テレビ進化論 (講談社現代新書 1938)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062879385

感想・レビュー・書評

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  • 4年前の本だけど、当時の最先端の話が現在では相当に過去の話となっているので説得力に欠けると思いました。
    これからのテレビの姿を知りたいとしたら、その点は注意が必要です。

    一方で、芸能界の成立やメディアミックス戦略など過去の話は分かりやすくまとめられており、関心がその分野にあった私には役立ちました。

    業界研究を進める就活生なら、時間に余裕がある場合は読んでみていいかもしれません。
    それ以外の人は、途中で飽きるかも。
    特に法律関連については、私はほとんど読み飛ばしました。

  • 北図書館で読む。期待していませんでしたが、意外に面白いです。ただし、深みを期待してはいけません。それでも面白いです。

  • 私にとっては今までで一番学ぶところが多かった新書でした。映画とかテレビとか映像コンテンツが好きな人は絶対読んだ方がいい!ぞくぞくします(笑)
    仕事考えるきっかけもくれました。

  • 第4週 2/1(水)~2/7/(火)
    テーマ メディアとコミュニケーション

    ↓貸出状況確認はこちら↓
    https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/BB00172907

  • 以前藤津さんの紹介で入手した、境真良「テレビ進化論」を読了。2008年の本なので少し前の状況論だけれど、だからこそ少しあとずさって状況を俯瞰できる気がした。とても勉強になる本だった。

  • いい内容であったが、民放テレビ局への迎合が感じられてしまった。

    USは映画会社がTV番組を作っていることは作っているが、一方でアメリカはケーブルの普及率が日本と比較できないほど高く、いろいろなプロダクションがきちんとビジネスとして成り立っている。つまり競争があるからこそ多くの有能な番組製作会社が存在する。
    また、彼らを輩出する大学が多く存在することも述べられていない。

    仕事柄テレビ局関係者と仲がいいのは明らかで、角が立つことが書けなかったことが見えてしまう部分が惜しかった。
    むしろ政府の中から多チャンネルコンテンツ立国実現へ向けて努力してほしかった感すらある。

  • [ 内容 ]
    インターネットの躍動、テレビ業界の憂鬱。
    ネットの進化はテレビを滅ぼす!?
    「放送と通信の融合」の意味とは?
    映像コンテンツ産業の来歴と構造から、いま起きつつある地殻変動の本質を解き明かす。

    [ 目次 ]
    第1章 ギョーカイの解体新書(コンテンツとは何か? 特殊なギョーカイ? コンテンツ支える産業 日本にコンテンツ政策はあるか)
    第2章 「流通力の覇権」と「創造力の覇権」(流通力の覇権 創造力の覇権)
    第3章 デジタル二重革命(デジタル・インパクト 創造力の氾濫 テレビの憂鬱)
    第4章 「次のテレビ」の誕生(パソコンを越えろ 融ける編成表、崩れる視聴率 マイ・チャンネルが切り開く可能性 市場そのものを拡大するには? 「次のテレビ」への課題 純化された新たな流通力)
    第5章 映像コンテンツの未来―「テレビの次」へ(クリエイターの覇権の終わり テレビを越えて 著作権を飛び越える創作のために 求められる新ルール)

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

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    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
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    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • メディアコンテンツ業界の歴史と未来へ向けての問題点がとても解りやすく解説されている。
    Web、映像業界の人は読んでみると良いですよ。

  • 「放送」とは何か。放送法の規定によれば、それは一方的に私たち消費者に直接送りつけられる電気通信の送信行為をいう。

    「コンテンツ」とは、このうち(一枚のDVDの)、アクリル板に刻まれた情報そのもののことだ。

    メディア中心主義とコンテンツ中心主義のどちらがよいかは、難しい問題だ。
    ~略~
    コンテンツ中心主義を基本とし、逆にコンテンツに有益であるようにメディア産業のあり方を考える、という順番がおそらく正しい。

    直接の対価収入は当たりはずれがあり、公開後にしかその規模はわからないが、当たればかなり大きな収入になる。広告収入は、公開前に収入額が確定できる安定収入だが、金額的に限界がある。商品化広告は収益確定も比較的早く、他の二つの収入よりももっと大きなものになる可能性があるが、そもそも過去の実績がないと収益源とするのは難しい。

