日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 432
レビュー : 58
  • Amazon.co.jp ・本 (180ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062879187

作品紹介・あらすじ

ターニングポイントは1965年だった! 私たちの自然観、死生観にそのときどんな地殻変動がおきたか? 「キツネにだまされていた時代」の歴史をいまどう語りうるのか? まったく新しい歴史哲学講義。(講談社現代新書)

感想・レビュー・書評

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  • この薄い書籍にこれほどの情報量、文句なし!天晴れ!

    本書で言う狐に騙されるとは、ただそこで生きている木や花や水を何気なく美しいと思える無垢さであり、抑揚のない物語に趣を見出す感じやすさであり、与えられた秩序の中でだれもが楽しむ柔軟さだ。
    すなわち、「狐が人を騙すわけない」と言いたい諸君はそもそも前提が誤っているので議論に値しない。
    スピリチュアルなニュアンスを多分に含んだタイトルながら、かなり現実的かつ社会的な内容で構成されているのだ。
    戦後史、教育史、そして「科学的な知」への問題提起。
    なお極端な善悪の基準としてではなく、問題あらゆる社会問題の原因についての一考察としてお勧めしたい。
    もっと詳しく聞きたいと思わせられる書き方は、まさに入門書としてあるべき形だと思う。

  • おもしろい題名である。読者の好奇心に訴えかけてくるものがある。そういえば最近は聞かなくなったな、とあらためて思った。一昔前までは、そういう話はそこここで聞かされたものだ。まだ、キツネの出そうな野原や峠道が当たり前のように残っていた。

    小さい頃、墓地に続く竹藪の中を通り、小川に出る坂道があった。釣りや水遊びには、そこを抜けるのが近道だったから、よく通ったものだが、日暮れになるとびくびくもので走り抜けたものだ。死んだ祖父が、そのあたりでキツネに化かされたことがあった、と祖母によく聞かされていたからだ。朝になって気がつくまで同じところをぐるぐると回っていたというから、饅頭のつもりで馬糞を食わされたり、肥溜めを温泉とまちがえて浸かっていたりするよりは、ましな化かされ方ではある。祖父がいくつの時の話かは聞き忘れたが、どうやら当時の日本人は、まだキツネにだまされていたことはたしかなようだ。

    いつの頃からか、キツネやタヌキに化かされたという話を聞かなくなった。著者によれば、日本人の間からキツネにだまされたという話が消えていったのは1965年頃からだそうだ。釣り好きの著者は、旅先に竿を持っていっては、沢や渓流でイワナやヤマメを釣り、夜は農家に泊めてもらって炉端で話を聞くのが楽しみだったという。そうして集めたデータをもとにして出してきたのが1965年という線である。

    では、なぜその頃から日本人はキツネにだまされなくなったのか。1965年といえば「高度経済成長期」と重なる。どう考えても無理な戦争に突き進んでいった戦前の社会に対する反省に立って、「合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱」といったさまざまなことがこの時代に起こり、キツネにだまされたという物語を生みだしながら暮らしていた社会が徐々に崩れていったのだろう、というのが著者の結論である。

    なんだ、そんなことか、と言ってはいけない。それくらいのことなら私にも言えるというのは「コロンブスの卵」というものである。著者の言いたいことは、日本人がキツネにだまされなくなった理由を探るというところにはないからだ。新書の体裁はとっているが、著者の企画によれば、この本は「歴史哲学序説」という副題のもとに書かれているというから、甘く見てはいけない。

    明治時代、日本にやって来たお雇い外国人は同じ山で日本人がキツネにだまされた時も、だまされたりはしなかったという。著者はそこで、「見える歴史」と「見えない歴史」という考え方を提出する。ふつうの歴史学は、書かれた物をもとに客観的な史実と思われる資料に従って通史を作っていく。国民国家にはそうしてできた歴史というものがある。しかし、それはヨーロッパ的な知性に基づいた、いわば「知性」の歴史でしかない。それに対して、著者は知性に拠らない「身体性の歴史」や「生命性の歴史」といった「見えない歴史」というものがあるのではないかという。

    農耕や狩猟の技術は、言葉ではなく体を通じて伝えられていく。書いた物には残らないがこれも歴史である。また、日本人はさまざまな自然の中に「神」を見ることができると言われる。山神や田の神を祀る儀式や村里に残る通過儀礼その他のさまざまな儀式を通じて、里に生まれ育ち、やがて黄泉の国に帰り、祖先神として祀られるという「生命性の歴史」もまた、かつての村落社会には根強く存在し続けていた。そうした「見えない歴史」を振り捨て、経済活動を前面に押し出し、社会はつねに前進することで良くなっていくという歴史観に路線変更していったのが、高度経済成長期であった。

