- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062880060
作品紹介・あらすじ
会社、学校、家族、ネット、電車内-どこでも「うんざり」してしまう人へ。「空気」を読まずに息苦しい日本を生き抜く方法。人気の脚本・演出家がこの10年間、ずっと考えてきたことの集大成。
感想・レビュー・書評
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鴻上尚史さんの本はこれが初めてです。
読後、思わずありがとうを言いたくなるような、目を開かされる思いでした。
主題は「世間」と「空気」なのですが、読み進めていくと「世間」と「社会」を対比して述べる内容に展開していきます。
「世間」と「空気」はその場の人間を「長幼の序(=年功序列)」や「共通の時間意識」で縛り上げる「排他的で差別的」な集団のことを指します。平たく言うと、「自分の今と未来に関係してくるであろう人たち」で、会社や学校、近隣住民などの集団を指します。
対して「社会」は「世間」より外側にある集団で、「自分には直接関係がない(と今は思われる)人たち」のことを言います。
日本人は「世間」の人に対しては温情があり、親切で丁寧ですが、一方で「社会」の人に対しては殆ど会話を交わさず、積極的接触をしようとしない、という前提から話は始まります。
今まで違和感を覚えてはいたし、何かがおかしいとは思っていたけれど、どうしてそうなっているのか、何が原因なのか、が今ひとつハッキリしないことをこの本はしっかりとピントを合わせて見せてくれます。
「仲良くもない会社の人との忘年会」や「長年いるだけで全く戦力になっていない役職の人の意見を第一に聞く会社の風潮」、「暗黙のルールを守らないと判断すると、一斉に悪人同然の扱いをする人々」。
こういったことには日本社会における「世間」の意識が関係していたのですね。
「宗教的正しさ」のようなもので物事を「絶対化」する性質にある日本人は、「上司」や「年上の人」を無条件に神聖視しすぎていたのだろうと思います。
そしてそこには(この本では述べられておらず、個人的意見ですが)儒教の名残もあるのでしょう。
この本を読んだ後で改めて考えてみると、現在の若手社員が「時間ぴったりで終業すること」や「飲み会を断ること」は”世間”から”社会”中心の考えにシフトしていく中で、当然の流れだったということに気づきました。
彼らにとって会社は「世間」ではなく、生きていくために仕事をするという場所であって、その考えは限りなく「社会」としての会社。会社を「世間」と捉えている年配の上司たちとは考え方が違っているんですね。
「社会」化が行き着く先が「世間」の全盛期よりも個々人にとって幸せかどうかは人にもよるし、分かりませんが「世間」が機能していた時代はもうとっくに過ぎてしまっていて、今やカタチだけ残っていて機能していない「わずらわしいもの」となってしまっている。でも、そのことに気づいていない(もしくは「世間」が大事だと今も思っている)人たちは「世間」をどうにか存続させようとしている。
これは大変な問題で、そこから本書に述べられているような、さまざまな問題が起こっているのだと思うと、「世間」が必要に迫られていたからとはいえ、長年人々を縛り付けていた弊害について改めて考えなければと感じました。
日本と欧米の比較もされていて、何故日本人に血液型や生まれ、占いなどに拘る人が多いのかも理解できました。
アメリカはアメリカで大変なんですね……。
社会的に不安なとき、「世間」が勢力を盛り返すというのは本当のことで、今、コロナ禍にあって人々が「●●警察」などに傾いてしまっているのを見ると、これって昔の「世間」が復活したみたいだな、と考えていました。その集団にとっての「善悪」が「絶対化」されることで、引っ込みがつかなくなり、悪を打倒するまで止まれない。新たな悲劇が起こらないことを願うばかりです。
最後の方で述べられていた「複数の共同体を持つ」というのはとても大切なことで、これから私もその点を意識していきたいなと思った事柄でした。
かつて、女性は婚姻関係にある男性に悩みの全てを解決してもらおうとしている時期があったように私には思えます。「社会」化した日本では、悩みを相談する相手を複数もち、すべての困りごとをパートナーに託すことなく生活していけるとしたら、パートナーにオールラウンダーな人格や能力を求めなくても良いと思うことが出来る。
絶対的な相手を探すようなことも必要なくなって、自分にとって大切、という一点だけで相手を見つめられるようになるのではないかと思いました。
