ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 32505
レビュー : 2234
  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062748698

作品紹介・あらすじ

あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと-。あたらしい僕の大学生活はこうしてはじまった。自殺した親友キズキ、その恋人の直子、同じ学部の緑。等身大の人物を登場させ、心の震えや感動、そして哀しみを淡々とせつないまでに描いた作品。

感想・レビュー・書評

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  • 一つ一つの表現がとても繊細でありつつ、他の本ではぼかすような場面でも包み隠さず字に起こすというこの背反した二つのものが入り混じっていることに感慨を覚えた。

    生と死の狭間を行き来する、主人公。
    「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
    この言葉がすごく刺激的であった。
    誰かの死によって自分すらも血の気を失った存在となってしまうことが、様々な場面で、現れている。

    また、自分が直子の死を悲しみんでいるときに、誰かに自分の周りの人の死について、語られた時醜い自分の心が主人公は出ていたが、それも納得できる。
    人の死は当本人、見る人によって全く価値の違うものになってしまう。
    決して同情することなんてできないんだ。

    • 高円寺 詩音さん
      小学校低学年の頃、私はよく泣いていた。
      人並みに読書はしていて、平々凡々な生活をしていた。
      哀れんでいるのではないのだけど。
      なによりも戦争...
      小学校低学年の頃、私はよく泣いていた。
      人並みに読書はしていて、平々凡々な生活をしていた。
      哀れんでいるのではないのだけど。
      なによりも戦争の根絶を願った。
      その内、思った。
      どうせ死ぬなら生まれた意味など存在しないのでは、と。

      ひたすらに生きることが辛かった訳でもない。

      ただ、毎年「俺は今年死ぬんだ」と言って憚らなかったことをよく覚えている。

      生きる意味はある。
      少なくとも、「生まれた」意味は。
      一瞬でも「生まれてきてよかった」と思えればいいのだと思う。

      小4の頃、ハリーポッターにハマった。
      小5になって、クラスメートの妹と仲良くなり、たまに一緒に帰った。

      思った。
      いつか誰も俺の名前を忘れたら、その時が私が死んだ時なのかもしれない、と。
      2019/07/24
  • 30年ぶりの再読です。
    文章の美しさに驚かされます。
    50になろうかとするオヤジが読めば、ウジウジと悩み、しかしヤリまくる主人公に辟易しそうなストーリーであるのだが、なぜかその苦しみを分かち合い、初々しさに嫉妬してしまう。
    女性陣がなんとも魅力的でいい。
    軽快で哲学的、生きていくための教訓をなんと多く含んでいることか。
    感受性の鋭さゆえに苦しみ、必死で生きようとする若者たちには、覚めた目で見つつも感情移入してしまう。
    こぼれ落ちる者が悲しいが、生き残ろうともがく者への救いにホッとする。
    村上さんを青春期にもっと読んでおけばよかったな。
    オヤジは永沢が一番好きだな。
    「自分に同情するな」は、30年来心にとめている。

  • 3回目。今まではラストのレイコさんとの件がどうにも解せなかったのだけど、あれは二人を死の世界から生の世界へと引き戻す為に必要な行為だったんじゃないかと思えてきた。その前の二人ですき焼きを食べるシーンは、肉を食らうということは生へのどうしようもない衝動なんじゃないかと。死の世界にいる直子ではなく生の世界の象徴たる緑にワタナベが惹かれてしまうのはどうしようもない生への渇望なんだろうなと。「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」蓋し名言。これは生(性)と死の物語なのだ。2011/512

  • 高校生のときに初めて読んだ村上春樹。
    その時の印象は暗くて静か(そういうのは好きなのだけど)、あまりの性描写の多さに村上春樹は苦手だとおもうきっかけになってしまった。いみのない性描写はきらい。官能小説みたいでなんか嫌だ。
    でも今回改めてきちんと考えながら読んで、この作品に於いての性というのは"生"のことなのかなという考えに至ったら、一気にすっきりとした。

    生を受け入れられない直子と、まっすぐに生と向き合おうとする緑と、生の世界にありながらも直子のもつ死を見つめざるを得ないワタナベくん、死に近いけれどまだ選択の余地のあるレイコさん
    全力で正直な緑が好き。死に影響されつづけるワタナベくんが生をわすれなかったのは、生命力にあふれている緑との関わりがあったからだと思う。

    結局はまだまだ生きなければならないけど、生きてゆく限りは多くのものを失うことになるし、世界にはきれいじゃないものが沢山あるし、自分のかなしみのことだけ考えていく訳にもいかないし、でもそれに向き合うのが生きるということだから。
    4年ぶりに読んだノルウェイの森は、生きるパワーやあたたかさを感じる作品だった。
    すごくうまく組み立てられた作品。村上春樹がすごいと言われる理由が分かり始めたかもしれない。

  • 一体何年ぶりに読んだんだ?
    1987年だったんだ。22歳か・・・若かったな〜
    この緑と赤の装丁が本屋に山積みにされていて・・・
    それまでも村上ファンだったから、何かこの作品で一気にファンが増えて、社会現象的な作品になったことを記憶しています。

