ニッポンの思想 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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感想 : 83
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062880091

作品紹介・あらすじ

80年代、、浅田彰・中沢新一が登場した衝撃、柄谷行人・蓮實重彦の思想、90年代における福田和也・大塚英志・宮台真司の存在感、ゼロ年代に大きな影響を与えた東浩紀。思想と批評がこの一冊でわかる。

感想・レビュー・書評

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  • 80年代以降の思想変遷がわかる。
    パフォーマティブと喝破する視線に拍手。

  • 哲学書の解説書は沢山ありますが、こういう哲学を含めた文芸の解説書は珍しく、勉強になりました。

    昔中沢新一の本を読んだが全くわからず投げ出した過去があったのですが、本著の中沢新一解説パートを読みやはり分からず、再挑戦することを諦めました。

  • 《そもそも「ニッポンの思想」は「思想」の「内容」それ自体よりも、もっぱらその「思想」の「振る舞い」によって成立してきたものだ、と考えているからです。「振る舞い」を英語にすると「パフォーマンス」です。つまり、その「思想」が何を語っているのか、ということ以上に、どのように語っているのか、いや、それをそのように語ることによって何をどうし(ようとし)ているのか、ということのほうがずっと重要だと思うのです。》(p.18)

    《「どう考えてもおかしい」と、心中では思っていたとしても、それでも彼らは「ニューアカ」というダンスを踊っていきました。そのダンスは、明るく軽やかでカッコ良くて、何よりとても楽しそうで、傍目からはそんな疑念やアイロニーが隠されているとは、露ほども思えないほどでした。そしてこの「ダンス」が、はっきりとした終わりを告げられるためには、「昭和」が終わって、「八〇年代」が終わるのを待たなくてはならなかったのです。》(p.160)

    《つまり「おたく」には「公共性」との接続が欠けている。それはある意味で「おたく」の定義そのものでもあるような気もしますが、それでも大塚は、いやむしろ「おたく」こそが「社会」に対して、ある種の「責任」を負わなくてはならないのだと言うのです。それは何よりも、彼が「おたく」という存在を、今日の「社会」がこのように在ることによって、はじめて「おたく」でありえている、「おたく」として生きていけるのだと考えているからだと思います。だからこそ、「おたく」が「おたく」で在り続けるためには、「社会」との、「公共性」との、ポジティブな関係の切り結びを模索してゆかなければならないのです。》(p.203)

    《この「宿命」とは「日本という場所に生まれた」ということです。筆者などは、日本であれ何処であれ、生まれたのがどこであろうと、嫌なら別の場所に移動して生きていくことは可能だし、また否応なしにそうせざるを得ない現実を生きている人々だって世界には沢山居ると思うのですが、しかし「九〇年代の思想」はけっしてそうは考えない。彼らは「日本という場所に生まれた」からには「日本で生きること」そして「日本人として在ること」は、まぎれもないデフォルト=「宿命」だと考えています。
     これは実質的に、もはや(はじめから?)「日本」に「外部」はない、と言っているのと同じです。》(p.253)

    《「九〇年代」末から「ゼロ年代」にかけて、ニッポンの経済は、外敵にも内的にも、多少の浮き沈みはあったとはいえ、ほぼ総じて不調でした。そのなかで、むしろだからこそ、とにかく売れたほうが勝ちであるという認識が共有されていくことになった。それは相対的にもそうで、たとえ僅かでも、売れないよりかは売れたほうがより正しい、というか、「正しさ」をはかる基準が「売れるか売れないか」にしか求められなくなってしまった、ということなのだと思います。》(p.263)

    《ここで浅田彰が言っている、「まじめに書いて、後は海に流すしかない」という「投瓶通信」理論に、おそらく東浩紀は根本的に納得がいっていません。「投瓶通信」は「パフォーマンス」の放棄です。しかしそれでも事後的に何らかのパフォーマティヴな効果は必ず生じる、それだけのことではないか、と浅田は断ずるわけですが、それでは「消えて」しまうじゃないかと東は言うのです。》(p.301)

  • 「ゼロ年代の思想」の風景◆「ニューアカ」とは何だったのか?◆浅田彰と中沢新一-「差異化」の果て◆蓮見重彦と柄谷行人-「テクスト」と「作品」◆「ポストモダン」という「問題」◆「九〇年代」の三人-福田和也、大塚英志、宮台真司◆ニッポンという「悪い場所」◆東浩紀の登場◆「動物化」する「ゼロ年代」