人生の時々で読み返したくなる本でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
一度でも異国のコミュニティに所属したことがある人は読んでみるとおもしろいかも。作者は、いじめに苦しんでいる人に読んで欲しい、と書いていた。今苦しんでいる人がいたら、この本に届いて欲しいと思った。
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以前ここでも感想を書いた阿部謹也氏の『「世間」とは何か』をはじめとした、彼の「世間」にまつわる著作を非常に分かりやすく整理した一冊だ。
著者の鴻上氏は、自分に関係ある世界のことを「世間」、自分に関係のない世界のことを「社会」と位置付け、阿部氏の著作を引用しながら、「世間」の主なルールとして「贈与・互酬の関係」「長幼の序」「共通の時間意識」「差別的で排他的」「神秘性」があると述べ、これらのうちいくつかだけが機能している(鴻上氏は「流動化」と表現している)状態が「空気」だという。
さらに山本七平氏の『「空気」の研究』を引用する形で、「空気」の持つ絶対的な力のありようについて論じ、では我々はこの見えない「空気」にどのように対抗すればいいのかをいくつかの例を挙げて考える、というのが本書の大まかな構成である。
実に面白い。読んでいて腑に落ちる部分がいっぱいあったし、一神教における物事の捉え方についても勉強になった。
一神教については、理屈ではなく「空気」によって物事が決まる日本人はディベートが苦手であるという例を出したうえで、以下のように述べている。
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彼らは、神のこと以外は、全て、相対化の視点で語ることができるのです。
神だけが絶対である、すなわち、「人が口にする命題はすべて、対立概念で把握できるし、把握しなければならない」ということが一神教に生きる人たちの命題になるのです。
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乱暴にまとめると、日本における「世間」は一神教における「神」に相当するといってもいいのかもしれない。彼らにとって最終的な心のよりどころは神なのだから。
では一神教ではない、八百万の神(やおよろずのかみ)がいる日本で、一神教をベースにした西洋の個人主義を受け入れられるのか?キツいんじゃね?という点は重要な指摘だと思う。
他にも、グローバル化の進展によって、日本古来からの「世間」は徐々に壊れ始めているが、一方でインターネットによって生まれた新たな「世間」が力を付けつつあるとするくだりも興味深い。
ネトウヨを例に挙げ、彼らの「世間」をこう分析してみせる。
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常に「反日」的な書き込みに反応し、伝統的な「世間」を否定する人たちを攻撃することによってのみ、
「世間原理主義者」は自分が日本の伝統的な「世間」に所属しているという“幻の”満足を得ることができるのです。
そして、そうすることで、とりあえずの安心と連帯、安らぎを得るのです。
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私はこの文章の後で鴻上氏が述べている「古き良き日本」は単なるイメージに過ぎない、というのはちょっと違うと考えるけど、ネトウヨに対してある種の哀れみをも感じさせるこの考察は、確かに一面の真実としてあると思う。
彼らの書き込みを見ていると、体系立てた理屈で相手を説得するのではなく、同じネトウヨからの「いいね」を多く獲得することを目的としたような紋切型で言いっぱなしの文章に出会うことが多々あるからだ。
他の「世間」を攻撃することでしか心の安定を保てないなんて可哀想な人たちだなと思うけど、一方でどの「世間」にも所属しない「個人」として生きられる日本人なんてほとんどいないのではないだろうか。人間は強くないからね。
結局、「社会」でも「世間」でもいいけど、自分に合ったある種の「束縛」を受け入れるしかないのかなと思う。
そういったところに昨今話題の怪しげなカルト団体とかが入り込む余地があるのかもしれないけど、鴻上氏は数多くの共同体にゆるやかに所属することで、「世間」を相対化し、前述したような排他的な「世間」に100%取り込まれるリスクを減らすことができるという考えのようだ。
