親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社
3.79
  • (27)
  • (59)
  • (34)
  • (10)
  • (0)
本棚登録 : 403
レビュー : 43
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062775717

作品紹介・あらすじ

新たなる土地、新たなる仲間、そこで得るものはいったい何なのか。青春時代を描いた『親鸞』に続く激動の第二部、越後でついに始動!

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 相変わらず浄土真宗開祖の話とは思えない冒険活劇。どったんばったん。

    前作は子供から大人への成長譚だったのですが、本作「激動編」の親鸞は初めから結構いい大人。
    さすがに貫禄も出たろうと思ってたんだけど、どっこい持ち前の草食男子っぷりは健在で。
    もう、なにしろ全然自分で決められない。いろんな事を。
    見た感じお坊さんなもんだからまわりにいろいろ聞かれるんだけど、
    んー、え、ちょっと、分かんないです。逆にどう思います?という相変わらずの調子。
    しっかり親鸞!ちゃんとして!
    それでも実直な言動で次第にまわりに味方が集まってきます。
    というか、誰かが守ってあげないと、このひとまるで生きて行けないもんだから。
    迷いに迷い、流されに流された先に何が待つのか。
    いい加減ちゃんと自分で立てるのか。
    結局下巻を楽しみにしてしまう。

  • 激動篇でようやく親鸞という名前が登場した。
    恵信の故郷である越後での親鸞は悩みながらも、多くの人々と生きていく。サトの存在や今後の展開が楽しみだ。

  •  『親鸞』の続編。越後に流され鎌倉行きを決意するまで。

     前編はドラマチックな展開があり、後半はやや平穏か。
     親鸞の人生をなぞりながら、親鸞と誰かの対話の中から親鸞の教えを学ぶようになつくりになっている。
     30代から50代までが描かれていて、中年期の苦悩も見ることができる。こういう伝記ものでこのへんの停滞感がしっかり描かれているのは興味深い。

     完結編も読みたい。

  • 前半は越後編。
    京の都から、恵信の故郷であり、且つ、叔父の統括する越後に流人として送られた親鸞。物語は新潟の浜での外道院との遭遇から始まる。ここから外道院と親鸞との不思議な親交が始まる。親鸞を警戒し、味方にならぬのなら除こうとする外道院、外道院から河川の権利を収奪せんとする役人側という展開。色々な権謀術数の中、不思議なことが多々起こり、物語は進む。その中で徐々に念仏者を増やしていく。その途中から流人としての罪を許される。
    後半は関東編。
    一方で鴨の河原で親しくした河原房浄寛改め香原崎浄寛に招かれ関東へ赴く。関東でも領主の政治的計らいから、布教に勤め、その輪を拡大していく。その間にも自己の存在や念仏のあり方に悩み続ける親鸞。その信念の揺らぎに合わせてそれを試すように現れる黒法師。そしてその危機を助ける礫の弥七。そんな構図が出来上がっていく。
    最後は恵信が越後に一時的に去り、親鸞は風雲急を告げる京都に上る覚悟を決める。

    外道院と浄寛との親交のあり方が面白い。それぞれに親鸞という人物を信じ、影日向に親鸞を助ける姿がとてもいい。
    また、親鸞の進行を試すように現れる黒法師と危機一髪の時に必ず現れる弥七はセットで物語を盛り上げてくれる。
    読んでいくうちに念仏のあり方とは?という点も勉強になる。

  • 親鸞……浄土真宗の開祖であり、鎌倉仏教を代表する方ですが……
    何ていうんだろう。アクション、アドベンチャー?そんな感じです。親鸞が仲間と共に新しく越後の地で大活躍!下巻はどうなるんだろう。

  •  親鸞が越後で流人として過ごし、そこを出て常陸の国で教えを広めるまでの話である。

     人々は生きるために戦い、殺生を重ね、だましあい、争いあってその日を生きなければならなかった。世間で悪とされる行為を、だれが避けることが出来ただろう。そして、人々は死後の地獄を恐れた。無間地獄の恐ろしさを世に広めたのは仏門の僧たちである。生きて地獄、死んで地獄。救いを求めて仏にすがろうとすると、よろずの仏はみな、差し出された人々の手を振り払って去っていく。お前達のような悪人を救うことは出来ないと。去っていく仏達を見送り、呆然と立ちすくむ人々に向って、法然上人は力強く語りかけたのだ。あれをみよ、すべての仏達が去っていく中に、ただ一人、こちらへむかって歩いてこられる仏がいる。あれが阿弥陀仏という仏だ。よろずの仏に見放された人々をこそ救う、と誓って仏となられた方なのだ。

