リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

  • 講談社
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本棚登録 : 553
レビュー : 60
  • Amazon.co.jp ・本 (327ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062879576

作品紹介・あらすじ

「知識人」は希望を語れるか。「世代間闘争」の末に見えた地平は?いまの日本は近代か、それともポストモダンか?サブカルチャーの諸問題から国家論まで、「わかりあう」つもりのない二人が語り尽くす。

感想・レビュー・書評

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  • 「物語消費論」の大塚英志と「データベース消費論」の東浩紀の対談本。

    あくまでそういう軸というか立場でしかとらえてなかったので、思ってた以上に議論が深いところというか政治とか概念にまで広がってて、正直自分にとっては難解でした。

    世代が近い(あくまで相対的に)ということもあってか、
    個人的には大塚さんよりは東さんの言説(というか話であったり口調)の方が分かりやすい。

    なぜあんなに大塚さんは苛立ってたんですかね・・・
    あとがきや注を削除する要請をしたというのも気になるところ。

  • 2000年代はじめと7年を経過した2007、8年の対談。9.11直後の2000年代はじめ、個人情報問題問題など監視社会到来の危惧を、たこつぼ化するネット社会におけるセレンデピティともいえる「誤配」の必要性、新海誠作品を取り上げながらの物語のデータベース化などを語り、後半は秋葉原事件を通し批評することの意義について大塚が東にケンカを売る。

    オタク第一世代・大塚英志と1970年代生まれの東浩紀の間は評論家不在の年代らしい。(講談社現代新書「リアルのゆくえ」)ちょうど自分らの世代じゃないか。ダメだなーこの世代は。

  • 2019.9.9
    今更ながら読むが、現在でも有用な話なんじゃないかしら。僕自身が会社勤めをしつつも社会から隔絶して生きているので(消費者としては繋がっているが)、この10年の両氏の仕事ぶりなどはわからないが、十年前の現実も現状とさほど変わりない。むしろ体感としては問題は尖鋭化してるんじゃないのかなー。
    2人の会話が噛み合わないのはお互い倫理について話ているからだろう。

  • 思索

  • ここまでディスコミュニケーションで成り立っている対談集もないのではないか。

    大塚は東に対して頑なに拘り続け苛立ちを保ち続ける。

    データベースを準えるだけの記号的な物語の"消費"の仕方をある世代以降選ばざるを得なくなったのは、大量に供給されつづけるコンテンツの消化に加速度をつける必要があったからではないか。

    その前段としてコスプレのような批評精神に掛けたシミュラークル的なモノづくりが氾濫したことも踏まえなくてはならないが。

  • 2008年刊行。本書は大塚氏の東氏に対する苛立ちに満ちているが、その理由は実に得心できる。東氏の言動は、全体的に(根拠たる一文を本書から挙げにくい。この点は、この感想の説得力を失わせるのは百も承知だが)、読者(広義の。情報の受信者とも換言可能かなぁ)に対する無責任さが横溢している感が強いから。批評をメシの種にしている(つまり、印税という形で読者から金をもらい生活している)以上、この態度は許容しにくい。とはいえ、彼の抑制された言動は、ただのアジテーターに過ぎない他の人物よりは、はるかにマシかもしれないが…。
    もっとも、NSAによる情報収集、ウィキリークスが暴露した問題を東はどう捉えるのか。権力者が容易に利用でき、かつそうとは大衆が知らないままでいられるシステムに対して、権力者側をいかに縛るのか。この問題を等閑視したような物言いは、ネオコン的自由主義経済学者と同様の心性を感じざるを得ない。また、言論空間がネットの反応のみとあるが、ネットの意義拡大とネット以外の空間の矮小化はともかく、言論空間のこの規定はあまりに無知ないし単純だと思う。年齢的には東の方に圧倒的に近いが、余りに遠い。

  • 内容が分かったとは思えないが、文字は上滑りしない。けんか腰とのらりくらりで、ときに中見出しは大仰すぎて滑ってるような気がするけどな。
    180「彼が見ているものは非常にスタンダードなものなんだけど、彼が手にしている辞書がある意味で奇形的なものだから、結果として奇形的な作品になっている」なるほど。

  • 大塚英志と東浩紀が、4回に渡っておこなった対談の記録です。第1回は2001年、第2回は2002年で、東が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の頃の東が、『物語消費論』の大塚英志と、サブカルチャー批評について議論を交わしています。

    第3回は2007年で、今度は東が『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)を刊行した後の対談です。そして2008年におこなわれた第4回は、秋葉原連続殺傷事件の直後の対談になっています。

    対談を通して、大塚は愚直なほどに同じ問いかけを東におこなっています。それは、「公」の言葉をもう一度立ち上げなければならないという義務感であり、そうした言葉を語る批評家や作家の登場への期待であり、さらに批評家はそのような言葉を読者へ向けて語りかけなければならないという倫理と言ってよいと思います。こうした大塚の問いかけに対して、東は一貫して、批評家の言葉が持つ力についての諦念を表明しています。

