殺人容疑 (講談社文庫)

  • 講談社 (1996年1月1日発売)
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感想 : 10
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  • 本 ・本 (650ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062633437

感想・レビュー・書評

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  • 1994年上梓、純度の高い傑作。

    時は第二次大戦前後。舞台は米国ワシントン州の西にある孤島サン・ピエドロ。島民は約5千人、1920年代には多くの日本人が移住し農業などに従事していた。今では、その二世らも大人になり米国籍を取得できる日を待っていた。だが、大東亜共栄圏という虚妄の大義を掲げ、覇権主義をひた走る〝祖国〟によって望みは打ち砕かれた。1941年12月8日、真珠湾攻撃を発端に米国との無謀な戦いを始めた日本。敵国の人間として在米日本人は強制収容所へと送られた。二世男子の少なからずは米兵として従軍、主にヨーロッパ戦線で対ナチスの地獄を味わう。その命懸けの〝愛国心〟の発露も虚しく、帰還した足に絡みついたのは依然として根深いレイシズムという鎖だった。

    日本敗戦から10年が経った1954年9月16日。沖一帯が濃い霧に覆われた早朝、漂っていた漁船から刺し網漁師カール・ハインの死体が発見された。当初は事故死と見られていた。自らの船で転落し、漁網に絡まり身動きが取れなくなったことによる水死。だが、船内の状況と漁師らへの聞き取りにより、他殺の線が浮上。保安官は、間もなく容疑者を特定する。日系二世カズオ・ミヤモト。カールの幼馴染みだったが、二人の間には父親の代から続く土地を巡る因縁があった。

    本作が優れている点を挙げれば切りがない。現在と過去をドラマチックに繋ぐ構成力。数多い登場人物を描き分け、しっかりと印象付ける造形の分厚さ。戦争と差別に翻弄された人々の苦悩を軸に、人間の尊厳を問い直すアクチュアルなテーマ性。
    多民族国家としてのアメリカが抱える闇。作者は、人間の尊厳を踏み躙る社会を物語の根底において批判しているのだが、特筆すべきは、その公平な視点が最後まで揺らぐことがない、ということだ。日本人移民を取り上げているが、例えどこの国の者であっても、スタンス不変の気高い倫理観を感じさせる。
    黒人や先住民族らへの差別が潜在意識に染み込んだ米国社会に於いて、日系人だけが例外となるはずはない。しかも、わずか10年前は憎むべき敵国だった。陪審員は提示された事実を吟味することなく、歪んだ先入観/偏見のままで結論を出そうとする。この辺りの流れは非常に怖い。現実社会に於いても、偏見に基づいた数多の冤罪が生み出されてきたであろうし、米国の陪審制が抱える大きな問題点をも本作は抉っている。

    物語は法廷シーンから始まる。裁判の進行と共にカール・ハイン事件に関わる者の背景が過去へと遡り、徐々に明かされていく。

    状況は全てカズオには不利だった。検事が提示した物的証拠は、カールの船にカズオが乗り込んでいたことを裏付けた。また、カールの妻は、事件前日も二人が激しく言い争っていたと証言した。カズオは殺人容疑を否定するが、結果的にカールとのやりとりを隠していたことが災いし、追い詰められた。
    その様子を一人の男が傍聴席から見詰めていた。島で唯一となる新聞の発行者兼記者のイシュマエル・チェンバーズ。太平洋の戦地から帰還後、死んだ父親が一代で築いた稼業を継いでいた。戦場で片腕を失ったイシュマエルは日本人に対する怒りがくすぶっていたが、そこにはより複雑な感情が絡んでいた。被告人カズオの妻、ハツエ。少年期、イシュマエルは彼女を愛していた。それを阻んだのは人種という厚い壁だった。その隔たりを理解しつつも、一方的に彼女に裏切られたという屈折した恨みが薄れることはなかった。そしてこの時、粛々と進行する審理を傍観していた隻腕の男は、カールの死の真相に繋がる事実を掴んでいた。ハツエが愛する男、カズオ。ハツエを愛した男、イシュマエル。言い知れぬ愛と憎しみの中で新聞記者は身悶える。

    物語の大半を占めるのは、事件に関わる主要人物の回想となる。下手な作家であれば中弛みの要因ともなるが、グターソンの静謐で詩情溢れる筆致によって、どんどん引き込まれていく。鮮やかに読み手へと迫ってくる心象風景。過去と現在を繋ぐ挿話が、緻密な構成と力強いタッチで塗り重ねた油彩のように魅了する。
    表情を変えてゆく美しい自然の中で描かれるイシュマエルとハツエの幼い愛。
    雪の白銀、苺の朱色、森の深緑、海の群青。人や植物、動物が生々しく匂い立つ。
    寂れた港町の情景。春から夏へ。風薫る苺畑の輝き。年輪を重ねた杉が自生する森林。雨季のスコール。秋から冬へ。降りしきる雪。いくつもの年月を経て土地は開拓され、島民は生きる知恵を学び、子を育て、閉鎖的ではあるが豊かなコミュニティを築き上げてきた。
    季節は巡り、大きな戦争を挟んで、時は流れた。

