ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社
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レビュー : 2185
  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062748698

作品紹介・あらすじ

あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと-。あたらしい僕の大学生活はこうしてはじまった。自殺した親友キズキ、その恋人の直子、同じ学部の緑。等身大の人物を登場させ、心の震えや感動、そして哀しみを淡々とせつないまでに描いた作品。

感想・レビュー・書評

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  • 30年ぶりの再読です。
    文章の美しさに驚かされます。
    50になろうかとするオヤジが読めば、ウジウジと悩み、しかしヤリまくる主人公に辟易しそうなストーリーであるのだが、なぜかその苦しみを分かち合い、初々しさに嫉妬してしまう。
    女性陣がなんとも魅力的でいい。
    軽快で哲学的、生きていくための教訓をなんと多く含んでいることか。
    感受性の鋭さゆえに苦しみ、必死で生きようとする若者たちには、覚めた目で見つつも感情移入してしまう。
    こぼれ落ちる者が悲しいが、生き残ろうともがく者への救いにホッとする。
    村上さんを青春期にもっと読んでおけばよかったな。
    オヤジは永沢が一番好きだな。
    「自分に同情するな」は、30年来心にとめている。

  • 3回目。今まではラストのレイコさんとの件がどうにも解せなかったのだけど、あれは二人を死の世界から生の世界へと引き戻す為に必要な行為だったんじゃないかと思えてきた。その前の二人ですき焼きを食べるシーンは、肉を食らうということは生へのどうしようもない衝動なんじゃないかと。死の世界にいる直子ではなく生の世界の象徴たる緑にワタナベが惹かれてしまうのはどうしようもない生への渇望なんだろうなと。「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」蓋し名言。これは生(性)と死の物語なのだ。2011/512

  • 高校生のときに初めて読んだ村上春樹。
    その時の印象は暗くて静か(そういうのは好きなのだけど)、あまりの性描写の多さに村上春樹は苦手だとおもうきっかけになってしまった。いみのない性描写はきらい。官能小説みたいでなんか嫌だ。
    でも今回改めてきちんと考えながら読んで、この作品に於いての性というのは"生"のことなのかなという考えに至ったら、一気にすっきりとした。

    生を受け入れられない直子と、まっすぐに生と向き合おうとする緑と、生の世界にありながらも直子のもつ死を見つめざるを得ないワタナベくん、死に近いけれどまだ選択の余地のあるレイコさん
    全力で正直な緑が好き。死に影響されつづけるワタナベくんが生をわすれなかったのは、生命力にあふれている緑との関わりがあったからだと思う。

    結局はまだまだ生きなければならないけど、生きてゆく限りは多くのものを失うことになるし、世界にはきれいじゃないものが沢山あるし、自分のかなしみのことだけ考えていく訳にもいかないし、でもそれに向き合うのが生きるということだから。
    4年ぶりに読んだノルウェイの森は、生きるパワーやあたたかさを感じる作品だった。
    すごくうまく組み立てられた作品。村上春樹がすごいと言われる理由が分かり始めたかもしれない。

  • 一体何年ぶりに読んだんだ?
    1987年だったんだ。22歳か・・・若かったな〜
    この緑と赤の装丁が本屋に山積みにされていて・・・
    それまでも村上ファンだったから、何かこの作品で一気にファンが増えて、社会現象的な作品になったことを記憶しています。

    改めて読むと・・・軽くて重い、青春小説だったのかな
    もはやどうすることもできない純然たる「死」と、どう向き合って生きていくのか・・・
    やっぱりヘビーな作品です。

    女の子は、できる限り奔放で、キュートで
    男は、ストイックであり、主体性はないが、一風変わった我が有り、
    気分は軽やかであり、しかし死を哀しいまでに内包している。

    やはりいい作品だと思います

  • う~ん、正直なところ、これ、一体全体どういう物語なのかさっぱりわかりませんでした。  これがバカ売れした理由も KiKi には見当もつきません。  「ねじまき鳥」の方は読んでいてまだ「ある種の感覚」が揺さぶられるような気がしたけれど、こっちは何だかスポーツ新聞とか男性週刊誌に載っている KiKi があんまり評価しない「官能小説」とどっこいどっこいという印象でした。

    「性」を扱うのは構わないし(それで顔を赤くしちゃうほど初心ではない)、ある程度露骨な性描写があってもそんなのには動じない程度には成熟(?)している自負のある KiKi だけど、この物語のそれは正直なところ不快感以上のものを感じることはありませんでした。  

