ニッポンの思想 (講談社現代新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062880091

感想・レビュー・書評

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  • 現代日本の思想論、80年代、90年代、00年代に特化した、その時代のエポックメーカーを中心に流れを”著者”が整理した本。古来からの思想論の歴史や解説本ではありません。

    その時代の背景や思想を語る時、簡単に分かるようでは思想論ではない、という変な逆説プライドが満載なので、各論についてはほとんど理解することができなかったが、大きな概要と流れについては何故か理解できる本だった。

  • ニューアカって?というレベルなのでついていけない、頭に入ってこない。それでもなんとなくわかったような気に。80年代、浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人。90年代、福田和也、大塚英志、宮台真司。ゼロ年代、東浩紀。だけ覚えた。スキゾキッズ。

  • 自分たち以外の者は思考していないと宣言するかのような「思想家」という単語。
    お互いにきちんと相互理解しているとは思われない、上滑りした、科学から剽窃した造語の羅列。
    少なくともこの辺りの人たちが記す「思想」ってものは、自慰行為なんじゃないかと思ってしまう。

  • ズバリ、著者のスタンスがよくわからない&著者がやりたいことが本編でできてないという意味で「失敗作」だった、というのが読後の率直な感想。

    80年代ニューアカ以降の「批評・評論」系の流れを追う、各批評家の思想の内実を詳しく検討するというよりは、その思想の「エッセンス」「基本的な捉え方」を紹介していく「ニッポン批評史」として決して意味がないとは思わないんだけど、冒頭の著者のスタンスに疑問を覚えるんだよね。

    著者によれば、80年代以降の批評の特徴は、思想市場において、各批評家=プレイヤーが、批評で言っていること=内容よりも、それがどう受け取られるか、どのように言うかというパフォーマンスが重要になっている点、それ以前の世代と次の世代とで、ゆきつもどりつ、シーソーしている、という点だという。が、本書を読んでも「つーか、シーソーしてる?」「パフォーマンスが大事って、著者がそう読んだだけじゃないの?」って思わざるをえない。冒頭の「ニッポンの思想の特徴づけ」を、本編で展開されている思想史が実証してないんだよ。

    たとえば、著者は90年代の代表的な「ニッポンの思想家」として、大塚英志、宮台真司、福田和也を取り上げる。それ自体は別にいいのだけど、著者も言うように、大塚は基本的な主張がまったくブレてない批評家だ。言っていることも、特に「パフォーマティブ」ではない。つまり、「どう言ったか」が「何を言ったか」より重要な批評家ではない。

    それに、前世代に対し否定的な意見を言うだけなら、それはどこの国のどのような歴史にもよく見られることだ。プログレッシブロックの後にパンクが現われ・・・みたいな歴史観を「シーソー」と呼ぶのは勝手だけど、前世代を否定する=「シーソー」という意味なら、その内実はほとんどないんじゃないか。まあ、言葉変えてるけど、「弁証法的」くらいの意味ですからね。そんな単純な視点で「歴史」を綴ることに何か意味があるのかなあ。ないと思う。

    通史的に同じ問題を論じているのだとするために、「クラインの壷」の比喩
    や「内部/外部」といった言葉を持ち出してくるものの、その言葉は途中で定義も何もないグダグダな意味で使われるようになる。その結果、「ほら、ゼロ年代の、ここでもクラインの壷と同じ話が出てくるんですよ」なんて言われても「それくらいに言葉の意味を水でジャボジャボ薄めたんだから、そりゃそうだろう」ってなもの。

    宮台真司については『権力の予期理論』と、他にいくつかのインタビューだけで、その「エッセンス」を紹介したことになっていたり、正直内容紹介でえられるところも少ないし、話を作るために無視してしまっているところも多すぎる。たとえば、大塚、宮台、福田の天皇制についての考えの相違をハッキリさせる上で、大塚は「天皇制に賛成」書いてあるけど、著者が引用する『戦後民主主義のリハビリテーション』内で、「前言撤回。やっぱり反対する」と大塚は書いている。だとすると、福田、宮台、大塚ともに天皇制を「否定」してることになる。その点で区別がないと述べるべきじゃないか。

    読んでいて「なぜ主張の内容よりもパフォーマンスが重要になったのか」、「そもそも重要になっているのか」、「そのことの是非を著者がどう考えているのか」、まったく掴めない。つーか、「パフォーマンス」の側面に注目して歴史をまとめれば、「パフォーマンスが中心」の記述になるのは、当たり前なんだけどな・・・。

    ソーカル事件に触れつつも、ゲーデルの不完全性定理の意味不明な解説を踏襲したり、批評/評論の良いとこ、悪いとこと何も距離が取れていない。一読者がどのように経験したのか、どのように捉えていたのかという意味があることは否定しないし、その意味では「半分批評界にくっついちゃった歴史観」自体をよく現してるとは思うけど。

  • あんま良さが分からず。ニューアカをくぐり抜けてきた世代の方々には受けが良さそう。

著者プロフィール

佐々木 敦(ささき・あつし):1964年生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化の諸領域で活動を展開。著書に『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、『ゴダール原論』(新潮社)、『ニッポンの文学』(講談社)、小説『半睡』(書肆侃侃房)ほか多数。


「2024年 『「教授」と呼ばれた男』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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