おおむね同感だが、さっきはネトウヨを皮肉っておいてアレなんだけど、私は「社会」のような「横軸」だけではなく、歴史や伝統といった「縦軸」(ここには「世間」は含めない)も個人を安定させるためには必要になるのではないかと思っている。
このあたりはまた別の機会に考えてみたい。 -
「空気」を読んでも従わないを読んで、その大人版とも言われる本書を読んでみることにした。
改めて基本となる「世間」の考え方を理解。「世間」には5つのルールがあり、その中の何かが崩れたものが「空気」と呼ばれるものになる。
「世間」の方がより強固なものであり自分の力ではなかなか崩せないものではあるが、より正体がわからない、不安定という意味では「空気」の方が厄介なものという感じもした。
また、「空気」を読んでも…の中では、あまり触れられなかった話題として「宗教」という視点での考察がされていた。これが非常に興味深いものであった。
日本人にとっては、基本「世間」が絶対的なもの、唯一信じられるものであるのに対して、西洋ではこの「世間」にあたるものが神、つまり宗教にあたるのではないか。
人は結局何かすがるものがなくては生きていけない。日本人はそれが「世間」「空気」であるから、その呪縛からなかなか逃れられない。西洋では「世間」はない。神のみぞ信じるものであるという意識があるから、日本人のように周囲の人を気にすることはない。
これまで神、宗教というものが自分にとっては得体の知れないものに正直感じていたが、この本を読んでその存在の意味が少しだけだがわかった気がした。
最後に、「空気」を読んでも…にもあったが、改めて一つの「世間」、共同体に属することの危険性、リスクを感じた。ゆるやかに、複数の共同体に所属する。何だかんだでほぼ仕事でのつながりしかない現在の自分を反省し、何かしらの行動に移していきたい。 -
空気を読むと言う言葉に無駄に敏感になっていました。この本を読むことによって人と人との間にある空気とは何か、世間とは何かこれが幽霊のようなものではなく具体的なものとして理解することができます。何よりも衝撃的だったのは欧米にも12世紀までこの世間というのが存在していたということです。
世間や空気の正体を理解することで、それへの対処法が見えてきます。その方法についても書かれています。 -
「空気を読む」の「空気」
「世間知らず」の「世間」
これらの正体とは?なんで息苦しくさせてるの?そのあたりについて、「中学生でも理解できるように」わかりやすく分析されてる著書でした
「世間」は日本では「所与的」なもので、問答無用で与えられるもの、逃れられないものであることを、理由とともに述べられているところがとても印象的で、合点できる内容でした
また、「世間」とは、そういったものであるから、日本にいる限り免れることは難しいので、うまく付き合って行かなければならないこと、そうするにはどう対処すれば良いのか、と言った内容もまとめられています -
言語化すごい
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( ..)φメモメモ
日本のスーパーやコンビニでは、お客さんも店員も、まず視線を交わしません。「いらっしゃいませ」と繰り返すコンビニの店員さん。
—— 残念ながら、あれは、お客さんに話しかける言葉ではありません。マニュアルに書かれているから、とりあえず声に出している、にこやかな「独り言」なのです。 -
空気を読め
空気を読もうとして慎重になり、怯え、焦った人は多いと思う。息が詰まる。
お笑い番組の「空気」
司会者は、何を求め、何を笑い、何を嫌っているか明確だ。
空気が混乱するとき
空気が決まるのは難しい。
「順番に来るいじめ」と「空気」
特別な理由もないのにいじめられるのは違うと思う。
「日常」というテレビ番組
「空気を読め」と要求することははっきり言って無茶だ。
人は本体の分からないものに怯える
インターネットの「世間」による暴力は、実体が見えないために過剰に人々は怯えている。インターネット上で実名や顔写真を晒される苦しみには終わりがない。顔の見える「世間」なら、人の噂も七十五日で、大声での中傷はやがてひそひそ話となり、だんだんと忘れ去られたものであるのにと思う。 -
日本人にとって、「世間」は、欧米人にとっての「神」…。恥ずかしながら、目からウロコでした。なにをよりどころに生きて行くか。色々なことが書いてあって内容濃いです。
鴻上さんの本は初めてでしたが、大変真っ当なことを言う頭の良い思いやりのある人と思う。