    改めて読むと・・・軽くて重い、青春小説だったのかな
    もはやどうすることもできない純然たる「死」と、どう向き合って生きていくのか・・・
    やっぱりヘビーな作品です。

    女の子は、できる限り奔放で、キュートで
    男は、ストイックであり、主体性はないが、一風変わった我が有り、
    気分は軽やかであり、しかし死を哀しいまでに内包している。

    やはりいい作品だと思います

  • 村上春樹さんの本は正直苦手だった。
    ありのままを受け入れると同義なのだが、イマイチ感覚的で何も言っていないような気がしていた。

    この本では、死と生、その境界、それぞれの世界は繋がっていて身近にある世界なのであるということを感じた。

    「私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちばん大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」
    ラストの展開は最初なぜなのかわからなかったが、このコメントから、あの2人にとってあの行為は生の世界で繋がる、直子の死を共有しながらも今を生きるという想いを共有するということの象徴でもあり、だからあの時そう行動するしかなかったのかと思った。

    切ないが澄み切った、キレイな文章。
    他の村上春樹さんの本も読んでみようと思う。

  • う~ん、正直なところ、これ、一体全体どういう物語なのかさっぱりわかりませんでした。  これがバカ売れした理由も KiKi には見当もつきません。  「ねじまき鳥」の方は読んでいてまだ「ある種の感覚」が揺さぶられるような気がしたけれど、こっちは何だかスポーツ新聞とか男性週刊誌に載っている KiKi があんまり評価しない「官能小説」とどっこいどっこいという印象でした。

    「性」を扱うのは構わないし(それで顔を赤くしちゃうほど初心ではない)、ある程度露骨な性描写があってもそんなのには動じない程度には成熟(?)している自負のある KiKi だけど、この物語のそれは正直なところ不快感以上のものを感じることはありませんでした。  

    そんな描写が多い中にクラシック音楽やら60年代~80年代の洋楽ヒットチャートみたいな音楽の話が出てくるのも、何気に許せない(苦笑)  この物語に出てくる様々な音楽のうち半分ぐらいは KiKi 個人にとっても何等かの思い出と密接に関わっている音楽であるということもあって、何だか KiKi の思い出まで冒涜されたような気分になってしまいました。

    「生と死」を扱っていると言えば聞こえがいいけれど、主人公のどこか斜に構えた、もっと言えば甘ったれた「死生観」がそれこそ腐臭のように漂う小説のような気がしたし、登場人物の誰一人として共感できなかったのが KiKi にとっては致命的でした。  

    主人公のどこか頑なな気質の根っこにあるのは17歳の時に体験した「親友の突然の自殺」にあることはわかるし、その事実を消化し乗り越えるのに時間がかかったこともわかるんですよ。  親友の死と同時に、「1人生き残ってしまった自分」を持て余したのもわかるし、ある意味で虚脱状態に陥ってしまったのも理解できるんです。  特に昨日までそこに存在しているのが当たり前だった人が何の前触れもなくいきなり消えてしまうな~んていうのは、人を混乱させるに十分な出来事であることは、同じような経験をしていない KiKi でもある程度は想像できます。

    でも、逆に言えばこの主人公のような解決の仕方をしていく人間というのにどこか嘘っぽさを感じずにはいられません。  そういう意味では直子さんの方がまだ理解できるような気がするんですよね。  「生」と「性」を結びつけるのもわからないじゃないけれど、彼の「性に対する感覚」もちょっと理解の範疇を超えちゃっているように感じるんですよ。  率先して・・・・ではないにしろ、あれだけ「自堕落」とも呼べるような性行動をしている一方で、直子さんや緑さんとの対し方にある摩訶不思議な拘りはいったい何なんだろうか?ってね。  

    主人公の人間関係もどこか腑に落ちないんですよね~。  学生寮や大学にこれといって「友」と呼べる人間がいなかったのは、時代背景とか彼の心を占めているものと同世代の学生の心を占めているものとの相違という点でわからないじゃないけれど、1人の人間が生きていくうえでかかわりを持つ人間関係というのはそれだけではないはずです。  親もいれば親戚もいるわけで、少なくともあの時代の「親族」というやつはこの主人公にとってのそれほど存在感が希薄ではなかったと思うんだけどなぁ・・・・・・。

    ひと頃 KiKi の親世代の人々が KiKi やそれより10歳くらい年長(ちょうど村上さん世代)の人たちに苦言を呈する際に「ひとりで大きくなったような顔をして・・・・・」というのがあったけれど、この主人公ってまさに「ひとりで大人になったような顔をし、自分の哲学だけを頑なに守り続けている没社会交渉の孤独な人間」っていう感じがするんですよね。  そして生身の人間との接点が少ない分、歪な個人主義の中でこねくり回した感性だけを大切に抱え込んでいる・・・・・そんな印象です。

    文庫本上巻の裏表紙にある解説文の中に「限りない喪失と再生を描き」とあるけれど、 KiKi にはこの物語のどこに「再生」があるのかまったくわかりませんでした。  人間、エネルギッシュに何かを追い求め常にチャレンジしていくばかりではないけれど、この主人公の場合はあまりにも「何もしていない」し、どこか当事者意識が欠けていると思うんですよ。  しかも物語冒頭の記述からすれば20年という歳月を経ても相変わらず「混乱」してみたりするし、物語最後の記述からすれば青春の悩み時代のある種の通過儀礼を経た直後であってさえも「僕は今どこにいるのだ?」だし・・・・・・。    

