新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062748155

作品紹介・あらすじ

工場廃水の水銀が引き起こした文明の病・水俣病。この地に育った著者は、患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った。本作は、世に出て三十数年を経たいまなお、極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳を訴えてやまない。末永く読み継がれるべき"いのちの文学"の新装版。

感想・レビュー・書評

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  • 作家の池澤夏樹さんが個人編集した「世界文学全集」(河出書房新社、全30巻)の中に、日本の文学作品の中から唯一選ばれたのが本作。
    先日、作家の池澤さんの講演を岩見沢で聴く機会に恵まれましたが、その際、池澤さんは本作のことを
    「日本文学史上の最重要作品」
    と、紹介していました。
    読まないわけにはいかないじゃないですか。
    何かと忙しかったのと、とにかく最高度に集中して読むことを意識したため1か月ほどかかりましたが、夕べ読了しました。
    大変に打ちのめされました。
    これまでそれなりに文学に親しんできたつもりですが、なぜ、こんな大事な作品をこれまで読まずにきたのか、己の不明を恥じる思いもしました。
    本書は、水俣病を材に取った記録文学作品です。
    工場廃水の水銀によって生活を破壊され、生命を奪われた水俣病患者とその家族らの声を余すところなくすくいとり、読む者の心をとらえて離しません。
    私は熊本弁で語られる水俣病患者とその家族らの独白を読みながら、それが祈りにも似た響きがあると終始感じていました。
    渡辺京二さんの「解説」を読んで驚愕しました。
    実在するE家の老婆について石牟礼さんが書いた、「苦海浄土」とは別の文章について渡辺さんが本人にただすと、この文章に登場するような言葉を老婆は語っていないことが判明したそうです。
    そこで渡辺さんは「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」と本人に問います。
    石牟礼さんは「いたずらを見つけられた女の子みたいな顔になっ」て答えたそうです。
    「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」
    何ということでしょう。
    聞き書きなどではないのです、石牟礼さん自身が、まるで水俣病患者(およびその家族)が憑依したように語った言葉なのです(!)。
    私はこの事実を知った瞬間、「巫女」という言葉が思い浮かびました(実際、「解説」には後の方で「石牟礼道子巫女説」なるものがあることに触れています)。
    本書の終盤に出てくる、この部分はどうなのでしょうか。
    これも石牟礼さんの言葉なのかどうか、調べようもないわけですが、とにかく大変な熱を帯びて読者の心を鷲掴みにするような文章が出てきます。
    両親を水俣病で失い、やはり水俣病の弟の看病を続ける茨木妙子さんが、水俣病の原因を作ったチッソ社長の来訪を受けて、こう言います。
    「よう来てくれなはりましたな。待っとりましたばい、十五年間!」
    そして、この後、こう続きます。
    水俣病患者とその家族の、苦難といえばあまりにも酷い苦難と、水俣病の構図が要約されていると思われますので、長いですが引用します。
    「『今日はあやまりにきてくれなったげなですな。
    あやまるちゅうその口であんたたち、会社ばよそに持ってゆくちゅうたげな。今すぐたったいま、持っていってもらいまっしゅ。ようもようも、水俣の人間にこの上威しを噛ませなはりました。あのよな恐ろしか人間殺す毒ば作りだす機会全部、水銀も全部、針金ひとすじ釘一本、水俣に残らんごと、地ながら持っていってもらいまっしょ。東京あたりにでも大阪あたりにでも。
    水俣が潰るるか潰れんか。天草でも長島でも、まだからいもや麦食うて、人間な生きとるばい。麦食うて生きてきた者の子孫ですばいわたしどもは。親ば死なせてしもうてからは、親ば死なせるまでの貧乏は辛かったが、自分たちだけの貧乏はいっちょも困りゃせん。会社あっての人間じゃと、思うとりゃせんかいな、あんたたちは。会社あって生まれた人間なら、会社から生まれたその人間たちも、全部連れていってもらいまっしゅ。会社の廃液じゃ死んだが、麦とからいも食うて死んだ話はきかんばい。このことを、いまわたしがいうことを、ききちがえてもろうては困るばい。いまいうことは、わたしがいうことと違うばい。これは、あんたたちが、会社がいわせることじゃ。間違わんごつしてもらいまっしゅ』
    滂沱と涙があふれおちる。さらに自分を叱咤するようにいう。
    『さあ! 何しに来なはりましたか。上んならんですか。両親が、仏様が、待っとりましたて。突っ立っとらんで、拝んでいきなはらんですか。拝んでもバチはあたるみゃ。線香は用意してありますばい』」
    書き写していて目頭が熱くなりました。
    池澤さんが講演で指摘していましたが、貧しくとも平穏な生活を送っていた近代の庶民と文明との相克という普遍的なテーマが本書に通底しています。
    人間の尊厳を根こそぎ奪い去るような資本の論理を許していいのかと問うてもいます。
    それは東日本大震災以降、前景化した原発問題を抱える現代にも通じる問題提起でしょう。
    貴重な読書体験となりました。

