新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

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  • 講談社
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レビュー : 115
  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062748155

作品紹介・あらすじ

工場廃水の水銀が引き起こした文明の病・水俣病。この地に育った著者は、患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った。本作は、世に出て三十数年を経たいまなお、極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳を訴えてやまない。末永く読み継がれるべき"いのちの文学"の新装版。

感想・レビュー・書評

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  • 凡人の自分にはやはり筆舌しがたい。

    リアルな描写が真に迫るとか、公害について考えさせられるとか、さまざまな人間の利害が見られ、複雑な現代社会を描写しているとか、そういうことではなく、これらの全てを包み込んで、筆者の表現力によって、芸術として昇華された、悲しすぎる美しい世界を感じた。

  • 『ここは、奈落の底でござすばい、
    墜ちてきてみろ、みんな。』

    水俣病の患者たちを描いた作品が辛くないわけがない、と覚悟をして読んだのだけど、そして思っていたよりずっとしんどかったのだけど、同時にぽかんとした不思議な明るさや、ひたひた胸に沁み込むような潤いもあり、こう表現することにためらいもあるが、非常な美しさを持つ作品だった。
    石牟礼さんが巫女となって、患者の心を纏って歌っているよう。
    患者の話として書かれている部分には、柔らかく心臓を握られるような痛みを覚えた。
    それと並行して、患者の診断であったり、社会的な動きであったりも述べられていて、こちらには硬いもので頭をガツンと殴られるような痛みばかり。
    加害者である会社も、国や県の対応も震えるほど怒りを覚えるが、周囲の市民も黙っていろという空気だったというのが本当に辛い。
    第二部、第三部も読みたいと思う。

  • 作家の池澤夏樹さんが個人編集した「世界文学全集」(河出書房新社、全30巻)の中に、日本の文学作品の中から唯一選ばれたのが本作。
    先日、作家の池澤さんの講演を岩見沢で聴く機会に恵まれましたが、その際、池澤さんは本作のことを
    「日本文学史上の最重要作品」
    と、紹介していました。
    読まないわけにはいかないじゃないですか。
    何かと忙しかったのと、とにかく最高度に集中して読むことを意識したため1か月ほどかかりましたが、夕べ読了しました。
    大変に打ちのめされました。
    これまでそれなりに文学に親しんできたつもりですが、なぜ、こんな大事な作品をこれまで読まずにきたのか、己の不明を恥じる思いもしました。
    本書は、水俣病を材に取った記録文学作品です。
    工場廃水の水銀によって生活を破壊され、生命を奪われた水俣病患者とその家族らの声を余すところなくすくいとり、読む者の心をとらえて離しません。
    私は熊本弁で語られる水俣病患者とその家族らの独白を読みながら、それが祈りにも似た響きがあると終始感じていました。
    渡辺京二さんの「解説」を読んで驚愕しました。
    実在するE家の老婆について石牟礼さんが書いた、「苦海浄土」とは別の文章について渡辺さんが本人にただすと、この文章に登場するような言葉を老婆は語っていないことが判明したそうです。
    そこで渡辺さんは「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」と本人に問います。
    石牟礼さんは「いたずらを見つけられた女の子みたいな顔になっ」て答えたそうです。
    「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」
    何ということでしょう。
    聞き書きなどではないのです、石牟礼さん自身が、まるで水俣病患者(およびその家族)が憑依したように語った言葉なのです(!)。
    私はこの事実を知った瞬間、「巫女」という言葉が思い浮かびました(実際、「解説」には後の方で「石牟礼道子巫女説」なるものがあることに触れています)。
    本書の終盤に出てくる、この部分はどうなのでしょうか。
    これも石牟礼さんの言葉なのかどうか、調べようもないわけですが、とにかく大変な熱を帯びて読者の心を鷲掴みにするような文章が出てきます。
    両親を水俣病で失い、やはり水俣病の弟の看病を続ける茨木妙子さんが、水俣病の原因を作ったチッソ社長の来訪を受けて、こう言います。
    「よう来てくれなはりましたな。待っとりましたばい、十五年間!」
    そして、この後、こう続きます。
    水俣病患者とその家族の、苦難といえばあまりにも酷い苦難と、水俣病の構図が要約されていると思われますので、長いですが引用します。
    「『今日はあやまりにきてくれなったげなですな。
    あやまるちゅうその口であんたたち、会社ばよそに持ってゆくちゅうたげな。今すぐたったいま、持っていってもらいまっしゅ。ようもようも、水俣の人間にこの上威しを噛ませなはりました。あのよな恐ろしか人間殺す毒ば作りだす機会全部、水銀も全部、針金ひとすじ釘一本、水俣に残らんごと、地ながら持っていってもらいまっしょ。東京あたりにでも大阪あたりにでも。
    水俣が潰るるか潰れんか。天草でも長島でも、まだからいもや麦食うて、人間な生きとるばい。麦食うて生きてきた者の子孫ですばいわたしどもは。親ば死なせてしもうてからは、親ば死なせるまでの貧乏は辛かったが、自分たちだけの貧乏はいっちょも困りゃせん。会社あっての人間じゃと、思うとりゃせんかいな、あんたたちは。会社あって生まれた人間なら、会社から生まれたその人間たちも、全部連れていってもらいまっしゅ。会社の廃液じゃ死んだが、麦とからいも食うて死んだ話はきかんばい。このことを、いまわたしがいうことを、ききちがえてもろうては困るばい。いまいうことは、わたしがいうことと違うばい。これは、あんたたちが、会社がいわせることじゃ。間違わんごつしてもらいまっしゅ』
    滂沱と涙があふれおちる。さらに自分を叱咤するようにいう。
    『さあ! 何しに来なはりましたか。上んならんですか。両親が、仏様が、待っとりましたて。突っ立っとらんで、拝んでいきなはらんですか。拝んでもバチはあたるみゃ。線香は用意してありますばい』」
    書き写していて目頭が熱くなりました。
    池澤さんが講演で指摘していましたが、貧しくとも平穏な生活を送っていた近代の庶民と文明との相克という普遍的なテーマが本書に通底しています。
    人間の尊厳を根こそぎ奪い去るような資本の論理を許していいのかと問うてもいます。
    それは東日本大震災以降、前景化した原発問題を抱える現代にも通じる問題提起でしょう。
    貴重な読書体験となりました。