    そんな描写が多い中にクラシック音楽やら60年代~80年代の洋楽ヒットチャートみたいな音楽の話が出てくるのも、何気に許せない(苦笑)  この物語に出てくる様々な音楽のうち半分ぐらいは KiKi 個人にとっても何等かの思い出と密接に関わっている音楽であるということもあって、何だか KiKi の思い出まで冒涜されたような気分になってしまいました。

    「生と死」を扱っていると言えば聞こえがいいけれど、主人公のどこか斜に構えた、もっと言えば甘ったれた「死生観」がそれこそ腐臭のように漂う小説のような気がしたし、登場人物の誰一人として共感できなかったのが KiKi にとっては致命的でした。  

    主人公のどこか頑なな気質の根っこにあるのは17歳の時に体験した「親友の突然の自殺」にあることはわかるし、その事実を消化し乗り越えるのに時間がかかったこともわかるんですよ。  親友の死と同時に、「1人生き残ってしまった自分」を持て余したのもわかるし、ある意味で虚脱状態に陥ってしまったのも理解できるんです。  特に昨日までそこに存在しているのが当たり前だった人が何の前触れもなくいきなり消えてしまうな~んていうのは、人を混乱させるに十分な出来事であることは、同じような経験をしていない KiKi でもある程度は想像できます。

    でも、逆に言えばこの主人公のような解決の仕方をしていく人間というのにどこか嘘っぽさを感じずにはいられません。  そういう意味では直子さんの方がまだ理解できるような気がするんですよね。  「生」と「性」を結びつけるのもわからないじゃないけれど、彼の「性に対する感覚」もちょっと理解の範疇を超えちゃっているように感じるんですよ。  率先して・・・・ではないにしろ、あれだけ「自堕落」とも呼べるような性行動をしている一方で、直子さんや緑さんとの対し方にある摩訶不思議な拘りはいったい何なんだろうか?ってね。  

    主人公の人間関係もどこか腑に落ちないんですよね~。  学生寮や大学にこれといって「友」と呼べる人間がいなかったのは、時代背景とか彼の心を占めているものと同世代の学生の心を占めているものとの相違という点でわからないじゃないけれど、1人の人間が生きていくうえでかかわりを持つ人間関係というのはそれだけではないはずです。  親もいれば親戚もいるわけで、少なくともあの時代の「親族」というやつはこの主人公にとってのそれほど存在感が希薄ではなかったと思うんだけどなぁ・・・・・・。

    ひと頃 KiKi の親世代の人々が KiKi やそれより10歳くらい年長(ちょうど村上さん世代)の人たちに苦言を呈する際に「ひとりで大きくなったような顔をして・・・・・」というのがあったけれど、この主人公ってまさに「ひとりで大人になったような顔をし、自分の哲学だけを頑なに守り続けている没社会交渉の孤独な人間」っていう感じがするんですよね。  そして生身の人間との接点が少ない分、歪な個人主義の中でこねくり回した感性だけを大切に抱え込んでいる・・・・・そんな印象です。

    文庫本上巻の裏表紙にある解説文の中に「限りない喪失と再生を描き」とあるけれど、 KiKi にはこの物語のどこに「再生」があるのかまったくわかりませんでした。  人間、エネルギッシュに何かを追い求め常にチャレンジしていくばかりではないけれど、この主人公の場合はあまりにも「何もしていない」し、どこか当事者意識が欠けていると思うんですよ。  しかも物語冒頭の記述からすれば20年という歳月を経ても相変わらず「混乱」してみたりするし、物語最後の記述からすれば青春の悩み時代のある種の通過儀礼を経た直後であってさえも「僕は今どこにいるのだ?」だし・・・・・・。    

    そして下巻の裏表紙にある解説文の中の「等身大の人物」というヤツも、疑問符飛びまくりです。  少なくともこの物語に登場する人物たちは KiKi とは「別の次元で生きている人たち」という印象こそあれ、決して等身大の人物ではなかったし・・・・・。  KiKi のこれまでの人生経験と比べてみても「ああ、ここに私がいる・・・・」と思えるような記述は一切なかったし・・・・・・。  学生時代に好んで読んでいた初期の春樹本の中にはどこかしら「ああ、ここに私(だった者)がいる・・・・」と感じられるものがあったんですけどねぇ・・・・・。

    ま、この本の場合、KiKi にとって好ましかったのは赤と緑の装丁の美しさだけだったと言っても過言ではなかったかなぁ・・・・・と(苦笑)。  この本の内容を知らないまま、この本の出版を契機に春樹本を勝手に卒業することにした KiKi の感覚は間違っていなかった・・・・・そんな風にさえ感じてしまいました。