    そして下巻の裏表紙にある解説文の中の「等身大の人物」というヤツも、疑問符飛びまくりです。  少なくともこの物語に登場する人物たちは KiKi とは「別の次元で生きている人たち」という印象こそあれ、決して等身大の人物ではなかったし・・・・・。  KiKi のこれまでの人生経験と比べてみても「ああ、ここに私がいる・・・・」と思えるような記述は一切なかったし・・・・・・。  学生時代に好んで読んでいた初期の春樹本の中にはどこかしら「ああ、ここに私(だった者)がいる・・・・」と感じられるものがあったんですけどねぇ・・・・・。

    ま、この本の場合、KiKi にとって好ましかったのは赤と緑の装丁の美しさだけだったと言っても過言ではなかったかなぁ・・・・・と(苦笑)。  この本の内容を知らないまま、この本の出版を契機に春樹本を勝手に卒業することにした KiKi の感覚は間違っていなかった・・・・・そんな風にさえ感じてしまいました。

  • 趣味の世界には極めた人だけが到達する面白さというものがあると思う。
    小さい頃から趣味の欄には何気なく「読書」と書き続けてきた。
    小学校の時はよく本を読んだという理由で校長先生から図書券をもらった。
    あたしの趣味がたまたま読書であったから、今回は読書のことを書こうと思うが
    恐らく趣味と呼ばれるものの多くに共通していること。
    極めることでその面白さが何倍にも膨らむということ。
    好きになるということ。それはすなわち恋と同じで、その人のこと、その人の
    好きなものを知りたいという気持ちになるということ。

    あたしが好きな村上春樹の小説に関しては、恐らくもうある程度の「極み」
    に達したと思う。特に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は
    1年に1度は必ず読み返す長編小説です。同じくらい読み返す小説に
    同じく村上作品の「ノルウエイの森」がある。これはベストセラーにもなり、
    今秋映画公開にもなるそうだ。頑なに映像化を拒み続けてきた村上に
    一体何が起こったのかファンなら皆がそう思ったに違いない。

    今回「ノルウエイの森」のことを書こうと思ったのは、私が好きなラジオ番組
    でもある武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」という短いトーク番組がきっかけ
    だった。武田鉄矢と村上春樹には何の接点もない。以前そのラジオ放送内で
    村上春樹の小説について武田鉄矢が語った場面もあったが、少なくとも
    武田さんにとって村上春樹の小説から何かを引き出すことは出来なかった
    らしい。「今朝の三枚おろし」はネットで一週間分をまとめて聞けるので
    もし興味がある方は聞いてみてください。

    http://www.joqr.co.jp/bbqr/index.php

    ここは毎週月曜日に更新される。朝5分という短い番組を一週間分まとめて
    約30分ほどのファイルにして公開している。私も毎朝聞けるわけではないので
    こちらのサイトでまとめて聞くことになる。昨日は月曜日だったので、早速聞いて
    みた。武田鉄矢少年(18歳)が初めて「竜馬がゆく」を読んだ時のことが
    切々と語られていた。

     『竜馬がゆく』(りょうまがゆく)は、司馬遼太郎の長編作品。
     「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載し、
     1963年から1966年にかけ、文藝春秋全5巻で刊行された。
     1974年に文春文庫発足に伴い全8巻で刊行、
     単行・文庫本ともに改版されている。(Wikipediaより)

    あたしが武田鉄矢が好きなのは、趣味が同じだからというわけではない。
    性別も育った環境も違うので、趣向は全く違うし、好きな本、
    感動した作品ももちろん違う。番組内で紹介された映画や本も
    いくつか読んだり観たりした(「悪の遺伝子」「ベン・ハー」など)だが、
    残念なことにそれらの作品があたしの琴線を”強く”震わせることはなかった。
    だけど武田さんとあたしには明らかに共通点がある。
    好きな人、作品などに対する想いの純粋さとか、感動する心の震えようの
    ありようとか、そういったものが確かに似ている。ある友人に言わせると
    「武田鉄矢なんてただの威張ったオッサンじゃないか」と一笑されて終わったが
    「今朝の三枚おろし」を聞いているとあたしは武田さんの思いのこもった
    ものたちが、まるであたしが愛でているもののようにいとおしく思えてくるのだ。

    今年は大河ドラマにも竜馬がとりあげられたりして、竜馬好きな武田さん
    にとっては特別な想いもあるのかもしれない。武田さんの話を聞いていると
    竜馬が本当に好きなんだな、ということがよく分かる。
    私は「竜馬がゆく」を読んだことがないので、これから書くことは全て
    武田哲也が番組トークで語った内容ですが、気になった部分を抜粋して
    書きたいと思う。