     釈尊が入滅された後、その教えは歌として人々に記憶され、伝えられたという。それを偈という。仏の教えは、はじめは文字に書かれた経典としてではなく、歌としてくちずさまれ、暗記され、人々に手渡されていった。たしかに、ながい文章は覚えにくいが、それを音や韻を踏んで、歌としてなら覚えやすい。

     法然上人が山を降りて念仏を説かれた頃、人々の中からこんな歌が生まれた。今様というものだ。「はかなきこのよをすぐすとて、うみやまかせぐとせしほどに、よろずのほとけに うとまれて、ごしょう わがみをいかにせん」

     はかなきこのよをすぐすとて、とは、人と争い、人をもだまし、その日その日を必死で何とか生きていくために、ということだ。うみやまかせぐとせしほどに、とは、世間もろもろの生業だ。田畑を耕すもの、商いするもの、戦いに日をおくることもみな海山稼ぎの仕事。なにもかも、はかなきこの世を生きんがため。百姓も虫を殺さずに田を耕すことは出来ない。また、稲や野菜には人に食べられようとして実をつけるわけでもない。山川草木すべてに命があると思えば、人間というのは他の命をいただくことでしか生きられない悲しい存在だ。よろずのほとけにうとまれて、とは、業の深い暮らしの中で、人々は仏にすがろうとするが、どの仏も海山稼ぎの者たちには首を振って相手にしてくれない。お前達のような業の深い者達は救うことが出来ないと。普段から殺生を重ね、善い行いもせず、きびしい修行もしない者たちが何を今更、とすがる手を振り払って去っていってしまう。そして取り残された人々は、われらは神や仏にすら嫌われているのだと、どうしようもない気持ちでため息をついている。そういう切ない歌だ。

     そこへ法然上人という方が現れたのだ。山を下りられた上人は、人々に語りかけた。よろずの仏に疎まれた人々よ。絶望することは無い。聞きなさい、ここに阿弥陀仏、という特別な仏がいる。その仏は、よろずの仏に疎まれし人々をこそ救う、と誓って仏になられた唯一の仏なのだ。他の仏に見放された人々を救うのが、自分の役割だと固く誓って仏になったのが阿弥陀仏。苦しみ、おびえ、悲しんでいる人々に、われに答えよ、と呼びかけられる。そして、自分のほうから人々のところへ歩み寄って、手を差し伸べて言われる。さあ、この手につかまれ、そして、共に光の中に歩み入ろうと。ただ念仏せよ、と、法然上人は言ったが、念仏をしても決して背負った荷の重さが軽くなるわけではない。行き先までの道のりが縮まるわけでもない。だが、自分がこの場所にいる、この道を行けばよい、そして向こうに行き先の明かりが見える、その心強さで再び歩き出すことが出来る。念仏とはそういうものだ。阿弥陀仏という仏様は、この世につらく生きている切ない心に向けて照らす光なのだ。

     念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀様、お救いください、と念仏するのではないのだ。後生に浄土へいけますように、お願いします、阿弥陀様、という念仏ではないのだ。お救いください阿弥陀様ではないのだ。念仏とは、自分が既にして救われた身だと気づいたとき、思わず知らず口からこぼれ出る念仏なのだ。ああ、このような我が身が確かに光に包まれて浄土へ迎えられる。なんとうれしいことだ。疑いなく、そう信じられたとき、人は、ああ、ありがたい、とつぶやく。そして、全ての人々と共に浄土へ行くことを口々に喜び合う。その声こそ、真の念仏なのだ。あなたも、わたしも、身分も、修行も、学問も、戒律も、すべて関係なく、人はみな浄土に迎えられるのだ。地獄へ落ちたりはしない。そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。ただ念仏せよ、とは、それをはっきりと感じ取り、ああ、ありがたい、とよろこぶべし、ということだ。だが、信が先、念仏が後、ということではなく、時には、念仏する中で生まれてくる信がある。