  • ニッポンの文学と打って変わって(というか出版順はこっちが先だけど)、内容が全然頭に入って来ない… 思想に関する予備知識が無さ過ぎて、理解が追い付かないです。これすら入門編となると、じゃあ一体どこから入ったら良いの…?って途方に暮れるけど、とりあえず一旦積ん読きます。

  • 思索

  • 元々、佐々木氏の批評や活動、特にWeatherレーベルのファンだったので、本書を見かけたときに即購入だった。
    近代哲学が辿ってきた歴史が、非常に分かりやすくまとめられていたと思う。
    これが、「批評家」の目線なのかと改めて敬服した。

    それぞれの「点」を詳細に眺めつつも、そこだけに囚われるのではなく、対象との間隔をじりじりと広げながら、対象を取り巻いている「関係」にも着目する。
    それ単独で成立する思想というのは、基本的には有り得ない。
    そこに至る過程や、その背景を踏まえていなければ、その思想が何を語っているのかを理解することすら出来ない場合も多い。
    しかし一方で、その思想へ影響を及ぼしている部分を切り離して、思想そのものの特異性を見極める必要もある。
    この両面からのアプローチをバランスよく混ぜ合わせることが、その思想の意義を理解するために最も必要になることだと思う。
    本書は、そのバランスの取り方が非常に巧く、専門分野の深淵を華麗に躱しながら、そのエッセンスを上手に抽出して流れを追っている。
    それぞれの時代に発された思想から、「その時代」の要点を体現している思想家を取り上げることで、話の筋が拡散してしまう事態を上手に防いでいた。

    近代思想は、なんとなく薄っぺらい感じがしていたのだけど、本書を読んで、その認識は改められたように感じる。
    やはり、思想というのは繋がっていて、きちんとした理由に基づいて進んでいるのだなと再認識できた。
    それぞれの共通項を探りつつ、それぞれが打ち出した「新しさ」をクローズアップしていくことで、近代思想の辿ってきた道が明確にされている。
    これが「批評家」の視点というものなのか、と感心した。

    あとがきにて発表されている『未知との遭遇』の発売が楽しみ。
    どのような「思想」を見せてくれるんだろうな。

  • ニッポンの思想 (講談社現代新書)

  • 佐々木敦の本をまとめて読んでみることにした第一弾。

    彼は音楽批評・文芸批評・演劇批評をする人、というイメージがあったため、「ニッポンの思想」というタイトルに思わずみじろぎしてしまった。
    しかし、ふと考えれば東浩紀の批評学校にも講師として参加しているわけだし、そもそも批評は文芸誌がルーツであるらしいし、親しいのも当たり前なのですね。

    ニューアカ世代の親を持つ自分としては、読んだことは無いけど本棚にある浅田彰から、宮台真司、東浩紀まで一体日本の批評がどのような流れ、対立構造等で成立してきたのか、読みやすい文章で書かれているので面白く読んだ。勿論、思想の解説本ではないので、いちいちデてくる用語の説明は無いし、す、スキゾキッズ‥?となることも多々あった。
    しかし、東浩紀よりも更に下の世代からすれば、大御所の積み上げた思想の上にまた東浩紀の思想が、その若手の思想がと積み上げられており、インターネットのおかげで纏めて読むのが逆に難しくなった今、ざっと基礎を知るには適した本であると思う。

  • 現代日本の思想論、80年代、90年代、00年代に特化した、その時代のエポックメーカーを中心に流れを”著者”が整理した本。古来からの思想論の歴史や解説本ではありません。

    その時代の背景や思想を語る時、簡単に分かるようでは思想論ではない、という変な逆説プライドが満載なので、各論についてはほとんど理解することができなかったが、大きな概要と流れについては何故か理解できる本だった。

  • プロローグの6ページ目に突如登場する「東浩紀もの」(厳密に言えば5ページ目のゼロアカが東浩紀を暗示しているが)から、 ニューアカ、蓮實と柄谷、福田/大塚/宮台、途中に村上隆や大塚英志を挟みながらその全てがゼロ年代一人勝ちの東浩紀に繋がるという佐々木敦の東浩紀好き好き本。「東浩紀もの」の言説を追うにはよいし、視点設定はとても面白いけど、日本の思想史なら仲正昌樹の方が良い。
    終章、「東浩紀はメタのふりをしたネタのふりをしたベタ」という指摘、いい歳したオタクを拗らせたオッさんがマジになって社会を語るナイーヴな振る舞いは、『存在論的、郵便的』で指摘したパフォーマンスに自然と接続される。