    「竜馬がゆく」はフィクションです。多少の脚色も状況の変更設定もある
    作品を武田さんはきっと何度も読んである程度の「極み」に達していた
    のだろうと思う。その後、色んな文献などから竜馬の事を調べたりする
    うちに、そのフィクションである小説がまるっきりデタラメから来ているわけでは
    無いということにふと武田さんは気付いた。
    「竜馬がゆく」の中で、竜馬が鶏肉が好きだという話が出てくる。
    それが本当かどうかなんて当時の竜馬を知らない限りは分からない話だ。
    だけど、その何気ない設定さえ、実際に後世に残された竜馬の文献の
    一文から発せられたものだったんだという事を知ったときの感動。
    それは極めたものしか分からない、分かり得ない内容だったはずで、
    ただ「竜馬をゆく」を読んだだけでは到底知り得ることが出来なかった。


    極めた者だけが得ることのできる感動。
    それはその作品を飛び出した部分から、その作品に込められた
    思いを知ることによってもたらされる。そしてふと気付いた。
    あたしにもかつて、確かにそういう経験があったということ。
    それは村上春樹「ノルウエイの森」によってもたされたものだった。

    「ノルウエイの森」の中で、主人公の青年「ワタナベ」が
    本屋の娘「ミドリ」の家でひょんなことから一夜を明かす場面がある。
    青年はうまく眠ることが出来ず、1階の本屋から一冊の本を持ち出し、
    寝息を立てるミドリの横でその本を読む。
    明け方になり、その一冊分の料金をレジに置き、青年はそっと本屋を
    あとにする。朝もや、冷たい空気、しんとした商店街のまだ何者にも
    犯されていない生まれたての朝。あたしはこのシーンが好きで、
    (特にミドリと火事見物をしながらギターを弾く場面は最も好きだが)
    何度も何度も読んでその状況を目に浮かばせることさえできる。

     しかし話題はそれるが
     映像化されていない小説の文章から映像を思い起こさせるのって
     すごいですね。本当に映画化されてしまったら、それは映像化された
     イメージに固定されてしまうんだろうか、という思いがあって映画を
     観るのが少し怖くもあるのですが・・・・
    (でもきっと真っ先に観てしまうんだろうけどw)

    さてさて脱線を修正、話を戻します。
    ミドリの家で読んだ本が「車輪の下」というヘッセの小説でした。
    主人公の青年はこの本について「以前読んだことのある古臭いが悪くない」
    小説だという風に述べています。今回こういう状況にならなければ、
    昔読んだ「車輪の下」を読み返してみようなどという気にはなれなかったかも
    しれない、と書かれています。

    「ノルウエイの森」では他にもこういうシーンが出てきます。
    (思い出しながら書いているので状況の前後、脚色、
     語彙の置き換えはあると思いますがご容赦ください)

    ミドリが主人公の青年「ワタナベ」に問いかけます。
    「連立方程式を覚えて、一体何の役に立つの?」

    青年はミドリにこんな風に答えます。
    「連立方程式が、直接君に何かをもたらすということはないと思う。
    だけど、物事を理論立てて考えるための訓練になるのだと思う」

    そしてミドリはこんな風に言います。
    「ワタナベくんが、あたしの先生だったら、あたしもっと勉強したのに。
    威張った大人や学校の先生が大嫌いだった。教師はこの問題を
    やれと命令するだけで、その意味については何も教えてくれなかった。
    連立方程式が一体あたしの人生のどんな役に立つのか質問しても
    オマエは馬鹿かという風に見られるだけだった」

    やがてミドリはそんなワタナベに惹かれていくことになるのだが、
    そこは割愛させていただくこととして、あたしはこの「ノルウエイの森」を
    読んで、ヘッセの「車輪の下」を買って読んでみました。ヘッセだけじゃなく
    村上の小説に出てきた小説や音楽はできるだけ見たり聞いたりする
    ようにしてきた。それはあたしの趣向とは違ったものも多かったが、
    あたしが「恋をした」作品に書かれているものなのだ。見ないわけには
    いかなかった。「車輪の下」には「デミアン」という小説が同じ一冊に
    おさめられていた。そして「デミアン」の中の一場面で前述のワタナベと
    ミドリが繰り広げていた会話そのものの場面が出てくることを後から知る。

    そしてそれを知ったとき、武田鉄矢が「竜馬がゆく」で感じた同じ感動を
    あたしは体感することになる。あぁ、、そうだったのか、という気持ち。
    それはただ「ノルウエイの森」を読んだだけでは到底知り得なかった。

    主人公の青年はこの「デミアン」を過去に読んでいたのだ。
    (小説には確かに昔「車輪の下」を読んだという風に書かれている)
    そしてミドリから質問されたとき、ふとこの小説のことを思い出して
    それを引用して答えたのだ。

    まるで恰も自分が思いついたことのように。

    あたしがもし、「車輪の下」を買わずに、「デミアン」という小説を
    読んでいなかったら、このワタナベという青年はただ頭の回転の速い
    気の利いた言葉を言える頼もしい人物だと単純に思っただろう。
    だけど、彼は「ミドリ」という少し気になる魅力的な女の子の前で、
    持前のささやかな知識から過去に得た言葉を引用し、
    それを自分の言葉として伝えることによって、彼女の信頼、更には
    好意的な印象を付けることに成功している。

    なんて人間くさくてかわいいんだろう。人だって所詮動物なんだから、
    どんなにクールに見せようとしたって生物本来の欲求には抗うことができない。
    男はやっぱりかわいい女の子に頼もしいと思われたいのだ。