    私たち日本人は、かつてあれほど豊かに持っていた「見えない歴史」を見失うと共にキツネにだまされる力も失ってしまったのだというのが、著者の解答である。ヘーゲルやマルクスの歴史観に、ショーペンハウエルやベルクソンの歴史観を対峙しつつ、自分の住む群馬県の山村での体験談をまじえながら、素人にも分かりやすく書かれた「歴史哲学序説」である。評者は、これを読みながらプルーストの『失われた時を求めて』を思い出していた。石につまづいたときに甦る記憶こそ、ふだんは見失われているが、私たち一人ひとりの中に蔵されている厖大な「身体性の歴史」そのものではないか。新書らしく易しい記述ながら、考えさせられることの多い一冊である。

  • 自然とともに、自然を恐れ敬いながら生きてきた日本人が、何故自然を自己の利益のための道具としてしか見られたくなってしまったのか…。そんな問いに本書は答えてくれる。

    地球の資源は人間のためだけにあるように考える人が大多数を占め、そして自然を支配することを続ければ、詰まる所、自分の首を絞めることになることに早く気づいて欲しい。

    キツネに騙されていた頃の日本人の精神に少しでも戻ることができれば、子供たちが未来に希望を持って生きられる世の中になるのだろう。

  • いやぁおもしろかった!
    著者の内山節氏の講演会に行きたくなった。

    後半のベルクソンらの知性の話や歴史哲学もおもしろかったけれど、私には前半部分がたまらなくおもしろかった。
    以下おもしろかったこと。

    1.なんといっても問いの立て方が最高!
    「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」 これは「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」と並ぶ新書タイトルの最高峰だと感じた。

    2.安倍晴明の逸話
    説話として残っている晴明の活動を見ると、「式神」が鳥や動物に降臨するときにすぐれた能力を発揮していた。しかし江戸時代に入ると、晴明は母がキツネだったから能力があると変化する。つまり能力のあるものが「式神」から「キツネ」に変化している。p.13−14

    3.オオサキ
    オオサキは食べ物の「ミ」を食べる。この「ミ」は「魂」あるいは「霊」と書いてもよいが生命の根本的なものである。日本の伝統的な食事の考え方としては、食事とはミをいただくことで、いわば生き物の生命をいただくから、その生命が自分の生命になると考えられていて、その意味では食事とは他の生命を摂取することである。だから、自分のために犠牲になる生命への感謝が必要となる。日本では、神が人に与えた糧ではなく、生命的世界、霊的世界からいただく糧である。日本の伝統的な食事のマナーは、静かに、厳粛に食べることを基本にしているが、食事の時の祈りの対象は神ではなく、霊的世界になる。またこのオオサキは秤好きで、ときにオオサキ祓いの儀式が執り行われることもある。p.18-22

    4.次元の裂け目
    村の世界は様々な神々の世界であり、次元の裂け目のようなものが所々にあり、その裂け目の先には異次元の世界が広がっていると考える人も多かった。「あの世」を見る人もいた。ときにはオオカミはこの裂け目を通って、ふたつの世界を移動しながら生きていると考える人もいた。

    5.問いと答え
    キツネにだまされていたという話が事実だったかどうかにかかわらず、なぜだまされなくなったのかを問いかけると、そこから多くの事実が浮かび上がるということである。出発点が事実かどうかにかかわらず、その考察過程では幾つもの事実が見つけだされる。p.69

    6.山上がり
    いよいよ生活が立ちいかなくなったと感じたとき、村人の中には「山上がり」を宣言するものがいた。「山上がり」は宣言し、公開しておこなうものなのである。宣言した者は言葉どおり山に上がる。つまり森に入って暮らすということである。そのとき共同体には幾つかの取り決めがあった。誰の山で暮らしても良いし、必要な木は誰の山から切っても良いし、同じ集落に暮らす者や親戚の者たちは山上がりを宣言した者に対して、十分な味噌を持たせなければならないという取り決めがあった。p.73-74

