深い河 (講談社文庫)

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レビュー : 586
  • Amazon.co.jp ・本 (374ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062632577

作品紹介・あらすじ

愛を求めて、人生の意味を求めてインドへと向う人々。自らの生きてきた時間をふり仰ぎ、母なる河ガンジスのほとりにたたずむとき、大いなる水の流れは人間たちを次の世に運ぶように包みこむ。人と人とのふれ合いの声を力強い沈黙で受けとめ河は流れる。純文学書下ろし長篇待望の文庫化、毎日芸術賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • 大学卒業後くらいに読んだのが初読で今回は再読となります。初読時の記憶はあやふやでストーリー展開はほとんど覚えていませんでした(テーマについては記憶あり)
    以下感想。
    --------------------------------------
    何度も何度もくりかえし顕われる、弱き者傷ついた者に、ただ寄り添う「誰か」の存在。
    奇蹟は起きない。奇蹟は起きないけれど。

    神はいるのだ。
    泣く私を慰めて頬を撫でる伴侶のうちに。
    失意の伴侶の傍らに立つだけの私のうちにも。
    つらい失恋を癒す音楽に、孤独に立ちすくむ人を包む陽光に、言葉を持たず手をそっと舐める犬のうちに、神はいる。
    虐げられた者、弱き者、醜い者、欠落を抱えた者、罪を犯した者の傍に神はある。
    沈黙してただ寄り添う神は、この大気に溶け込んで在るのだ。

    遠藤周作の描く神の姿は、なんとちっぽけでなんと優しいのだろう。
    泣く者の涙を止めることもできない無力な神は、しかしながら決して誰をも見捨てることなく誰の人生にも同伴する。

  • 当然ながら、人はみんな違うこと、違う苦しみをもっていること、そこから救われるために何かを信じたり追い求めたりすること、その中で自分の気持ちの持ちようが変わることで、少しだけでも救われることがあるなど、それぞれの登場人物の人生を通して考えさせられました。

  • センター倫理の自習中に参考書で紹介されていた一冊。
    其の所為か、倫理の学習形式で喰い掛かって仕舞った様にも思う。

    遠藤周作は「沈黙」でも然りだが、「神を奪う快楽」を鮮明に描写する。
    神を信じる者に、何らかの手段で神を棄てさせる事をする快楽の事だ。
    ソレは、読むと其の快楽も想像に難い訳でも無く納得出来るものだが、
    実際に其の快楽を獲ようとするだろうか、と考えると、中々思い及ばない。
    無神論者と信徒の論じ合い等は有り触れているが、論破する訳で無く、為す術無く冒涜行為に及ばせ、信者を絶望させる事をさせると云うのは、
    させる側が相手の信仰対象に深入りし、「冒涜」とは何であるかを識らなければ抑々成り立たない行為である。

    私は作中の美津子と似通った性質を持っているが、宗教的観念を信じないが故に、信仰に耽る人間に対して無関心なのだ。凡その無宗教者は「無関心」に当たるだろう。
    宗教観念を忌避したとしても、宗教観念を懐く人間や口から出る言葉に態々嫌悪を示さないのが一般的だろうと考えている。
    恰も悪魔を崇めるのを切支丹が忌避するかの如く、彼女は宗教観念に関わる対象全てを咎めている。其れが不思議で為らない。
    此れが所謂「無宗教者と云う宗教者」の典型なのかも知れない。
    ともすれば、此の作品に収められた宗教観念は仏・基督・ヒンドゥーに加え、もう一つの宗教観を描いているのだろう。そして基督教では更に作中人物に依って分岐されている。
    美津子の性質がしっくり来る私だが、神父になるべく生きている大津の言葉には、何か惹き付けられる物を感じた。人が神の姿を変えている事、宗教は何れも根本は同じである事を肯定的に示しているのは誰でもない、大津だろう。
    そして神や基督を「玉ねぎ」と表現する事を躊躇しない事も。
    然し宗教や、一部での愛や神の存在は、ただ虚しく、救われる事は疎か争いさえ生む。
    其れでも「これしか無い」と考える人は、苦境に居る自身を、死にゆく自身を慰めたいのかも知れない。

    波乱の戦時中を生き抜いた木口の、誰にも語りたくない苦痛や、浅はかな共感・同情の言葉に憤りを覚える所には酷く共鳴を覚えた。そして時と場面に依って、不図語りたくなる事にも。
    トラウマという物は、言葉にする事で、言葉のみを認識される事に依って、共感される事に依って、
    触れ、撫ぜられる事で更に抉られるのだと、改めて思い知った。尤もだと肯ける事だ。