  • 最初に『苦海浄土』という名前を知ったのは確か、風の谷のナウシカの評論か何かで「これが宮崎駿にとっての苦海浄土なのである」みたいな文章だったと思う。その後「100分de名著」で本のタイトルだったんだと知り、長らく積みっぱなしだったけどようやく読了。

    読みながら『沈黙の春』を思い出したり、宮沢賢治を思い出したりしていた。読み終わってから解説を読んで、ルポではない、聞き書きでもない、魂の文学とのことで驚いたり、宮沢賢治を思い出したのは合ってたんだと思ったり。まるで水俣病患者を憑依させて書いているような、シャーマンのようなところは宮沢賢治と重なると思う。

    いやしかし。単に、人権がどうとか、公害がどうとかというレベルじゃない。こんな作品なかなかない。読んでよかった。

  • 読みにくそうだな、との思い込みで、ずっと本棚にあったのに、読まなかった本。

    気合いを入れて、読み込んだ。なんと濃密な世界か。想像を絶する悲惨さを描きつつ、それぞれが生きている証を感じた。死もまた生きた証なのだ。右も左も、そして神も、医学も、さらには作者自身をも唾するような場面が見られ、深く考えこまされた。

    これがルポルタージュでないと、聞き書きでないと、文学なのだと「解説」で読んで知り、衝撃を受けた。文学として読むと、なんと人間の深部と崇高に迫った希有な書であろうか。

    ゆき女、杢太郎、ゆりと脳裏に焼き付いて離れない。

  • 授業でほんの少しだけ学んだ水俣病、他の公害の事と共に頭の中で一緒くたにされ忘れ果ててしまっていました。それでもこうして本書を手に取る事が出来たのは良かったです。ここまで酷いものだったのだと言う事も、著者の文体が描く熊本の海と人々の生活も、全てが胸に刺さるものでした。生きていく上で、読み返してゆくべき書だと思います。