     易行念仏の教えはやさしいが、真実の信なくしては意味がない。阿弥陀仏を信じ、浄土を信じ、悪人である自分が必ず救われる、と固く信じることが大事なのだ。この世界に見えないものをみる。それは幻かもしれない。夢かもしれない。しかし、信じたときにそれは真実となる。死ぬまで念仏に出会うこともなく、おのれの悪を悔やむこともなく、阿弥陀様さえあざ笑いながら一生を終えるものこそ、この世でもっとも哀れで惨めな者だ。おのれの悪を自覚できるとか、深く懺悔するとか、念仏を信じるとか、そんなことを最後まで拒む悪人こそ真の悪人。その悪人を悪人のまま救うというのが大悲であり、阿弥陀仏だ。念仏する者も、それを信じない者も、等しく人は浄土に往生するということだ。だが、それは信心する者も、しない者も同じどいうことではない。見えない阿弥陀仏を心から信じ、念仏する者は、いま、そのとき新しい人間に生まれ変わるのだ。無間の闇におびえて生きていた自分が、じつは無限の光に照らされている、阿弥陀仏という仏に抱きしめられて浄土へ往生する身なのだ、と確信できたとき、人は臨終を待つことなく救われる。しかし、念仏と出会わなかった哀れな人は、死んで後に救われる。だが、信を得たとき、その人は生きたまま、直ちに救われる。ひとしく往生するとしても、そこが違うのだ。

     そして、親鸞は、ついに10数年いた常陸の国も去ることになる。都では、法然上人亡き後、上人の遺体を掘り出して鴨川に流そうとする者や、念仏の弾圧に奔る人、法然門下の派閥を争う人、など、見るに耐えない有様だという。親鸞は60歳を過ぎていた。妻は越後に行くことにし、親鸞は京へ向う。

    全2巻。

  • 流罪で越後に移った親鸞と妻、恵心。異様な祈祷師外道院との出会い。親鸞の心の迷い、変遷。2018.1.30

  • 京を追放され、妻恵信の故郷越後に流された親鸞が出会ったのは、外道院(げどういん)という謎の僧。
    外道院との出会いが、親鸞を事件に巻き込んでいきます。
    越後での布教が始まります。
    ある意味親鸞の活躍はここからと言えるでしょう。
    親鸞の苦悩も描かれ、専修念仏も深まっていきます。
    新たな展開の始まりです。

  • 親鸞の教えは、ただ念仏をするだけ。自分に特別な力がないことを悟り、ひたすら念仏を唱える親鸞。民衆が心を打たれる。

  • 本巻では、越後に流刑となった親鸞の姿を、ドラマティックに描いています。

    著者は、外道院金剛という法力の持ち主を登場させて、専修念仏を説く親鸞の姿が対比的に描かれています。エンターテインメント性の強い作風なのはもとより承知していたのでいっこうに気になりませんでしたが、鎌倉時代の信仰を近代的なヒューマニズムに切り縮めてしまうことには、多少の違和感を覚えてしまいます。

    とはいえ、親鸞が7日間に渡るぶっ続けの雨乞いをおこない、そうした彼の信仰の姿勢が庶民の心を打ったという展開は、エンターテインメント性を重視する小説家としての努力も理解できるので、どのように評価すればよいのか迷うところです。蓮如が主人公であれば、こうした多少とも「あざとい」ストーリー展開でもまったく平気だったのでしょうが、親鸞には、その思想のみならずその人物にも、私たちのヒューマニズムに基づく理解を峻絶するような何かがあるような気がするので、こうした分かりやすい親鸞像には不満を感じてしまうことも否定できないように思います。

全43件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

作家

「2018年 『人生百年時代の「こころ」と「体」の整え方』 で使われていた紹介文から引用しています。」

親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)のその他の作品

五木寛之の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
三島 由紀夫
三浦 しをん
有効な右矢印 無効な右矢印

親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)を本棚に登録しているひと

ツイートする