    浮気で離婚話が持ち上がる現代だが、此の中では”浮気をして迄も別れる気はない"夫婦と云うものが、本来在るべき結婚生活なのでは無いかと考えさせられた。
    古風の考えで惰性的にも夫婦生活を続け、其の中で夫婦間の秩序を見出さずに不足や不満を補おうとする事は、咎められても過ちでは無い様に感じる。恋愛と結婚は違うと云う言葉は、単に財や地位、容姿や性格に於ける基準だけでは無く、「生きて何をするか」と「死んで何を遺すか」の違いなのだろうと感じる。
    連帯感を「埃のように積もる」と形容されているのが、何処と無く印象的で現実味を帯びていた。

    全てを包み、生死の共存を図る「ガンジス川」は、其の穢れ故に美しいのだろう。

    内容に依らずに退屈させない文章、展開を描ける事には本当に感服する。
    そして終幕の虚しい展開が、宗教と云う物が如何に無意義で非力であるか、世の成立ちが如何に惨酷かを示している。
    共鳴よりも、此の世界の真理を抜き落とす事無く詰め込まれている此の著書は、しがんだガムの味が消えない様な、噛みごたえと味のある一冊だと感じた。

  • 手元に置きたくて、何度でも読みたくて中古で購入しました。
    今も再読中。初の遠藤周作作品♪

    自分の人生の節目にフッと読みたくなる。。。

    何度読み終わっても、なんか忘れられない不思議な響きの本。
    記憶から消えない本です。

    映画は見てないけど、この世界観は映画だと表現しきれるのかな…。

    文章の方が絶対しっくりする作品だと思うので、映画はあえて見ない。(配役もイマイチ好きじゃないし…)

  • 再読。
    それぞれの理由を持った男女がインド旅行ツアーに参加し、それぞれを見つめ直す。
    根底にある題材は、輪廻転生や神、葬い、自然など。
    中でも神については割合が割かれている。

  • 母親の影響が大きかった訳だが、子供の頃遠藤周作は好きでなかった。ぬるま湯のキリスト教と揶揄され、煙草も吸い、お酒も飲むいい加減なクリスチャンの書くものなんか読めないと思っていた。当時ゴールドブレンド(コーヒー)のCMに出ていたことも何となく彼の作品を遠ざける要因でもあった。

    ところが、自分が歳を重ね色々な経験を積んでくると、今度は逆に白黒ハッキリ付けるものの方が薄っぺらに思えてくる様になり、弱さを抱えた人間を描く遠藤周作にいつの間にか入れ込む様になった。さて、現在の母親の遠藤周作評はどうなのだろうか?

    文庫本の帯に、「遠藤文学の集大成」とあるが、小説の内容として集大成だとは思えない。一人一人の内面を掘り込むには、登場人物が多すぎるし、美津子の学生時代から新婚時代までの描写や大津との出会いなど余りにも単純というか、現実味を欠く。

    しかし、西洋の影響を受けたキリスト教、宣教師輸入型のキリスト教ではないキリスト教、日本人にとってのキリスト教の本質とは何かを探求する姿は、この作品を通してよりハッキリと現れている様に思う。著者は大津と自分を重ねながら、自分を偉い者とするのでは無く、イザヤ書(比喩的に言えばピエロ)をテーマとした虐げられた姿のイエスに倣う者でありたいと記していると思う。

    作中のキーとなる言葉を、大津とマハートマ・ガンジーの言葉として記している。

    「でも結局は、神がヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも、生きておられると思うからです。」

    「以来、イエスは彼等の心のなかに生きつづけました。イエスは死にました。でも弟子たちのなかに転生したのです。」

    「(神は)このぼくのなかにも生きているんですから」

    「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ」

    「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか」

    これらの表現は、学生時代には到底受け入れられなかっただろう。聖書の「逆説の真理」と「何でもあり」のイエスの姿に気付く前の自分が懐かしい。。。。

  • 読むのは3回目
    この本が大きなきっかけになり、ベナレスに行きたいと思い、今回念願かない、旅行前に読んだ。

    映画も見たいなぁとずっと思いながら読んだ。
    秋吉久美子のガンジス川の沐浴シーンは映画を見たかのように印象に残っている。
    奥田瑛二と大津がどうしても結びつかない。映画ではどんな感じなのか気になって仕方ない。

    日本人でありながらカトリック教徒であることの難しさ、葛藤のようなものを、作者は大津に重ねたと思うのだが、ラストの解釈はどう考えたらいいのだろう。

    実際のベナレス、ガンジス川でも、火葬しているところ、たどり着いて行き倒れになっている何人もの人たち、真剣に祈る人、沐浴する人が見られた。が、その時、この小説、映画を直接思い出すことはなかった。
    目の前にあるものに圧倒されたからだと思う。

    ガンジス川で、ヒンドゥー教をひたすら信じる多くの人々を前にした時、信仰を持ちながら矛盾した気持ちを抱えている大津や作者は、どんな思いでいたのだろう。

  • 遠藤周作の作品の中でも、いや、これまで私が読んだ小説の中でも五本の指に入るくらい好きな小説です。好きな、というよりも、自分自身の生き方、人生に大きな影響・足跡を残してくれた本でした。
    キリスト教とはなにか、神とはなにか、さらには宗教とはなにか、様々な登場人物のストーリーが入り乱れるなかで、やはり大津の物語だけは異彩を放ってこの物語の枢軸となっています。

