「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

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  • 講談社 (2009年7月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784062880060

作品紹介・あらすじ

「空気」の存在に怯えている人は多い。なぜ「空気」は怖いのか? その正体を探っていくと見えてきたのが、崩れかけた「世間」の姿だった……。人気の脚本・演出家が、阿部謹也、山本七平といった先人の仕事を現代に投影させながら、自分の体験や発見を踏まえた会心作! 「空気」と「世間」を知り、息苦しい現代日本を生きていくための方法を示します。(講談社現代新書)


人気脚本家が、空気と世間の正体に迫る! 確実にあるのに、その実体がよくわからない空気と世間。本書ではそのふたつの実体を実例や先行研究から明らかにするとともに、それに対抗するための方法を示す。

みんなの感想まとめ

日本人が抱える「空気」と「世間」の複雑な関係を深く掘り下げた本書は、現代社会における人々の行動や思考を分析し、息苦しさを和らげるための方法を提示します。著者は、周囲の期待やルールに縛られることなく、自...

感想・レビュー・書評

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  • 「世間」「社会」「空気」、
    これらの観点から、日本人の行動や考え方分析しているのですが、読んでいて、とても腑に落ちた。良書。

    周りが残業しているから帰りにくいとか、まさに「世間」だよなぁと思った。
    また、初対面の人に、いきなり馴れ馴れしいタメ口とか、
    注意するときに「ですます調」ではなくて、感情的に暴言を放つ人とか、これは「社会」との接し方がわからなくて、すべて「世間」として捉えてしまっているのではないか。「世間」の中で生きている、ゆえに「世間」の言葉を用いる。

    逆に、“〜させていただきます”の連発や、過剰な敬語を用いてしまうーーこれは先ほどの人とは違って、「世間」が崩壊している環境で生きてきた人、「世間」というものを知らずに育った人ほど顕著ではないだろうか。関わる他者すべてが、まったく関係のない、遠い距離(「社会」)に生きているのだと思ってしまう。
    人見知りの人なんかも、これと関係があるかもしれない。

    「社会」もない。
    「世間」もない。
    かろうじて「空気」、共同体の匂いはまだあるが、それすらもなくなったら、個人はどうなるか。
    紐の切れた凧のように、どこかに飛んでいってしまうのではないか(『推し、燃ゆ』の主人公が最後そうなったように)。
    いや、そうならないように、日本ではSNSがめちゃくちゃ流行っているんだろうな、と思う。
    今の日本にとって、SNSこそが「世間」の代用であり、セーフティネットであり、共同体の匂いである。

    「空気」と「世間」。
    とてもいい本。周りに薦めたいと思った。

  • 「空気が読めない」などの空気とは、所謂、世間を形づけるルールに合致した状態の様な強固なもので無く、流動性が高い状態の事を言う。
    要するに、この先何かの事情で状況が変わる可能性(流動性)が高い場合に用いられる。さらに「空気」には潜在的に畏怖や圧力を感じる何かが存在しており、これらは人を拘束する。日本人は「空気」に目に見えない畏怖するものを感じている。
    実は「空気」がルール化させると「世間」へと変貌する。ここで「世間」と「社会」の違いは何かと問われると世間とは自身のコミュニティに近い場合であり、社会とはその以外である。
    例えば、近所の行きつけのお店(世間)の人への態度とコンビニ店員(社会)への態度では日本人はあからさまに態度、距離感が違う。これは欧米人からすると異様に映るようで、欧米人は逆に「世間」と「社会」の境界線があまり無く上記の様な場合特に差は見られない。「社会」に対する対応方法を歴史的に習得しているからだ。
    さて、本書ではこの「空気」を打開するための方法を筆者は提供している。
    一つは「空気」を相対化する事で、反論、疑問視、攻撃できる様にする事だ。先ほど述べた様に「空気」はある種絶対的なもので皆そこに何かしらの圧力及び畏怖を感じている状態である。それらを打開するためにも、比較検討できる状態にすることが望ましい。
    二つ目は「水を差す」ことだ。あるグループ数人が全員で旅行に行くことになっている「空気」の場合、「でも、お金ないからなー」と言うことが水を差すと言うこと。これが「空気」が壊れた瞬間である。
    昨今は「世間」よりも「空気」を大事にする傾向にある。それはなぜか。一昔前は「世間」は経済的セーフティネット(農業社会)であったが、近年は都市化、経済的精神的グローバル化が進み同質化が保てなくなり、「世間」が崩壊してきている。昔無かったモノが現代にはある。現代の人はそれがあることを基準に物事を判断するのだから変わることは当たり前である。

