熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

著者 :
  • 講談社
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062586337

作品紹介・あらすじ

著者中沢新一氏は、長年にわたり南方熊楠についての考察を深め、多くの論考を発表してきました。1990年代に刊行された『森のバロック』(読売文学賞)、『南方熊楠コレクション』(全五巻)などが、その代表作です。また、「宗教学・人類学・民俗学を綜合して「対称性人類学」で新たな思想を展開しています。また独自のフィールドワークによる「アースダイバー」(『アースダイバー』、『大阪アースダイバー』、『週刊現代』連載中の「アースダイバー 神社編」)新しい知見と感性を切り開く可能性をもっています」(南方熊楠顕彰会の受賞理由を短縮しまとめた)。
2016年の第26回南方熊楠賞が授与されます。
21世紀に入ってから、著者はますます熊楠の重要性を認め、彼の思想の可能性を掘り起こし、発展させるために、2014年には「南方熊楠の新次元」と題する4回の講演・対談を主催しました(明治大学野生の科学研究所)。
本書は、その時の講演「アクティビスト熊楠」「明恵と熊楠」(改題「熊楠の華厳」)に加えて、熊楠の心の構造を探った「熊楠のシントム」、海のエコロジーを探究する「海辺の森のバロック」、本書の全体像を提示する「熊楠の星の時間」を収録した、新熊楠論です。
思想家・中沢新一が提示する、熊楠哲学の放つ強力な火花に驚愕し、目を開かれることになるでしょう。未来を切り開く一冊です。

感想・レビュー・書評

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  • 南方熊楠について、「なんかよくわからないけど天才」ということしか知らず、タイトルに「星の時間」とあるので、天文学でもやっていたのかななどと思いながら読みはじめた。天文学はやっていなかったようだが、熊楠は多岐にわたり学んでいたようだ。

    本書は、熊楠の生涯を紹介するものではなく、熊楠の思考が解説されているものである。哲学や宗教学、心理学、菌類学、生物学、自然科学、人間科学、民俗学、他にも様々な学問が登場するが、ごちゃごちゃしていない文章からは、著者の知識の深さがうかがえた。それでも、無知な人間が読み解くのは難しく、理解には遠く及ばなかったのだが、輪郭がわかるだけでも魅力は味わえたと思っている。未知の物事と、「なにも知らずにこの世を生きている自分」を認識したときには、背筋がぞくぞくして鳥肌が立つ感覚になった。うまれてはじめてことだったので、忘れられない体験となるだろう。

    私は、産業革命や資本主義などについても同様に無知である。熊楠の思考とは逆に、進んでいると考えられているこれらが中心の現在の世界は、これからどうなっていくのだろう。考えたところで、なにせ知識が足りない。熊楠のように本を読み、とにかく一生学んで考えていきたい。そして、いつか「星の時間」が訪れるような人間になりたいものだ。

  • 中沢新一さんによる、南方熊楠の本。
    南方さんの難解な思想、人となりを自然や仏教思想、ラカンなどの用いたキーワードを元に紐解いていきます。ページを開くたび新鮮な驚きがあり、好奇心に溢れながら読み進めました。

    普通の学者としての枠には、収まらない南方熊楠という人をとても魅力的に紹介していると思います。

  •  明治の知識人たちは、親鸞の思想に強く惹かれていました。その思想がカントやヘーゲル穴どの近代思想と構造的な共通点を多く持っていたために、一方から他方への行き来が容易だったためかと思えますし、華厳経学のような古代的な思想体系と近代ヨーロッパ思想とを結びつけて、自在に相互比較をおこなえるような段階にはまだなかったからかもしれません。そういう時代に、南方熊楠は自由な思索者として、華厳教に並々ならぬ関心を寄せたのです。(p.38)

    神社整理(1902〜):それまで新党は決して道徳一本やりのものではありませんでした。道徳の側面を持ちつつも、道徳を超えた価値、すなわち人間的価値の外に広がる自然と瓜生に開かれた価値に通路を開いてきました。ところがそれ以後の日本の神道は、道徳的な側面を全面に出して、それ以外の「人間ならざる者」の領域につながっていく要素を隠してしまう傾向を持つようになります。(p.69)

     生物学者としての熊楠がいちばん気にしていたのは、植物世界に致命的な損傷が加えられ、それによって貴重な生物種の生存が脅かされる危険です。しかしそれと連動して、深いレベルで「社会のエコロジー」や「精神のエコロジー」における危機が進行していくことを、熊楠は見落としませんでした。当時の人々に先駆けて、誰よりも深くそのことを理解していました。(p.85)

     神社合祀は神主や政治家が気づかぬところで、この自然な直感を破壊して、人々をデラシネ(根を持たない存在)に追いやってしまうことになります。
    「社会のエコロジー」レベルで起こるデラシネ化は、個人「精神のエコロジー」にとって、さらに重大な脅威をもたらします。人と神社のつながりというレベルを超えて、それは人間を人間世界の外(非人間世界)から切り離してしまう働きをするからです。意識が清明や無意識から切り離され、知性が感性から切り離され、因果性が偶然性から切り離されて、人間が人間だけの世界に閉じこもって自足するようになる、そのことが人間の「精神のエコロジー」を破壊するのです。これは根源的な人間のデラシネ化にほかなりません。(p.86)