    7.馬頭観音
    旅の途中で馬は山の中で時空の裂け目のようなものを見つける。この世とあの世を継ぐ裂け目、霊界と結ぶ裂け目、神の世界をのぞく裂け目、異次元と結ぶ裂け目である。この裂け目は人間には見えないが、動物にはわかる。そしてこの裂け目は誰かが命を投げ出さないと埋まらない。埋まらないかぎりは永遠に口を開けていて、その裂け目に陥ちた者は命を落とす。いまに陥ちそうな先を行く飼い主をを救うために自らが犠牲となって裂け目に飛び込む…。だから人間たちは馬に感謝し、その霊を弔って馬頭観音を建てた。p.78−79

    8.山林修行
    日本の人々は自然の世界に清浄な世界を見出していた。自然の生命には自己主張からくる作為がないからである。ところが人間は自己を主張し、しかもその主張を知性で合理化するから、次第に本当にことがわからなくなっていく。霊が穢れていくのである。この穢れは死後に自然の力を借りながら霊の清浄化をとげていく、そのことにより自然に帰り、永遠の生命を得ていくと考えられていたけれど、この霊の穢れに耐えられなくなった人々は生きているうちに「山林修行」を目指した。

    山に入ることは、人間的なものを捨てる、文明を捨てるということを意味していた。家族も、村も、共同体も、社会も、つまり人間的なものが作り上げたすべてのものを捨てて山に入る。その意味で死んでいくときのたった一人の人間になるのである。古代の習慣では、道具も持たずに山に入ったらしい。道具もまた文明であるからだ。山では木の実を食べ、根を食べる。厳密には火も使わない。自然は火で料理はしないからである。そうやって動物のように暮らしながら荒行を重ね、お経を読み続ける。穢れた霊の持ち主である自己を死へと追い込むのである。そして文明の中で生きてきた現実の自己に死が訪れた時「我(われ)」は山の神と一体となり、清浄な例として再生する。p.85−89

    9.間引き
    自然の生き物は、自分に都合の悪い育ちが良くないものを、あらかじめ間引くようなことはしない。間引きとは、あくまで人間だけがする行為である。しかもこれは、育ちが良くないものは生きる価値がない、という思想に貫かれている。p.96-97

    10.出口なお
    例えば大本教を見れば、出口なおが神がかりしてはじまる。その出口なおは以前から地域社会で一目置かれていた人ではない。貧しく、苦労の多い、学問もない、その意味で社会の底辺で生きていた人である。そのなおが神がかりし、「訳のわからないこと」を言いはじめる。この時周りの人々が、「あのばあさんも気がふれた」で終りにしていたら、大本教は生まれなかった。状況をみるかぎり、それでもよかったはずなのである。ところが神がかりをして語り続ける言葉に「心理」を感じた人たちがいた。その人たちが、なおを教祖とした結びつきをもちはじめる。そこに大本教の母体が芽生えた。この場合、大本教を開いた人は出口なおであるのか。それともなおの言葉に「真理」を感じた人の方だったのか。必要だったのは両者の共鳴だろう。p.100

    11.通過儀礼
    かつて一九七〇年代に、姫田直義が『秩父の通過儀礼』問いうドキュメンタリーフィルムを撮っている。このフィルムをみて感じることは、一人の人間の生命に対する感じ方の今日との違いである。現在の私たちは、生命というものを個体性によって捉える。しかしそれは、特に村においては、近代の産物だったのではないかと私には思えてくるもちろんいつの時代においても、生命は一面では個体性を持っている。だから個人の誕生であり、個人の死である。あが伝統的な精神世界の中で生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もう一つ、生命とは全体の結びつきの中で、その一つの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと私は思っている。p.108−110

    12.外国人技師
    かつて山奥のある村でこんな話を聞いたことがある。明治時代に入ると日本は欧米の近代技術を導入するために、多くの外国人技師を招いた。そのなかには土木系の技師として山間地に滞在する者もいた。この山奥の村にも外国人がしばらく暮らした。「ところが」、と伝承がこの村には残っている。「当時の村人は、キツネやタヌキやムジナにだまされながら暮らしていた。それが村のありふれた日常だった。それなのに外国人たちは、決して動物にだまされることはなかった」今なら動物にだまされた方が不思議に思われるかもしれないが、当時のこの村の人たちにとっては、だまされない方が不思議だったのである。だから「外国人はだまされなかった」という「事件」が不思議な話としてその後も語りづがれた。

    なんだかまだまだ書き足りない。p.52−53など丸写ししたくなる。しかし、この本を読んでいて出口なお現象ではないが、この本を読んでいると、「これまで私が無意識に感じていた思想と共鳴し」帰依したくなるような思いに捉われた。