  • ニューアカって?というレベルなのでついていけない、頭に入ってこない。それでもなんとなくわかったような気に。80年代、浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人。90年代、福田和也、大塚英志、宮台真司。ゼロ年代、東浩紀。だけ覚えた。スキゾキッズ。

  • 私が投稿した論文が返却されてきていろんな要求があるなか,それの対応としてふと思いついて購入した本。著者の佐々木 敦氏は音楽批評家で以前から名前は知っていたし,講談社現代新書として出版された本書のことも知っていた。
    そんなことで,初めて佐々木 敦氏の著作を読んだわけだが,期待した以上の得るものがあった読書だった。

    プロローグ 「ゼロ年代の思想」の風景
    第一章 「ニューアカ」とは何だったのか?
    第二章 浅田彰と中沢新一――「差異化」の果て
    第三章 蓮實重彦と柄谷行人――「テクスト」と「作品」
    第四章 「ポストモダン」という「問題」
    第五章 「九○年代」の三人――福田和也,大塚英志,宮台真司
    第六章 ニッポンという「悪い場所」
    第七章 東浩紀の登場
    第八章 「動物化」する「ゼロ年代」

    講談社現代新書の帯は表紙の7割ほどを占める大きなものだが,その真ん中に大きく「この一冊で,思想と批評がわかる入門書」と書いてある。それはある意味正しくてある意味では間違っている。著者は本書で自分は思想の当事者ではなく,あくまで読者にすぎないというし,本書で検討されている作品群についても,場合によっては自分にはこれ以上理解できないと正直に書いている。本書は思想そのものを論じるものではなく,あくまでもそういう思想書が社会のなかでどのように生まれ,また受容されていったのかという,特定の時代に生まれた作品を出来事として捉えている。
    私は正直,本書で取り上げられる作品をほとんど読んでいない。地理学者のなかでは思想系にはまっている部類に入る私だが,翻訳ではあるがなるべく原著を読むようにしている。浅田彰と中沢新一は雑誌『現代思想』に掲載された論文を1,2本読んだだけ,蓮實重彦と柄谷行人に至っては全く読んだことはない。九○年代の重要人物として挙げられている福田和也は名前すら知らなかったし,宮台真司も翻訳のスペンサー=ブラウン『形式の法則』と雑誌論文をいくつか。むしろ,『形式の法則』を共訳している大澤真幸はけっこう読んだ。クリプキやジジェクについては彼の影響で読み始めたといってよい。本書で出てくる主要な本として読んだことがあるのは東浩紀『存在論的,郵便的』のみだ。
    私は本書を通して,本書で出てくる思想家の思想を知ることを目的としていないし,さらに進んで本書に登場する作品を読む気もない。知りたかったのは,彼らの作品が出版界を通して社会でどのような役割を果たし,どのように受け止められてきたのか,ということである。もちろん,それをきちんと調べるのは大変な作業だが,本書ではそれを可能な限り明らかにしている。
    浅田彰の『構造の力』が本人が驚くほど売れ,出版界がそれらに飛びついて「ニューアカデミズム」という流行をつくり出したこと。ニュー「アカデミズム」とは名付けられたが,学術界ではむしろ冷ややかな目でみられたこと(浅田彰と中沢新一の大学就職事情にまで言及している)。表面上はお互いが批判し合っているけど,内実はそんなに変わらないこと。そして,これは私の印象にすぎなかったが,当初は積極的にフランス等の思想を取り込むことで自説を組み立てていたように,外向きの力が働いていたが,それが徐々に内向きの力を持つようになり,日本国内で充足する思想になっていくということ。そんなことを明らかにしています。
    ただやっぱり気になるのは,あくまでも読者の視点で,冷めた目で本書が書かれているとはいえ,そういうものを読んでこなかった私とは違って,著者は好んで読んできたとう違いがある。そのせいか,あるいは新書であるが故の分かりやすさを重視したためか,八〇年代から始まって,九〇年代,そしてゼロ年代と,そういうように時代区分を明確に論じるのは,まさに内向きになったゼロ年代の研究者と同じやり方である。時折厳しい論調で書いてはいるが,あくまで批評であって,批判ではない。
    まあ,それはともかく佐々木氏の本業の著書も読まなくてはと思った次第。

  •  80年代のニューアカから現在までの日本の思想の流れを追う。

     思想についてまとめられたこの本はやはり半分も分からない。ただ、こういう思想であるというだけでなく、当時にその中にいたからこそ分かる空気感がなるべく伝わるように書いてあるように思えた。