  • 趣味の世界には極めた人だけが到達する面白さというものがあると思う。
    小さい頃から趣味の欄には何気なく「読書」と書き続けてきた。
    小学校の時はよく本を読んだという理由で校長先生から図書券をもらった。
    あたしの趣味がたまたま読書であったから、今回は読書のことを書こうと思うが
    恐らく趣味と呼ばれるものの多くに共通していること。
    極めることでその面白さが何倍にも膨らむということ。
    好きになるということ。それはすなわち恋と同じで、その人のこと、その人の
    好きなものを知りたいという気持ちになるということ。

    あたしが好きな村上春樹の小説に関しては、恐らくもうある程度の「極み」
    に達したと思う。特に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は
    1年に1度は必ず読み返す長編小説です。同じくらい読み返す小説に
    同じく村上作品の「ノルウエイの森」がある。これはベストセラーにもなり、
    今秋映画公開にもなるそうだ。頑なに映像化を拒み続けてきた村上に
    一体何が起こったのかファンなら皆がそう思ったに違いない。

    今回「ノルウエイの森」のことを書こうと思ったのは、私が好きなラジオ番組
    でもある武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」という短いトーク番組がきっかけ
    だった。武田鉄矢と村上春樹には何の接点もない。以前そのラジオ放送内で
    村上春樹の小説について武田鉄矢が語った場面もあったが、少なくとも
    武田さんにとって村上春樹の小説から何かを引き出すことは出来なかった
    らしい。「今朝の三枚おろし」はネットで一週間分をまとめて聞けるので
    もし興味がある方は聞いてみてください。

    http://www.joqr.co.jp/bbqr/index.php

    ここは毎週月曜日に更新される。朝5分という短い番組を一週間分まとめて
    約30分ほどのファイルにして公開している。私も毎朝聞けるわけではないので
    こちらのサイトでまとめて聞くことになる。昨日は月曜日だったので、早速聞いて
    みた。武田鉄矢少年(18歳)が初めて「竜馬がゆく」を読んだ時のことが
    切々と語られていた。

     『竜馬がゆく』(りょうまがゆく)は、司馬遼太郎の長編作品。
     「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載し、
     1963年から1966年にかけ、文藝春秋全5巻で刊行された。
     1974年に文春文庫発足に伴い全8巻で刊行、
     単行・文庫本ともに改版されている。(Wikipediaより)

    あたしが武田鉄矢が好きなのは、趣味が同じだからというわけではない。
    性別も育った環境も違うので、趣向は全く違うし、好きな本、
    感動した作品ももちろん違う。番組内で紹介された映画や本も
    いくつか読んだり観たりした(「悪の遺伝子」「ベン・ハー」など)だが、
    残念なことにそれらの作品があたしの琴線を”強く”震わせることはなかった。
    だけど武田さんとあたしには明らかに共通点がある。
    好きな人、作品などに対する想いの純粋さとか、感動する心の震えようの
    ありようとか、そういったものが確かに似ている。ある友人に言わせると
    「武田鉄矢なんてただの威張ったオッサンじゃないか」と一笑されて終わったが
    「今朝の三枚おろし」を聞いているとあたしは武田さんの思いのこもった
    ものたちが、まるであたしが愛でているもののようにいとおしく思えてくるのだ。

    今年は大河ドラマにも竜馬がとりあげられたりして、竜馬好きな武田さん
    にとっては特別な想いもあるのかもしれない。武田さんの話を聞いていると
    竜馬が本当に好きなんだな、ということがよく分かる。
    私は「竜馬がゆく」を読んだことがないので、これから書くことは全て
    武田哲也が番組トークで語った内容ですが、気になった部分を抜粋して
    書きたいと思う。

    「竜馬がゆく」はフィクションです。多少の脚色も状況の変更設定もある
    作品を武田さんはきっと何度も読んである程度の「極み」に達していた
    のだろうと思う。その後、色んな文献などから竜馬の事を調べたりする
    うちに、そのフィクションである小説がまるっきりデタラメから来ているわけでは
    無いということにふと武田さんは気付いた。
    「竜馬がゆく」の中で、竜馬が鶏肉が好きだという話が出てくる。
    それが本当かどうかなんて当時の竜馬を知らない限りは分からない話だ。
    だけど、その何気ない設定さえ、実際に後世に残された竜馬の文献の
    一文から発せられたものだったんだという事を知ったときの感動。
    それは極めたものしか分からない、分かり得ない内容だったはずで、
    ただ「竜馬をゆく」を読んだだけでは到底知り得ることが出来なかった。