  • 鴻上尚史さんの本はこれが初めてです。
    読後、思わずありがとうを言いたくなるような、目を開かされる思いでした。
    主題は「世間」と「空気」なのですが、読み進めていくと「世間」と「社会」を対比して述べる内容に展開していきます。

    「世間」と「空気」はその場の人間を「長幼の序(=年功序列)」や「共通の時間意識」で縛り上げる「排他的で差別的」な集団のことを指します。平たく言うと、「自分の今と未来に関係してくるであろう人たち」で、会社や学校、近隣住民などの集団を指します。
    対して「社会」は「世間」より外側にある集団で、「自分には直接関係がない(と今は思われる)人たち」のことを言います。
    日本人は「世間」の人に対しては温情があり、親切で丁寧ですが、一方で「社会」の人に対しては殆ど会話を交わさず、積極的接触をしようとしない、という前提から話は始まります。

    今まで違和感を覚えてはいたし、何かがおかしいとは思っていたけれど、どうしてそうなっているのか、何が原因なのか、が今ひとつハッキリしないことをこの本はしっかりとピントを合わせて見せてくれます。

    「仲良くもない会社の人との忘年会」や「長年いるだけで全く戦力になっていない役職の人の意見を第一に聞く会社の風潮」、「暗黙のルールを守らないと判断すると、一斉に悪人同然の扱いをする人々」。
    こういったことには日本社会における「世間」の意識が関係していたのですね。
    「宗教的正しさ」のようなもので物事を「絶対化」する性質にある日本人は、「上司」や「年上の人」を無条件に神聖視しすぎていたのだろうと思います。
    そしてそこには(この本では述べられておらず、個人的意見ですが)儒教の名残もあるのでしょう。

    この本を読んだ後で改めて考えてみると、現在の若手社員が「時間ぴったりで終業すること」や「飲み会を断ること」は”世間”から”社会”中心の考えにシフトしていく中で、当然の流れだったということに気づきました。
    彼らにとって会社は「世間」ではなく、生きていくために仕事をするという場所であって、その考えは限りなく「社会」としての会社。会社を「世間」と捉えている年配の上司たちとは考え方が違っているんですね。

    「社会」化が行き着く先が「世間」の全盛期よりも個々人にとって幸せかどうかは人にもよるし、分かりませんが「世間」が機能していた時代はもうとっくに過ぎてしまっていて、今やカタチだけ残っていて機能していない「わずらわしいもの」となってしまっている。でも、そのことに気づいていない(もしくは「世間」が大事だと今も思っている)人たちは「世間」をどうにか存続させようとしている。
    これは大変な問題で、そこから本書に述べられているような、さまざまな問題が起こっているのだと思うと、「世間」が必要に迫られていたからとはいえ、長年人々を縛り付けていた弊害について改めて考えなければと感じました。

    日本と欧米の比較もされていて、何故日本人に血液型や生まれ、占いなどに拘る人が多いのかも理解できました。
    アメリカはアメリカで大変なんですね……。

    社会的に不安なとき、「世間」が勢力を盛り返すというのは本当のことで、今、コロナ禍にあって人々が「●●警察」などに傾いてしまっているのを見ると、これって昔の「世間」が復活したみたいだな、と考えていました。その集団にとっての「善悪」が「絶対化」されることで、引っ込みがつかなくなり、悪を打倒するまで止まれない。新たな悲劇が起こらないことを願うばかりです。