  • 魅力的な論考。さらっと読めるかと思いきや、とても濃密で時間がかかってしまった。ライフワークである各地での聴き取りはもちろんのこと、数々の伝説や信仰、死生観や自然観、森林やそれを取り巻く生業・生活のあり方、そして、歴史学の流派と変遷、あるいは知性と直観(!)といった論点までを詰めきり、緻密に構築されている。
    そしてとうとう、「近代化」というものの大きな意味と、「つかみどころなさ」までをも、生き生きと浮かび上がらせるのだ。

  • 数ヶ月前、日経夕刊のプロムナード欄で取り上げられていた本です。買って読んでみました。新書というスタイルから想像したよりも、かなり専門的な内容となっており、いい意味で裏切られました。さらに網羅して、単行本で出してもいいのでは?と思ったほどです。
    キツネにだまされなくなった(転換点となる)年を過ぎてから、日本は変わったのでしょう。おかげで経済発展を遂げることができた。
    だとしても、キツネにだまされながら経済発展することは、本当に不可能だったのだろうか。ついそう考えてしまいます。

  • 戦後しばらくの間、日本の田舎には「キツネにだまされる」という伝承が残っていたが、1965年ごろを境に、その手の話をぱったりと聞かなくなったという。著者自身によるこのような経験にもとづき、「知性の歴史」からは見えない「身体性の歴史」と「生命性の歴史」について思いを馳せている本。著者は、この本の企画に「歴史哲学序説」という隠れた副題を付けているそうだが、普通なら民俗学や文化人類学として扱いそうな話題を、視点を変えた「歴史」として扱おうとしているところに、著者の強いこだわりを感じた。

  • 1965年を境に、日本人はキツネにだまされなくなったようだ、なぜか、という問いから始まる本。
    キツネにだまされていた頃とだまされなくなった今、何が違ってしまったのか、日本人の歴史観とか宗教観、客観的事実とは何か、とか、そもそも知性とは、という話がどちらかというとメインで、もうちょっとエピソードが多かったらもっとよかったのにな〜とも思うけれど、でもとてもおもしろかった。
    キツネにだまされなくなってしまった今、知性を介するととらえられないものをつかむことが苦手になってしまった、というのはとても悲しくて残念なことで、私がキツネにだまされることもたぶんもうないんだ。
    途中に出てくる「山上がり」という話もとても興味深いです。

  • キツネにだまされたかどうかというより、歴史と主観についての論考を主に論じている。それと絡めて日本の社会と思考の変化を追うが、著者の他の森林に関しての本と読めばつながりが良いかと。

  • 「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか?」という問いを発端に、自然に対する日本人の精神的変化を考察する一冊。一年の半分を群馬県の山村で生活する著者の経験をまじえながら、歴史の本質に迫る議論が展開されている。
    本書によれば、日本の伝統的社会では自然と人間の関係において「知性・身体性・生命性」それぞれの歴史が存在していたという。人間は個人ではなく、全体性の一部であった。オノズカラ(ありのまま)の自然に属する一方で、人間は「我」を捨て去ることのできない存在であることを自覚し、そのことが自然への畏敬を作り上げていたと著者は指摘する。
    そうした《自然-人間》の生命世界は、1965年前後を堺に崩壊しはじめる。経済成長と共に近代的科学主義が蔓延したことやコミュニケーションの変化、焼畑農業の衰退や教育制度の転換など、さまざまな要因が重なったことで、現代人は「みえない歴史(身体性・生命性の循環)」をつかみ取ることができなくなった。「キツネに騙された」という逸話はかつて日本人が生命性の歴史をとらえるために仮託していた物語の一つであり、今日の我々にはもはやみえなくなった歴史である……と著者は結んでいる。
    キツネや山村にまつわるエピソードを紹介しつつ、哲学者としての立場から理論的に「歴史学」を分析している点も面白い。

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著者プロフィール

1950年、東京生まれ。東京都立新宿高等学校卒業。哲学者。1970年代から東京と群馬県上野村を往復しながら暮らす。むら人の暮らしの考察をとおして、自然と人間との関係、仕事と労働、時間や共同体などをめぐって、独自の思想を構築する。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授(2010年4月~2015年3月)などを歴任。NPO法人・森づくりフォーラム代表理事。『かがり火』編集人。主な著書は『内山節著作集』(全15巻、農文協)に収録されている。最近の著書として『日本人はなぜキツネにだまされなくなったか』(講談社現代新書)、『いのちの場所』(岩波書店)、『修験道という生き方』(共著、新潮選書)などがある。

「2019年 『内山節と読む 世界と日本の古典50冊』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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