完全解読カント『実践理性批判』 (講談社選書メチエ 487)

  • 講談社 (2010年12月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784062584883

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

道徳や自由について深く考察される内容が展開される本書は、カントの『実践理性批判』を基にした解説書であり、読者にとっては新たな倫理観を考えるきっかけとなります。著者は、カントの定言命法を通じて、真の道徳...

感想・レビュー・書評

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  • 完全解読シリーズの趣旨も良く調べず手に取ってみましたが、基本原著をベースに適宜解説を加えるといった読み応えのある内容とは露知らず、寧ろモチベが高まりました。

    「純粋理性批判」は難読で有名ですがこの「実践理性批判」はそこまで理解し難いことはないとの評判でしたが、やはりこの独特の言い回しと同じ主張を角度を変えながら論じていくスタイルは自分のレベルでは読み解くのに難儀。

    とはいえ、欲や快楽などの傾向性に基づく行動や思想は経験的な出所で道徳的なものとは言えず、アプリオリに認識される道徳法則に基づく「~すべき」という定言的命法と自律(マキシム)が一致することこそが唯一の道徳的なもの、ひいてはそこに「自由」がありその意思に尊敬を引き起こすことにより「最高善」へと導かれる。
    このような主張は、あながち自分の感覚と相違はないのかと感じていたり。(できているかは別問題)

    いわゆる自己的な利他ではなく、報酬や見返りを求めない献身的な利他こそが真の道徳であり、人間が生得的に秘めている能力なのでしょう。
    しかしどうも自分の内面的な処理に完結しがちで、自然的(物自体)との関わりとか影響がやはり幸福という認識はありなのではないでしょうか?という素朴な疑問は沸き上がってきますね。一度通読するだけで決して腹落ちしていないのは確かで、折に触れて、理解を深めていきたいテーマと作品でございます。

  • カントの『実践理性批判』を、本文の構成にしたがってパラフレーズした解説書です。

    著者は「はじめに」で、カントが実践理性の根本法則を「君の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という定言命法によって規定したことに触れて、「その内実は、いくつかの理由で近代社会の倫理の本質を表現している」と述べています。著者の『近代哲学再考』(径書房)などを読むと、近代社会における「自由」の本質について著者自身は独自の考えをもっていることがわかりますが、本書ではそうした著者の思想を開陳することは抑制されており、もっぱらカントの文脈の中で「自由」の概念がどのように規定されているのかということがていねいに論じられています。

    著者自身の思想に関心のある読者のなかには、本書と同じ「完全解読」シリーズから出ている『完全解読フッサール『現象学の理念』』(講談社選書メチエ)に比べると少し抑制が効きすぎているのではないかという印象を抱く向きもあるかもしれません。