    極めた者だけが得ることのできる感動。
    それはその作品を飛び出した部分から、その作品に込められた
    思いを知ることによってもたらされる。そしてふと気付いた。
    あたしにもかつて、確かにそういう経験があったということ。
    それは村上春樹「ノルウエイの森」によってもたされたものだった。

    「ノルウエイの森」の中で、主人公の青年「ワタナベ」が
    本屋の娘「ミドリ」の家でひょんなことから一夜を明かす場面がある。
    青年はうまく眠ることが出来ず、1階の本屋から一冊の本を持ち出し、
    寝息を立てるミドリの横でその本を読む。
    明け方になり、その一冊分の料金をレジに置き、青年はそっと本屋を
    あとにする。朝もや、冷たい空気、しんとした商店街のまだ何者にも
    犯されていない生まれたての朝。あたしはこのシーンが好きで、
    (特にミドリと火事見物をしながらギターを弾く場面は最も好きだが)
    何度も何度も読んでその状況を目に浮かばせることさえできる。

     しかし話題はそれるが
     映像化されていない小説の文章から映像を思い起こさせるのって
     すごいですね。本当に映画化されてしまったら、それは映像化された
     イメージに固定されてしまうんだろうか、という思いがあって映画を
     観るのが少し怖くもあるのですが・・・・
    (でもきっと真っ先に観てしまうんだろうけどw)

    さてさて脱線を修正、話を戻します。
    ミドリの家で読んだ本が「車輪の下」というヘッセの小説でした。
    主人公の青年はこの本について「以前読んだことのある古臭いが悪くない」
    小説だという風に述べています。今回こういう状況にならなければ、
    昔読んだ「車輪の下」を読み返してみようなどという気にはなれなかったかも
    しれない、と書かれています。

    「ノルウエイの森」では他にもこういうシーンが出てきます。
    (思い出しながら書いているので状況の前後、脚色、
     語彙の置き換えはあると思いますがご容赦ください)

    ミドリが主人公の青年「ワタナベ」に問いかけます。
    「連立方程式を覚えて、一体何の役に立つの?」

    青年はミドリにこんな風に答えます。
    「連立方程式が、直接君に何かをもたらすということはないと思う。
    だけど、物事を理論立てて考えるための訓練になるのだと思う」

    そしてミドリはこんな風に言います。
    「ワタナベくんが、あたしの先生だったら、あたしもっと勉強したのに。
    威張った大人や学校の先生が大嫌いだった。教師はこの問題を
    やれと命令するだけで、その意味については何も教えてくれなかった。
    連立方程式が一体あたしの人生のどんな役に立つのか質問しても
    オマエは馬鹿かという風に見られるだけだった」

    やがてミドリはそんなワタナベに惹かれていくことになるのだが、
    そこは割愛させていただくこととして、あたしはこの「ノルウエイの森」を
    読んで、ヘッセの「車輪の下」を買って読んでみました。ヘッセだけじゃなく
    村上の小説に出てきた小説や音楽はできるだけ見たり聞いたりする
    ようにしてきた。それはあたしの趣向とは違ったものも多かったが、
    あたしが「恋をした」作品に書かれているものなのだ。見ないわけには
    いかなかった。「車輪の下」には「デミアン」という小説が同じ一冊に
    おさめられていた。そして「デミアン」の中の一場面で前述のワタナベと
    ミドリが繰り広げていた会話そのものの場面が出てくることを後から知る。

    そしてそれを知ったとき、武田鉄矢が「竜馬がゆく」で感じた同じ感動を
    あたしは体感することになる。あぁ、、そうだったのか、という気持ち。
    それはただ「ノルウエイの森」を読んだだけでは到底知り得なかった。

    主人公の青年はこの「デミアン」を過去に読んでいたのだ。
    (小説には確かに昔「車輪の下」を読んだという風に書かれている)
    そしてミドリから質問されたとき、ふとこの小説のことを思い出して
    それを引用して答えたのだ。

    まるで恰も自分が思いついたことのように。

    あたしがもし、「車輪の下」を買わずに、「デミアン」という小説を
    読んでいなかったら、このワタナベという青年はただ頭の回転の速い
    気の利いた言葉を言える頼もしい人物だと単純に思っただろう。
    だけど、彼は「ミドリ」という少し気になる魅力的な女の子の前で、
    持前のささやかな知識から過去に得た言葉を引用し、
    それを自分の言葉として伝えることによって、彼女の信頼、更には
    好意的な印象を付けることに成功している。