  • 読みにくそうだな、との思い込みで、ずっと本棚にあったのに、読まなかった本。

    気合いを入れて、読み込んだ。なんと濃密な世界か。想像を絶する悲惨さを描きつつ、それぞれが生きている証を感じた。死もまた生きた証なのだ。右も左も、そして神も、医学も、さらには作者自身をも唾するような場面が見られ、深く考えこまされた。

    これがルポルタージュでないと、聞き書きでないと、文学なのだと「解説」で読んで知り、衝撃を受けた。文学として読むと、なんと人間の深部と崇高に迫った希有な書であろうか。

    ゆき女、杢太郎、ゆりと脳裏に焼き付いて離れない。

  • もっとも恐ろしい言葉が「あとがき」にある。
    「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」
    「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」
    これに引っ張られるようにして読んだ。

    作者が「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」といい、解説者渡辺京二が「聞き書きなぞではないし、ルポルタージュですらない。私小説である」という意味が、了解できた。
    一読のあとに獲得したものとしては、まずはこれだけで上々だろう。
    というのも、熟読前はやたらと難解でとっつきづらい印象で手を伸ばしかねていたのだ。
    地の文、方言による語り言葉、報告書などの固い言葉づかい、が混在しているため。

    ところで小説を読み終わった時に、美味しかったとか食べづらかったとか比喩することがある。
    本書は咀嚼しても噛み切れず呑み込んだのに重くて吐き出さざるをえなかった「それ」を、食べねばといま思っている。
    繰り返すようだが、初読でここまで味わえれば、上々だ。
    これは「小説で」「重い美味しさがある」とわかっただけでも。
    あとは多方面から読んで「小刻みに腹に納めていく」だけだ。
    永遠に腹からはみ出し続けるであろう記述を、少しずつ食べていく。

    私なりにまとめてみれば。
    作者の巫女的な性質。(手をつなぐことで、相手のすべてが流れ込み、自分の中で生きる)
    ルポではなく創造的真実が生み出す人々……患者、患者の家族、遺族……の声が、幾度も反芻される。
    反芻を繰り返すことで洗練さていく言葉と、生(き)の言葉と、の混在。
    各章ごとに「わたくし」が直面している現在がまず提示され、思い返される過去が各々患者の言葉として思い出され(だからルポではない)、また現在刻まれていく政治的事実や研究報告書などが差し挟まれていく、この繰り返しで本書は構成されていく。「転ー起ー承ー転ー(本来存在しない結は先送りされていく)」そのため、割と時間は前後する。
    主な患者は、山中九平少年ー野球の稽古。仙助老人ー村のごついネジすなわち柱。釜鶴松ー苦痛よりも怒り、肋骨に漫画本。坂上ゆきー海が好き、流産したややが食卓の魚。杢太郎少年の爺さまー棚に乗せたものはすべて神。杉原彦次の娘ゆりーミルクのみ人形。

    ちなみに石牟礼道子さんの写真や映像を見て……ややスイーツ(笑)な雰囲気も感じ。
    かんっぺきに感受性ばっかりの書き手が、幸運にも時代的題材を得て生き生きと書いている、とでもいうような。
    いまにひきつけてみれば、「川上未映子が本腰入れてフクシマに取り組んでみました」とか。笑
    その違いは要は継続性にあるのだと思うのだけれど。
    (フクシマヲズットミテイルティーヴィーの醜悪さ(たとえば熊本はすっかり忘れているじゃん!)とはまた違う、人生を賭けた継続的アプローチ)
    感動一辺倒に水を差すような感想も、きちんと示しておこうと思って、この嫌な一説を書き足した。