  • 本書の構成は、原典の展開に沿って内容を要約し、平易な日本語の文章に置き換え、合間に少々の解説を加えたものである。原典への忠実度は私には分からないが、理解困難なまま原典を読むよりはよほど得るものがあると思う。原典の要約の部分と、それに対する著者の解説がはっきり区別されているのも良い。
    カントの道徳論であり、有名な『定言命法』が序盤から登場する。『定言命法』=『君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ』を基礎的な根拠に据え、それが『理性』における所与の事実であるという前提で論が展開される。本書の内容を私が理解したかぎりでは、これは現代人にはなかなか受け入れ難い道徳論であると思う。とはいえ、『定言命法』の考え方自体は現代でも有効であって、自分の行動原理を誰も彼もが採用したとしたら世界はどうなるだろうと考える、といった使い方がすぐに思いつく。例えば「ポイ捨て」をする人ですら、世の中の全員がそれをして良しとは思っていないだろう。このように、エゴイズムを克服する原理として理解すれば、法律や組織のルールを作る際の大前提となるガイドラインとして有用に機能するだろう。ただし、もちろんカントは『定言命法』を個人の内面にこそ根ざすものと考えている。カントは繰り返し、『自律』した個人が、その『自由意志』によって感情や好みといった『傾向性』に抗い、『普遍的』な『道徳的法則』に等しい『定言命法』に従う『義務』を説き、それこそが道徳なのだと強調する。しかし思うにその主張は、ただその人に「道徳的であることを期待する」というのとほぼ同義であり、個人への強制力があるとは思えない。逆にいえば、そのような理屈で納得する善人には、そもそも『定言命法』も道徳論も不要であろう。
    カントの道徳論においては、『自律』の前提である『自由意志』は最も基本的なものである。そしてそれは、『人間は一方で感性的、自然的な存在者であるが、しかしもう一方で自然法則から独立した原因性(自由)をもつ存在』であり、『人間は理論理性としては、自然法則の原因性を絶対的なものとしてとらえるほかはないが、実践理性としては、自ら対象のありようを規定する自由意志という原因性として存在するものと見なされる』という理屈で確保されることになる。しかし正直、この理屈は無理やり過ぎではないか。この説明はまるでトートロジーであり、「人は自由意志をもつ、だから、人は自由意志をもっている」と主張するのと何も変わらない。さらに言えば、個人的な満足を完全に排除する道徳論など空疎であると言わざるを得ない。このように、出発点が論証不可能な信念であるため、そのうえに組み立てられた論にも不合理が生じているように思う。
    大きく問題ありだと思うのがその非社会性、つまり行為の結果は道徳の考察においては考慮の外だと断言される点である。行為のもたらした結果それ自身は問われないわけだ。これは個人的な(つまり経験的な)道徳基準を排除するために必要な措置だと理解できる。しかし、正しいと確信する『自律』した『意志』による行為の結果が大惨事だったとしても、それは道徳的に肯定されるのかという反論がすぐに思いつく。むしろ歴史上の大惨事は、当人からすれば「正しいことを為そう」とした結果であることが多いのではないか。結果を問わず主観的な『意志』のみを問う道徳論など無責任ではないかとすら思う。例えばポル・ポトでさえ、カント道徳論の枠組みを自己弁護に転用できてしまうのではないか。
    やはり私は、カントのこだわりである『先験的』=『純粋』=『普遍的』=『傾向性』を排して、という方針で論を組み立てるのが、そもそも無理があるように思う。しかしカントは、その無理を解消するために、『心(魂)の不死』『自由』『神の現存』という三つの『理念』を『要請』し、いわば後付けするのである。『心(魂)の不死』は道徳的な『善』を目指す努力をこの世を越えても持続しようとする決意に必要であり、『自由』は『傾向性』ではなく純粋な『意志』で『道徳的法則』に従うために必要であり、『神の現存』は『善』と『幸福』の一致の可能性を保証するために必要であると規定される。これらの『理念』についてカントは『思弁的理性から出るものではなく、ただ絶対的に必然的な実践理性の目的と必要から現われるものであり、そのかぎりで正当な根拠をもつ』のであり、『純粋実践理性』の『信』と呼びたいと主張している。これはデカルトの神と同じで、形而上学の基底を支える一要素であるに過ぎず、私に言わせればギブアップ宣言であり、最終的には信仰頼みという事態が露呈しているように思える。また素朴に「人間ごときに要請される神とは何だろう」とも思う。透けて見えるのは、プラトンが『パイドン』や『国家』において、ロゴスの応酬の後に神話的物語(ミュートス)という超越的審級を置かずにはいられなかった態度にも共通した、無根拠に対する底なしの不安である。
    私が感じたような本書の議論の欠陥と思われたものは、一つは社会的な視点の欠如であり、もう一つは自身の体系に対して矛盾した三つの『理念』を後付けするという不徹底さである。哲学史的に考えると、前者はヘーゲルにおいて、後者はニーチェにおいて自覚的に取り組まれた課題だったのではないか。ヘーゲルは、カントの道徳論に含まれる非社会性を、歴史の発展過程で克服されるべきものだと主張した。ニーチェは、カントが要請した三つの『理念』が実際には無効であるとして(神が死んだとして)、この道徳論の底が抜けていることを主張した。ただしニーチェは単なる反カントではなく、彼のいわゆる「貴族道徳」とは、本書の大原則である『自律』をその定義のままごまかさずに継承した、いわば徹底的に純化された『自律』の境位であるように思われる。
    最後に一つ、「カントの道徳論の枠内で、神は道徳的であることが可能なのか?」という疑問を示しておきたい。道徳的であるためには、『傾向性』に抗う『自由意志』によって『普遍的』な『道徳的法則』に従うという『義務』が重要とされている。それは『人間』が『一方で感性的、自然的な存在者であるが、しかしもう一方で自然法則から独立した原因性(自由)をもつ存在』であるから成立する事態である。しかし信じられているところによれば、神は『傾向性』に流されることはありえないのであり、したがって『義務』への服従という事態は起こりえない。そうであるならば、神は原理的に道徳的であることは不可能だ、ということにならないだろうか?

  • 人間と社会についての根本的に新しい展望と構想が拓かれるべき時代が来ているのだ。そしてその課題を引き受けるのはつねに新しい世代である。さまざまな古い叡智とともに、近代についての基本構想として現われた西洋哲学の再理解が、いまなによりも重要なものとなっている。

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著者プロフィール

1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。著書に『「自分」を生きるための思想入門』(ちくま文庫)、『人間的自由の条件ーヘーゲルとポストモダン思想』(講談社)など。

「2007年 『自由は人間を幸福にするか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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