    なんて人間くさくてかわいいんだろう。人だって所詮動物なんだから、
    どんなにクールに見せようとしたって生物本来の欲求には抗うことができない。
    男はやっぱりかわいい女の子に頼もしいと思われたいのだ。

    村上春樹が、果たしてそういう意図があってその引用を
    主人公「ワタナベ」に言わせたのかどうかは分からない。
    だけど、あたしはそれに気付いた時から、この「ワタナベ」という
    主人公の人間くささに親近感を覚えた。
    「なんだ、ワタナベ君、かわいいとこあるじゃん」って風に。


    極めてこそ気付ける奇跡、感動がある。
    それはきっと他人にとってはどうでもいいことかもしれない。
    だけど、武田鉄矢少年が18の夏に「竜馬をゆく」を読んで得た感動が
    長い長い年月を経てもなお彼の中に息づいているように、
    あたしの中にも村上春樹の文章は確かに息づいている。
    そこに馳せる想いの塊のようなものはとても似ていると思う。

    「その日は、朝早いうちから雨が降りはじめた」
    この一文に共感できる人とできない人がいる、と何かの本で
    村上が語っていた。武田鉄矢少年も思った。竜馬が富士山を見て
    ただその雄大な姿にわけもなく感動したように、自分もいつか
    富士を見た時は同じように感動できる人でありたいと。
    そしてあたしも、ずっと同じように思ってる。
    何気ない言葉に感動できる心を持ち続けていたいし、
    それはどんなに年を重ねても決して失いたくない。
    小手先だけの言葉でどんなきれいごとを並べても
    人の心は動かせない。「言葉」は「使う」と表現するように
    武器でもあり、道具でもあります。だから、決して簡単に
    使ってはいけないと思う。竜馬が、そして武田さんが心がけて
    きた「言葉を置きにゆく」という行動は、あたしもずっと
    心がけていきたいと思う。

    読書は読んでそれで終わりではない。読んだ時は理解できなかった
    ことが、ずっと後になって気付けるようになるから面白いのだ。
    でも、それに気付けるのは、心の中にずっと温めていたからこそだと思う。

  • 村上春樹さんの本は正直苦手だった。
    ありのままを受け入れると同義なのだが、イマイチ感覚的で何も言っていないような気がしていた。

    この本では、死と生、その境界、それぞれの世界は繋がっていて身近にある世界なのであるということを感じた。

    「私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちばん大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」
    ラストの展開は最初なぜなのかわからなかったが、このコメントから、あの2人にとってあの行為は生の世界で繋がる、直子の死を共有しながらも今を生きるという想いを共有するということの象徴でもあり、だからあの時そう行動するしかなかったのかと思った。

    切ないが澄み切った、キレイな文章。
    他の村上春樹さんの本も読んでみようと思う。

  • 村上春樹の作品の中で、こんなにリアルで共感できるものがあるのを初めて知りました。

    ワタナベくんの葛藤、永沢さんの価値観に特に共感しました。

    人物ひとりひとりのキャラクターがはっきりしていて、「あーいるいるこういう人ね!」ってなります。(一回読んだだけでは直子だけはよく理解できませんでした。笑)

    性的表現の有無で賛否両論分かれることもあるようですが、それがあるからこそよりリアルに世界に入り込めるんだと思います。

  • 下巻もひたすら不安定な気分になり
    読んでいて自分がどこにいるのか分からなくなる
    消えてしまいそうな不安に襲われたのを
    覚えている。

    この感覚は一体なんなんだろう…とこわかった。
    でもひきつけられる作品。

  • エロいから、下品だから、という理由で村上春樹を嫌う人は「もったいないなあ」と思う。
    もっと違う「主人公の自己愛」だとか「語彙のひけらかさ」とかそういうので村上春樹を嫌ってほしい。

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ、早稲田大学第一文学部演劇科卒。大学在学中にジャズ喫茶「ピーターキャット」を国分寺に開店していた。
1979年にデビュー作の「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞。谷崎潤一郎賞、読売文学賞、朝日賞など数々の受賞歴があるが、芥川賞は候補に留まっただけで受賞しておらず、賞に対する批判材料となっている。2006年にフランツ・カフカ賞、2009年にイスラエルのエルサレム賞受賞。ノーベル文学賞に最も近い作家の一人と言われており、毎年の発表時期は日本国内でニュースになっている。事実、村上春樹作品は全世界で翻訳されており、アメリカ・アジアでの評価がとりわけ高い。
翻訳家としての仕事も高い評価を受け、フィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーなどの作品の翻訳も手がけてきた。翻訳と創作活動を交互に行うことで、作風を変化させ、いまなお作家として成長を続けている。
代表作に『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』。

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