  • 題名通り、読むのは辛く苦しかった。哀れな漁村民に企業も行政も数十年応じなかった。数十年!だが全く過去の話ではない。だからしっかり肝に銘じなければならない。学生時代から関心を持ってきたが、改めて水俣を訪れてみたくなった。

  • 著者である石牟礼道子さんが亡くなったのは今年の2月。生憎と
    私は入院中で、訃報がもたらされた時はテレビや新聞を見られる
    状態ではなかった。だから、亡くなったのを知ったのは退院して
    からだった。

    『苦海浄土』を初めて読んだのは高校生の頃だったろうか。文庫
    新装版である本書は発行後に購入していたのが、読む機会を逸した
    まま積読本の山に埋まっていた。

    気力・体力共に低下していたので、退院後もなかなか本書と対峙
    出来なかったのだが5月1日に行われた水俣病犠牲者慰霊式のあと
    にチッソ社長の「救済は終わった」発言に唖然として、本書と
    対峙する決断がついた。

    ノンフィクションでも、ルポルタージュでもない。いくつかの
    事実は散りばめられているが、本書は水俣病患者とその家族を
    見て来た石牟礼さんが創作した、水俣病犠牲者の心の声であり、
    魂の叫びだ。

    土地の言葉を活かした文章の向こう側に、有機水銀に汚染されな
    がらも青さをたたえた水俣の海が広がる。その海が与えてくれた
    豊富な魚介類が、まさか体と心を破壊してしまうとは誰も思いも
    しなかっただろう。

    そして、原因はチッソ水俣工場から排出される排水に含まれた
    有機水銀であると、早い時点で特定されていたにも関わらず
    救済を遅延させたチッソ及び行政の罪は重く、改めて怒りを
    感じる。

    「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から
    順々に、水銀原液ば飲んでもらおう。(中略)上から順々に、
    四十二人死んでもらおう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性
    の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になって
    もらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

    「あとがき」に書かれている言葉である。切なすぎるだろう。
    加害企業として犠牲者に補償するのは当然だが、どんなに補償金
    を積まれても、亡くなった人は戻って来ないし、有機水銀に害され
    た体は元には戻らない。

    チッソの現社長・後藤氏は、本書を百万遍読んだらいい。

  • リアルにものを表現しようとするとき、多くの場合我々はそれを方法論的に試みる。リアルな絵画は写真に近似していくが、そもそも写真はリアルなのだろうか。

    文章の場合も同様の側面がある。小説は嘘で、ルポルタージュが真実とは限らない。この「私小説」に描かれているのは、著者の情景としての水俣であり、大いにフィクションの部分もあるが、それはいつも生々しく、紛れもなく真実である。

  • 水俣病をテーマにしたルポかと思って敬遠していたのだが、1ページ目に「こそばゆいまぶたのようなさざ波」というすばらしい表現があり、文学作品として拝読。
    水俣病という重苦しいテーマにもかかわらず、著者が豊かな表現と感受性で描写する水俣の民のみずみずしさ。
    人々が生き生きと描かれているだけに、公害病の恐ろしさがまた浮き彫りになる。悲惨なのに美しい。美しいのに悲惨。

    「なんの親でもよかたいなあ。鳥じゃろと草じゃろと。うちはゆり(娘さん)の親でさえあれば、なんの親にでもあってよか。なあとうちゃん、さっきあんた神さんのことをいうたばってん、神さんはこの世に邪魔になる人間ば創んなったろか。ゆりはもしかしてこの世の邪魔になっとる人間じゃなかろうか」

    万人におすすめできる作品ではないけれど、私は読んでよかった~。

  • (2016.09.18読了)(2014.08.29購入)(2013.03.01・第11刷)
    副題「わが水俣病」
    Eテレの「100分de名著」9月で取り上げられているのでこの機会に読んでしまうことにしました。いつか読もうと文庫の旧版も買ってあったのですが、読む前に新版も買ってしまい積読中でした。