     モーツァルトは作曲する前に曲がいちどに全部頭の中に現れてくる、と自分で書いています。一つの音楽が着想されると、その曲はすべてが一挙に頭に浮かんでくる、ということは、曲全体がかたまりになって一つの和音として聞こえてくるということでしょう。作曲とはモーツァルトにとって、その一つの和音のかたまりの中から、時間軸に沿って展開していく日ものようなメロディの線を引っぱり出し、全体に響き合っている和音の影響を受けつつ、その音の紐を楽譜に書いていくやっかいな「仕事」にすぎませんでした。音楽が浮かんでくるときはまさに悦楽とともに彼のもとに到来するのですが、それをみんなが理解できる曲につくりかえるためには面倒な労働をしなければなりません。それは退屈で苦痛な仕事にすぎないけれども、お金を稼ぐためにはこの苦痛に耐えなければいけないというのがモーツァルトの考えでした。(p.116)

  • 熊楠を通して難解な華厳経の世界の片鱗に触れたような気分になれる一冊。

  • 南方熊楠の思想を西洋の碩学らとの対比で考察した本だが,難しい.第1章では土宜法竜,明恵上人,ラカンらとの華厳経の議論,第3章ではジョイスのフィネガンズ・ウェイク,第4章ではフィリップ.デスコラ,第5章ではレイチェル・カールソンやレヴィ=ストロースが登場し,熊楠の思想との接点が考察されている.第2章は1906年に始まった神社合祀の話で比較的楽に読めた.明治政府は宗教的に酷いことをやってきたのが実感できた.

  • まず小ネタからいくと、掲載されている粘菌の図版を撮影しているのは伊沢正名氏。「くう・ねる・のぐそ(https://www.amazon.co.jp/dp/4635310280/)」の著者で、これまでの人生で一万回の野ぐそをしたことで有名(?)な菌類写真家だ。こんなところで名前を拝見するとはまったく感慨深い。

    タイトルにある「星の時間」とは、それまで蓄積した知識や経験が、まるで星が誕生するときのように一瞬の閃光を放って結実すること。世界の博覧強記も驚かせる博物学者として終生研究に没頭した熊楠にもそのような瞬間があり、真言宗の僧侶・土宜法竜に書き送った書簡の中にそれが現れているという。

    収められている五編すべて口語体でまとめられた講演録。とはいえ華厳、ロゴス、レンマ、淫祀邪教、デラシネ、シントム/シンプトム、ボロメオの環等々、中沢氏お得意のニューエイジ感あふれる単語が飛び交い、ややつかみどころがないようにも読める。

    そこで一貫して主張されているのは、一般の自然科学者が世界=複雑系を西洋哲学的な還元主義で捉えようとしてきたのに対して、熊楠は線的/解析的な思考を離れ、さまざまな思考を越境しながら全体を掴みとろうとしたという事実。そして複雑系の因子をつなぎ合わせる役割を担う「間にあるもの」として、熊楠は粘菌、つまり「動物と植物の間にあるもの」に没頭したらしい。

    途中、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」と熊楠の研究を、精神病理から解放されるための手段としての創作という枠で共通点を見出す記述があり、本文には明示されていないが、両者のアスペルガー傾向が文学と自然科学に新しい地平を導入したという。

    偏執的なこだわり、継続することだけが「星の時間」の到来を呼ぶのかもしれない。モーツァルトにもその傾向がったとか、なかったとか。

    熊楠は日本に初めて「エコロジー(ecology)」という言葉を紹介し、自らの活動でもってそれを実践した人。廃仏毀釈や神社合祀に対して反対の論陣を張ったのも、それによって森を守ってきたコミュニティのユニットが崩壊するからであって、宗教のためではなく自然(内的な自然状態も含む)を守るためであったという。

    著者・中沢新一が二九歳の時にチベットに仏教を学びに行ったのも、熊楠がそれをやりたいと書き残していたからだそうで、少年時代からの憧れであったそうだ。山中に籠って粘菌の研究に没頭しながら、ここまで後世に広く爪痕を残した南方熊楠とは何者か。ひたすら気になってくる。

  • 西洋のロゴスの明確な線で様々なものを分別する手法と、東洋の仏教のレンマの論理による一にして他、相即相入のような、すべてのものが混ざり合って存在すると言う考え方があり(因果から縁起へ)、後者の思想をベースに、熊楠は粘菌の研究などの業績から、いわゆる「エコロジー」よりもっと枠組みの大きな新たな学問の構築を図った、と。

  • 新聞広告を見て、これはすぐに購入しなければと思って入手。残念ながら、結局、何が言いたかったのか、ほとんど理解できなかった。通勤電車の中で読んでいるからか、私の理解力・記憶力が衰えているからか。「森のバロック」で書かれていたことは何となく覚えているので、熊楠がどういう人物で、何をした人かは本書で再確認ができた。ただ、「森のバロック」以降に中沢氏が発見?したことが本書には書かれているはずなのだけれど、それがいったい何なのかが分からない。「レンマ」の意味するところが分からない。「シントム」と「シンプトム」の違いも分からずじまい。「ボロメオの輪」も何を見たらいいのかわからない。ラカンが分からないのか? 何が分からないのかすら分からない。最終章では、唐突にサンゴ礁が現れる。つながりが分かるようで分からない。私の頭の中は熊楠のダイアグラムのようだ。これまたイロハのイが見つからない。ヘも。ワはクと間違ってる? もう、それでなくても混乱しているのに、誤植とか脱字とかあったらますますわからない。もっとも、それらの文字を見つけたところで、何かが新しく分かるわけでもないが。まあ、明恵の人物像を少し垣間見ることが出来たのは良かった。それと、土宜法竜との手紙のやり取りは機会があれば読んでみたい。

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著者プロフィール

1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。京都大学特任教授、秋田公立美術大学客員教授。人類学者。著書に『増補改訂 アースダイバー』(桑原武夫賞)、『カイエ・ソバージュ』(小林秀雄賞)、『チベットのモーツァルト』(サントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)など多数。

「2023年 『岡潔の教育論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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