リアルのゆくえ──おたく/オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

  • 講談社
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感想 : 59
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062879576

作品紹介・あらすじ

「知識人」は希望を語れるか。「世代間闘争」の末に見えた地平は?いまの日本は近代か、それともポストモダンか?サブカルチャーの諸問題から国家論まで、「わかりあう」つもりのない二人が語り尽くす。

感想・レビュー・書評

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  • 2019.9.9
    今更ながら読むが、現在でも有用な話なんじゃないかしら。僕自身が会社勤めをしつつも社会から隔絶して生きているので(消費者としては繋がっているが)、この10年の両氏の仕事ぶりなどはわからないが、十年前の現実も現状とさほど変わりない。むしろ体感としては問題は尖鋭化してるんじゃないのかなー。
    2人の会話が噛み合わないのはお互い倫理について話ているからだろう。

  • 「物語消費論」の大塚英志と「データベース消費論」の東浩紀の対談本。

    あくまでそういう軸というか立場でしかとらえてなかったので、思ってた以上に議論が深いところというか政治とか概念にまで広がってて、正直自分にとっては難解でした。

    世代が近い(あくまで相対的に)ということもあってか、
    個人的には大塚さんよりは東さんの言説(というか話であったり口調)の方が分かりやすい。

    なぜあんなに大塚さんは苛立ってたんですかね・・・
    あとがきや注を削除する要請をしたというのも気になるところ。

  • 2000年代はじめと7年を経過した2007、8年の対談。9.11直後の2000年代はじめ、個人情報問題問題など監視社会到来の危惧を、たこつぼ化するネット社会におけるセレンデピティともいえる「誤配」の必要性、新海誠作品を取り上げながらの物語のデータベース化などを語り、後半は秋葉原事件を通し批評することの意義について大塚が東にケンカを売る。

    オタク第一世代・大塚英志と1970年代生まれの東浩紀の間は評論家不在の年代らしい。(講談社現代新書「リアルのゆくえ」)ちょうど自分らの世代じゃないか。ダメだなーこの世代は。

  • 専門用語や人名に対して説明不足すぎる。読む上で事前必須情報と著者側で考えていると言われればそれまでだが、対話形式なのだからそんなことを話すときに考えるわけもなく、編集側の怠慢だと思う。

  • 思索

  • ここまでディスコミュニケーションで成り立っている対談集もないのではないか。

    大塚は東に対して頑なに拘り続け苛立ちを保ち続ける。

    データベースを準えるだけの記号的な物語の"消費"の仕方をある世代以降選ばざるを得なくなったのは、大量に供給されつづけるコンテンツの消化に加速度をつける必要があったからではないか。

    その前段としてコスプレのような批評精神に掛けたシミュラークル的なモノづくりが氾濫したことも踏まえなくてはならないが。

  • 2008年刊行。本書は大塚氏の東氏に対する苛立ちに満ちているが、その理由は実に得心できる。東氏の言動は、全体的に(根拠たる一文を本書から挙げにくい。この点は、この感想の説得力を失わせるのは百も承知だが)、読者(広義の。情報の受信者とも換言可能かなぁ)に対する無責任さが横溢している感が強いから。批評をメシの種にしている(つまり、印税という形で読者から金をもらい生活している)以上、この態度は許容しにくい。とはいえ、彼の抑制された言動は、ただのアジテーターに過ぎない他の人物よりは、はるかにマシかもしれないが…。
    もっとも、NSAによる情報収集、ウィキリークスが暴露した問題を東はどう捉えるのか。権力者が容易に利用でき、かつそうとは大衆が知らないままでいられるシステムに対して、権力者側をいかに縛るのか。この問題を等閑視したような物言いは、ネオコン的自由主義経済学者と同様の心性を感じざるを得ない。また、言論空間がネットの反応のみとあるが、ネットの意義拡大とネット以外の空間の矮小化はともかく、言論空間のこの規定はあまりに無知ないし単純だと思う。年齢的には東の方に圧倒的に近いが、余りに遠い。

  • 大塚英志と東浩紀が、四回にわたっておこなった対談の記録です。第一回は2001年、第二回は2002年で、東が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の頃の東が、『物語消費論』の大塚英志と、サブカルチャー批評について議論を交わしています。

    第三回は2007年で、今度は東が『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)を刊行した後の対談です。そして2008年におこなわれた第四回は、秋葉原連続殺傷事件の直後の対談になっています。

    対談を通して、大塚は愚直なほどにおなじ問いかけを東に向けています。彼が問うているのは、「公」のことばをもう一度立ちあげなければならないという義務感であり、そうしたことばを語る批評家や作家の登場への期待であり、さらに批評家はそのようなことばを読者へ向けて語りかけなければならないという倫理だといえるように思います。こうした大塚の問いかけに対して、東は一貫して、批評家のことばがもつ力に対する諦念を表明しています。

    大塚の主張するような公共性の再建が可能だとは思えないのですが、それ以上に気になるのは、時代状況の変化によって、東のおなじことばが異なるニュアンスで受けとられてしまうのではないかということです。たとえば2001年、2002年の対談での東の立場は、言論の無限の可能性を素朴に信じるのではなく、新しいオタクの消費行動を前提にしなければならないというところへ収斂するのではないかという気がします。しかし2007年、2008年の対談では、東のおなじようなスタンスを語ることばが、アーキテクチャ原理主義のように響いてしまうのも事実ではないかと思います。

    両者の対話が噛みあっているということは、まったくといっていいほどないのですが、大塚のいい意味での「いやらしさ」が出ているという点でも、おもしろく読みました。すくなくとも、おなじく話が噛みあっていない、東と笠井潔の往復書簡よりずっと刺激的だったように思います。

  • 他のレビューで書かれてるほどに無価値ではない

    2014年現在でも読む意味はあると思う

  • おたく論をここ最近立て続けに読んできて、その流れで。とおもったらあんまりおたくの話してなかった。現代における社会、公共性、システムなんかに関する世代的対立の記録。あずまんはなぜこんなにも年長者を怒らせてしまうのか。あとけっこう書き手の倫理や信念について悩んでて、物書きって青すぎでしょとかこれパフォーマンスかなあとか。でも目の前の快楽に埋没する大衆に非常に真摯に向き合っていたら、動物化という視点で人間を捉えざるを得ないし、政治的にも一種の諦観を感じるし、あずまんの認識は説得力がある。ただあまりに耳に心地良いので危機感を覚えてしまう大塚さんの気持ちもわかります。わたしは政治哲学というけっこう硬派な学問をやっているんですが、わたしがそれを学ぶ人たちと会話しながら感じる齟齬と、あずまんと大塚さんのすれ違いはちょっと似ている。わたしはどういう立場に立つのかなあ、ぬるぬるハッピーでいたいよ。高度に洗練された倫理的議論や環境に身を置くことの苦しさ。消費社会における倫理の不可能性。切実だ、ほんとうに。

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著者プロフィール

大塚 英志(おおつか・えいじ):大塚英志(おおつか・えいじ):1958年生まれ。まんが原作者、批評家。神戸芸術工科大学教授、東京大学大学院情報学環特任教授、国際日本文化研究センター教授を歴任。まんが原作に『アンラッキーヤングメン』(KADOKAWA)他多数、評論に『「暮し」のファシズム』(筑摩選書)、『物語消費論』『「おたく」の精神史』(星海社新書)、他多数。

「2023年 『「14歳」少女の構造』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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