    この本を読み始める前に予め
    「水俣病」原田正純著、岩波新書、1972.11.22
    を読み予備知識を入れました。
    予備知識なしで読めば何か得体のしれない怖さを味わうことができたかもしれません。
    水俣病の患者さんを扱った看護婦さんが同じ症状が出たので感染したのでは、という話は怖かったです。実は、・・・。(読んで確認してください)
    『白鯨』を読み終わった後でちょうどよかったかな、と思います。「水俣病」(この本では「水俣病事件」と呼んでいます。)に関するあれこれが順不同で記してあります。
    患者に関すること、海のこと、国会議員の視察団のこと、医師団による調査のこと、議会での質疑のこと、などです。
    患者の思いが綴ってありますが、著者の聞き書きではなく、著者が患者に成り代わって述べたもの、とのことです。方言で書いてあるので、意味が分からない部分が結構あるのですが、患者さんの思いや雰囲気を読み取ることはできると思います。
    表現にユーモアが感じられるのですが、内容は悲惨で深刻なことが述べてあります。泣き笑いしながら読み進むしかありません。
    水俣市の住民の多くがチッソ水俣工場の恩恵も受けているため、チッソに出て行かれては困るという面もあって、簡単ではありません。
    水俣病の原因がわかるまでは、伝染病を疑われたり、ありがちな病名をつけられたり、大学の先生方も調べに来てくれるけど、病気を治してくれるわけではないので、あきらめて医者にもゆかなくなるし、不利なことが多いので隠しておくしかありません。
    原因がはっきりして、保証金の話になると、認定基準というのが出てきます。
    人間は生き物なので、個人によって発症の仕方が違うでしょうし、摂取量によっても違うでしょう。原爆症と同じで、難しい問題です。だんだん実態に即した形で、認められるようになってきているようですが、ずいぶんと時間がかかります。

    この本の単行本は、1969年に刊行され、1970年の第1回大宅壮一賞に選ばれたのですが、受賞を辞退しています。文庫本は、1972年12月に刊行されています。
    旧版と新装版の違いは、新装版では、活字を大きくし、その分頁数が増えています。さらに、原田正純氏の解説「水俣病の五十年」が追加されています。

    【目次】
    第一章 椿の海
    第二章 不知火海沿岸漁民
    第三章 ゆき女きき書
    第四章 天の魚
    第五章 地の魚
    第六章 とんとん村
    第七章 昭和四十三年
    あとがき
    改稿に当たって
    解説 石牟礼道子の世界  渡辺京二
    解説 水俣病の五十年   原田正純
    〔資料〕紛争調停案「契約書」

    ●胎児性水俣病(23頁)
    誕生日が来ても、二年目が来ても、子どもたちは歩くことはおろか、這うことも、しゃべることも、箸を握って食べることもできなかった。ときどき正体不明の痙攣やひきつけを起こすのである。魚を食べたこともない乳幼児が、水俣病だとは母親たちも思い当たるはずもなく、診定をうけるまで、市内の病院をまわり歩き、その治療のため、舟や漁具を売り払って借財をこしらえたりしていた。
    ●うつる(43頁)
    この頃、看護婦さんが、手が先生しびれます、といいだした。看護婦さんたちが大勢で来て、先生うつりませんかという。よく消毒して、隔離病院に移すようにするというと、うつらない証明をしてくれという。このとき手がしびれるといった湯堂部落出の看護婦さんは、あとになって胎児性の子どもを生むことになった。
    ●舟に牡蠣がつかん(83頁)
    「百間の港に、舟をよこわせとけば、なしてか知らんが、舟虫も、牡蠣もつかんど」
    ●私小説(368頁)
    『苦海浄土』は聞き書きなぞではないし、ルポルタージュですらない。ジャンルのことをいっているのではない。作品成立の本質的な内因をいっているのであって、それでは何かといえば、石牟礼道子の私小説である。
    (解説を書いている渡辺京二さんによると、聞き書きなのかという質問に「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と答えたとのことです。(371頁))

    ☆関連図書(既読)
    「水俣病」原田正純著、岩波新書、1972.11.22
    「水俣病の科学 増補版」西村肇・岡本達明著、日本評論社、2006.07.15
    「谷中村滅亡史」荒畑寒村著、新泉社、1970.11.20
    「田中正造の生涯」林竹二著、講談社現代新書、1976.07.20
    「沈黙の春」カーソン著・青樹簗一訳、新潮文庫、1974.02.20
    「奪われし未来」T.コルボーン・D.ダマノスキ著、翔泳社、1997.09.30
    (2016年9月27日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    工場廃水の水銀が引き起こした文明の病・水俣病。この地に育った著者は、患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った。本作は、世に出て三十数年を経たいまなお、極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳を訴えてやまない。末永く読み継がれるべき“いのちの文学”の新装版。

