- Amazon.co.jp ・本 (418ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062635790
感想・レビュー・書評
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再読。とは言っても話しをほとんど覚えてなく新鮮に読めました。
作中作の文体に馴染めず最初は読むのに苦労したが、中盤からは加速。雰囲気は好きなのだが、いかんせんテーマが重すぎる。人も重すぎる。結末はとってつけたような感じが否めない。
続編が「ゴサイタン」で、これも読んでいるが、粗筋覚えてないので再読したい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
駅施設内交換本。
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主人公の実藤の考え方や人柄が、最後までどうしても好きになれなかった。
登場人物の全員に好印象を持てなく、しんどい。
東北に行く場面や、その土地の出来事などはまるで旅行している気分になれて、情景が目に浮かぶようだった。
再読はないなと思った。
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私の個人的な感想としては、
何故か惹きつけられる本、だった。
私が惹きつけられた要因を言葉にするのはすごく難しい。
日常の中の不気味さなのか、
ジワジワ心に浸食してくる恐怖なのか、
鮮明に再現できそうな主人公の感情なのか、
自分でも正直分かっていない。
でも、この世ではありえない、と思っていても、
簡単に頭でイメージできてしまうような、
日常感?のようなものもあって、何故か読み進めてしまう
ワクワクしてページをめくるというよりかは、
怪談を聞きたくないのに、つい先を聞いてしまう時の興味で読み進めてしまうような本。 -
6月-17。3.5点。
未完の小説を残し、姿を消した女流作家。編集者が執念で探し、完結させようとする。
死者との関わりが中心だが、宗教色はそれほど感じなかった。まあまあ面白い。 -
2017.2.1(水)¥220(-2割引き)+税。
2017.4.11(火)。 -
なんだろう?難しいのだ。
「聖域」という原稿を書いた女・水名川泉。その中の僧・慈明の生き方も実際に生きている泉の生き様も理解するのは難しい。 -
前半はかなり苦しかった。
というか、相当すっ飛ばしながら読んだ。
でも、後半は引き込まれるものが在った。
東北地方にキリスト教みたいな宗教は馴染まない理由とか、なんとか。勉強になりました。 -
最近は、篠田節子にはまっているのかもしれない。ホラー小説といわれ書いてきた彼女が、宗教そして、死後の世界を、テーマとして、取り上げている。私は、ホラー小説が嫌いなのだが、篠田節子の描く世界は好きだ。なんのために生きるのか?死んでどうなるのか?
主人公は実藤という山稜出版の三十歳近くの編集者、家はローンで27歳の時に買ったが、計画していた結婚はできていない。同社の週刊誌「ウイクリージャパン」の編集から、発行部数3千部の季刊文芸誌へと異動になった。会社を辞めた前任の男篠原が遺していった荷物の中から「聖域」とタイトルのついた古びた原稿を発見し、読んで引き込まれていく。作者は、水名川泉。
その聖域の主人公は、8世紀の時代、慈明という僧で、天台宗の教えを蝦夷の地に弘めようとする。勢力拡張と衆派門徒の抗争に明け暮れる教団に不信が生まれ、一人で取り組む。蝦夷地征服の完成期にあたる時期に起こった出来事を描いている。仏教の普及が、その地の神たちとの戦いを通じて、広がっていく。仏教のもつ魂の救済というテーマ。500枚近い作品だが結末がない。
幻想文学大賞が発表され、聖域がその賞にふさわしいものだと実藤は思う。水名川泉を探す手がかりが、前担当者の篠原、そして作家の三木清敦。二人は、実藤に関わるなという。篠原は、水名川泉と関わることで自律神経失調症、心臓神経症、慢性アルコール中毒となった。篠原は、子供をなくしていた。三木も悪夢にうなされるのである。それは、戦争体験からきていた。
実藤は、水名川泉を見つけて、物語を最後まで書くように要請する。この問答が実に執拗だ。
水名川泉は霊燈園という新興宗教、システム化された宗教の教祖になっていた。そして、逃げだし、小さなホテルで、出張「イタコ」をやていたのだ。実藤は、チベットの山で亡くなったライターの豊田千鶴に想いを寄せていた。水名川泉は、実藤の前に豊田千鶴を降神させる。実藤は、その豊田千鶴が好きだったのだ。原稿を書けといいながら、実は豊田千鶴に会いたいのだった。
水名川泉は、本州の北のはずれ、岬に飛び出ている小さな小高い山、雪花里山に実藤を連れていき、
「場所ふさぎ」をしていた萩原慈子が黒留めの結婚衣装をして捨てられていた。そこに、水名川泉の自分の中に、入りこんできた「魂」によって、降神術を習得する。
水名川泉は実藤に「人は誰でも、自分の知っている範囲でしか、ものを考えられないものです」という。非力な自分に執着するな。我とこだわりを捨てる。
「恋をしたことのない者に、本当の恋物語は書けない。人の本当の悲しみを知らぬものに、胸を打つ作品は書けない。姿なきものへの本当の恐怖を知らぬものに、ホラー小説を書けない。虚構でありながら、小説は書き手の真の心の有り様を映し出してしまう」と篠田節子はいう。
「実藤は人生の時間は一定の速さで流れる川のようなものではなく、伸び縮みする粘液のようなものではないか、という気がしている。驚くほど濃密な部分と、無意味に間延びした部分が、繰り返しやってきては去っていく。そんな伸び縮みする時間」という。字の部分で、きらりとした指摘が光る。
結局、聖域の終わりは、般若心境であり、「色即是空、空即是空、すべて空であれば、自分の見ている魑魅魍魎ども、全ては自分の作り出した者であるとする。それは、水名川泉がイタコの修行をした慈子が唯一覚えたお経だった。それを水名川泉は受け継ぐのだった。完成した実藤は。
なんのために、小説を書くのかということが、問答の中で繰り返されるのが篠田節子の小説家としての一番の核心だといえる。