花腐し (講談社文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062751216

感想・レビュー・書評

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  • 『花腐し』
    綾野剛さん主演で映画化されると知り、観る前に読んだ。
    文体が独特で終始じめっとして陰鬱な感じ。正直読み終えて、え、これ映画にして面白いのかな、と思ってしまった。

    だけど映画ではかなり脚色が加わっており、より深みのあるものになっていた。小説にはない設定や過去の回想シーンがたくさん追加されているのに原作のイメージが崩れることはなく、むしろ元々こんな裏設定があったのでは、と思わせるほどだった。
    短いストーリーからこんな風に話が広がるんだ、と驚いた。

    映画を観てから再読。
    はじめの印象とだいぶ違って感じた。
    いつもなら嫌悪感すら抱くような内容だが、ちょっと見る目が変わったかも。

  • 松浦寿輝『花腐し』講談社文庫。

    第123回芥川賞受賞作の表題作の他、受賞後第1作『ひたひたと』を収録。

    可もなく不可もなく。久し振りに経験した、ただただ短編の雰囲気を味わうだけの得体の知れぬ時間だった。2作ともアウトローに成り切れぬ中途半端な男が主人公である。


    『ひたひたと』。何とも幻想的な短編。こういう小説を味わうのも良いが、身になるものは無い。元遊郭だった街で子供の頃の記憶と現実との間を漂う榎田。暫く無職を続けながらナミという女性と付き合う甲斐性無しの榎田。

    『花腐し』。映画化されるようだ。退廃的な雰囲気の中、借金で首が回らなくなった2人の男の全く異なる考え方。友達に裏切られ、共同経営していた小さなデザイン事務所が倒産直前で借金を抱える栩⾕は、貸主から頼まれ、路地裏の古アパートに居座る伊関という男を立ち退かせようと伊関の部屋を訪ねる。何故か栩⾕は伊関と酒を酌み交わし、伊関の過去と現在を知る。

    本体価格600円
    ★★★★

  • 「春されば卯の花腐し我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも」という万葉集の和歌がタイトルの元になっている。主人公、栩谷(くたに)の気持ちを象徴しているかのような雨が印象的だった。栩谷の名は、「花腐し(はなくたし)」から取ったのだろうか。

    芥川賞を受賞した表題作のほか、1作品収録。

  • 「ひたひたと」と「花腐し」の2篇。
    どちらもずっと雨音を聞いているような感じの作品だった。止まない雨、その中での徘徊。身体的な徘徊と精神的な徘徊とでぐちゃぐちゃになっていて、まるで夢遊病者の語り。「ひたひたと」では「を」の字のように曲がりくねった路地というのが出てきて、妙に印象に残った。語句と語句をつなぐ「を」という平仮名を使うところが酔狂だ。こちらもいきなり複数の叉路にふと立たされるようだ。
    「花腐し」は、厭世観たっぷりの男ふたりと女ひとり。淫夢のようであり、哲学的でもある。

  • 映画「花腐し」を観てから、この脚本が原作とは激しく違うものらしいということを、いくつかの評論、レビュー、コメントなどで知り、原作と脚本(シナリオ)の間の違い、シナリオが原作から受け継ぐものとはどんなものだったのかを知りたくて手に取りました。そして戸惑いました。登場人物のプロフィールはもちろん、置かれている状況も周辺も、何もかもが違うと言ってもいいくらいに違う。

    でも、映画「花腐し」の原作はこの小説「花腐し」なんだと受け入れられる。そう感じることができました。わかったような気がしました。

    小説「花腐し」は正直なところ、僕には難しい、難解な小説でした。小説だけを読んでいたら、きっと今、自分が感じているような「感じ方」には至ることはなかったかもしれないけれど、映画と小説の両方を観て読んで、この二つの作品の中に描かれているものが一つになってわかったような気がしました。

  •  短編を二つ収録。『ひたひたと』はかつての洲崎パラダイス、『花腐し』は今の新宿の、性風俗街に通いつめる男たちと、そこで春をひさぐ女たちの物語。性は、生に結びつくものであるが、死とも隣り合わせ。街のなかで、性と生と死が繰り広げられ、登場人物たちは、生きて、喘いで、まぐわって、死んでいく。私たちが生まれて死んでいくとは、どういうことなのか。それは、万葉集の編まれた古代から今現在まで、なにもかわらない。人が生きて、性愛に苦しんで、誰かを愛して、死んでいくことの本質など、変わりようがないのだから。

