「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦 (講談社選書メチエ 668)

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  • 講談社 (2018年2月11日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (288ページ) / ISBN・EAN: 9784062586719

作品紹介・あらすじ

井筒俊彦は中近東やロシア、東南アジアにも視野を広げた全東洋的思想を見据え、その根底にある哲学をつかみ、拓いていく。「ある」という事態の最深層に仏教哲学の「アラヤ識」を見届け、「空」と「無」を巡ってイスラーム哲学から現代思想までもが渉猟される。井筒が生涯をかけた「世界的な視野を備えた新たな哲学」は、どんな地点に到達したのか。その哲学的営為の総体を受け止め、さらに先にある問題を見極める。


東洋哲学とは何か。「東洋」は地理的・地域的限定を意味しているのか。また「インド哲学研究」や「中国哲学研究」など個別研究のことを指しているのか。
井筒俊彦は個別研究の枠を超えて中近東やロシア、東南アジアにも視野を広げた全東洋的思想を見据え、その根底にある哲学をつかみ、拓いていく。「ある」という事態の最深層に仏教哲学の「アラヤ識」を見届け、「空」と「無」を巡ってイスラーム哲学から現代思想までもが渉猟される。言語哲学者、イスラーム哲学研究の権威・井筒が生涯をかけた「世界的な視野を備えた新たな哲学」は、どんな地点に到達したのか。その哲学的営為の総体を受け止め、さらに先にある問題を見極める。

みんなの感想まとめ

東洋哲学の本質を探求する中で、著者は井筒俊彦の思想を深く掘り下げ、宗教と存在に関する哲学的な思索を展開します。井筒が示す「アラヤ識」や「空」と「無」の概念は、イスラーム哲学や現代思想とも交錯し、思考の...

感想・レビュー・書評

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  • 「意識と本質」を1回読んでからの参考書として入手。イスラムの源泉はギリシャにあるなど、井筒さんが言いたかったことを端的にまとめていて役に立つ本だった。

    斎藤慶典さんは、「私の専門は現象学だ」と言っている。
    最後の「今ここで=現に」という章が現象学的見地からのものなのかもしれない。井筒さんには故意かどうかは不明だが、無視した範疇があるというのだ。井筒批判?

    p232 その「尽力」を以って世界を時間として開く「機能」を有する「我」と名指されたそれは、いかなるものと考えればよいのか。この問いに、井筒が正面から向かい合った形跡はない。

    この批判が客観的に該当するのかどうか、私にはわからないが。
    「井筒さんの論はすばらしいが、実際の世の中の役にたっていない」と言っているように聞こえる。
    しかし、私は井筒さんのすべての本は「人類にとっての宗教の定義」を考察しているとおもうので、それはそれで完成されていると思う。

  • 井筒俊彦の思想を読み解きながら、著者自身の「存在」と「認識」にまつわる哲学的な思索を展開している本です。

    著者の本はこれまでも何冊か読んだことがありますが、フッサールを論じても、デカルト、あるいは西田幾多郎を論じても、つねに著者自身の考える問題へと立ち返っていくことになるので、じつのところ既視感をおぼえるところもありました。ただそれでも、井筒の言語哲学、とりわけその言語アラヤ識に著者自身の考える「充満する空」をかさねあわせ、そこから井筒のテクストにおける道元の「有事」にかんする言及などに含まれている可能性を押し広げることで、存在が「いま・ここで=現に」というしかたで一瞬ごとに開披されるという考えを展開しているところは、読み応えがあります。

    井筒の言語アラヤ識論には、丸山圭三郎の欲動論と同様に、ある種の神秘的な生命論へと回収されてしまう危険性があるように感じていたのですが、本書はそうした問題点を明確にしながらもそれを乗り越えるような思索の方向性を切り開いているように感じます。こうした本書の解釈が、井筒自身の思想を正しく把握しているものなのかどうかという点にかんしては留保したいと考えますが、いずれにしても興味深く読むことができました。