    大塚の主張するような公共性の再建が可能だとは思えないのですが、それ以上に気になるのは、時代状況の変化の中で、東の同じ言葉が異なるニュアンスで受け取られてしまうということです。たとえば2001年、2002年の対談での東の立場は、言論の無限の可能性を素朴に信じるのではなく、新しいオタクの消費行動を前提にしなければならないというところへ収斂するのではないかという気がします。しかし2007年、2008年の対談では、東の同じようなスタンスを語る言葉が、アーキテクチャ原理主義のように響いてしまうのも事実ではないかと思います。

    両者の対話が噛み合っているということは、まったくと言っていいほどないのですが、大塚のいい意味での「いやらしさ」が出ているという点でも、おもしろく読みました。少なくとも、同じく話が噛み合っていない、東と笠井潔の往復書簡よりずっと刺激的だったように思います。

  • 他のレビューで書かれてるほどに無価値ではない

    2014年現在でも読む意味はあると思う

  • おたく論をここ最近立て続けに読んできて、その流れで。とおもったらあんまりおたくの話してなかった。現代における社会、公共性、システムなんかに関する世代的対立の記録。あずまんはなぜこんなにも年長者を怒らせてしまうのか。あとけっこう書き手の倫理や信念について悩んでて、物書きって青すぎでしょとかこれパフォーマンスかなあとか。でも目の前の快楽に埋没する大衆に非常に真摯に向き合っていたら、動物化という視点で人間を捉えざるを得ないし、政治的にも一種の諦観を感じるし、あずまんの認識は説得力がある。ただあまりに耳に心地良いので危機感を覚えてしまう大塚さんの気持ちもわかります。わたしは政治哲学というけっこう硬派な学問をやっているんですが、わたしがそれを学ぶ人たちと会話しながら感じる齟齬と、あずまんと大塚さんのすれ違いはちょっと似ている。わたしはどういう立場に立つのかなあ、ぬるぬるハッピーでいたいよ。高度に洗練された倫理的議論や環境に身を置くことの苦しさ。消費社会における倫理の不可能性。切実だ、ほんとうに。

  • 「東 その点でいうと、日本のオタク系文化とアメリカ西海岸のヒッピー/ニューエイジ文化には変な対照性がある。(略)そのかわりに、身体そのものをキャラクター化するというか、物質的な変更を加えないまま全体として虚構化するような方向に向かう。それに対応するのがフィギュアとかコスプレだと思うんですよ」 ー 65ページ

    なぜ東先生は対談すると最後はだいたい決まって喧嘩別れになるのかということにも関心があるのだが、彼や大塚先生の問題関心というのは自分も重なるところが多いので、興味深く読んだ。

    特に引用に関するところで、コスプレというものを日本の特徴という風に置いているのは、文脈的にも興味深い。いわゆるヒッピー文化とオタク文化をここでは対置させているわけであるが、ニューエイジのような宗教運動と呼ばれるようなものがあるとして、オタク文化における宗教運動みたいなのはどのようなものなのかとか色々考えるとおもしろい。

  • 読むのに疲れた。
    東さんの理論にある違和感へ、大塚さんが鋭くつっこんでいく対談集で、どちらかのファンレベルでないと投げてしまうのではと思います。
    ただ、大塚さんの視野の広さと鋭さは確かだから、2007年のケンカと呼ばれている部分は、厳密には大塚さんの訴えに見えました。

    若い人なら、これより読むべき本があると思うので、一度、別の著本を検討してみることをおすすめします。

  • 平坂書房で購入する。駅ビルの喫茶店で読む。初めて、駅ビルの喫茶店で、停電を経験する。駅ビルでも、停電するんですね。期待以上の出来ではありませんが、期待以下ではありません。有能な後輩に絡む困った先輩という印象です。最初の対談は、議論がかみ合っていました。以後の対談は、議論になっていない気がします。東さんが、必死に議論にしようと努力していますが、無駄な努力です。気になったのは、社会科学に対する捕らえ方です。少し楽観的過ぎます。例えば、貧困の問題です。貧困の問題は、二つの側面に分かれます。第1の側面は、経済的側面です。第2の側面は、心理的側面です。両者は、第1の側面は簡単に解決可能であり、第2の側面は解決困難だと指摘しています。第1の側面の解決法として、ベーシックインカム等を提示しています。それに対して、第2の側面の解決は、容易ではないと指摘している。第1の側面の解決は、簡単なのでしょうか。ベーシックインカムは、容易ではないのです。例えば、会社を辞めて、大学院で勉強するエリートサラリーマン、病気の子供を抱えて働けないシングルマザーにも、同じ金額のベーシックインカムを提供するのでしょうか。僕は、そうすべきだと思います。多分、この意見は、少数意見だと思います。多分、多くの意見は、シングルマザーに、多くの額を払うべきだと思うでしょう。現実には、色々な事情を斟酌して、額を決めることになるでしょう。その場合、額を判断するために、個人情報を提供する必要があるでしょう。また、その個人情報を検証するために、莫大な費用が必要となります。多分、実行不可能でしょう。最後に、大塚節の好きな人にはお勧めです。また、困惑する東さんの姿を想像したい人にもお勧めです。逆に、日本のサブカルチャーの現状を理解したい人には、お勧めできません。その手のものを求める人には、それぞれの著者の著作の方がいいです。