  • やっぱり私には芥川賞を理解するアタマがありません。一字下げの段落にはなっているものの、行は詰まったままだから、どこで休憩すればいいのか困惑したまま最後まで一気にいかざるを得ず。

    きっと私にはわからないと思っていたので、先に映画版を鑑賞しました。そうしたら主人公の職業も違う、心中もしない、同じ女性を巡る話でもなくて再び困惑(笑)。

    わかりやすいぶん、映画版のほうに惹かれるものの、比べてみるのはとても面白い体験。映画版は芥川賞受賞作を直木賞にちょっと寄せたふうに私には思えてとっつきやすかったけれど、最後だけは芥川賞。でもエンドロールは直木賞か。

    映画の感想はこちら→https://blog.goo.ne.jp/minoes3128/e/2af2dcfffad2eba2884edafd2f45e17b

  • 【ひたひたと】
    詰まるところ、どうしようもない場所に戻る男の感情の揺れなのか。
    自分の影を見ては子供に戻り、現の影を感じては自我を取り戻し…ただの逃避だ。
    人間、誰だってそうだろう。
    何が最良で、どの道が最適かなんて、分からない。
    分からないからこそ逆行するんだ。
    今いる場所から、少しづつ少しづつ後ずさりしていって、ひたひたと迫り来る波に呑み込まれない様にして、感情に蓋をして生きなければならない。

    【花腐し】
    腐らせる雨に抗う術はあるのか。
    どんな場所に感情が流れていこうとも、最初から腐っていては目も当てられない。
    結局、ただの言い訳だろう?
    どいつもこいつも、腐ってる。
    それは雨のせいじゃねーんだよ。
    濡れて腐るのが分かってるのなら、濡れないように考えりゃいーだけだ。
    生の熾火は見えるか?だって?
    見える訳ねーだろ、屍の熾火は見えるがな。
    同情も出来なければ、怒りしか湧いてこない。

  • 『ひたひたと』
    過去に翻弄されながら、現実と幻の境界が非常に曖昧なまま流れ、宛もなく街を彷徨う榎田という男。こびりついて離れない記憶というものが、頭を巡る彷彿でなく、榎田の体に現象として現れる。彼は幼い子供になり、青年にもなる。これは榎田自身(或いは作者)の記憶という解釈がまんま反映されているからか。榎田は記憶に関して、“その場に現にあるもののことなの。”と、酔った勢いで饒舌に語っている。人が何かを思い出す時、心はいつの間にか過去の自分を現在に降ろし、今の感受性で判断せず、あの時の感情の追体験を心に起こすことがしばしばある。幼い頃の出来事を、大人になった自分になって考えることはできない。たとえ成長と共に強靭な精神に近づいていたとしても、記憶が引き起こすトラウマのような心的損ないは、新鮮なまま時の壁を越えて眼前に置かれる。この作品の榎田の場合、それは少年時代の父の記憶と、青年時代のナミさんという女との記憶である。挙句に彼は自身の過去の幼い幻影を具現化し、会話をし、過去の女の幻影と情事を行う。そして榎田の身体がやがて運河に呑まれ、巻き戻しのように体が変わっていき、やがて細胞になって闇へと消えていく最後は、存在性の保証が消え去ったように思える。存在性とはその人をその人たらしめるアイデンティティであり、かけがえないものに思えるが、同時に心に蟠る影の集合でもある。これらがあるうちは、我々は固有の存在であることに苦悩もしなければならない。確固たる存在とは枷にもなるのである。榎田の暮らしは、“生であり性でも”あったと語っている。彼が過去に囚われて生きている時、心の間隙を埋めたのが女の存在であった。そんな浅薄且つ甘美な欲を転々として生きてきた彼は、過去にどんどん思い出すに堪えない痕跡を落としてきた。榎田という確固たる存在はまさしくその不穏な闇の団塊によって保証されていた。彼が過去というものから不羈奔放になった時、それは死の影が露わになる。おそらくこの物語の最後は、彼がなんらかの形で死に向かぬていくことを自覚したのではないか。おそらく溺死か。私は足を滑らせて運河に呑まれていく最後に初めて記憶に解放されていくところを最後は描写しているのではと思ったがどうであろうか。私はこの最後と、二十頁の運河の水に浮かぶ何かが印刷されていたが水に洗い流された白い繊維との関わりを、どうも同一視してしまう。印刷された字が彼の記憶の比喩であり、波の勢いで二つに畳まれるのは、彼が細胞へと交代してゆく様の比喩である。それに足を滑らせる危険性の描写も途中にしっかり描かれている。稚拙な読解かもしれないが、私にはやはり最後は溺れて記憶が流されている説をおしたい。しかし、私はこれが自殺という結末には異を唱えたい。彼の懊悩は記憶であるが、その記憶を忘却することを望んでいるとは思えない。あくまで、生に悩んで彷徨っていただけであると思う。希死念慮があったとして、それはほんの突発的なもので、彼の本質ではないと思う。
    これといったプロットや構成がある作品ではないが、What is memory ?という主題を演じて見せている。人は記憶と共に生き、そこには今までの自分がそのまま内包され、時間という運動を介入させず、その蔓延りは死を持ってしか洗い流せない、ということを言いたいのではないか。

