- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062585736
作品紹介・あらすじ
「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した」――。
一四世紀から一五世紀にかけて、中央ユーラシアの広大な領域を統合した大帝国がティムール帝国である。
現世の楽園とも言える庭園(バーグ)を数多く建設し、青に彩られた帝都サマルカンドとその周辺に高度な文化を花開かせた。インド・ムガル帝国にもつながるこの帝国はいかにして繁栄したのか。マムルーク朝やオスマン帝国など西アジアの敵対勢力をも打ち破った創始者ティムールとその後継者たちの知られざる実像に迫る。
感想・レビュー・書評
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著者、川口琢司さん、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。
---引用開始
川口 琢司(かわぐち たくし、1959年 - )は、東洋史学者。
北海道生まれ。1982年北海道大学文学部史学科卒業。1993年同大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。1995‐97年財団法人東洋文庫奨励研究員。2006年「ティムール帝国前半期の研究」で北大文学博士。藤女子大学兼任講師。
---引用終了
で、本作の内容は、次のとおり。
---引用開始
「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した」――。
一四世紀から一五世紀にかけて、中央ユーラシアの広大な領域を統合した大帝国がティムール帝国である。
現世の楽園とも言える庭園(バーグ)を数多く建設し、青に彩られた帝都サマルカンドとその周辺に高度な文化を花開かせた。インド・ムガル帝国にもつながるこの帝国はいかにして繁栄したのか。マムルーク朝やオスマン帝国など西アジアの敵対勢力をも打ち破った創始者ティムールとその後継者たちの知られざる実像に迫る。
---引用終了
そして、ティムール。
ウィキペディアには、次のように書かれています。
---引用開始
ティムール(ペルシア語: تيمور Tīmūr/Taymūr, 1336年4月8日 - 1405年2月18日)は、チャガタイ・ハン国の軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 - 1405年2月18日)。
中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。
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KT10a
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2014-11-6
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世界史で名前だけは知っている、というティムール帝国、どんなものか勉強してみよう、ということで読んでみた。モンゴル帝国、というかチンギス・ハンの威光と血筋を利用してティムールやその後継者たちが中央アジアを支配していったという話は、そうなのかなるほど、という感想。
全体としては、ティムール帝国の政治史に多くのページが割かれていたのだけど、もう少し帝国下の社会がどうなっていたか、人びとはどんな制度のもとどんな暮らしをしていたのかが描かれていると、満足できたかなーという印象。というかもしかしたら、そういうことは史料上の問題でわかっていないのかもしれないが。
それにしても、読んでいても人名が全然覚えられない。中央アジアに馴染みがないので、そのへんが苦労した。今も、ティムールのあとに争った2つの派(血統)が何だったか、名前を思いだそうとしても、全然思い出せない。 -
馴染みがないティムール。一代で大帝国を築いた英雄だが、時代背景も含めほとんど知らなかった。チャガタイウルスを基盤に中央アジアから西アジアを統一。インド北部に侵攻。最後は大元ウルスの北元と明への遠征中に死去。チンギス統原理があるので、チンギスハンの末裔を傀儡のハンに立て間接的支配をした。またチンギスハンの血を引く女性と婚姻を行った。彼のおかげでモンゴル帝国は一時的に息を吹き返し、中央アジアでの影響力を保った。モンゴル帝国のDNAはインドのムガル帝国などに引き継がれて行く。
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一読した感想は、後世からふりかえってみると、ティムールは、軍事、建築、政略は得意だったけど、人事は下手だったのではないかということ。チンギス裔のもののみが王になれるというチンギス統原理がそれだけ強かったのかもしれないが、三度も、自分の代理人としたチンギス裔のものに裏切られ、そのたびに懲罰遠征、また政権確立時にチャガタイ・アミールたちを厚遇せず反乱に遭い鎮圧、後継指名で孫を選んだら、息子に反乱を起こされ鎮圧、と。そのたびに膨大な国力と時間を浪費してしまったのではないだろうか、と思える。当時の状況からすると、反乱の発生込みで、最適の選択肢だったのだろうか、そこは後世からはうかがいしれない。