    村上春樹が、果たしてそういう意図があってその引用を
    主人公「ワタナベ」に言わせたのかどうかは分からない。
    だけど、あたしはそれに気付いた時から、この「ワタナベ」という
    主人公の人間くささに親近感を覚えた。
    「なんだ、ワタナベ君、かわいいとこあるじゃん」って風に。


    極めてこそ気付ける奇跡、感動がある。
    それはきっと他人にとってはどうでもいいことかもしれない。
    だけど、武田鉄矢少年が18の夏に「竜馬をゆく」を読んで得た感動が
    長い長い年月を経てもなお彼の中に息づいているように、
    あたしの中にも村上春樹の文章は確かに息づいている。
    そこに馳せる想いの塊のようなものはとても似ていると思う。

    「その日は、朝早いうちから雨が降りはじめた」
    この一文に共感できる人とできない人がいる、と何かの本で
    村上が語っていた。武田鉄矢少年も思った。竜馬が富士山を見て
    ただその雄大な姿にわけもなく感動したように、自分もいつか
    富士を見た時は同じように感動できる人でありたいと。
    そしてあたしも、ずっと同じように思ってる。
    何気ない言葉に感動できる心を持ち続けていたいし、
    それはどんなに年を重ねても決して失いたくない。
    小手先だけの言葉でどんなきれいごとを並べても
    人の心は動かせない。「言葉」は「使う」と表現するように
    武器でもあり、道具でもあります。だから、決して簡単に
    使ってはいけないと思う。竜馬が、そして武田さんが心がけて
    きた「言葉を置きにゆく」という行動は、あたしもずっと
    心がけていきたいと思う。

    読書は読んでそれで終わりではない。読んだ時は理解できなかった
    ことが、ずっと後になって気付けるようになるから面白いのだ。
    でも、それに気付けるのは、心の中にずっと温めていたからこそだと思う。

  • まるで死が通り過ぎていくよう。この本を読んで、病んでしまったのか、病んでいるときに読んだのか、よく思い出せないけど、衝撃を受けたのは確かです。
    物語全体に霧がかかったような雰囲気が漂い、切なくて美しくて引き込まれてしまいました。
    みどりのお父さんにきゅうりを食べさせるシーンが好き。生命の香り。

  • 村上春樹の作品の中で、こんなにリアルで共感できるものがあるのを初めて知りました。

    ワタナベくんの葛藤、永沢さんの価値観に特に共感しました。

    人物ひとりひとりのキャラクターがはっきりしていて、「あーいるいるこういう人ね!」ってなります。(一回読んだだけでは直子だけはよく理解できませんでした。笑)

    性的表現の有無で賛否両論分かれることもあるようですが、それがあるからこそよりリアルに世界に入り込めるんだと思います。

  • 下巻もひたすら不安定な気分になり
    読んでいて自分がどこにいるのか分からなくなる
    消えてしまいそうな不安に襲われたのを
    覚えている。

    この感覚は一体なんなんだろう…とこわかった。
    でもひきつけられる作品。

  • エロいから、下品だから、という理由で村上春樹を嫌う人は「もったいないなあ」と思う。
    もっと違う「主人公の自己愛」だとか「語彙のひけらかさ」とかそういうので村上春樹を嫌ってほしい。

  • 私は読んでいて、
    どちらかというと死んでいった人の方に心が寄り添いました。
    性から生が生まれるので、生死を描くのに性を持ち出すのは、
    別段不自然とは思いませんが、それにしても性描写の多いお話でした。

    物事はなる様にしかならない、人が生きるというのはそういう事。
    だからどんなに注意しても、ベストを尽くしても、
    人が傷つくときはどうしたって傷ついてしまう。傷つけてしまう。
    分かっていても、それを避けようと躍起になったり、
    うまくいかなかった時に自分の言動を悔やんだり人はしてしまうもの。
    そうして思い悩むから、心は擦り減っていくのかな。
    だから生きている人は、それを乗り越える強さか、
    其れをそういう物だとやり過ごせる余裕がないといけない。
    そうだとしたら、やっぱり生きていく事って、中々しんどいですね。

  • 下巻に入り、天真爛漫で奔放、無邪気な緑と、次第に病が重くなっていく薄幸な直子との対比が描かれ、ワタナベ君へ次第に恋心を募らせ段々と存在感の増して来る緑の事をいじらしく感じました。
    逆に思い出の中で生き続ける直子とは、彼女の病状の悪化と共に、段々と逢う機会も少なくなって行き…。
    直子とワタナベ君にとって共通の大切な人であったキズキ君(死者)を想う気持ちは大切だけど、あまりにも想いを引きずるとその人の心まで病んで来るのかなぁ…と。
    また、物語の最後でレイコさんから打ち明けられた直子の本当の気持ちを聞き、その頃にはすっかり自分と主人公の気持ちを重ね合わせていましたので、軽いショックを受けました。
    女の子の本心(内面)って分からないよなぁ…って。
    中には緑の様にずっと細かなサインを発している人もいる訳で、これを見落としちゃ駄目だなぁと。
    青春の一コマ、愛する人を失い、深い喪失感からなかなか立ち直れないでいる一人の青年の心の葛藤を渾身の力で描写しています。
    直子の儚さと危うさは、紙一重のところで狂気に接していると感じ、狂気は人から人へと伝染するのであろうと。
    僕らは現実の世界の中で“いま”を生きているのだから、人生で何度か訪れる大切な人との出会いと別れの中で、自分自身の心にどう折り合いをつけるのか?また、その時心の支えとなってくれる存在は?など色々と考えさせられる物語でした。
    映画化もされているので、今度は是非映像の方も見てみたいです。
    ワタナベ君は今をどう生きているのか、その世界を少し垣間見てみたかったなぁ…と思いました。