    カズオの裁判が始まったのは12月だった。島は18年ぶりという猛吹雪に見舞われ、町は混乱の極みにあった。突如起こった「殺人」事件は、隠されていた人々の業を剥き出しにした。凍てつく人心。掘り起こされた人種という種。それは〝共存〟という名の花を地上に咲かせることなく〝差別〟へと形を変え、足を絡め取られる泥濘の如く島民を苛つかせた。

    当然のこと人種差別を忌み嫌い、傲慢なレイシストらの所業に敢然と抗う者もいた。その崇高なヒューマニズムを表出するエピソードの数々が心を打つ。
    彼らもまた、かつては移民であった歴史を持ち、共感の度合いは強い。だが、それよりも深い人間性に根差したものであることを伝える。
    事件解明の鍵を握るイシュマエルはユダヤ系。その父アーサーは、日本との戦争勃発以降も新聞での言論を通して、島民である日系人は同朋であると擁護し、いわれなき差別を止めるよう呼び掛け続けた男だった。当然、中傷を浴び、新聞の購読数は激減する。だが、気骨の男は些かも揺らぐことなく、信念に生きた。また、カールの血族もドイツからの移民で、父親は島で財を成しながらも、驕り高ぶることなく日系人と接し、敬愛された。殺人容疑の「動機」となる7エーカーの土地売買に関わるトラブルも、彼が生きてさえいれば解決できていた問題だった。

    さらに裁判終盤では、カズオの弁護士ガドマンドソンと判事フィールディングの言葉が、読み手を大きく揺さぶることだろう。ガドマンドソンは陪審員に「これは偏見についての裁判だ」と明瞭に語り掛け、一人の人間としてのカズオに評決を下すよう求める。フィールディングは「あなた方の各人が、恐れたり、えこ贔屓をしたり、偏見を抱いたり、同情したりせず、正しい判断力を働かせ、疾しさを覚えずに、証拠にもとづいて」全員一致で結論を出すことを告げる。この彼らの誇り高く滋味深い言動は、読んでいて胸が熱くなるほどで、単純な謎解きミステリにはない深い感動へと誘う。

    終幕では、事件当日の「事実」が綴られていくのだが、ここでもグターソンの筆力の凄さに圧倒された。まるで、読み手自身が波涛に呑み込まれていくような錯覚に陥る。そして「その後」を追う、どこまでも静かで耽美な情景に酔う。
    「カズオは通り過ぎる貨物船の汽笛の低い音が海面に響くのを聞いていた。……それは、灯台の、もっと高い、もっと物侘びしい霧笛の音と交互に聞こえた。霧がその音を包み、くぐもったものにした。そして、貨物船の汽笛の音はひどく太かったので、この世のものではないように聞こえた。……ぶつかり合う、二つの耳障りな音。……カズオ・ミヤモトは家に帰って妻を抱擁し、自分たちの人生がどんなに変わったかということを妻に話した。」
    暗い海の上で汽笛と霧笛の音がぶつかり合う。この描写に、不条理と対峙せざるを得ない人間の苦闘を視る私は深読みし過ぎなのだろうか。

    そして、多くの時間を掛けた陪審員らは、評決を下した。


    原題は「Snow Falling on Cedars」。1999年に「ヒマラヤ杉に降る雪」のタイトルで映画化もされており、原作の世界観を陰影のある映像で仕上げた秀作だった。
    グターソンは、これも傑作となる「死よ光よ」(1998)が翻訳されているのみ。いったい、日本の出版社はどこに目をつけているのだろうか。作品とは関係ないが、翻訳本の邦題と装幀は、本作の主題と魅力を全く表現出来ていない。この名作が埋もれたままになっている最大の要因だろう。

    閑話休題、
    本作は至高のミステリであり、紛れもない文学作品である。

    • yunnkeruさん
      早速、読んでみます。素晴らしい書評ありがとうございます。
      早速、読んでみます。素晴らしい書評ありがとうございます。
      2024/02/01
  • 静謐な物語。淡々と話は進んでいくが重い。人種差別、偏見、青春の甘酸っぱさや、戦争に翻弄される運命。様々なものを孕みながら物語は進んでいく。

    軽いミステリーを期待して読むと、あれっと言う感じになるでしょう。

    それにしてもこのタイトルはない。現代を直訳した方がいいと思う。

  • 猟師が死んで日系アメリカ人のカズオ・ミヤモトに殺人容疑がかけられたという物語。人種差別について書かれている小説ということで期待して読んでしまったのだけど……正直、肩透かしを食らってしまった。
    『事件・裁判』と、『事件関係者たちの過去』が入り乱れて書かれていて、人種差別もあるけどメインはそこではない感じ。人種差別も、なんていうかザラザラしたものを感じる。『キャラがそう感じている』のではなくて、調べた結果、おそらくこう感じるだろうというものが散らばっている。
    日本の文化や価値観も出てくるけど、翻訳のせいなのか原文がそうなのか、『日本文化らしい何か』や『日本的な価値観っぽい何か』に変容してるような気がして、これはどこの国の話をしてるんだ?と思ってしまった。それとも海外に暮らしていたら、『日本のこと』はまだら模様になるからこういう価値観や文化になるしかないのだろうか。