    『花腐し』
    この作品は芥川賞を受賞している。しかし『ひたひたと』の方が個人的には好みであった。
    栩谷は、自身で起業した会社も倒産寸前、友人にも裏切られ、その友人と浮気していた恋人は昔に死別という、人生の苦悩の道半ばにいる。 借金が返せない栩谷は、ある金融会社の貸付人から、歌舞伎町の狭い路地にあるアパートの住民の伊関を追い出してくれと依頼されるが、その伊関と妙な関係を持つようになる。
    気味が悪い伊関の弁論には、抗えない魅力があった。伊関はこう言う。この巨大都市新宿は“無数のお化けが寄り集まって途方もない巨大お化けみたいなもの”であり、そこに生きる人間も“偶然が重なり合った蛋白質”に過ぎず、“意識とか心とか倫理とか、みんな怪異のお化け”であると。そして世の中は“塵が寄り集まつて、ほんの一瞬だけある形を作った”だけの“不自然”なことであり、“その一瞬の形というのが人生の全体”であると弁をふるう。伊関の人生そのものも、失敗と愚行から成っていたが、ここまで雄弁に人生について語り、その弁が持つ説得力は、まさに人生を勝ちきれなかったものこそ人生を知るというディキンソンの詩のようであると思えた。そして人生を一瞬の連続と捉えるのには、『ひたひたと』と共通している感じを受ける。絶望したくないのなら、絶望の瞬間を絶望と思わなければいいという伊関の哲学のようなのがあるが、裏を返せば“惰性”の絶望であり、絶望と気がつかない絶望である。しかし栩谷にとっては、彼自身過去に対して積りに積もったものを背負っているため、刹那的な人生観がいかに恍惚であったろうか。
    東京の都会に川はない、というのは人の生活から記憶が流されていくことはないということを暗に意味しているのではないか。欲望や記憶や喜怒哀楽といった人間が持つものは、ずっと沈殿しっぱなしで、東京を囲う海のように消えることなく揺蕩っている。そんなうつし世で、瞬間的な生き方を選ぶのなら、この物語の最後のような快楽主義へと埋没してゆく他ないのかもしれない。

  • 松浦寿輝(まつうらひさき)さんの『花腐し』(はなくたし)。
    作者もタイトルも漢字読めねー。

    花腐しとは万葉集にある「卯の花、腐(くた)し」からとられたもの。
    長雨の中で卯の花は腐っていくことを詠ったものだそう。

    主人公の性と生に対して淡白になり、腐っていく諦めの情景が外では雨が降り続いている、という情景、更には東京という街全体が放つ腐臭と重なり、
    どんよりした空気が流れてるなぁと思わせながら、詩的な描写の官能小説を思わせる表現がこれまた僕を刺激した。

    短編小説だし、読みやすいんだけど、
    さすが芥川賞だけあって、ちゃんと考えながら読まないと今の僕には断片的な部分しか記憶に残らないかも、
    と思い、慌てて、また読み直してみたり。

    こういうの文学って呼ぶのかな、って思ったけど

    そうじゃない。

    良書は読む人を選ぶものなのかな。

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著者プロフィール

1954年生れ。詩人、作家、評論家。
1988年に詩集『冬の本』で高見順賞、95年に評論『エッフェル塔試論』で吉田秀和賞、2000年に小説『花腐し』で芥川賞、05年に小説『半島』で読売文学賞を受賞するなど、縦横の活躍を続けている。
2012年3月まで、東京大学大学院総合文化研究科教授を務めた。

「2013年 『波打ち際に生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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