  • 下巻になり、女性の心が手にとってわかる位、描写が分かりやすく、文体が綺麗。この小説は春にぴったり。春になれば、何度も読みたくなる。
    私の事を決して忘れないで。

  • 人を深く愛するということ、そしてそれがいかに辛く苦しいかということ、それらを文面からひしひしと感じた。
    それでも恋を止めない主人公たちの心情の揺れ動きまで伝わる。
    すごく素敵な話だった。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「れがいかに辛く苦しいか」
      チョッと過剰かと思えるくらいの、巧みな文章で描写される世界なのに、熱くなく冷んやりしている。それが好きです。
      と...
      「れがいかに辛く苦しいか」
      チョッと過剰かと思えるくらいの、巧みな文章で描写される世界なのに、熱くなく冷んやりしている。それが好きです。
      ところで、yuki*さんは「1Q84」は読まれましたでしょうか?
      2012/09/05
  • この作品では、いつも胸を締め付けられてばかりだ。
    人の死がどこからともなく自然にやってくるし、
    直子とワタナベとの“恋愛”が凄く繊細で、幻想を見ているよう。
    そして、緑に心惹かれていくワタナベの気持ちもわかる気がする。
    この作品、女性と男性でかなり見方が違うだろうなぁ。
    映画も観たかったけど、昨日で終わってしまった。
    そして今日、大学受験が終わった。正確に言うと、前期が終わった。

  •  松山ケンイチさんが『ノルウェイの森』に出ると知り、例の如く下巻から手を出しました。否、下巻に手を出しました。
     この人は、女の人が嫌いなのですか。女性の扱いがあまりにも酷い。中出しするなと言っているのに勝手に中出しして責任もとらぬまま終わる。女性と自分を傷つけてばかりで高笑い。自嘲だとまるで自分を憐れんでほしいかのごとくすさむ。だれもが。
     これが恋愛小説なんですか。女性とセックスするだけで自分が不幸だと嘆くだけの物語が、相手に全てを任せきりで自分勝手な人間の物語が、恋愛なのですか。

  • やはり村上春樹は素晴らしい!
    ただ、部分的に百合表現が伺われるのが難点かもしれない。
    艶やかな表現が繊細。

    最近ではあまりない、重感を伴いつつも、破天荒なような作品。

    空想世界が出てこないが、導入部から時を遡っているため、一概にそうとは言えないのかもしれない。

    去年の夏、村上春樹第一ブームが私にやってきた。
    そして、今年の夏も本に溺れようと思う。

  • 同い年くらいで読めたのはよかったと思った。
    喪失感みたいなテーマがあった気がするけど、最初から最後まで穴が埋まらない感じがした。

  • みどりの父が入院する病院で、キュウリに海苔を巻き、ただ醤油を着けて食べる場面があるのですが、これがなぜだかすごく美味しそうに思えます。読んだ後、すぐに家にあったキュウリに海苔を巻いて食べました笑