    宗教とは不思議な存在です。大津の言葉で言えば、自分自身が「神に捕まった」と認識しなければ到達し得ない境地がある。私は、仕事柄キリスト教カトリックの行事に触れることが多く、またカトリックの教えについて、良いなぁと思うことも多く、好感を持ってキリスト教という宗教を見つめています。しかし、それでも、私は信者ではありません。信者と、そうでない人の間には大きな「断絶」があります。いくら好意的に見ていても、そして好意的にカトリックの教えを頭にいれても、それでも越えられない溝がある。自分自身が「神に捕まった」と感じられる人と、そうでない人との差であり、その差は宗教から受けとることのできるメッセージの質の違いへとつながっていきます。

    少し、話がそれました。
    物語の終盤、マハトマ・ガンジーの言葉として次のように語られています。
    「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。」
    「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか」
    とあります。
    人間は、一人では生きられない存在であり、連帯することではじめて生きられる。
    しかし、悲しいことに、その連帯はしばしば対立を基調として形作られる連帯だ。
    「人は愛よりも憎しみによって結ばれる。人間の連帯は愛ではなく共通の敵を作ることで可能となる」
    人間のもつ悲しむべき愚かしさ、弱さ。それに対して真っ向から、そしてたった一人で孤独に立ち向かう大津の姿。
    遠藤周作の最晩年の、最も円熟した小説です。人生のなかで1度は読んでいただきたい本です。

  • ツアー参加客は様々な思いをもってインドへ向かい、対面していく。戦時中の悲惨な体験が棘となっている老人は兵士達を追悼しに。妻を癌で亡くした男は妻の生まれ変わりを探しに。 自分に空虚感しか感じない女は、自身の「神」を信じ、探し続けている男性に会いに。 

    実用書でもなく、ミステリーでもないのに読み返したのは久し振り。良かった!
    インドの環境は人間本来活動を否定しない文化で世界の縮図なのかもしれないと感じた。 犠牲、活力、富、貧困、人権、差別、慈愛、残酷、生、死。両極が混在している。その地では当然のこととしてそれらが受け入れられている。自身の死、であっても。 人は自らの死を受け入れるべく聖なる河へ旅立つ。聖なる河は、それらをまるごと飲み込み浄化し、また大地へ返す。 
    自分はそれらの文化を直視し、そこへ永遠に身を投じる決意は出来ないだろうと思う。きっと旅人で終わる。 おそらくこのままお独り様として死を迎えることになるかもしれない、と漠然と考えるこの頃だけれど・・・。 生きている間、でっかいことをしよう、とは思わないまでも 小さいことだけれど 自分に正直に誠実に生きて行こうと思う。 感情にまかせて後悔するようなことがあったとしたら ひとつずつ誠意を持って償っていこう。
    これからのささやかながらの具体策発見。

  • もう20年近く前だろうか
    30になりたての僕はこの本を読んだ
    夢中で読んだ記憶もストーリーも残っていた
    ただ、当時、この小説の意味がわかっていなかった気がする
    もうすぐ50を迎えようとする今、再読して改めて、人間の河の流れる向こうはわからなくても、過去の多くの間違いを通して、自分が何を欲しかったのか少しだけわかった気がする…信じられるのはそれぞれの人がそれぞれの辛さを背負って深い河で祈っているこの光景…その人達を包み込んで河が流れているということです。人間の河。人間の深い悲しみ。その中に私もまじっていますという意味がわかった気がする。
    そして読み終わった今、これまでの自分の生き方と自分の人生の意味を深く考えている。
    旬には遅れてやってくるものもある。年齢が追いついた時、再びめぐり合う小説というものがあるのかもしれないと思った。

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著者プロフィール

遠藤 周作(えんどう しゅうさく)
1923年3月27日 - 1996年9月29日
東京生まれ。父親の仕事で、幼少時代を満洲で過ごす。帰国後にカトリックの洗礼を受けた。1941年上智大学予科に入学したが、中退。慶應義塾大学文学部仏文科入学・卒業後、カトリック文学を学ぶためにフランスへの留学。帰国後の1954年『アデンまで』を発表し小説デビュー。1955年『白い人』で芥川賞を受賞し「第三の新人」として脚光を浴びた。
1958年『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞及び第12回毎日出版文化賞、1966年『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞、1979年『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞、1980年『侍』で第33回野間文芸賞などそれぞれ受賞。1995年に文化勲章を受章している。
上記受賞作のほか、1993年刊行『深い河』もキリスト教と日本人をテーマにした代表作と見なされており、映画化された。60年代以降「狐狸庵山人」(こりあんさんじん)を名乗り、様々なエッセイを記した。数々の作品が欧米で翻訳され高い評価を受けており、存命中ノーベル文学賞候補だったこともよく知られている。

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