    コンテンツが使われるたびに何度も収益を上げたいギョーカイと、一度お金を払えば後は使い放題にして欲しい家電業界や電気通信業界などの間には、永遠の平行線があるのだ。

    総務省、文化庁、経済産業省の、いわゆる「コンテンツ三省庁」を見てみよう。総務省は、放送や通信の情報量を増やすためにコンテンツ政策を行ってきた。大容量のインフラを満たすための、大規模なデータ流通が生まれることが最大関心事である。文化庁の目的は文化の振興である。これはあまりに抽象的なので、文化庁は権利の付与を通じて著作権者自身に何が一番よいかを判断させようとする。これは、結局のところ著作権の保護を強化すればよいということになりがちで、他の産業分野や消費者の利害と対立することが多い。
    残る経済産業省は、コンテンツ産業、ひいては産業全体の付加価値、いわばGDPが増加することを最大の目的としている。

    最大の問題は、メディア・コンテンツ産業が本質的に娯楽産業だという点にあるのではないだろうか。メディア・コンテンツ産業は国の興亡や国民の生死に直結しないし、伝統芸術や舶来の芸術のような権威とも距離がある。

    1950年代の半ばには546対1。それが70年代始めには793対2594。これは何かというと、映画とテレビの市場規模のことである。

    映画とテレビの帰趨を分けたものは、いったい何だったのか。
    それは、テレビは各家庭に一つのスクリーンがあるということ、そしてそれが無料放送であるということに尽きる。映画の場合、わざわざ繁華街の映画館に出向いて、しかもお金を払って見なければならない。消費者にとってどちらが手軽かは説明するまでもない。つまり、映画という流通手段よりも、テレビという流通手段のほうが、圧倒的に映像を消費者に届ける力、「流通力」が強かったということなのだ。

    大手映画会社が興行保証などで各地の映画館を組織し、寡占的流通構造を作り出した上で、映画制作会社に対してきわめて有利な立場を確保して利益率を維持したように、在京キー局もネット量で地方のテレビ局を組織して寡占的流通構造を作り出し、番組製作会社に対して有利な地位を確保することに成功した。

    米国では映画産業がテレビ番組を作るようになったが、日本では逆に1983年の「南極物語」(フジテレビ製作)を皮切りにテレビ局(正確にはテレビ局とテレビ番組制作会社)による映画製作が始まり、次第に映画製作がテレビ産業の手に移り始めた。

    「自生するスター」から「創り出されるスター」への転換点である。今、私たちが目にするスターのほとんどは、こうして芸能プロダクションによって人為的に創り出された商品である。

    メディア・コンテンツ産業は、番組を見る前に消費者にその番組を見ようと思ってもらわなければならない。そこで、消費者に対して、そのコンテンツが高い満足をもたらしてくれると信じさせる、わかりやすい「何か」が必要になる。
    スターは、その「何か」になりうる。

    薬師丸ひろ子という女優がいる。彼女は、映画がテレビ発のスターを使って作られるようになっていた70年代後半に、映画産業から飛び出したスターである。
    ~略~
    これこそ後にメディアミックスと呼ばれて定式化される、現代的なコンテンツビジネスの手法の典型であった。

    すでに触れたように、コンテンツビジネスにとって大切なことは、消費者にそのコンテンツは鑑賞、購入しても満足できそうだという「何か」を与えることだ。この「何か」を「信用」と言い換えてもいいだろう。スターもその一つだが、この「信用」を消費者の中に植え付ける戦略が、宣伝、あるいはプロモーションという仕事である。

    このメディアミックスの手法をさらに全面的に展開したのがフジテレビである。たとえば「踊る大捜査線」は本来フジテレビのテレビドラマだが、これを映画とすることで、映画ランキング番組や芸能情報番組、あるいはCMなどで他のチャンネルにも幅広く「踊る大捜査線」というフジテレビのドラマタイトルが躍ることになる。

    事実、鹿内春雄の指揮下でバラエティやドラマといった娯楽系コンテンツの制作力を重視し、テレビ局からコンテンツファクトリーへの脱皮を早くから図ったフジテレビは、「踊る大捜査線」シリーズなどの映画や「お台場冒険王」などのイベント事業を収益源として育てた結果、在京キー局のなかでもテレビ放送以外の収益が著しく大きい財務構造となっている。テレビの流通力の覇権を、コンテンツビジネスという形で昇華できた例と言ってもよいだろう。

    面白いコンテンツが生まれるための十分条件は難しくても、必要条件について語ることはできる。面白いコンテンツを生み出すために三つの必要条件、すなわち、①十分な製作資金、②有能な人材、そして③自由な創作環境という三つの視点から、創造力の覇権を見ていこう。

    コンテンツの生産要素とは、資本、アイデア、そしてスタッフ(労働力)だといってよい。ただ、アイデアも人の生み出すものだから、結局は資本と、人材の質、そして組織的要素(設計方法、運営方法)にすべては帰着する。この事情は一般の産業でも変わらず、中でも優秀な人材を確保することは企業経営の最大重要事である。