  • もっとも恐ろしい言葉が「あとがき」にある。
    「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」
    「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」
    これに引っ張られるようにして読んだ。

    作者が「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」といい、解説者渡辺京二が「聞き書きなぞではないし、ルポルタージュですらない。私小説である」という意味が、了解できた。
    一読のあとに獲得したものとしては、まずはこれだけで上々だろう。
    というのも、熟読前はやたらと難解でとっつきづらい印象で手を伸ばしかねていたのだ。
    地の文、方言による語り言葉、報告書などの固い言葉づかい、が混在しているため。

    ところで小説を読み終わった時に、美味しかったとか食べづらかったとか比喩することがある。
    本書は咀嚼しても噛み切れず呑み込んだのに重くて吐き出さざるをえなかった「それ」を、食べねばといま思っている。
    繰り返すようだが、初読でここまで味わえれば、上々だ。
    これは「小説で」「重い美味しさがある」とわかっただけでも。
    あとは多方面から読んで「小刻みに腹に納めていく」だけだ。
    永遠に腹からはみ出し続けるであろう記述を、少しずつ食べていく。

    私なりにまとめてみれば。
    作者の巫女的な性質。(手をつなぐことで、相手のすべてが流れ込み、自分の中で生きる)
    ルポではなく創造的真実が生み出す人々……患者、患者の家族、遺族……の声が、幾度も反芻される。
    反芻を繰り返すことで洗練さていく言葉と、生(き)の言葉と、の混在。
    各章ごとに「わたくし」が直面している現在がまず提示され、思い返される過去が各々患者の言葉として思い出され(だからルポではない)、また現在刻まれていく政治的事実や研究報告書などが差し挟まれていく、この繰り返しで本書は構成されていく。「転ー起ー承ー転ー(本来存在しない結は先送りされていく)」そのため、割と時間は前後する。
    主な患者は、山中九平少年ー野球の稽古。仙助老人ー村のごついネジすなわち柱。釜鶴松ー苦痛よりも怒り、肋骨に漫画本。坂上ゆきー海が好き、流産したややが食卓の魚。杢太郎少年の爺さまー棚に乗せたものはすべて神。杉原彦次の娘ゆりーミルクのみ人形。

    ちなみに石牟礼道子さんの写真や映像を見て……ややスイーツ(笑)な雰囲気も感じ。
    かんっぺきに感受性ばっかりの書き手が、幸運にも時代的題材を得て生き生きと書いている、とでもいうような。
    いまにひきつけてみれば、「川上未映子が本腰入れてフクシマに取り組んでみました」とか。笑
    その違いは要は継続性にあるのだと思うのだけれど。
    (フクシマヲズットミテイルティーヴィーの醜悪さ(たとえば熊本はすっかり忘れているじゃん!)とはまた違う、人生を賭けた継続的アプローチ)
    感動一辺倒に水を差すような感想も、きちんと示しておこうと思って、この嫌な一説を書き足した。

  • 題名通り、読むのは辛く苦しかった。哀れな漁村民に企業も行政も数十年応じなかった。数十年!だが全く過去の話ではない。だからしっかり肝に銘じなければならない。学生時代から関心を持ってきたが、改めて水俣を訪れてみたくなった。

  • 聞き書だと思って読んでいたら、解説に「あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」とあり、驚愕した。水俣病患者たちの悲痛な心の声と、それに対比しているかのような美しい自然の海の描写が残酷に思えた。

  • ものすごい本を読んだ、という感想。
    「魂の文学」とはよく言ったものだ。
    渡辺京二が書いた解説の熱もすごい。

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著者プロフィール

1927年熊本県天草生まれ。生後すぐに水俣に移る。詩人、作家。著書に『苦海浄土(三部作)』『あやとりの記』『十六夜橋』『石牟礼道子全集・不知火(全17巻、別巻1)』、共著に『なみだふるはな』ほか。

「2021年 『みっちんの声』 で使われていた紹介文から引用しています。」

石牟礼道子の作品

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