国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 9809
レビュー : 869
  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062630863

感想・レビュー・書評

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  • 村上春樹の小説。
    複数の女性を通過して、成長していく物語なんだと思います。
    実際、世の中には人間的には未成熟でも社会的に成功している人って結構いるけれど、本作の主人公も、運を掴んで安定した生活を手に入れた、結構そのタイプ。

    多分これは10年前に読んだら、何も面白くなかったと思うのです。それは自分が世間知らずすぎたからで、
    でもあくまでフィクションと割り切って、出てくる女性(割とひどい扱いを受けている)もすべて創作と思えば、「ああ、こうやって人は自己を開示し、結婚という他者との生活に折り合いをつけられるようになるのかな」と思います。
    本人が最後に破滅するとこまで行かないとこを除けば、割と太宰っぽいかも。

  • ハードカバーの新刊が出てすぐ買ったが、またこの話かと嫌になってすぐ古本屋に売った。
    あれから20年以上経って、どんな小説だったっけとふと思い再購入。
    たしかにまたこの話かとは思ったが、こんなに痛切な小説だったのか…。自分が年をとって色々な経験をしたからこの小説が身にしみたんだろう。彼の作品中、最も悲しみを表した小説だと思う。

    ノルウェイの森同様、最後に「現実」を選択するが、そこに希望も喜びもあるわけではない。悲しみがあるだけだ。
    失ったものは失ったもの、失われたものは失われたものということを認めるのはとても難しい。
    夢はどれほどリアルでも夢でしかないということはあるときにはとても辛い。

    村上春樹特有の回りくどさは比較的薄く、一定のザクザクとしたリズムで話が進んでゆく。
    このリズムの保ち方は見事で、色々な要素が入ってきても全体を貫くトーンがまったくぶれない。一つの曲のような小説だ。

  • 『国境の南、太陽の西』という洗練されたタイトル、軽やかな文章、現代的でありながら哲学的なテーマ性、いずれを採っても非常に面白かった。

    本作品は「作者 村上春樹」ということが極めて重要である。仮に「作者 村上春樹」でなければ、不倫をテーマとした単なる恋愛小説と言えなくもない。他作品、例えば羊三部作などを反芻したうえで村上作品に佇む「喪失的」との対比が浮かび上がる。であるから「作者 村上春樹」であることが重要である。

    誰もが持つ過ぎ去った日の追憶。過去に得られなかったもしくは失ったものへの渇望。それに対する喪失感は、ある時点で取り戻そうとしても、別の喪失感をもたらすだけなのかもしれない。ハジメにとって「島本さん」は幻想が具象化した存在であり、喪失を取り戻すため全てを投げ打つ価値があると錯覚を与える存在であったのだろう。

    「国境の南」「太陽の西」、存在しないその先を渇望する喪失感、恋愛小説と春樹イズムが融合した非常に良い作品であった。

  • 「僕はもう二十年以上君に会っていなかったんだ。その空白を少しでもいいから埋めたいんだ」
    村上春樹の作品に共通する、ある種の陰鬱なる背景は社会的には表向き歓迎され得ないにもかかわらず誰しもに内在している孤独感だったり無力感を正直に代弁しているからこそ受け入れられているだと思う。
    学生時代に読んでいたかもしれないが、まったく印象に無い。逆算すると作者が42,3歳の頃の作品。歳をとった今だから腑に落ちた作品かも知れない。

  •  結婚して子どもまでいる成人男性が、小学校の頃に好きだった女の子と再開してセックスして妻を傷付けるけど、結局女の子は消えちゃったので妻と縒りを戻す話。

     ……もう少しちゃんと書く。
     当時としては少数派の一人っ子だった主人公は、同じ小学校にいた足の不自由な一人っ子、島田さんに想いを抱いていた。別々の中学に進学してしまい、彼女のことを忘れられないまま、高校生になってイズミという女の子と交際をした。彼女と交際するも、彼女は島田さんが持っているものを持っていない、そんな美人でもない、と思い、結構雑に扱う。そんな彼に、イズミは以下の言葉を投げかける。

    「あなたはきっと自分の頭の中で、ひとりだけでいろんなことを考えるのが好きなんだと思うわ。そして他人にそれをのぞかれるのがあまり好きじゃないのよ。それはあるいはあなたが一人っ子だからかもしれない。あなたは自分だけでいろんなことを考えて処理することに慣れてるのよ。自分にだけそれがわかっていれば、それでいいのよ」p.53

     結局他の女と姦通していたのがバレて、正直かつ不誠実な説明(言い訳)をして、イズミはそれを「理解しなかった」。壊れてしまった彼女を置いて東京へ行き、大学4年間をつまらなく過ごし、三十までを孤独に過ごした。
     三十になって一人の有紀子いう女性と結婚するが、そこには安心を求める主人公の気持ちがあったように思う。