    何かを調べたいと思ったとき、一番簡単な方法は誰かに訊くことだろう。その誰かは、もし訊かれた内容がわからなければ、誰か知っていそうな別の人に訊く。これを繰り返すと、たいていは目的にたどり着ける。インターネットのしくみというのは、詰まるところ、これをコンピュータ同士がネットワークの中でやっているようなものである。

    コンテンツの表現方法のデジタル化と、デジタルネットワークの爆発的な普及をあわせて、私は「デジタル二重革命」と呼ぶ。デジタル二重革命は、合法か違法かは別として、情報を受信する者達が同時に情報を発信する存在になるという、情報の流れの転換を引き起こす。

    メジャーから見たインディーズにはいくつかの顔がある。
    肯定的な側面は、人材に供給源としての実験市場の役割を果たすこと。否定的な面は、メジャーの流通寡占構造に空いた蟻の一穴だということだ。

    著作権法はコンテンツについて、創作者・供給者と利用者をきれいに峻別する。そして創作者の間では複雑な権利処理の交渉を要求し、逆に利用者に対しては「私的利用の例外」を設定してできるだけ簡単で幅広い利用の自由を認めようとする。これは、利用者は単に鑑賞者であるという前提に立っている。

    多くの支援をする代わりに、ブロードバンド・サービスとテレビ画面が連繋し、テレビのような映像配信サービスが出現することは認めろと言うのだから、これはまさに地上波テレビ放送に対する最後通牒でもあった。テレビ業界がこれほど腐心してきた、映像流通網の寡占状態にはノーを突きつけている。

    世の中のあらゆるウェブページは、たった二つの要素で構成されている。一つは表示されている文字や映像そのもの、もう一つはそれをマウスでクリックした時に他のページに移動するという機能(リンク)である。

    第一世代と第二世代のサービスの違いを体感するのは簡単だ。あなたが個人の普通のホームページを見たとき、それは何度開こうが、別のパソコンからアクセスしようが、画面に表示されるものはまったく同じである。しかし、第二世代の代表であるアマゾン(amazon.com)を見れば、ページを開くたびに、あるいは友人がアクセスした画面と自分がアクセスした画面の間に、違いがあることがわかるだろう。第二世代のサービスは、それまでにどのユーザーがどういう利用の仕方だったかを克明に記録し、それを使って、それぞれのユーザーにあわせてページを表示するような機能が備わっている。

    パソコンの利益率が低い原因は主に二つある。一つは、パソコンという製品はいくつかのモジュール化された部品の組み合わせによって誰でも生み出せるものなので、価格競争的性格がきわめて強いということ。もう一つはマイクロソフトのウィンドウズOSの購入が事実上「義務づけられている」こと。この100ドルを超える「マイクロソフト税」は、ただでさえ利益率が下がりがちなパソコンのビジネスにされに追い打ちをかける。

    インターネットが儲からなくなった理由の一つは、ブロードバンド・インターネットサービスが持っている「常時接続」という性質にある。常時接続になると「接続時間」という概念は失われるため、料金制度は必然的に従量課金制から定額課金制へと移行する。単純明快な「総額いくら」というやり方で、価格競争を余儀なくされるのだ。

    パソコンは突き詰めてしまえば、計算機(CPU)とメモリの組合せというごく単純なものだ。それがディスプレイやキーボード、そしてLAN(それはしばしばインターネットにつながっている)などの入出力装置と連携し、様々なことをやってのけている。
    この単純さゆえにパソコンは、「読めるものは書ける」という原理にしたがって、あらゆるデータを複製してしまう万能海賊版製造器という側面を持つ。

    アップルのアイチューンストアは教訓に満ちている。
    一つには、特別なソフトを使わないとアクセスできず、有料で、おまけにDRMが施されて自由に人にあげたりできない音楽コンテンツの配信が、ビジネスとして一定程度の成功を収めたという事実である。これは有料であることやDRMの制限があることが、必ずしも超えられないマイナス要因ではないことを示している。パソコンが普及しているからといって、コンテンツは無料で勝手にコピーされるしかないと諦める必要はないのだ。
    しかし、なにより大きな教訓は、パソコンをこの世から消せない以上、海賊版の誘惑を超える利便を消費者に提供することでしか問題は解決できない、ということだ。

    2007年秋、ソニーや松下から、映像をブロードバンド経由で受信・表示できるサービスに対応したテレビが相次いで発表された。アクトビラ(acTVila)というこのサービスは、パソコンを越えるべくテレビを進化させようという家電産業の挑戦である。

