モンゴル帝国と長いその後 (興亡の世界史)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (374ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062807098

作品紹介・あらすじ

チンギス・カンが創始し、ユーラシアをゆるやかに統合した「大モンゴル国」。その権威と統治システムは、ポスト・モンゴル時代にも各地に継承されていった。ロシア、中東、ヨーロッパ、そしてアフガンの現在-。西欧中心の「知の虚構」を廃し、新たな世界史の地平を開く。

感想・レビュー・書評

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  • モンゴル軍の略奪、虐殺は一部に留まると否定。一方でモンゴル軍に加わっていた他勢力(キリスト教徒)による蹂躙は否定しない。戦勝品たる奴隷の記述もなく、人権の概念がない時代に大層高潔な理念をお持ちのようで。

  • 「モンゴル帝国征服の血沸き肉躍る」話では全然なくて、帝国が世界史に与えた影響がメインのトピック。まぁ、タイトル通り。野蛮勇猛というイメージが強かったが、戦闘でも相手方を調査し、時には調略を使ったり、政治にもおいても柔軟だったりと意外な感じ。前者のイメージは、モンゴルに脅威を受けたヨーロッパ諸国(特にロシア)の影響が強いらしく、著者のそれに対する憤りが溢れ出ている感ある。

  • 書き手に被害者意識があっていちいち読みにくい

  • 内容説明
    チンギス・カンが創始し、ユーラシアをゆるやかに統合した「大モンゴル国」。その権威と統治システムは、ポスト・モンゴル時代にも各地に継承されていった。ロシア、中東、ヨーロッパ、そしてアフガンの現在―。西欧中心の「知の虚構」を廃し、新たな世界史の地平を開く。
    目次
    序章 なんのために歴史はあるのか
    第1章 滔滔たるユーラシア国家の伝統
    第2章 モンゴルは世界と世界史をどう見たか
    第3章 大モンゴルとジャハーン・グシャー
    第4章 モンゴルとロシア
    第5章 モンゴルと中東
    第6章 地中海・ヨーロッパ、そしてむすばれる東西
    第7章 「婿どの」たちのユーラシア
    終章 アフガニスタンからの眺望
    ===========================
    <b>序章 なんのために歴史はあるのか</b>
    第一次世界大戦前後、数々の「帝国」が崩壊した。
    大清帝国、ロシア帝国、オスマン帝国、ティムール・ムガル帝国、神聖ローマ帝国。
    これらは全て、モンゴル帝国にゆかりが深い。ローマ帝国を除く全ては何らかの形でチンギス・ハーンにつながる系列であり、ローマ帝国は対モンゴルに結束された帝国であった。

    13.14C東は韓国、西は西欧直前までの広範な地域にモンゴル帝国は広がっていた。
    これを機に東西に分断されていた世界は繋がれ「オープンスペース」と化した。
    そこでは人やモノが行き交い、文化思想が大展開した。
    それを継続、保証したのはモンゴルの権力であり、以降に合わられる国家のスタンダードとなっていった。
    その帝国の根幹を成すのは「ウルス」と呼ばれる考え方で、これは土地や領域といったものよりは、「部族」や「人のかたまり」を表す語である。

    だが、現在の西欧中心の歴史観においてはモンゴル帝国のなした功績は不当に評価されているといえよう。それは、近代欧米の極端な自己愛と偏見による憎悪と知の虚構によるものである。


    <b>第1章 滔滔たるユーラシア国家の伝統</b>
     ヨーロッパが活躍し始める15C以降、それは海洋国家による覇権、シーパワーの時代の幕開けであった。
     だが、それはユーラシアの強大な陸上国家、モンゴルのランドパワーの時代に対抗すべく出てきたものである。
     ユーラシア大陸は乾燥しており、ずっと山野がつながっている広大な大地であった。
     その「陸上の帯」を席巻したのは遊牧民族である。
     彼らは夏季は散開放牧し、冬期は集団越冬を行い、文化としては家父長制であった。
     彼らは定住や農耕、集落などを基礎とし「とどまる」タイプではなく、移動や遊牧、交易を盛んにする「つなぐもの」たちであった。
     また特別に訓練せずとも、騎馬の技術や刃物の扱いが巧みであり、個としての行動力にも優れていた。
     一方で、家父長制に従って、有力なリーダーを立てた後は、集団としての組織性や機動性にも優れいていた。
     結果、潜在的に軍事力の高い集団であった。
     その軍団は、広い場所を”緩やかに”統合し、高い流動性を持つ軍事複合体であった。