    最後の方で述べられていた「複数の共同体を持つ」というのはとても大切なことで、これから私もその点を意識していきたいなと思った事柄でした。

    かつて、女性は婚姻関係にある男性に悩みの全てを解決してもらおうとしている時期があったように私には思えます。「社会」化した日本では、悩みを相談する相手を複数もち、すべての困りごとをパートナーに託すことなく生活していけるとしたら、パートナーにオールラウンダーな人格や能力を求めなくても良いと思うことが出来る。
    絶対的な相手を探すようなことも必要なくなって、自分にとって大切、という一点だけで相手を見つめられるようになるのではないかと思いました。

    人生の時々で読み返したくなる本でした。

  • 空気は読むけど従わない。
    これが今までもこれからも、私のスタンス。

    日本人は神を信じていない?無宗教?
    とんでもない。
    日本人は「世間教」の熱狂的な信者だ。

    ただ、その宗教は崩壊を始めている。
    「世間教」の教義の二つである「長幼の序」と「相互互酬関係」が、年功序列と終身雇用システムの崩壊によって脅かされているからだ。

    所与のものとしてありもしないのに臨在感をもって我々の祖先を支配してきた「世間」と、それらが壊れかけた「空気」の支配は、令和の現代において確実に弱まってきている。

    人々が、「無条件に世間のルールやしきたりに従うことはおかしい」と気づき始めている。

    日本においても「神は死んだ」のである。

    そして人々は不安から救済されるために、「推し」に縋るようになった。
    特定の「推し」に向けて推し活をしている限り、同じ「推し」を推す者たちとの共同体感覚を感じ、孤立していないという安心感を得られるからだ。

    また、「ネトウヨ」も、現世で虐げられている弱者が世間という神の代替として仮想敵を作り、孤独な者同士が団結した存在にすぎない。
    これのアメリカ版が、キリスト教福音派である。

    「人は不安になると原理原則に立ち帰りたくなる」
    この一文には痺れた。

    結局誰しもみな不安なのだ。

    だからこそ、勇気を持って世間や空気と戦ってみることを、私は強く推奨したい。

    なぜなら、私がそうすることで息苦しさから解放されて非常に生きやすくなったからだ。

    具体的には、著者が勧めているとおり、複数の共同体に緩やかに所属することが、最適解となる。

    自立とは、依存先を複数持つことである。

    そして、世間でなく社会で生きることではじめて、自分らしく、自分の本当の人生を生きることができるようになる。

    これが非常に痛快なのだ。

    ありもしない世間や空気にガチガチにバインドされて苦しそうに生きている人々を横目に、良い意味で自分勝手に自由に振る舞うことの喜びと快適さを一度知ってしまうと、もう戻れない。

    一度きりの人生、実態のない呪術に縛られながら生きるなんてクソ喰らえだ。

    本書は、そんな毒々しい呪いから若者を解放してくれる清涼な解毒剤である。

    すでに年老いてしまった人々に対しては、哀れみの念を禁じ得ない。
    彼ら彼女らは呪いのせいで「自分の人生」を生きられなかったのだから。

  • 一度でも異国のコミュニティに所属したことがある人は読んでみるとおもしろいかも。作者は、いじめに苦しんでいる人に読んで欲しい、と書いていた。今苦しんでいる人がいたら、この本に届いて欲しいと思った。

  • 以前ここでも感想を書いた阿部謹也氏の『「世間」とは何か』をはじめとした、彼の「世間」にまつわる著作を非常に分かりやすく整理した一冊だ。
    著者の鴻上氏は、自分に関係ある世界のことを「世間」、自分に関係のない世界のことを「社会」と位置付け、阿部氏の著作を引用しながら、「世間」の主なルールとして「贈与・互酬の関係」「長幼の序」「共通の時間意識」「差別的で排他的」「神秘性」があると述べ、これらのうちいくつかだけが機能している(鴻上氏は「流動化」と表現している)状態が「空気」だという。
    さらに山本七平氏の『「空気」の研究』を引用する形で、「空気」の持つ絶対的な力のありようについて論じ、では我々はこの見えない「空気」にどのように対抗すればいいのかをいくつかの例を挙げて考える、というのが本書の大まかな構成である。