  • 二つの観点を前提にしなければならない。一つはインターネットに象徴される情報コミュニケーションの革命的変異が一気に進んでいると言うこと。2つめは情報交通政治思想のグローバル化により価値観が急速に陳腐化しつつあると言うこと。

     2つの前提が成立する以前ならば、ある哲学者・知識人の言説や芸術家の独創性は長い間独創性として維持されてきた。しかし、2つの前提が成立すると、独創性は即時的広範囲に模倣され、アレンジされて記号化されることになった。そして一般的には今日生産される差異はひとつひとつが記号化されデータベースに積み上げられてく。

     この状況下で批評家の為す役割というのは変異するか、しぼんでいくかのどちらかに陥る傾向が強くなった。なぜなら、批評家は例えば理想と現実の差異を分析し、その性質を論じ、方向性について読者や社会に啓蒙する働きを期待されるからである。さらに、これまでは応える余地があった。しかし、それは差異がいつまでも差異として存在し、かつ正体不明の扱いにくいものとして維持し続ける環境あってこその批評であった。

     2つの前提が成立すると、批評家のその役割は縮小し、0に向かって限りなく収束することになる。ここにおいて著者の2人のスタンスは異なる。それでも社会に啓蒙する役割の可能性を信じる大塚と可能性を信じない東とである。

     2つの前提がこれから一層その傾向を強めたときに、批評家の飯の種である差異は一般的な存在から個人的なレベルのに落ちる。つまり差異は個人的なものにしか存在し得ないと言うことである。はたしてそのときに極めて個人的な差異を論評する価値や意味があるのだろうかという疑い。また仮に一般的・社会的に評価・共感しうる差異を発見し得たとしても、すぐにその差異は記号化され、批評家の叫びとは無関係に修正・アレンジされていく。いわば、記号のデータベースというカタログに載らない差異が差異といしての価値を持つが、価値を持った瞬間それはカタログに載せられ、その価値の所以であった「カタログに載ってない」価値は消失するのである。

     そしてこの差異の消費活動は促進され、スピードを増し、批評家の出番はなくなる。批評家に残された仕事の可能性と言えば、新たなる価値(差異)の予言であるが、そこまでいくと批評家と創作者の区別はなくなるのである。

     ネットによる差異のデータベースとアレンジゲームはまだ始まったばかりでかつその進歩と共に構造までも変えていく。それはカオス的に見れば、構造変異が表出するまで継続するのであろうが、それがいつになるかは誰も予見し得ない。

  • [2012.04.26]

  • 対談集なので構造的な話題ではないが、示唆に富んでいた。
    対話だからこその、わかりやすさもあった。
    情報があふれて、動物化するというイメージがわかりやすい。
    また、創作が、他者の知識に依存するというはなし(昔からそうだろうけど)も、面白かった。
    物語が無価値化していく、しかし私はそこに抗いたい。

    ただ、世代間のラベル付けのような形式になっているところは、あまりに乱暴な気がして感情移入できなかった

  • 若い人がレビューであげてるとおり、私自身は主張として東さんが言ってることにしっくりくることが多かった。最初の方の議論は読んでて面白かった。若い人は物語に耐えられないっていう話とか。でも2007年のなんか特に頭がいい人の喧嘩を見ているようで、根底諦めている東さんになぜと突っかかる大塚さん、ずっと平行線でつまらなかった。

  • 古本350円

  • 大塚英志と東浩紀の、4度にわたる対談を収録したもの。
    二人の議論は、さながら紙媒体出版世代の価値観と、ネット世代の価値観のぶつかり合いが見える。大塚英志は「どうして自分が東の主張に納得いかないか」、ということを追求して説明を求め、東浩紀がそれに冷静な返答をしているため、二つの価値観にどのような違いがあるのか、どのような背景の上にそれらの価値観が成り立っているのかが、よく見えるようになっている。
    紙の出版物に触れて育ちながら、ネット世代としても生きる自分が、どちらかに(というか両方に)対して感じていた違和感の原因を探る手掛かりになったと思う。

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著者プロフィール

東浩紀(あずま ひろき)
1971年東京生まれ。批評家・作家。ゲンロン代表。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。
著書に『存在論的、郵便的』(サントリー学芸賞思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞受賞作)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015受賞作)ほか多数。『ゲンロン0 観光客の哲学』は第5回ブクログ大賞人文書部門、第71回毎日出版文化賞受賞作。

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