  • 恋愛が物語を駆動する関係の軸には違いないが、死者が常に背後に存在していて、その死者とどう向き合うかを常に問うているような鎮魂の物語。

  • 本当に感情移入出来て読めたなら最後の1ページで死ぬほど共感する

  •  安保闘争へのアンチテーゼ……と思ったけれども、この本はバブル期に出ている。バブル期の時に、1960年付近に生まれた人は20代から30代である。1950年付近に生まれた人は40代である。安保闘争をなんとなく見て育ったのは1950年代であり、だから最後にギター弾きの熟女レイコ(受けレズビアンで、ピアノのプロの脱落者)とセックスさせたのではないか。読者のことを考えて書いたのではないかとか思ったが、別にそうではないと思った。
     というのも、最後に「4回性交した」とか書かれてあるのだが、この感じの書き方、ノルウェイの森の前半の最初のほうとまったく同じだ。
     物語の「行って帰る」という型でいえば、最初にセックスだらけの大学生活。そこからセックスをしない恋愛状態、直子との純愛っぽいの。最後に熟女とセックスしまくる終わり。と言う風に、「する、しない、する」で元の世界に帰ってきている。だからここで読者は、ああ終わりなんだなと、戻ってきたんだなと思うのである。
     そして、結局戻ってきて、物事が進んだのか、整理されたのかどうかはわからないけれど、僕はどこにいるのかわからない、ただ緑を求めていたという、「普通の恋愛の青年」になった。「やれやれ」とかいいながら知り合った女とすぐヤれる青春は終わりましたよということになる。なので、このノルウェイの森は、「最後の一行こそ始まりだ」という感じはなく、「ここでこいつは終わった」となっているのだ。純文学は「最後の一行こそ始まり」な感じがするのだが、ノルウェイの森はそうではなかった。
     緑が父親の介護をして、安保闘争のサークルでおにぎり作らされる話とか、その辺は妙に具体的で面白かった。それ以外の緑は、SM好きであったり、お父さんの前で生まれた姿を見せたり、よくわからない変態で、主人公にずっとゾッコンである。
     で、その緑への愛の手紙と、直子への愛の手紙と、その使い分けは、読者をとてもえぐる所だと思う。
     いまもラインやらSNSでいろんな人がこの使い分けをやっているわけで、「デジタル社会によって人間が分裂され、かつては人は自分=自分であったが、分人っぽくなってきた」みたいな分析は、ここで断たれるということになる。むかし、「子どもとニューメディア」みたいな本とか、大澤真幸の「電子メディア論」とかで、なんかこう「分裂してまっせ!」みたいなことが書かれていたが、別に手紙でも分裂するのだと思う。昔からずっと分裂していたやつは江戸時代くらいからもいただろう。もし、この直子と緑への気持ちの分裂っぷりがいまのSNSと違うというのなら、それは主人公が真剣に悩んだ結果なのだから、そう見えるのであって、この「僕」がやっていることはオタサー姫のようなことである。ただ、「ものすごく真剣に悩み苦しむオタサー姫」といったところである。
     最後に問題がある。
     この「僕」であるが、ギター熟女の素晴らしい説得と慰めと方向性の示しについて、それでも「ちょっと待ってください。あれは寂しい葬式だった」みたいな、意味不明の言葉でのらりくらりと結論をかわすのだ。緑と結婚して彼女と幸せになるということはなく、ただ、「好きです」「大好きです」なだけである。やっぱり、決めないのだ。
     主人公がクソ過ぎて読者が離れないように、謎の放浪の旅をさせたり、苦しませてはいるが、でも結局は熟女と濃厚セックスなう、である。また、ノルウェイの森で描かれる女も、リアルにこういう女がいる、というわけではなく、「こういう女を演じている女はいる」という方に近い。たまに女性のなかで、ずっと「何を演じているのかわからないが演じている人」がいるのだが、登場人物はみなそれに近い。
     ノルウェイの森は異世界転生でいえば、文化系男子が肉食女子ばかりの土地でなぜかもてまくってる、というライトノベルハーレムものにも近い。
     そういった、「大衆」「ライトノベル」的な感じをとことん前半やらに積み立てておいたので、最後の葬式でビートルズをひきまくってセックスに持ち込んでも「クソやな」という感情にはならず、むしろ、「二人ともどこに落ち着くんだろう」と慣れた感覚で見守ってしまう。最後の葬式セックスイベントは、もうエンターテイメントである。というか「前々からヤるやろなと思ってたけど、やっとセックスしたかこの二人!」とも思う。また、このギター熟女は30代だと思うのだが、そんなシワができるものだろうか。当時の30代はシワが多かったのかもしれない。
     デブもブスもオタクも悪人もバカも笑いものとして排除された文学で、まるで椎名林檎の描く世界のような耽美さがある。上流階級っぽさがあるのだ。でも巧妙に大衆化している気がする。ゆえに、村上春樹のおかげで、セックスにありつけた男性は多いだろう、と僕は思ったが、バーでビールを二杯飲み、水商売の女はかならずモヒートを飲み、そしてそれはどうでもいいことだった。

  • 10代か20代前半に読んでいたらもっと感情移入出来たかな?でも面白かったです。ノルウェーの森が舞台ではないけれど、早朝の朝霧漂う深い森の中を歩いているような、空気は澄んでいるのに前も後ろも見えなくて、不安を感じつつでも立ち止まる事も出来ずにさまよっているようなそんな気持ちにさせられる作品でした。この空気感は、ちょっと繊細なところのある若い人に受けそうなだな。著者が男性なので当然なのだけれど、女性の描き方が男の人目線だなと思いました。最後1

  • 少し暑いくらいの3連休。仕事をするか競馬に行くしかやることもなく、腰も痛くなってきたので寝転がって本を読むしかなく。
    これが「ノルウェイの森」ですか。正直なところ、よく理解出来ず、残念。若い時に読めば多少は感慨みたいなものが湧き出たのかもしれないなぁといった程度。
    ただ、緑には惹かれたな。強くて脆くてかわいくて、少し変わっているけど、とってもいい娘。
    私の手には負えないような気はするけど、若い頃に会ったとしたら、きっと恋しちゃうな。ワタナベ君には勿体ない。
    くさしているけど、それでも「グレート・ギャッビー」を、なんとなく読みたくなった。

  • 純愛に生きたいが性欲に翻弄される大学生の話( ´ ▽ ` )ノ

    主人公に限らず、なんでこの小説の登場人物たちはセックスのことばかり考え続けているんだろう?( ´ ▽ ` )ノ
    男も女も老いも若きも、みんなスケベ( ´ ▽ ` )ノ
    西村寿行ワールドも大概だけど、ハルキワールドはそれ以上かもしれない( ´ ▽ ` )ノ
    他に熱中できることはないのか?( ´ ▽ ` )ノ
    だれもかれも道に迷って、中には病院送りにされもしてるけど、根本的問題は明々白々( ´ ▽ ` )ノ
    人間ドラマというより、進化したボノボの物語を読まされた感じだった( ´ ▽ ` )ノ