    <b>第2章 モンゴルは世界と世界史をどう見たか</b>
     モンゴル帝国はまた、世界で初めて自国の歴史だけでなく、「世界史」を編纂した国でもある。
     また、強大な陸上帝国を築いた後、さらには陸上にも進出し、その地図も精巧であった。
     彼らの野心は、また自国の歴史を編纂するうえでも表れている。
     伝説の勇者で世界に覇を唱えた「オグズ」と実在の「チンギス」を重ねる事によって、世界統一の正当化を狙っていた。

    <b>第3章 大モンゴルとジャハーン・グシャー</b>
     では、その大モンゴルを支えたものはなんだったのか。
     ひとつは頭抜けた軍事力である。
     だが、それは技術型の地域より優っていたというより、家父長制に忠実な、彼らの忠誠心であり、戦場においての裏切り行為が珍しくなかった当時において、それは非常に希なことであった。
     忠誠心とモチベーションが高い、緻密な軍隊こそが肝であったのだ。
     一方で、情報収集においても最新の注意を払っていた。
     ひとつの地域を攻略ための情報を集めるのに2年をかけるのが通常であった。
     また支配した地域を拡大し、「同胞:イル(ウルス)」意識でもって接し、人種の区別はあまりされず、税率も高くなかった。

    <b>第4章 モンゴルとロシア</b>
     13cモンゴル軍は西進していった。
     その途中、圧倒的な軍事力でロシアを制圧していった。
     その強さから彼らはロシアの民から「タルタロス(冥府)の民」と呼ばれ、これが後世の「タタール」の語源となった。
     だが、ロシア側の畏怖や恐怖に比べると、支配する側のモンゴル側はロシアに対する関心は薄かった。
     それは、ロシアは土地が痩せていたため農業的にも貧弱であり、工業的にも劣っていたことが原因と思われる。
     そのため、食料も武器も乏しいロシア軍はあっさり攻略されたのだ。
     だが、その「被害」は後世になればなるほど大きく吹聴されることとなった。
     それはロシア皇帝と正教の創作である。
     つまり「モンゴル」による支配は、ロシアの進歩を遅らせた張本人であり、それを救ったツァーリ(ロシア皇帝)は偉大である、との創作のための布石ということである。
     それが「アレクサンドル・ネフスキー大公」の評価に現れている。
     彼はモンゴルの支配に耐え、”共生”した英雄と讃えられているが、実際は積極的にロシアの諸侯を取りまとめ、モンゴル帝国に献上していた、とみられる。見返りに、モンゴル側も彼らを廃することはせず、既得権もそのままにしていた。税率も低く、信仰の自由も認められたモンゴルの緩い支配体制のもと、むしろロシア側が積極的に同化していた。

    <b>第5章 モンゴルと中東</b>
     また、モンゴルは中東にも進出していた。
     ここでもまた、軍事機構を中心に据え、多人種の官僚群による、財務、行政、イスラムを主体とした各宗教、宗派ごとの聖職者組織を国家の柱とした。
     これがその後の権力のスタンダードとなった。

    <b>第6章 地中海・ヨーロッパ、そしてむすばれる東西</b>
     「聖王」と慕われ、パリのサン・ルイ島や、ミズーリ州都セント・ルイスなどにその名をとどめる13世紀フランス王ルイ9世。彼は高潔な人柄と、長期にわたる平和を保ったことから賞賛されたが、生涯2度の十字軍も行いいずれも散々な結果に終わっている。
     なかでも二回目の十字軍では、自身も捕虜となり苦渋を舐めた。だが、結果、帰還したときは中東やエジプトを最も知る人物となっていた。
     モンゴル都の接触もはかり、相手方の感触も悪くなかったが度重なるすれ違いで終わっている。
     実際、西欧とモンゴルを結んだ第一号はネストリウス派の僧侶、バール・サウマーであった。彼は弟子のマルクとともに巡礼のため、現在の北京から旅立った。途中、マルクが法王の逝去に伴い新法王として就任したため、旅は師であるサウマーのみが続けることとなった(マルクが正当なモンゴル帰属の血統だったため)。また当時の当地者であったアルグンはキリスト教を厚遇し、イスラム勢力の対等に苛立っていた。そこで、ヨーロッパ都の結び付きの強化を狙い、サウマーにビザンツ皇帝とローマ教皇に宛てた信任状と勅書、ヨーロッパ諸国の国王たちへの贈り物を預け、送り出した。
     ヨーロッパを歴訪したサウマーは行く先々で歓待された。
     ヨーロッパの王たちもともにイスラムと戦う意思を表明したため、その返事を北京に持ち帰ったサウマーもまた、アルグンから絶大な賛辞を受けた。
     これをきっかけに、モンゴルからの遣欧使がつづき、ヨーロッパから東方への宣教師団の派遣がくりかえされた。
     サウマーこそが東西交流の口火を切ったのである。

