ダライ・ラマとの対話 (講談社文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062766470

作品紹介・あらすじ

「利他的な社会はあり得るか」「私たちの人生において1番大切なもの」「怒りは悪か」「心の科学としての仏教」「慈悲の実践」「愛と執着の区別」「利己主義と自己嫌悪」「他者依存と悟り」……。仏教を、宗教として、というよりも、より良く生きるための「智慧」「哲学」として学びたい人へ、激しくも熱い対論集。

感想・レビュー・書評

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  • 東工大で教鞭をとる文化人類学者の作者とダライ・ラマがダラムサラで2日間対話をした記録。高校の時に仏教学校に通っていた僕にとっては仏教の授業で語られることは「理想高く、しかし実践はなんか形式的」という印象であった。大学進学後は、仏教のことはほとんど考えたこともなく今に至る。それが、近年、キリスト教的一神教思想と密接な資本主義の行き詰まりがいろいろな所で語られるようになり、親鸞ブームのように仏教の教えは見直されてきているように感じる。そこで、入門書代わりにこの対話を読んでみた。
     まず感じたことは、真偽のほどは不明だが、仏教会も医師会などと同じで「官僚化・硬直化」しているという事実。確かに、世襲制が根強く、ある特別な大学に進学して資格を取得し、開業するという形は医者とそっくりだ。そして仕事は安定している。保守的になる土壌は満載である。

     そんな仏教界の現状を憂いている作者が、ダライ・ラマと会うためにはるばるダラムサラへのでこぼこ道を進んでいくところから話は始まる。なんか、その序章を読むと彼のわくわく感が伝わってくる。

     それにしても、ダライ・ラマの話はわかりやすい。最も印象に残ったのは、同じ言葉なのにいくつかの意味を持つと言うこと。
     たとえば、「怒り」。怒りを持つことはよくない。悟りを得るためには怒りを捨てなさいというのが定番。しかし、怒りには、嫌悪感から生じる破壊的な怒りの他に、慈悲の心から生じる良い怒りがある。だから、宗教家が社会的な問題に対して関心を寄せることは、愛情や慈悲の心が根底に存在していて、社会の不正をただしたいという怒りを方便として使用することなのだと。
     執着にも2種類ある。偏見に基づいた欲望の執着は捨てるべきである。しかし、悟りを求める心に代表される執着は持ち続けないと行けない。
     さらに競争についても。資本主義的な弱肉強食の競争観よりも根本的に、お互いの力を高め合うような競争の次元がある。
     そして最後に価値。お金やモノといった表層的価値より深層に愛や思いやりという人間的の土台があり、この二つが合わさって人間の幸福に寄与するという話。
     結局のところ、やはり仏教というのは多面的に物を見る宗教なのだなと思った。創造主というものはなく、風土や環境という、まずそこにあるものを契機に考えていくという意味で、多神教的な日本にやっぱり根本的にあっているんじゃないかな、と思った。

     内容自体は難しくない。幾分理想論っぽいこともある。しかし、日本とチベットという文化的背景の全く異なる国の歴史や現状を踏まえつつ繰り広げられる対話は非常にスリリングなものだった。教義を深く理解し、信念を持って、しかし時には柔軟に実践していくこと。インプットとアウトプットのバランスということも自覚させられる良著だと思う。

  • 読み応えのある一冊。
    日本の仏教に希望を持てず、むしろ嫌悪していたわたしには、目の醒めるような内容だった。
    著者のように、ただ絶望するのではなく、真っ向から立ち向かい、行動することが、正しい生き方なのだと思う。そんな問題意識と知性を持つ日本人がいてくれたことに感動すらした。
    そして、その著者とのダライ・ラマ法王の対話がとても本質的で刺激的。熱を帯びた、充実した対話の様子が伝わってくる。
    ダライ・ラマ法王の本にありがちな、「ありがたいお言葉」を並べた文言集ではなく、生のダライ・ラマに触れることができた気がする。一歩も二歩も踏み込んだ内容。
    このような出会いがあるから、読書はやめられない。

    対談というのは、自分の知識だけで勝負するのではなく、相手のことも理解し、またその立場に立ち、なぜそのような考えが出るのか、というところまで思いやれてこそ、深く成立するのだなと感じた。

  • 前を向いて 生きる とは
    前向きに 生きる とは
    自分とは どういう存在なのか
    自分を 見つめる ために
    自分の立ち位置を 知る ために

