可能性
    平家の福原幕府が鎌倉幕府の見本・・・双方知識、経験不足
    武が文に挑む
    江戸幕府、現代のような整然としたオフィス、組織ではなく、仲間うちの会
    皇国史観は都合の悪い歴史を黙殺
    一神教に対抗した神仏分離
    信仰、シンジルベキ宗教
    批判や議論ができず思考停止
    証拠がなければ事実とは言えないか
    →実証性の問題は難しい
    面白いのと事実は違う

  • 本郷和人は、近年わかりやすい中世史(鎌倉時代の武士を中心とする)を書いている。この講談社選書メチエの「選書日本中世史1」も概ねわかりやすい。ただし、終章は私にはちょっと…(汗)。

    ●鎌倉時代の御家人は、西国で一国30人ほど、東国でも140人ほど。 ⇒少ない!(ただし、これは惣領のみ<将軍と主従関係を結んで いるのは、惣領のみ>で、その下に庶子や子供たちがいるので、 幕府配下の武士の数はもっと多い)

    ●一所懸命の実例:平安時代末期(院政期)、藤原顕季が陸奥国菊田 荘(現在の福島県いわき市南部あたり)の所有権を源義光と争っ ていたが、白河上皇が裁定を出さないので、不審に思った顕季が 上皇に尋ねると、「汝に理があるのは明らかだが、汝の持つ荘園 は一つではないと思うが、義光はあの荘園に命をかけている。道 理に従って裁定した時、義光が何をするかわからないぞ!」と答 えた。顕季は上皇の言うとおりに義光に荘園を譲った。
     ⇒結果、義光は顕季に家来になるべく誓約書(名簿)を出したそ うで、夜の警備も勝手にするなど忠節をつくしたそう…。
     (出典は『十訓抄』・『古事談』)

    ●兼参(複数の人間に仕えること):本来天皇に仕える実務貴族(中   級)は、その能力で院にもつかえた。結果、院は彼らを政治   舞台へと進出させた。上級貴族は仕事を奪われて大いなる不   満を持った。そのエネルギーで書きあげたのが、北畠親房の  『職原抄』である。

    ●頼朝の恐れたこと:武士たちは荘園を基盤として生活を組立ててい た。荒野を開発して耕作に適した私有地を造成し、その地を中央 の有力者にささげて荘園とする。自身は現地の責任者となって実 質的な支配を展開しその地位を子々孫々に伝えていく。だから、 武士たちは(源義光に見たように)、荘園領主である皇族・貴族 や大寺社との関わりを、深い浅いはあっても必ず有していた。(中略)彼ら(荘園領主)が考えを改め、能動的に振舞い始めたら どうか。土地を給したり官職を与えたりしながら武士に恩恵を下 賜し、従者として取り込みを画策すればどうか。それは鎌倉の  「武」の勢力にとっては、まことに厄介な事態になる。献身を求 める鎌倉殿との苛酷な関わりを嫌い、京都へと回帰する。そうし た御家人が多く現れたら、誕生したばかりの脆弱な武人政権はた ちまち崩壊してしまうであろう。
    ⇒義経にきつく当たった頼朝の恐れたことがこれであった。それは よくわかる。実際に朝廷側がなぜこうしなかったか、頼朝がなぜ うまく組織を作れたのか?

    ●水戸学と水戸黄門:徳川光圀は、後醍醐天皇とその子孫である吉野 の南朝を天皇家の正統と位置付けた。それゆえ、後醍醐天皇の孫 に当たる後亀山天皇が北朝の後小松天皇に南朝の神器を譲り渡し たとき、1392年をもって天皇の嫡流は廃絶する。その後も天皇は 存続するが、天下を治めるのは「将軍ー武士」の役割になる、と 構想していたという。
    ⇒納得する解釈で、水戸黄門は「天皇家嫡流は南朝最後の後亀山天 皇 をもって滅んだ、とする「南朝正統論」を打ち立てた」でい いと思う。

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