    <b>第7章 「婿どの」たちのユーラシア</b>
     冒頭に紹介した、大清帝国、ロシア帝国、オスマン帝国、ティムール・ムガル帝国はすべて、チンギス・ハーンの後継者を名乗っている。
     大清帝国はチンギス・ハーンの孫、フビライが継承した帝国が元になっている。1388年に一旦は終焉を迎えるものの、その後もチンギスハーンの後継者を名乗る支配者が続々と現れている。
     また、ロシア帝国も、長らく続いたモンゴル支配「タタールのくびき」を覆した人物としてイヴァン雷帝を上げているが、彼の母親も2番目の后もモンゴル有力者の直系の子孫である。
     オスマン帝国もチンギス・ハーンの子孫が作った帝国が元となっている。
     ムガール帝国も、ムガールはもともと「モンゴル」の意味であり、建国の英雄ティムールも自身がモンゴル帰属の子孫であった。
     だが、それだけでは権威は不十分と考え、チンギスハーン直系の子孫を「王」として頂き、自身は補佐するというカタチの「二重王権」
    を確立した。

    <b>終章 アフガニスタンからの眺望</b>
     アフガニスタン人こそが最後の遊牧民族である。

    ==============================
    <感想>
     ロシアの歴史に必ずと言っていいほど出てくる「タタールのくびき」について知りたいなーと思っていたら、友人に勧められた本。
     西欧一辺倒の歴史感が溢れる中、世界史上大きすぎる足跡を残したモンゴル帝国のアレコレが知れて面白かった。
     いままでのそしてこれからの世界に溢れる「帝国」はモンゴルがスタンダードだったのですね。

  • 2014/4/30
    中央アジアや中東に広がったモンゴルの子孫たちの歴史を詳しく解説している。広範囲に広がった帝国は、遊牧民によるゆるいつながりの国家であり、流動的であったようだ。画像や地図を多用し、興亡が繰り返された様子がよく伝わる。ただ、欧米に対し批判的な著者の歴史学観が多々あらわれ、ちょっとうんざりする。

  • 小前亮「蒼き狼の血脈」つながりで。モンゴルとロシア,モンゴルと中東の章、およびサウマー使節団のヨーロッパ外交、のみ読了。

  • モンゴル再評価の本。

  • 西洋の歴史家を納得させる事もせずに、悪口を言って自説を開陳しているので、内容の正確さについては時間の経過を待つしかないのですが、ロシアに対する記述などは、多少信じてみても良いような気はいたします
    著者はとりあえず国内向けではなく欧米に向けて論文を精力的に送った方が良い気がしますが

  • 西洋中心主義と中華思想からの脱却。
    日本人の眼前にあるテーマの意味と重要性を再認識させてくれるシリーズ。

  • 『逆説のユーラシア史』『クビライの挑戦』と同著者。当然、内容が被るところが出てくるとは思いますが、この「興亡の世界史」シリーズはナイスな本がちょくちょくあるので、被ったところがどんな風に被るのかというところまで楽しみにして読んでみたい。

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著者プロフィール

京都大学大学院文学研究科教授
1952年 静岡県生まれ。
1979年 京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学、
    京都大学人文科学研究所助手。
1992年 京都女子大学専任講師を経て同助教授。
1996年 京都大学文学部助教授・同教授を経て現職。
主な著訳書
『大モンゴルの世界――陸と海の巨大帝国』(角川書店、1992年)
『クビライの挑戦――モンゴル海上帝国への道』(朝日新聞社、1995年)
『モンゴル帝国の興亡』上・下(講談社、1996年)
『遊牧民から見た世界史――民族も国境もこえて』(日本経済新聞社、1997年、日経ビジネス人文庫、2003年)など。

「2004年 『モンゴル帝国と大元ウルス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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