    より良く 生きるための ヒントが
    より良く 考えるための ヒントが

    ここに ある

  • この対談では神様仏様的な儀式ばったイメージの宗教対談ものとしてではなくて、人の心の在り方について考えさせられる作品だった。
    宗教の考え方は人の生活に役立つものであり、神様仏様は抜きにしても知るのはいいことだと思う。特にこれからの時代は科学と宗教が結びついた新しい考え方が出てくるのだろう。
    法王のそうした宗教に対する考えにも感銘を受けるが、どうも時々著者の文章が鼻につきます f(^ ^;)

  • ダライラマと「生きる意味」の著者の上田さんの対談集。

    上田さんは「生きる意味」で日本は豊かにも関わらず生きる意味を見失った人々が多い「生きる意味不況」だと論じたが、その答えのヒントに仏教があるのではと。
    ダライラマに上田さんの考える現代社会における仏教の可能性を対談したもの。
    お金を稼ぐ事=幸せというパラダイムがバブル崩壊で、お金が稼げない=不幸せにな人が続出。しかしそうではないだろうと。この世の格差、不幸のギャップを解消することをもっとやろう、そして経済的豊かさをあわせて享受しようという対談。

    いかに印象にのこったフレーズを:


    平和の定義
    消極的平和:戦争のない状態、積極的平和:弱者のいない状態、差別や貧困のない状態
    外なる平和と内なる平和をいかに調和し両立するのか?
    いかにしたらほんとうに利他的な社会、一人ひとりがほかを思いやり助け合える社会を建設することが可能なのか
    いまの社会はますます個人の利己心をあおることで社会を活性化しようとしている。
    利他的な社会はありえるか?21世紀の人類社会の大きな目標は利他的社会の建設になる
    おおくの人は利己的な世界観に大きな違和感を持っている。親たちは自分の子供に対してやはり思いやりのある子に育ってほしいなと思っている。私が利他的な存在であっても私を取り囲んでいる友人たちや仕事の相手や社会全体が利己的なもんだったら私一人が利他的であってもまわりに食いものにされる。

    DL
    慈悲ある社会を創る、そして慈悲ある人間性を築いていくというのは私自身の人生における使命
    人間は一人ではいきていけない。本質的に社会的動物。人は他の人と共存するほうが容易にいきていけるから私たちは村をつくり町をつくったり都市を形成する。コミュニティを創る。
    私たちの人生において一番大切な物。お金と思い違いをしている。お金を産み出す物はなにか?その人の持っている技術や可能性であり利他心がお金を産み出す物ではない。人に対する思いやりや愛をよりたくさん持っている人がたくさん給料をもらい人に対して残酷で思いやりに欠けている人が少ないお給料をもらっているというようなシステムになっていない。
    私たちは社会的動物であり、実際に社会をなりたたせ統合しているのは法律ではなく愛と思いやりだ。
    愛と思いやりはいかに育まれるのか?法律的ではなく生物学的要因。母親の愛情が重要。
    人は一見すると独立採算で営んでいるように見えるかもしれない。それは違う。

    誰が愛や慈悲をとけばいいのか?指導的立場にある人は学歴が高い。恵まれた家庭を持っている。そういう恵まれた状況の人は、一人一人が自分の人生だけを生きてそこで不快人間的な価値の重要性には注意が払われずに、自然に愛情の必要性があまり芽生えてこないのではないか?
    近代的教育システムは人間的な優しさ、思いやりといった人間に欠かせない一番大切な事を育む事に完全に失敗している。

    上田
    現代社会がお金次第の社会になりさがっている。お金次第の社会は攻撃的な社会でいじめなどの問題もでる。その逆に愛とか慈悲とか思いやりというものはお金につながらない。
    ある社会において、政治家なり指導者的立場にある人がお金次第の社会
    から登場してきているということは、その人たちがお金次第の社会をよしとする方向にいく。間違った認識に基づいて社会を引っ張っていってしまうのでお金次第の社会になってしまう。

    DL
    私自身も搾取者です。私は誰かを搾取している可能性を否定できない。自分を強く戒めなければ行けない。

    上田
    日本が急激な近代化が可能になったのは、その成果が(豊かさ)目に見えるカタチで利得として得られていたから。追いつきおいこせで無理をしても、利得として目に見えるカタチで無理が報いられていた。儲かってるからいいじゃないか、成長してるからいいじゃないか、でみすごされてきた。