  •  水俣病のことは,学校でも習ったし,なんとなく知っているつもりでいた…が,本書を読んで,患者の苦悩について,まったく分かっていなかったと反省した。
     何の病気か分からない時期…自分に起きていることでさえも笑い話にする人々もいる。
     原因が,工場の出す廃液ではないか…ということが分かってからも,それを認めようとしない工場。水俣の市民の生活を支えているのが,この工場とあっては,なかなか話が進まない。
     漁民は,自分が水俣病の患者になることもあるが,一方で,病気のせいで,安全なはずの魚が全く売れない…という状況にもなる。収入はなくなる一方。
     こんな所に来たから病気になったと嘯く女性患者。献身的に看病してきた夫は,限界に達して,離縁をせまる。そして離婚。
     工場の出すメチル水銀が水俣病の元凶であるということが正式に決まったのは,なんと,第二水俣病の原因発表からさえも遅れているのだ。なんということだろう。
     それからも,水俣は,様々な差別を受けることになる。
     本書に描かれている患者やその家族の生の声は,とてもキョウレツで,いちいち心に響いてくる。
     なんで,県や国はもっと積極的に動かないのか…とやきもきしてくる。
     しかし,これは過去のことではないのかも知れない。
     工場の廃液が原因だと分かってからも,「患者を救おう」というスローガンと「チッソ水俣工場を救おう」というスローガンが一緒になった集会を開いたという水俣市。患者関係者は出席しなかったらしい。
     被曝者を救う,生活を奪われた住民に補償をさせるということよりも,東電がつぶれたらどうする…ということが先に立つ発想と,余り変わらないように思うのだ。

  • 水俣病の人たちを描いた、伝えた名作である。こういう本があることは長らく知っていたけれど、初めて読んだ。すごかった。
    ルポやノンフィクション、エッセイなどとして、水俣病をはじめ病に苦しむ人に迫ったものは数々あるし、いくつか読んだものもあるけれど、これはそれらとは一線を画す。表現が適切かどうかわからないけれど、文学作品とでも言いたくなるような。つまり、他書が惨状を伝えるために書かれているのに対して、本作はフィクションや小説のような感じが漂う。もちろん、水俣病に苦しむ人のことが鮮烈に描かれているのだけど、それを声高に叫ぶのでなく、つぶやくように、ただ淡々と、読者のことなど意識せず書かれているような気がするのだ。水俣病は数々の不幸なものごとを生み出したけど、本作が生まれたのは不幸中のただ一つの幸いと言えるかもしれない。
    本作で水俣病の人たちの生活を垣間見て驚いた。1960年代だというのに、当時の映画などで見る都会はすでに華やかな風俗に彩られているのに、水俣の漁師町の貧しげなこと。それでいながら、魚を捕りながら働きづめの暮らしの何と豊かなこと。
    「ゆき女きき書」(第3章)などでの海や魚と一体になっているかのような漁をしながらの暮らしの描写はすばらしい。そしてそれが失われてしまったことが悲しい。水俣病のせいなのに、自分の食い分だけの働きができないことを憂いたり、意識が半ばあるなかで神経症状のために狂ったような動きをしてしまう。善良な人にとって何と酷なことをさせたのだろう。
    家族の言葉も染みた。「地の魚」(第5章)の「草の親」項。胎児性水俣病で生まれた杉原ゆりさん。その状態から、幼い頃の彼女をジャーナリズムは「ミルクのみ人形」(何て心ない名づけだろう)と呼んだというが、本作では17歳になった彼女を前に母親はこんなことを言う。この深い愛情がすくい。
    「うちはなあとうちゃん、ゆりはああして寝とるばっかり、もう死んどる者じゃ、草や木と同じに息しとるばっかり、そげんおもう。ゆりが草木ならば、うちは草木の親じゃ。ゆりがとかげの子ならばとかげの親、鳥の子ならば鳥の親、めめずの子ならばめめずの親――」(p.271)

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