    実に面白い。読んでいて腑に落ちる部分がいっぱいあったし、一神教における物事の捉え方についても勉強になった。
    一神教については、理屈ではなく「空気」によって物事が決まる日本人はディベートが苦手であるという例を出したうえで、以下のように述べている。
    --
    彼らは、神のこと以外は、全て、相対化の視点で語ることができるのです。
    神だけが絶対である、すなわち、「人が口にする命題はすべて、対立概念で把握できるし、把握しなければならない」ということが一神教に生きる人たちの命題になるのです。
    --
    乱暴にまとめると、日本における「世間」は一神教における「神」に相当するといってもいいのかもしれない。彼らにとって最終的な心のよりどころは神なのだから。
    では一神教ではない、八百万の神(やおよろずのかみ)がいる日本で、一神教をベースにした西洋の個人主義を受け入れられるのか?キツいんじゃね?という点は重要な指摘だと思う。

    他にも、グローバル化の進展によって、日本古来からの「世間」は徐々に壊れ始めているが、一方でインターネットによって生まれた新たな「世間」が力を付けつつあるとするくだりも興味深い。
    ネトウヨを例に挙げ、彼らの「世間」をこう分析してみせる。
    ---
    常に「反日」的な書き込みに反応し、伝統的な「世間」を否定する人たちを攻撃することによってのみ、
    「世間原理主義者」は自分が日本の伝統的な「世間」に所属しているという“幻の”満足を得ることができるのです。
    そして、そうすることで、とりあえずの安心と連帯、安らぎを得るのです。
    ---
    私はこの文章の後で鴻上氏が述べている「古き良き日本」は単なるイメージに過ぎない、というのはちょっと違うと考えるけど、ネトウヨに対してある種の哀れみをも感じさせるこの考察は、確かに一面の真実としてあると思う。
    彼らの書き込みを見ていると、体系立てた理屈で相手を説得するのではなく、同じネトウヨからの「いいね」を多く獲得することを目的としたような紋切型で言いっぱなしの文章に出会うことが多々あるからだ。

    他の「世間」を攻撃することでしか心の安定を保てないなんて可哀想な人たちだなと思うけど、一方でどの「世間」にも所属しない「個人」として生きられる日本人なんてほとんどいないのではないだろうか。人間は強くないからね。
    結局、「社会」でも「世間」でもいいけど、自分に合ったある種の「束縛」を受け入れるしかないのかなと思う。
    そういったところに昨今話題の怪しげなカルト団体とかが入り込む余地があるのかもしれないけど、鴻上氏は数多くの共同体にゆるやかに所属することで、「世間」を相対化し、前述したような排他的な「世間」に100%取り込まれるリスクを減らすことができるという考えのようだ。
    おおむね同感だが、さっきはネトウヨを皮肉っておいてアレなんだけど、私は「社会」のような「横軸」だけではなく、歴史や伝統といった「縦軸」(ここには「世間」は含めない)も個人を安定させるためには必要になるのではないかと思っている。
    このあたりはまた別の機会に考えてみたい。

  • 阿部謹也さんの「世間」とは自分と利害関係がある者あるいはこれから利害関係をもつ者の総称であるに依拠して、山本七平さんの空気の研究を参照しつつ「空気」とは「世間」が流動化したものであるという。この「空気」に竿させずに息苦しい人びとに「世間」は壊れかけている〔そんなの気にするな〕と本書は語りかけていると理解しました。

  • 「空気」を読んでも従わないを読んで、その大人版とも言われる本書を読んでみることにした。
    改めて基本となる「世間」の考え方を理解。「世間」には5つのルールがあり、その中の何かが崩れたものが「空気」と呼ばれるものになる。
    「世間」の方がより強固なものであり自分の力ではなかなか崩せないものではあるが、より正体がわからない、不安定という意味では「空気」の方が厄介なものという感じもした。
    また、「空気」を読んでも…の中では、あまり触れられなかった話題として「宗教」という視点での考察がされていた。これが非常に興味深いものであった。
    日本人にとっては、基本「世間」が絶対的なもの、唯一信じられるものであるのに対して、西洋ではこの「世間」にあたるものが神、つまり宗教にあたるのではないか。
    人は結局何かすがるものがなくては生きていけない。日本人はそれが「世間」「空気」であるから、その呪縛からなかなか逃れられない。西洋では「世間」はない。神のみぞ信じるものであるという意識があるから、日本人のように周囲の人を気にすることはない。
    これまで神、宗教というものが自分にとっては得体の知れないものに正直感じていたが、この本を読んでその存在の意味が少しだけだがわかった気がした。
    最後に、「空気」を読んでも…にもあったが、改めて一つの「世間」、共同体に属することの危険性、リスクを感じた。ゆるやかに、複数の共同体に所属する。何だかんだでほぼ仕事でのつながりしかない現在の自分を反省し、何かしらの行動に移していきたい。