    DL
    慈悲をもって怒れ。怒りの心をどう扱うか?怒りの心には二つのタイプがある。
    第一のタイプは怒りが慈悲の心からうまれてくるもの。不動明王の憤怒の相。怒りを方便として使う。第二のタイプは嫌悪感からくる怒り。嫌悪感からくる怒りでアクションをするとそれは破壊的な行為につながる。相手そのものへの嫌悪感からくる怒りと、相手の行為への怒りで違う。愛している相手が嫌悪感のある行動をしての怒りは、怒っりの対象の行為がおわれば消える。しかし相手への嫌悪感からくる怒りだとおわらない。

    上田
    持つべき執着と捨てるべき執着。怒りというのはその背景に慈悲があろうがなかろうがもってはいけないというのが日本の一般的な仏教の教え。

    DL
    執着をなくのがあやまってつかわれている。菩薩行のための執着、悟りを得たいという執着は持ち続けないと行けない。怒りも同様で、捨ててもいい怒りと持つべき怒りはわける。執着をすてるとは無関心になることではない。悪しき執着はすてるべきでよき執着はもつべきだ。
    宗教者が社会的不正に無関心でいるのは間違っている。

    上田
    いかに利他的な社会を建設するのか?
    競争には二種類の競争がある。第一はお互いの力を高め合う競争。ライバルとか。現在の日本社会が目指している競争はライバルを蹴落とすタイプの競争。勝者と敗者を決めるための競争。勝者はすべてを得て敗者は負けたんだからしょうがないよね、という競争。おなじ競争という言葉をつかってもいろいろな競争がある。

    DL
    私は競争心をわけて考えている。ああいう人になりたい、という競争心はよい。でも相手と自分の間に、勝者、敗者という区別をつける競争はよくない。

    上田
    日本人がいま直面してるのは「生きる意味」の不況ではないか?
    DLは常々、幼児期の母子関係が重要だという。母子関係こそが思いやりや慈悲を育むと。
    いい子にしてたら愛しているけどテストで点が悪いと愛さない。これは条件つきの愛。無条件の愛ではなく条件つきの愛が蔓延している。

    DL
    西洋社会でおきてるのは、若い人だけを価値ある物として大事にするが、都市をとってしまうと役に立たないということで見捨てるという問題。社会全体が生産的な若い人のみを大切にするという方向にいっている。役に立つ人間だけを残して役立たずの人間を切り捨てる。
    youth oriented 社会。youth はuseにも通じる。
    条件つきの愛と無条件の愛は明快でよいポイント。ほんとうの愛は、障害を持つ人にもすごい子にも等しく注がれる。何らかの障害を背負った人にはよりおおくのケアをしたげないといけない。
    日本は物質主義的社会であり工業化社会。そのような物質主義的に発展した社会では、お金の重要性のみが強調される。日本には伝統や仏教があるがそれはいまの反映を産み出してない。それを否定して科学、テクノロジーの力で豊かになった。いまの日本人のプライドの根底にあるのは「西洋」からもたらされたもので伝統的価値観ではない。伝統的価値観を否定的にみてきたからアイデンティティを見いだしにくくなっている。ほんとうの西洋人でもなくアジア人でもない。

    上田
    バブル崩壊。長期低迷に。経済成長教が崩壊。経済成長と自己のアイデンティティを重ね合わせて物質的豊かさに自己のプライドを重ねてきた日本人は、再び「わたしとはなにか?」という問いに直面せざるをえなくなっている。

    DL
    西洋という左手と日本の伝統という右手をあわせることが重要だ。
    ほんとうの思いやり(センスオブケア)はまず自分自身にむけることだ。自分自身におもいやりをもち、それを周りの人に広げていく。自分を嫌悪している人は周りをおもいやれない。
    他社依存と悟り。誰かに依存するのはまったくまちがっている。釈尊はあなた自身がブッダになることをといている。釈尊も最初は我々と同じ人間だった。ブッダに帰依するとはブッダにお任せするのではなくブッダにポジティブな競争心を抱いて、私もあのように素晴らしいブッダを目指して生きていくぞという決意表明なのですね。

    上田
    中道について。最初から単に真ん中にいるのが中道ではないとおもう。

    上田
    搾取とはキツい言葉だ。しかしその言葉で自らを諌めているからこそ、そこには自由が生まれ伸びやかな空間が生まれるのではないか?
    観音菩薩は阿弥陀仏に対してすべての人々の苦しみを救う事を誓った菩薩。そして長きにわたって人々を救い続け、悟りに達し、阿弥陀仏からもう仏になれといわれた菩薩。しかし観音菩薩はその申し出を断る。私は人々の苦しみの救済に執着したい。仏にならずこのまま何度も菩薩として生まれかわり人々の苦しみを救いきりたい。解脱して仏になるよりも南海も生まれ変わって苦しむ人々を救う。ダライラマは観音菩薩の生まれ変わりの意味がわかった。

