- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062585774
作品紹介・あらすじ
幕藩体制下の禁教政策により、厳しく弾圧されてきたキリスト教徒=キリシタンは、江戸幕府が倒れ、明治新政府下では信仰の自由が認められ、解放された――。一般にこのように思われている「日本社会の近代化」は、歴史の真実といえるだろうか。そもそも、「キリシタン」とは何なのか。従来のような「ひとつの村が、近世初期から明治まで、ひたすら信仰を守り続けた隠れキリシタン」といった平板な理解に再考を促す。
例えば、非キリシタンであったにもかかわらず、領主の苛政への反発から一揆を起こした民衆を「切支丹」として弾圧した事例や、一方で、藩内のキリシタンの存在を隠すために、問題行動を起こさないキリシタン百姓を藩が黙認していた事例、また、キリスト教とはかけ離れた民間信仰でありながら「切支丹」とされた事例などを取り上げる。これらの事例を見ていくと、西欧語の訳語である「宗教」の名で人々の信仰が管理・統制されるようになった近代が、近世よりも解放されているとはいいきれないという。
「キリシタン」をめぐる宗教政策の変化と実態を丹念に探り、近世における宗教観、歴史と宗教のかかわりに新しい視野を提供する。
感想・レビュー・書評
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江戸時代の潜伏キリシタンの実態と、近世社会で「切支丹」として表象された異端信仰との乖離を明らかにしている。厳しい禁教体制にもかかわらずキリシタン信仰が生き延びた要因を、外在的・内在的両方の条件から説明し、近世=宗教統制、近代=宗教解放という定式に再考を迫っている。
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[ひっそりと]近世においては弾圧と迫害の対象になったと考えられることの多い、いわゆる「隠れキリシタン」。そんなキリシタンの存在を「潜伏キリシタン」と捉え直し、重層的な市民社会の中で、改めてその位置づけを試みた作品です。著者は、キリシタンを始めとする日本近世史を専門とされる大橋幸泰。
伴天連、キリシタンなどの時代に応じて用いられた呼称を通して、潜伏キリシタンが社会においてどのような存在とされていたかを探っているのですが、「近世」と一言で示される時代の中で、その捉え方が大きな変化を見せていることがよくわかります。本書の対象はあくまで近世なのですが、社会と宗教の関わり方を考える上でも参考になる一冊なのではないでしょうか。
キリシタンという宗教的な属性からだけでなく、農民・商人・武士などの属性もしっかりと加味した上で評価を下しているところも素晴らしい。こういう本を手に取ると、ついつい読者としてはキリシタンがかかわった当時の事件や出来事の背景にキリシタン的なものを見出そうとしてしまうと思うのですが、そこに一つ歯止めをかけ、社会を複眼的に眺める姿勢を与えてくれているように感じました。
〜キリシタン禁制の矛盾というのはまさに、キリシタン禁制が厳しいゆえに現実のキリシタンの存在が許容されていくとともに、それとは別の怪しげであると見なされた異端的宗教活動が取り締まりの対象とされていく状態を指すのであり、その矛盾の歪みは近世から近代への移行期である十九世紀において、さらに顕著に表れていく。〜
労作だと思います☆5つ -
イメージ形成の話かと思いきや、史実発掘に転回するなど、いまひとつ論旨が明確でない感じ。
ただ切支丹の人々のイメージからの歴史再構築の目論見というか意気込みはよく分かります。
それにしても先に読んだ本と言い、この手の志向が流行りなのかな?