  • 空気を読むと言う言葉に無駄に敏感になっていました。この本を読むことによって人と人との間にある空気とは何か、世間とは何かこれが幽霊のようなものではなく具体的なものとして理解することができます。何よりも衝撃的だったのは欧米にも12世紀までこの世間というのが存在していたということです。
    世間や空気の正体を理解することで、それへの対処法が見えてきます。その方法についても書かれています。

  • 「空気を読む」の「空気」
    「世間知らず」の「世間」

    これらの正体とは?なんで息苦しくさせてるの?そのあたりについて、「中学生でも理解できるように」わかりやすく分析されてる著書でした

    「世間」は日本では「所与的」なもので、問答無用で与えられるもの、逃れられないものであることを、理由とともに述べられているところがとても印象的で、合点できる内容でした

    また、「世間」とは、そういったものであるから、日本にいる限り免れることは難しいので、うまく付き合って行かなければならないこと、そうするにはどう対処すれば良いのか、と言った内容もまとめられています

  • 名著。
    学者的に少々難しく書かれている。若干古さも感じる。
    世間と空気。なるほどと思わされつつ、そうかなあとも思う。
    世間が壊れつつある現代だけど人との繋がりを無くしては生きていけない。少しづづ、緩く、社会に参加する。

  • 2009年に第一刷が発行され、その後も発行され続けて、もう少しで第二〇刷が発行されようとしている。
    内容こそ、当時の時事ネタを挙げながら平易に解説している本書だが、
    発行から15年が過ぎた今でも、いや、今だからこそ、
    信頼できる「生きかたの指南書」として多くの人たちに読まれ続けているだろうことは
    容易に想像できる。

    山本七平『「空気」の研究』、
    阿部謹也『「世間」とは何か』、
    また、阿部さんの仕事を受け継ぎ「世間学」というアプローチをされている佐藤直樹さんの著書
    『「世間」の現象学』
    などを参照しつつ、「世間」の正体をつぶさに観察し、浮き彫りにした一冊。
    曰く、世間のルールがいくつかあり、
    世間のルール1 贈与・互酬の関係、
    世間のルール2 長幼の序、
    世間のルール3 共通の時間意識、
    世間のルール4 差別的で排他的、
    世間のルール5 神秘性、
    の5つを挙げていて、
    必ずしもこの5つだけに限らない、
    としている。

    実際、読み進めていくと、
    「いじめに苦しんでいる中学生に届いて欲しい」
    という著者の眼差しが真っ直ぐに伝わって来る。
    すべての世代の人たちに向けて書かれた一冊
    とも言える、と感じた。

    著者は、さまざまな具体例を挙げながら、
    「空気」とは、「世間」として確立されていない、
    いわば「世間」が流動化したものである、
    ということを紐解いていく。

    また、「世間」と「社会」の違いを示し、
    現代日本人にとっての「社会」や「個人」について、
    “明治十年(一八七七)頃に societyの訳語としてつくられた言葉社会という言葉がつくられた。そして同十七年頃にindividualの訳語として個人という言葉が定着した。それ以前にはわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかったのである。ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。(40ページより)”
    と、そのルーツを紹介し、
    明治維新後の西洋化の過程で半ば強引に輸入された概念であると説明している。
    それ以前の日本に定着していたのは、もっぱら「世間」のほうであったらしい。