  • 北欧のような社会主義のシステムに則りながら、より自由や民主主義を尊重するのが社会民主主義。



    現在の政府は自分の利益を最大化するように行動しなさいと言う。だから、社会の弱者に関わり、低賃金で老人の介護をしている人よりも、株や投機でその何十倍も稼いでいる人の方が成功者で偉い人という事になる。だが、人間は市場経済の中の一つの商品ではない。



    人に対する思いやりや、愛をよりたくさん持っている人たちがたくさんの給料をもらい、人に対して残酷で思いやりの欠けている人が少ない給料をもらっているシステムになっていない。



    人間は社会的動物であり、生物学的に他からの愛情を必要とし、自然に他への愛情を持たなければならない生き物。愛と思いやりは、法律で強制されて生じるものではなく、お金が儲かるから生じるのでもなく、まさに人間の根本である生物学的な要因から生じる。



    社会全体が間違った認識をもとに人生を送り、それゆえに表面的な人生の送り方をしている。



    偏見に基づく欲望は捨てるべき執着。偏見のない心が持つ欲望は持つべき執着。



    今の日本社会が目指している競争は弱肉強食の競争であり、そこでは互いの敬意や信頼はなく、社会全体への信頼も失われていく。



    執着をなくして全てを達観し、何が起きても無関心になるのが仏教ではない。修行して自らを高め、なんとか人々の苦しみを救いきりたいというよき欲望に執着し続けるのが仏教。



    条件付きの愛が蔓延している。



    人生においてもっとも大切なものは、人間の深いレベルにある人間的な価値であり、慈悲深い友人達。



    日本の人たちは、西洋的なものと東洋的なもの、近代と伝統を上手く調和させていく方法を見出すべき。

  • 怒りと執着に対する長年の疑問が氷解した。

  • 上田紀行が 子供の頃に感じた 純真な疑問。
    そして、ある意味では 根源的な疑問を 
    ダライラマに直接ぶつけて、その思想に肉薄する。
    対談として とてもおもしろい。
    人間の生きる意味。
    ダライラマはそれをどう考えるか?
    を 引き出すなかで さらに 深く掘り下げていく。
    白熱した 対談に おどろきながら
    その平易な ダライラマの 対応に 感心した。
    『生きている観音菩薩』たるゆえんであり、
    日本の仏教者の 堕落と思考力のなさに嘆きながら
    仏教の 復興を 高々と 掲げようとする姿勢に共感を覚える。

    われわれの生きる暴力的な世界をどう救うのか?
    私たちの心の闇にいかに立ち向かっていくのか?
    この暴力がふきあれる21世紀のなかで、仏教にはいかなる使命があるのか?

    この世界から争いをなくしたい。
    弱いものいじめをなくしたい。
    みんなが平和で幸せであってほしい。
    という 根源的な 希いを といかける。

    ダライラマは 微笑みながら 核心に触れていく。
    思いやりと慈悲のある 社会を わかりやすく説く。
    あぁ。至福である。

  • 筆者は仏教関係の著作もある東京工大の文化人類学の先生。ダライラマの著作は自伝他いくつか読んだ事はありますが、対話物は初めて。著者自身が自画自賛していますが、一方的なメッセージではなく、通常の著作等では出てこないダライラマの考えを引き出せているのは対談ならでは。

  • 特に前半の対話は凄い。ダライ・ラマに近いレベルで考えていないと、これだけの意見はお互いに出てこなかったと思う。

    高い位にある僧が、現実の世界には関心を寄せずひたすら殻に閉じこもっている反面、自分の立場のためにその内側では政治力を発揮しているという話は皮肉が効いてます。
    無関心ではなく、世界に影響を与えていく仏教を提唱するダライ・ラマ。世界を良くするための「執着」は持つべきだと熱く語ります。

    それはダライ・ラマ本人が、かつて国のトップに立ち、そして現実の荒波に飲まれた経験を持っているからでもある。寺にこもって自分の心の平和だけを求めている僧とは、いろんな意味で違うレベルにいる人だと実感しました。

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著者プロフィール

上田紀行(うえだ・のりゆき) 東京工業大学副学長(文理共創戦略担当)・同リベラルアーツ研究教育院教授。専門は文化人類学。特に宗教、癒し、社会変革に関する比較価値研究。著書に『生きる意味』(岩波新書、2005年)、『かけがえのない人間』(講談社現代新書、2008年)、『愛する意味』(光文社新書、2019年)など。

「2022年 『自由に生きるための知性とはなにか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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