    「彼女と一緒にいると、この十年以上のあいだに自分が失いつづけてきたものの重みをひしひしと感じることができた。僕はそれらの歳月をほとんど無駄に費やしてしまったのだ。でもまだ遅くはない、今ならまだ間に合う。手遅れになってしまう前に、少しでもそれを取り返しておかなくてはならない。」pp.91-92

     で、結婚し子どもが二人、少なくとも形式的には順風満帆な人生を送っているときに、島田さん?に再開し、彼は島田さんという亡霊に搦め取られて……。そんな話。



     あらすじをなぞるとこれでもかというほどクズな主人公だが、私が今まで読んだ村上春樹の小説の中では比較的珍しく、主人公は妻と二人の娘もいる、その意味ではかなりスタンダードな社会人だ(義父が金持ちで、そのお金で自分のバーを持って、類い稀なる才能から経営もトントン拍子にうまくいくという点は浮世離れしている観もあるが、まあ…)。
     「子を持つ親として現実的に生きる」というノルマは、自分の孤独な過去や現在の人生に向ける眼差しを、曇らせてしまっているのかもしれない。

    「これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。」
    「でも僕はおおむね幸せな生活を送っていたと言っていいと思う。(中略)僕は何があっても、もう二度とあの二十代のうら寂しい孤独な生活に戻りたくなかった。ここが自分の場所なんだと僕は思った。」p.99

     しかし、どこか自分の根っこから浮いているような生活は、「何か」があったときにぽっきりと折れてしまうものだ。
     私自身、色々あって何もかもなくなってしまった。色々あって仕事もあって不自由なく生きているが、大きな喪失を抱えたままで何か辛いことがあった時、踏みとどまれる気がしないし、踏みとどまろうと思えないのだろうなと思う。
     この物語の主人公にとっての「何か」は、島田さんとの再会。彼はイズミの人生を壊したことを覚えているにも関わらず、妻のいる身でありながら島田さんに深く関わってゆく。それは或いは小学生時代に残したままの空白を埋め、自分の人生を取り戻そうとしているようにも見える。
     島田さんは警告する。

    「とても残念なことだけれど、ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよう。それは一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」p.204

     それでも、主人公はどんどん破滅に向かっていってしまうのだ。


     人は何を持っているかではなく、何を持っていないかによって特徴づけられる、という言説を何かで読んだことがある。主人公は兄弟を持たないことが自分を特徴づけていると幼少期の頃に捉え、島田さんは健常な足を持たないことを深く気にしていた。
     この物語は、そうした自分の中にある欠落なり空白に上手く向き合って生きてゆくことができなかった男の話だと、今は解釈している。
     また、僅かにファンタジー要素があり、お伽噺のような薄気味悪さも相まって、小説のラストはともすればバッドエンドの可能性もある。表層的には主人公はただの浮気・不倫野郎ではあるが、大きな空白を抱え、それが取り返しの付かないものであるならば、彼はどうすれば幸せになれるのか、この小説には示されていない。
     この小説は長編『ねじまき鳥クロニクル』の一部になるはずだったものが、切り離されて一つの小説として独立したという経緯があるらしい。まとまった時間のある時に、次は『ねじまき鳥』も読んでみよう。

  • 再読

  • ここのところ、何かを読むたびに自分の力不足を痛感したり、逆に懐疑的な気持ちになることが多くて辛かったのですが、これは久しぶりにすっと心に落ちてきた。欠けてる何かを埋めたくて、違う自分になりたくて、見かけに拘ったり仕事に打ち込んだりするのだけど、ふとしたきっかけで、それでも自分は「かけている」ことに気が付いてしまう。結局、どこまでいっても私は私にしかなれない。その欠けている部分を誰かが埋めてくれるような気がして人を求めたりする。でもその誰かも結局何かが足りなくて、私に何かを求めているのかもしれない。お互いが何を感じているかなんて本当は結局どこまで行ってもわかりあえなくて、結局理想を投影しているだけなのだ。それに気が付いた時に崩れるものと、始まるものがある。若い時は自分の力が大きくなっていくことを実感できるけれど、ある時を境に後退に転じていることを認めざるを得なくなる。考える力も落ちてくる。でもその過程で得たものもある。人間満足できないようにできているのかな。ラストは普通に考えれば有紀子なんだけど、ちょっぴり誰だかわからない不気味さを孕んでいて、余韻へ誘う力が、、さすがだな、、と思った。