    たしかに面白く読めはしたけど、二度三度読みたいとは思わないな( ´ ▽ ` )ノ

    3作読んでみてはっきりわかった( ´ ▽ ` )ノ
    自分にハルキは合わない( ´ ▽ ` )ノ
    まあ、買いためた分があるから、あと4作は読むけど、それでおしまいだな( ´ ▽ ` )ノ

    2017/04/17

  • 上巻、下巻まとめて読んだ。この前に読んだ「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」と若干台詞や設定など似てる部分があって、個人的には読みやすく感じたけれど、反面、最後まで物語を理解出来ずに(いや、今も理解出来てないんだけど)いた。

    最初は簡単に言えば「壮大な恋愛物」という勝手な印象を持ってたんだが、恋愛物だとかそんな枠ではくくれないような話しで、かと言ってじゃあどんなの?なんて聞かれても、自分はまだ上手く説明も出来ないなぁこれは

    でも、きっとこれは解釈が人によって様々なんだと思う(まぁ、これに限らない話しでもあるけど)

    恋愛物として好きという人も、または青春物、人生論的と捉えてる人とか、自分みたいに単純に性描写がエロいというのを主に感じた人もいると思う 笑 何にせよ、自分がこの物語を理解するのにまだちょっとかかりそう

    あと女性達の台詞で気になったのが、何か所々「本当よ」「本当だよ」ってのが入ってるのは、一体何だろうか?この主人公の疑い深い顔だとかを表してるのかなぁ

    個人的に緑に「この次教室で会っても話しかけないで下さい」って言われたあたりから、「あれ?何だかこの感覚経験あるかも」となり、そこからもう主人公と自分が重なり始めて、地味に辛かったような、またちょっとだけ懐かしいような、そんな気持ちになった

    そうは言っても、読んでいて際立って悶々とする事はなかったなぁ。むしろ自分は全体的に瑞々しさすら感じた方でした。

    自分は如何せんやっぱりその性描写にばっか捉えられちゃってて、正直そこばっか頭に浮かんでて、う〜ん、もっかい読まなきゃ駄目だなぁ 笑

    ちなみに、この女性達の中から選ぶとするなら、断然緑を選ぶと思う自分は

  • 上下共読み終えて初めに感じたのは、世間での知名度とこの作品の内容は本当に見合っているのかという疑問だった。自分はこの作品を好んでいるしこきおろすつもりもないけれど大衆小説として人々に読まれるにはちょっとアクが強いんじゃないか。
    後はこの作品は何か教訓的なものを含んでいるとも言い難い。読後にメッセ―ジを感じるわけでなくなんとなくの達成感があるだけだ。この作品は何より村上春樹自身が自分の体験と考えを消化するためのプロセスだったのだと思う。
    わけもわからず人が死んだ。それも自ら選んだ選択であったこと。それが本人にとっても自分にとっても正しかったのか、そしてその事実が自分やその人や周りの世界にどういう意味をもたらしているのか。愛した人が死んだことをいつまでも悔やみ続けている方が正しいのか、ほかの女を愛することは間違っていて裏切りでしかないのか。
    自分の生き方を、悪い言い方かもしれないが正当化するためにこうして物語を作り完結させたのかなというのが自分の推測。

  • あまりにも退屈で難解な小説でした。
    でもなんとか最後まで読みました。
    それはまるで苦行のような長く苦しい戦いでした。
    それでも最後まで読ませてしまうのが村上春樹作品なのでしょう。
    何年かしたらもう一度読んでみたいと思います。

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著者プロフィール

村上春樹(むらかみ はるき)
1949年、京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市芦屋市育ち。早稲田大学第一文学部映画演劇科卒。大学在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺・千駄ヶ谷に開店していた(1981年、店を人に譲渡)。1979年にデビュー作の「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞。谷崎潤一郎賞、読売文学賞、朝日賞など数々の受賞歴がある。2006年にフランツ・カフカ賞、2009年にイスラエルのエルサレム賞受賞。ノーベル文学賞に最も近い作家の一人と言われており、毎年発表時期に日本国内でニュースになる。事実、村上春樹作品は全世界で翻訳されており、アメリカ・アジアでの評価がとりわけ高い。フィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーなどの作品の翻訳も手がけ、翻訳家としての仕事も高い評価を受ける。翻訳と創作活動を交互に行うことで、作風を変化させ、作家としての成長を続けている。新作が発表されるたび大きな話題となるが、近年は特別番組「村上RADIO」にてラジオDJも務め(不定期放映)、数々の名言も注目を集める。代表作に『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』。2019年7月31日に『神の子どもたちはみな踊る』が舞台化。2019年8月7日発売の『文学界』でロングインタビュー「暗闇の中のランタンのように」掲載。アメリカのサックス奏者スタン・ゲッツの伝記翻訳を2019年8月末に刊行予定。

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