  • p26 〜すなわち「〜として」〜規定されることで私たちが日々経験する世界は成り立っているのである。
    p36 「生命」とは何かを明らかにするという大問題が横たわっている〜井筒が正面から取り上げた形跡もない。
    #それは生命もまた無限に分節が可能であるから。
    p51 〜意識と存在のゼロ・ポイント〜この地点が単に何もないのではなく、存在への動向で充満しつつもいまだ何のものの姿も見えない(空)という事態〜
    p57 「無分節は、すなわち、分節可能性」〜「理」的観点から捉えられた「空」は、〜一種の「力」「エネルギー」の塊の如きもの〜
    p58 アラビーの〜「存在」を存在エネルギーの働きという流動性において直覚すること
    p60 分節と無分節とは同時現成。〜哲学者は「複眼の士」〜「空」と「色」とを一緒に見る。
    〜このようにして「理」と「事」は何の障礙もなく重なり合っている
    p78 言語によって、世界の知覚的解像度がぐっと高くなるのだ。
    p81 ところがその知覚は、ひとたびそれに「支え」られて〜最初から言語によって規定される〜
    #言語は共有される事で保たれるのであり、それ自体で自立しない。「西洋」哲学の残滓では。
    p99 そのつど、世界は一から全てを一挙に創り出して止まないのだ。〜それらを連続的に結び付ける何ものも見出されない。〜<いま・ここで〜>の内にそれ以外の全ての時と場所がそのつど包摂される〜
    p107 〜アラビーは、「有=存在」の前に、〜「無」が位置すると考える。
    #無は有の後にのみ現れる。有以前は空。これが著者を混乱させている?
    p115 #筆者の葛藤は何か?点が打たれたと同時に地が現れる。その地は点が打たれる前には存在しないが、それを便宜的に空などと呼んでるに過ぎない。
    p117 井筒における「無」と<「無分節」の「存在エネルギー」>の同一視ぶりは徹底している。〜「無分節」と「未分化」は決して同じ事態ではないが〜
    #無の捉え方が違っているのでは。筆者は無を何もない空虚=0と考えている?井筒の無は言わばnull。
    p123 本書が、言葉の厳密な意味での「無」が〜
    #恐らく著者は出発点が違っている。「無」もまた言葉であって不動ではない。ある事象、対象を例える時にできるのは、様々な言葉を用いてそれに迫ろうとする事だけである。
    p123 〜分節線が引かれるとは、〜「存在」が何らかの仕方で「無」に触れることによって〜生じうる。
    #空→分節は観察者の認識(心、呼びかけ)によって生じるもので客観的な無と有の対比はいらない。客観的な無もまた有であって、空と無が並ぶことはない。
    p144 〜「空」と「無」の決定的差異が看て取られているかもしれない〜
    #差異はない。そもそも対象を何と呼ぶかは局面に寄って変わる(ずれる)。その曖昧さであり自在さが「西洋」的哲学と根本的異なるのではないか。
    p158 〜「空」ということそのことの根拠が脱落していること、〜本書の言う「無」にほかならないはず〜
    #それが「無」ではなくて「空」である。「有」を遡って「無」を設定すると筆者の捉え方になり、空→(有→無)→空が井筒の捉え方か。
    p172 アヴィセンナ〜存在は〜白さとか赤さとかいうような普通の偶有とが根本的に違う〜
    #偶有とは「仮有」に近い?どちらも観察者による認知・呼びかけによって生起する。それ自身で「なる」ことはないのでは。問題はこの観察者は「存在させる」が、それ自身で「存在しない」ということ。
    p182 〜普遍的「本質」が個的実在性に「転換・転成」したのではなく、両者が「重なり合う」或る新たな次元が開かれた〜
    #筆者の言うように個的実在性に普遍的本質が「重なる」のであり、転換するのではない。ただ普遍的でも個体的でもない究極の実在という設定は不要ではないだろうか。個的実在の「振る舞い」を束の間に働き(=普遍的本質)とするだけである。
    p196 〜「本質」(が産み出す分節化の輪郭線)が「透明」に成ること〜
    #恐らく、筆者は本質がある、あるいは定義しうると考えているが、井筒は本質(言葉)は仮定しうるに留まると考えており、両者の間にはこの決定的な違いがある。井筒が「意識」と「本質」を対置した意味は、意識とは本質が置かれる前の「ふるまい」の発見、本質とはそれを「働き」として固定化させる事を指したのではないか。

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著者プロフィール

1957年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学博士。現在、慶應義塾大学文学部哲学科教授。専攻は現象学、西洋近・現代哲学。
著書に『フッサール 起源への哲学』『レヴィナス 無起源からの思考』『知ること、黙すること、遣り過ごすこと』『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』(以上講談社)、『「実在」の形而上学』(岩波書店)、『デカルト――「われ思う」のは誰か』『デリダ――なぜ「脱-構築」は正義なのか』(以上NHK出版)、『生命と自由――現象学、生命科学、そして形而上学』(東京大学出版会)、『死の話をしよう――とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門』(PHP研究所) など。

「2018年 『私は自由なのかもしれない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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