    日本についての話は『どこか異国っぽい』感じがしてしまうし、差別に関しても『露骨な差別』ではなくて『薄っすらとした分かりづらい差別』があちこちに散らばっていて、これを読み取るにはそれなりの知識も必要だろうなと思ってしまった。さらにこの人種差別に女性差別まで乗っかっていて、『わかり難さ倍増』な感じがする。

    特に白人少年(ハツエの幼馴染・イシュマエル)と日本人の少女(カズオの妻・ハツエ)の恋愛の部分は、いろんな要素が絡まりすぎていて『人種の差』が表に出てるけど問題がそれだけではないという複雑さ。……恋愛小説を読んでたかなと思ってしまった。

    読み終えたら、この二人の恋愛を軸にハツエの夫が捕まるという事件が起きて、偏見の入り乱れる裁判が開かれるという物語だなと思った。主人公はイシュマエルで、新聞記者として事件の取材をしているうちに重要な証拠と事実にたどり着く。
    かつては恋人のようだったのに、ハツエはイシュマエルを振って、カズオと結婚。イシュマエルはハツエに執着し続けている。島の住民たちのように自分には偏見がないと言いながら、イシュマエル自身も偏見からは逃れられず、カズオがいなければ……と思ってしまう。

    描写は細かくて綺麗。

    期待した分がっかりしたけど、恋愛もの・事件としてはそれなりに面白いと思えた。人種の壁と時代と文化、様々なものが混ざり合っていた。
    ごちそうさまでした。

  • 読み応えはあります。凄く。
    ただ、ミステリとして読むとチョットしんどいかな。
    主要人物の掘り下げとか、風景の描写とか、その他諸々と。
    只、其処を端折っちゃうとこの小説は味気なくなっちゃうんだろうな。
    私が抱いていた期待とはズレがありました。

  • 英語の課題で原作を読めと言われて、でも本当に全部を英語だけで読もうとすると亀みたいな速さになるので日本語版も購入。
    原題は「The snow falling on the cedars」
    道理で検索かけても出てきづらいわけだ。私は原題の方が好き。
    日系アメリカ人への差別意識、戦争のPTSDやアフターフォローの問題、複雑な人間関係、ミステリの真実がだんだん明らかになっていくところ、全部がお互いを邪魔しないできっちり成り立っていた。終盤、理屈が全部成り立ったときは一旦本を閉じてしばらく感じ入っていた。

  • 濃密なストーリーで、じっくり読むことができました。ワールドワイドに人が行き交い、溌剌と人生を紡いでいく。そんな時代はいつ来るのでしょう?国同士がいがみ合えば、そこに住む敵国外国人はシンドイ思いをする。この当たり前を無視するのが、軍備を背景とする国策。

  • 義父からもらったシリーズ。
    ミステリーかと思ったら、ちょっと違ったかな。
    ある殺人事件の裁判を描きつつ、容疑者、被害者などなどそこに関わる人々の人生を描いていた。
    なんか分かんないんだけど、スピーディに読めなくて、じっくり少しずつ読んでいった。珍しくすごく時間がかかった。分厚い文庫本ではあったけど。

  • 暇つぶしのミステリーとして読もうとしたところ、タイトルとはかけ離れとても素晴らしい物語でした。
    第二次世界大戦中に在米日本人として生きる人々や当時の日本人の振る舞い等、外国人の著者が日本人メンタリティや精神世界を美化している感は否めませんが、とても良いはなしで大好きです。
    タイトルの殺人事件やミステリーの部分より人々の人生や、良くも悪くも時間は進んでいくものであり、選択した結果や起こった出来事を元に戻すことはできないと強く感じました。
    「ヒマラヤ杉に降る雪」のタイトルで映画化されたと思います。映画は見ていませんが。

  • なんでこのタイトル。
    ミステリ漁りの流れの中で読み始めたら、なにやらどこかで観たような内容。
    これ、「ヒマラヤ杉に降る雪」じゃないか。
    ミステリとして売られてた本だったんですねー
    ミステリにしては、ちょっと畑違いな感じもありますが、そういうの関係なく普通に面白かったです。

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著者プロフィール

1935年生まれ。翻訳家。デイヴィッド・ロッジ作品の翻訳を手がけるほか、イーヴリン・ウォー『スクープ』『イーヴリン・ウォー傑作短篇集』『イーヴリン・ウォー伝』など、英国文学の翻訳多数。

「2020年 『ポリー氏の人生』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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