    そのため、「個人」がつくる「社会」という感覚は
    いまだに日本には定着せず、
    建前としての「個人」「社会」と、本音としての「世間」
    という、ダブルスタンダード状態で日本の経済も政治も動いてきたことを筆者は解き明かしていく。

    西洋でも、キリスト教が絶対的な影響力を持つまでは「世間」が存在していたことも明かしている。
    人あるいは人々は、放っておけば自然に「世間」をつくり出す。
    それを一神教の名の下に強く禁じたのがキリスト教であり、
    西洋人はキリスト教を絶対視することによって、キリスト教以外のあらゆる概念を相対視できるようになった、と説明する。
    日本では、絶対視できる一神教のような概念はしない代わりに「世間」がその役割を果たしてきた、という著者の指摘は極めて鋭い。

    私自身、これまでにモヤモヤと感じていたことが
    厚紙を剥ぐように一気に氷解した。
    本書の内容は学術論文ではないけれども、
    こうして個人的に納得感が得られることは私個人にとって非常に大きい。

    「古き良き日本」というのも「世間」である、と
    著者は喝破していく。
    生きにくい日本を生き抜く方法として、万能薬は無いとしつつも、
    “ほんの少し「個人」がしっかりした人は、同じことを言うことに意味がないと思って、幻の「空気」がそこにあっても、自分の言いたいことを言います。
    これぐらいの「個人」の強さは、必要だと思っています。それは、その方が快適だからです。(214ページ)”
    と勧めている。

    日本語文化圏の特徴や、
    社会的であることの意味、
    セーフティネットとして「複数の『共同体』にゆるやかに所属すること」の有効性、
    などをわかりやすく説明した上で、

    “たった一つの「共同体」に対して頼っているだけだったり、支えを求めているだけだったりしたら、いくらゆるやかに支えてもらおうと思っても、「共同体」の方からあなたを放り出すでしょう。
    複数の「共同体」とゆるやかな関係を作りながら、あなたもまた、その「共同体」の人たちを支えるという気持ちを持つのです。(250ページ)”
    と、
    ひとつの処方箋を提示している。

  • 空気と世間を棲み分けて考えられるようになって
    なんだか楽になった気がする

  • 言語化すごい

  • 空気を読め
    空気を読もうとして慎重になり、怯え、焦った人は多いと思う。息が詰まる。

    お笑い番組の「空気」
    司会者は、何を求め、何を笑い、何を嫌っているか明確だ。

    空気が混乱するとき
    空気が決まるのは難しい。

    「順番に来るいじめ」と「空気」
    特別な理由もないのにいじめられるのは違うと思う。

    「日常」というテレビ番組
    「空気を読め」と要求することははっきり言って無茶だ。

    人は本体の分からないものに怯える

    インターネットの「世間」による暴力は、実体が見えないために過剰に人々は怯えている。インターネット上で実名や顔写真を晒される苦しみには終わりがない。顔の見える「世間」なら、人の噂も七十五日で、大声での中傷はやがてひそひそ話となり、だんだんと忘れ去られたものであるのにと思う。

  • 日本人にとって、「世間」は、欧米人にとっての「神」…。恥ずかしながら、目からウロコでした。なにをよりどころに生きて行くか。色々なことが書いてあって内容濃いです。
    鴻上さんの本は初めてでしたが、大変真っ当なことを言う頭の良い思いやりのある人と思う。

  • 「ほんの少し強い『個人』」という考え方はいいな、と思った。強い個人でいられるほどの強い支えになるような何もないのに強い個人でいなければ、というのはたしかに無理のある話だと思う。西欧の制度が素晴らしいからとそのまま輸入しても日本では成り立たないよ、というのは、このあたりの考え方や文化の問題もあるのだろうなぁ、と改めて感じた。
    最後の方で複数の共同体/社会への所属の勧めがあったけど、本当にそうだと思う。一つしか居場所がないのは、苦しい。

  • 内容は先達の焼き直しかもしれないけど。秀逸な本。日頃、生活の中で違和感を持ったり疑問を肌で感じる人にはお薦めできる。この前に読んだ『孤独と不安のレッスン』より、僕はこちらのほうが好きだな。