    家電産業と、電気通信産業と、そしてテレビ産業までが同盟を結び、正統なネットTVシステムとでも呼ぶべき、テレビの自然な進化型を提案する。この構図には、ブロードバンド・インターネット環境の上に秩序を構築するという、これまで誰もなしえなかった力業をなしうるのではないかと期待が高まる。

    可能性に満ちたライバルはいくつもあり、この大同盟の失敗を虎視眈々と狙っている。
    たとえば、その一つがゲーム機である。

    いま起きているテレビ番組の利用法には二つの次元があるということなのかもしれない。一つはコンテンツそのものは変わらず、ただ視聴方法が変わるという変化。もう一つは、コンテンツそのものが私たちの想像によって変化するということ。両者の違いは根本的だ。
    テレビの進化という文脈からは、さしあたって重要なのは前者ということになる。
    ~略~
    ただし、後者が重要でないといっているわけではない。いや、むしろ、より本質的な変化はこちらから生まれる。

    タイムシフト視聴のためのサービスとしてユーチューブを見た時の特徴は、自分で録画し忘れたものは見ることができないという録画機器のアキレス腱を他人に録画してもらうというコロンブスの卵的転換で克服したことにある。つまり、ユーチューブは巨大な公共ハードディスクレコーダーなのだ。自分が見たいものは、誰かが録画しており、切り出され、アップロードしてある。

    「ブックマーク」は便利なものだが、ひとつ問題をあげるなら、それは私達が自分自身で作らねばならないということだ。もし誰かがこの「お気に入り」を自分の代わりに作ってくれるなら、そんな便利なことはない。そしてそれは私たちの消費行動を大きく変えるだろう。それをやってのけたのがグーグルであり、アマゾンや楽天といったプラットフォーム事業者である。
    私たちが無数にある商品の中から一つを選ぶ選び方には、いくつかのパターンがある。書店で本を選ぶことを例にとれば、最初から頭に書名があってそれを探すもの(ピンポイント型)、棚の分類を頼りにあれこれと本を片端から見ていくもの(スキャン型)、ある本を読んで気になった事柄に出会ったので、それに関係した別の本を探しに行くもの(リンク型)などがある。

    「デフォルト」とは「とりあえず設定されているもの」ということだが、これこそ流通力の競争が目指しているゴールである。
    ~略~
    重要なことは、デフォルトであるとは、その視聴者の視聴情報を一番持っているという点だ。

    一般に、商品は売上高の大きな少数の商品(ヘッド)と売上高の小さな多数の商品(テール)に二極化する。これを指して、しばしば20%の商品が80%の売上を出すという「8対2の法則」が唱えられる。残りの80%に入ってしまった商品は、商品陳列空間の利用効率を上げるために棚から排除されてしまう。こうして「商品の寿命」がやってくる。
    それが、インターネットのおかげで空間のコストが下がり、いつまでも商品が市場にあってもよい状況が生まれた。さらに、従来はなかなかお客に見つけてもらえなかった商品と数少ないお客とを結びつけるしくみが生まれ、テール部分の収益可能性が高まった(ロングテール)。

    レンタルビデオの配信サービス版はどれほどの新たな収入をもたらすのだろうか。テレビ番組の延長としてのレンタルビデオ市場の規模は、2002年の総務省の調査によれば500億円弱にすぎない。レンタルビデオ事業者とVODが消費者の財布を奪い合うゼロサムの関係にあること、そして、レンタルビデオの事業規模のかなりの部分が「次のテレビ」では発生しない延滞料によるものだということを考え合わせれば、映像産業全体としては下手をすれば市場規模が縮小する可能性もある。

    「次のテレビ」が、利用者の消費行動を分析するメカニズムをきちんと備えていることが重要になる。本来この機能は番組コンテンツと視聴者をうまくマッチングするためのものだが、得られたデータは他の産業から見ればのどから手が出るほど欲しいマーケティング・データでもある。個人情報活用の限界という問題はあるものの、単に消費者に商品情報を届けるためだった広告は、これにより消費者の動向を把握したり、その潜在的購入者を特定するためのツールに進化する。それはもう広告というより、メディアを活用した反版促進活動代理業といってよい。もちろん、それに対して企業が支払うものはもはや広告費ではなく、販売促進費というべきものである。

    世界のコンテンツ産業の構造を見ると、文化圏、言語圏、そして国境で市場は仕切られており、真に世界で売れるコンテンツを持てる国は多くない。米国のコンテンツ産業はその収入の20%を海外から得ていると言われ、映画だけを見れば収入の50%が海外収入だ。