     何かの度に読み返したい一冊。

  • 日本の哲学家、思想家について軽くさらうことができる、読みやすくまとまっている入門書。各思想家の主張や偏り具合が上手く要約されている。この本で掲載されていない思想家もいるだろうし、そもそも思想家の選び方自体に筆者の主観が含まれておりはするものの、現代思想の初心者にとって読む価値はある。

  • 141115 中央図書館
    1980年代から2000年代までの日本の思潮で活躍した人々の系譜を、リアルタイムで伴走した著者が解説したもの。
    80年代は浅田彰の『構造と力』、中沢新一の『チベットのモーツアルト』であった。彼らはなによりも従来型のアカデミズムからはみ出して、流行りのドゥルーズ=ガタリあたりの要約、敷衍をやったわけだが、マスコミにもてはやされ、名前だけが売れてしまった。この流れで、少し年上の蓮實や柄谷も世に浮かび上がり、マス向けの文を書きまくることになる。
    90年代は、大塚や宮台の、青少年論が社会学の手法でよく読まれ、ゼロ年代になると東浩紀に収斂する。
    今、振り返ると、浅田や中沢は、現在のネット社会を見通していたようにも見えるが、それはまあ誰でも言えたことであって、極端に称揚するようなことでもないだろう。彼らのよくできたカタログ哲学は、読み捨てられ後世には残らない運命だろうか。

  • 【速読】なんとなく現代思想界隈の雰囲気を受け入れられずにいるのは、本書序盤にあるようにそれらがパフォーマティブであり市場を無視できず、かつサブカルと密接な関係にあるためのようです、という愚痴っぽいことはさておき、そうした難解な80年代以降の思想についてキーワードを最小限に噛み砕いて書いてくれていると思います。以前適当に選んだ蓮實さんの本が意味不明に感じたのは、時代の請求というか、なるほどと納得しました。ぼくはこうした想の本編を読まずともこのくらいの理解でちょうどよさげです。許してん。

  • 1980年代からゼロ年代までの、日本の現代思想を分かりやすく整理した本です。

    「ニュー・アカデミズム」と呼ばれた、浅田彰と中沢新一の活躍から説き起こし、理論的な補強をおこなった蓮實重彦と柄谷行人、90年代をリードした福田和也、大塚英志、宮台真司、そしてゼロ年代に「一人勝ち」を収めた東浩紀の仕事を総覧しています。

    現代思想の担い手たちを、「思想市場」におけるパフォーマティヴな振舞いという面から、次々と主役が交代する一幕の劇のように描き出しており、たいへん分かりやすいのですが、同時にそうした現代思想という「場」に対するある程度の批評性も担保されているように思います。

    著者は、思想と呼ばれる営みには世界を変革しようとするものと、世界を記述しようとするものがあると言い、初発の動機としては前者であったはずのものが、「現代思想」という場におけるパフォーマンスがくり返される中で、いつのまにか後者へとすり替わってしまったことを、「ニューアカの悲喜劇」と呼んでいます。そして、椹木野衣が「悪い場所」と名づけたような閉域として、あるいは福田和也が「虚妄としての日本」と呼んでアイロニカルに肯定して見せたような場所として、「ニッポンの思想」を理解し、やがてそれが東浩紀のデータベース消費論と呼応するような、徹底的にベタな「思想市場」というゲームの上での戯れに帰結したことを論じています。

  • 「ニューアカ」から東浩紀の登場に至るまでをたどった解説本。ただ、思想史を淡々と語るのではなく、著者の意見もその都度差し挟まれるのがよかった。
    「コンスタティヴ」と「パフォーマティヴ」という概念を軸に、すっきりと整理されている。
    浅田彰はその明晰な頭脳に隙のないニヒリストだとすれば、東浩紀は、同じく明晰な頭脳を持ちながら、オタクを公言して憚らぬアクティヴィスト。
    本書を読むと、いかに東浩紀が小説を書くに至ったかがよくわかるし、浅田彰よりも彼のほうに賭け金を託したいという気にもなった。現実を明確に理解できたとしても、そのぶん絶望感が増す一方だから。

  • 211009

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著者プロフィール

佐々木 敦(ささき・あつし):1964年生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化の諸領域で活動を展開。著書に『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、『ゴダール原論』(新潮社)、『ニッポンの文学』(講談社)、小説『半睡』(書肆侃侃房)ほか多数。


「2024年 『「教授」と呼ばれた男』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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