    「空気や世間とはいったい何者なのか?」を説いた著書。
    これが正解とは言い切れないけど、一側面としての要素は大きいと思う。


    少し学術的な面もあるけど、そのバランスとわかりやすさが、なかなかによい。
    日常生活で「実践」できるかどうかは難しいけど、知っているのと、よくわからないのでは大きく違ってくるんじゃないかな。

    鴻上さんは、この著書の中でも絶妙な立ち位置で書いていると思う。
    自分の意見は、「僕は思います。」と表記を定めているのがいい。
    「~である。」「~なのです。」でなく「僕は~と思います。」

    また、読みなおす時がくるかもしれない。

  • 今、自分の同世代の間でかなり多用されている「空気」という言葉

    私自身この言葉が大嫌いで、どうにかこの言葉に打ち勝つ何かがないかと日々考えていた

    この本を読んで、心のつっかえがとれたというか

    結局、みんな怖いんだ

    という感想を持った

    なぜ「空気」という言葉が多用されるかといえば、それに多くの人が執着するからであって誰もなんの興味を示さなければ使われないのである

    そこで、関係性が見えてきたのが「世間」である

    現在の日本の「世間」というのは「空気」同様、固定化された確固たるものが薄れつつある

    何かあった時のセーフティーネットとしての世間が崩れているからこそ

    みんな空気を実感して安心したがる

    でも、それって日本の悪い部分というか

    「個」がないというか

    もちろん自分だって「独り」でいるのは寂しいし、不安にだってなる

    だけど、自立・自律して生きていくのって結局独りを受け入れなくちゃいけないと思う

    逆に独りだけでももちろん生きていけない

    人に支えられながら生きていくのが人間だとも思う

    だからこそ、この本でもいっていた通り

    うまく世間と社会を行き来して

    確固たる「世間」がないのなら

    多くの社会に属して多くの人とちょっとしたコミュニケーションをとることで

    自分の存在を確認していけばいいんだと思う

    この本に出会えてよかった

    ほんの少し強い「個人」というのが、自分の生活の仲でどのような人間のことを指すのか意識して生活していこうと思う

  • 演出家・鴻上尚史が新書を書いたというので気になって読んだ。
    意外と(失礼)面白くてびっくり。
    平たい文章と分かりやすい例で書かれていて、読みやすい。
    しかも、内容もかなりしっかりしてる。

    ・空気は世間が流動化したもの
    最近はよく「空気読め」と言われますが、この「空気」って言うのは、
    最早古いイメージがある「世間」が流動化したもの。
    「世間」であるために必要な要素のうち、いくつかが欠けたものが「空気」。
    私達日本人は、世間から逃れられないんだな、っと思った。
    でもそれは文化であって、悪いことではないのだとも。

    ・「いらっしゃいませ」
    店員さんはお客様に「いらっしゃいませ〜」と言いますが、
    あれはお客様に話しかけているのではない。ただの独り言。
    何故なら日本人は「社会」に話しかける言葉を持たないから。
    アメリカだと、「個人−社会」の関係が成り立っているから、
    店員さんはお客様に「話しかける」ことができると。
    一度アメリカに行ってみたいね。でもなんとなく納得する。

    ・宗教
    アメリカの「個人−社会」の関係が成り立っているのは、
    その背後にキリスト教の影響がある。
    この話はとても興味深い!

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著者プロフィール

鴻上尚史(こうかみ しょうじ)
作家・演出家。愛媛県生まれ。早稲田大学法学部出身。
1981 年に劇団「第三舞台」を結成し、以降、数多くの作・演出を手がける。
これまで紀伊國屋演劇賞、岸田國士戯曲賞、読売文学賞など受賞。舞台公演の他には、エッセイスト、小説家、テレビ番組司会、ラジオ・パーソナリティ、映画監督など幅広く活動。また、俳優育成のためのワークショップや講義も精力的に行うほか、表現、演技、演出などに関する書籍を多数発表している。桐朋学園芸術短期大学名誉教授。 昭和音楽大学客員教授。四国学院大学客員教授。

「2025年 『サヨナラソング 帰ってきた鶴』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鴻上尚史の作品

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