  • 心を奪われたのは、ずっと昔のことなのに。
    人生のどのタイミングでも鮮明に蘇る

    それは 好き、という言葉では"たぶん"軽々しくて、自分を構成するものが 全てその人の力によって動かされるほどの激しい感情

    おそらくそれは、自分の力ではどうすることもできない不可抗力的なもの。
    中間的な中間は存在し得ないからこそ、苦しくなる

    珍しく、2回読み返した本。

  • 何気に初•村上春樹。
    食わず嫌いだったので、ハナから斜めな感情で読み始めた。
    まどろっこしい文体が現代小説っぽいなー
    と、数ページ読んではやめの繰り返しだった。
    今日、改めて途中からスタート。
    どんどん引き込まれていった。

    登場人物は少ないながらも、全員が濃ゆいストーリーを与えている。
    主人公の葛藤、と書いたら稚拙すぎるが、人を愛する事、どうすることも出来ない事、自分の感情と、それによって影響される事象。
    複雑かつシンプルなコトに囲まれて、生きている人々。

    「とても残念なことだけれど、ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしその時に何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」
    は印象的なセリフ。

  • 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読了して以来、何となく、過去の作品が気になって中古屋に前々から気になってたので買ってみた。


    「誰かの人生というのは結局のところその誰かの人生なんだ。君がその誰かにかわって責任を取るわけにはいかないんだよ。ここは砂漠みたいなところだし、俺たちはみんなそれに馴れていくしかないんだ。なあ小学校の頃にウォルト・ディズニーの『砂漠は生きている』っていう映画見たことあるだろう?」
    「あるよ」と僕は言った。
    「あれと同じだよ。雨が降れば花が咲くし、雨が降らなければそれが枯れるんだ。この世界はあれと同じなんだよ。虫はトカゲに食べられるし、トカゲは鳥に食べられる。でもいずれはみんな死んでいく。死んでからからになっちゃうんだ。ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ。本当に生きているのは砂漠だけなんだ」

    言葉の反復技法は今も昔もその表現方法は変わらないんだな、と感じた。「僕」に関わる性と邂逅と欠落と喪失。そして、周期的に論じられる村上春樹流「三十五歳問題」論はそれぞれの作品を通しても通じるものがある。これらが村上春樹を、村上春樹たらしめる所以なんだろう。一人称「僕」でなる物語は、客観視ではなく、あるいは形而上的に、主観的にみることによって狭小な「僕」のミクロな世界となって、そうすることによってそのことが、「青春文学」と呼ばれる作品形態の一端を担っているのだろう。


    「私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの」


    「太陽の西には何があるの?」と僕は訊いた。
    彼女はまた首を振った。「私にはわからない。そこには何もないのかもしれない。あるいは何かがあるのかもしれない。とにかく、それは国境の南とは少し違ったところなのよ」
    ナット・キング・コールが『プリテンド』を歌うと、島本さんも小さな声で昔よくやったようにそれに合わせて歌った。

    プリテンニュアハピーウェニャブルウ
    イティイズンベリハートゥドゥー


    国境の南、太陽の西。
    良い言葉。

    • 悠然卿さん
      こちらこそわざわざコメント残していただき光栄です。
      ありがとうございます。
      今後とも拙い感想ですがよろしくお願い致します。
      こちらこそわざわざコメント残していただき光栄です。
      ありがとうございます。
      今後とも拙い感想ですがよろしくお願い致します。
      2013/05/10

著者プロフィール

村上春樹(むらかみ はるき)
1949年、京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市芦屋市育ち。早稲田大学第一文学部映画演劇科卒。大学在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺・千駄ヶ谷に開店していた(1981年、店を人に譲渡)。1979年にデビュー作の「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞。谷崎潤一郎賞、読売文学賞、朝日賞など数々の受賞歴がある。2006年にフランツ・カフカ賞、2009年にイスラエルのエルサレム賞受賞。ノーベル文学賞に最も近い作家の一人と言われており、毎年発表時期に日本国内でニュースになる。事実、村上春樹作品は全世界で翻訳されており、アメリカ・アジアでの評価がとりわけ高い。フィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーなどの作品の翻訳も手がけ、翻訳家としての仕事も高い評価を受ける。翻訳と創作活動を交互に行うことで、作風を変化させ、作家としての成長を続けている。新作が発表されるたび大きな話題となるが、近年は特別番組「村上RADIO」にてラジオDJも務め(不定期放映)、数々の名言も注目を集める。代表作に『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』。2019年7月31日に『神の子どもたちはみな踊る』が舞台化。アメリカのサックス奏者スタン・ゲッツの伝記翻訳を2019年8月刊行。2019年9月10日発売の『文藝春秋』10月号で「至るところにある妄想 バイロイト日記」を寄稿。

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