    品質さえ良ければ市場で勝てる、というのは単なる神話に過ぎない。現に日本の携帯電話システムも、通話品質やiモードサービスなど誰もが認める世界最先端を行きながら、それを世界に輸出できなかった。「ガラパゴス現象」とも揶揄されたこの物語が繰り返されないという保証はない。

    メディアミックスとは、たとえばテレビと本、たとえば映画とイベントといった本来何の関連性もないメディアの間に、共通のコンテンツを使った「導線」を張ることで消費の連結を生み出す手法だ。メディア論の大家であるマクルーハンが言い残したように、すべてのコンテンツは別のコンテンツのメディアなのだ。

    「次のテレビ」の機能はこの「グーグルゾン」と非常によく似ている。その核には個人の視聴情報などをもとに視聴者がほしがるチャンネルを編み出すエンジンがあり、ネット上にある多くのコンテンツを使って「マイ・チャンネル」を生み出していく。
    しかし、一つ重大な違いがある。それは、「次のテレビ」は、使ってよいコンテンツを限定し、そこに利益を還元するメカニズムを組み込むことでコンテンツ生産者と利害調整ができるようにしてあることだ。つまり、「次のテレビ」とは、ニューヨーク・タイムズとケンカをしないような、穏健型の映像版「グーグルゾン」なのである。

    慶應大学の坪田知己は、情報そのものではそもそも無価値であり、情報はその情報を利用できる人間に出会った時に初めて価値を生むと説明する。

    考えてみれば、私たちの頭の中にあるのは、コンテンツそのものではなく、私たちの心に映ったコンテンツの影にすぎない。話し手が発した言葉もまた、聞き手の心のスクリーンに歪められている。言い換えれば、クリエイターが支配できるのはコンテンツの半分であり、もう半分はそれを受け取る視聴者の手に委ねられているのだ。それがコミュニケーションというものである。

    土屋は、コンテンツの力の源は「個の狂気」であり、その根幹にあるのが「面白いんじゃな~い」という言葉だという。私なりにそれをかみ砕くと、ある個人が、送り手の思いや常識的文脈をまったく無視したところに「こんなのって面白いよね」という思いつきをすることがある。これが「個の狂気」であり、コンテンツとしての面白さの源だというのではないだろうか。

    映像産業の論理では、一つの映像コンテンツを様々なメディアで公開する「マルチウィンドウ」モデルについて、最重要な(ふつうは一番お金を稼ぐ)メディアを、最初に公開するウィンドウにせよと教える。映像コンテンツは一度公開すれば、その価値を大きく落としてしまうからだ。

    この「テレビの次」のビジネスモデルの鍵を握るのは、グーグルや楽天などプラットフォーム型ビジネスの特徴である「ずらし」の手法である。グーグルが無償で高度な検索システムを解放しながら、そこに広告サービスを織り込み、企業から収入を回収するのは、この「ずらし」のよい例である。つまり、直接収益のように単一の受益者に金銭対価を要求するのではなく、複数の受益者を想定し、ある受益者には無償で利益を与え、そこから獲得した情報と引き換えに別の受益者から金銭を回収するというやり方であり、「情報三角貿易」とでもいうべき技法だ。

    「次のテレビ」や「テレビの次」が生まれるための三つの政策
    第一に、新しい視聴率の定義の明確化。
    ~略~
    第二に、個人情報の流通範囲の拡張。
    ~略~
    第三が、コンテンツ産業の国際化。

    ネット社会とコンテンツ産業の関係性を再構築するための対応
    ①著作権法上の同一性保持権の取り扱いの明確化
    ②コンテンツの保護対象、単位の明確化
    ③個人情報の利用の範囲の明確化

  • メディア系で最近読んだ中では結構面白い

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著者プロフィール

1968年東京都生まれ。経済産業省商務情報政策局情報経済課課長補佐。
1993年通商産業省入省。2001年から、メディアコンテンツ課課長補佐、東京国際映画祭組織実行委員会事務局長、商務情報政策局プラットフォーム政策室課長補佐、早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員准教授(コンテンツ産業論)を経て、2009年4月より情報経済課課長補佐。
アジアの都市文化融合現象を15年追っており、趣味は海賊版収集の他、アイドル研究、読書(マンガ)、コンピュータいじり等。
著書に『NEWS─UNIXワークステーション』(共著)(1991年2月/アスキー)、『出版ルネサンス』(共著)(2003年6月/長崎出版)、『テレビ進化論』(2008年4月/講談社)がある。

「2010年 『【電子書籍版】デジタルコンテンツをめぐる現状報告』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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