- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062880435
作品紹介・あらすじ
いま、大学でいかに学ぶのか。大学全入時代だからこそ改めて問う体験的エッセイ。
感想・レビュー・書評
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大塚英志の本は昔よく読んでいた。最近はぽつぽつと気になるものだけ読んでる。
今は神戸の大学で漫画を教えているらしい。
彼がこれまで考えてきたことややってきたことを
試行錯誤しながら若い学生に教え、
学生は知識を学び頭を動かし手を動かし作品を作り上げる中で
それぞれが自分のスパンでぐんぐんと成長していく。
「合作」を作る作業の中で、自分の位置をシビアに感じながら
自分の役割を探り懸命にまっとうする姿は感動モノだ。
勉強ってこういうことだと思うし、
教えるってこういうことだと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大学教員になるのに、教員免許はいらない。なぜかと言えば、教員は教えるプロではないが、学生の君たちはすでに学ぶプロなのだから。そういうことを、1年生によく話す。
大学教員は、体系的に教え方を学んでいない。だから、自分の授業をひねりだす時も、カリキュラムを考えるときも、自分の学びの経験を参考にすることが多いと思う。師匠の影響も強く受けるし、社会人になってからの経験を援用する人も多い。
また、大学関係者であるなしに関わらず、最近の大学(改革)について語る言説の多くも、そのような自分の学びの経験をベースにしていることが多いと感じる。
結局、それらの大学論は、客観性のない個人的経験である。
一方で、そのような傾向を憂い、個人的経験に基づかない客観的な「そもそもの大学論」をすべきとの主張もある。
さて。この本は、大塚氏自身の学びの経験をベースにした学びのプロセスが語られている。また、自分の大学/学科の学びを説明しているともとれる。学生集めのための本ではないか、といぶかしく思う部分もある。
なぜ、大塚英志ともあろう人が、このようなものを著してしまったのだろう。
大塚自身が、大学という場で、教えたり学んだりする学生と関わりのなかで、ちょっとばかりハイになっているため、という可能性もあるが、それは巻末で「錯覚」と自分で書いているので、それは却下しよう。
おそらく、なんと言われようとも、大塚自身が、自己の学びのプロセスをベースとすることが、出発点として重要と考えたからだろう。
そもそもの大学論を議論しようとする者たちからの批判にさらされようとも。
おそらく、自己の学びを出発点にすることが、教える側の能力を最大限に引き出すことができる。(なにしろ、教え方を学んでいないんだから。)
この本は「大塚英志の大学論」っていう本なんだ、きっと。そして、たぶん、この主張はアドミッションポリシーだ。アドミッションポリシーは、教える側だけでなく、教わる側にもよいメッセージとして伝わるだろう(と文科省もいっている)。だから、これから大塚氏の元で学ぼうとする者は読んでおくべき。(読まない方が、大学はおもしろいと思うけど。)
大塚氏のこの思いと情熱(そしてそれを維持できるのか、どう変化していくのか)たのしみ。 -
いわゆる大学論ではない。読みものとして楽しめた。こういうのもせっせと読んでいきたい。
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大学での学生との日々や学生たちを美しく書きすぎているような気がするのは、ひがみか?
ちょっと変わった学科だからこの本のようなことになるのか、
他の大学でこういう盛り上がりがないところは教える側がダメなのか?
いずれにせよ、教える側として時間や労力を割いているのはすばらしい。
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<閲覧スタッフより>
大学教員が学びのおもしろさを語った本、学生がゼミや授業で学んだ成果をまとめた本を集めました。大学での学びがよく分からない方、さまざまな学びに興味のある方、ぜひご覧ください!
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所在記号:新書||377.1||オエ
資料番号:10196816
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※『大学で学ぶとは』にも使用 -
マンガの大学で教えることを通して学ぶ。
マンガを支える思考と方法(技術では内)の論理を学生が見つけ身につける環境として機能する。 -
よかった.
筆者の体験を踏まえて,大学4年間での学びをこのようにしたという話が書かれている.
話が行ったり来たりして,ついていけないところもあるし,
うんちくが地の文に書かれていて,
アニメーションや漫画のことを知らないとすっと読めないかもしれないけれど,
本質はそこではなくて,
大学の教育についてどのように考えて実践したかということ.
学ぶことについて悩んでいたこともあり,
今の私には良い書籍だと感じた. -
神戸芸術工科大学でマンガの授業をおこなっている著者が、大学教員の立場からどのようにマンガに関わったのかを振り返り、同時に著者が民俗学を学んだ千葉徳爾にまつわるエピソードを紹介しながら、「近代」という時代における「教育」の行き着く先についての考察を展開している本です。
雑多なエピソードがちりばめられているために、ややまとまりの悪さを感じますが、そのような仕方でしか語られないような「教育」がある、というのが、著者の立場なのかもしれないという気がします。例えば著者は、学生時代に民俗調査の実践に放り込まれることで「人に会う」という社会的な振る舞いを身につけたことを語り、それは「現代思想」でしばしば「他者に対して開かれる」と述べられていることを、地を這うようにして身につけることにほかならなかったと述べています。そして、著者が大学で学生たちに教えている内容も、アミカケの仕方のような具体的なテクニックでもなければ、現代思想を駆使してマンガ批評をする作法でもなく、現実の歴史の中でマンガがたどってきた道筋を、まさに身をもって知ることだと言ってよいと思います。
そのような著者の立場から離れてややうわついた言葉を使えば、「近代」を生きる個人が、まさに「近代」の中に「棲み込む」ための作法を、本書を通じて学ぶことができると言うことができるのではないかと思います。 -
マンガという特殊な分野ではあるが、他の一般大学教員としても考えさせられる点は多い。
著者の教員という仕事への思い入れが感じられる。
たぶん多くの大学教員はこういう思いで仕事に取り組んでいないのではないかと思われるが、これからは大きく変化していくだろう。
大学に秘められた可能性を信じて、教授ではなく教員として学生との関わりを楽しんでいければいいなと感じた。
現実は難しい面も多いのだが・・・ -
「大学とはこうあるべきだ」とか
「今の大学がここが悪いみ」たいな大学論とは違い、
著者の大学講師を経験するなかで感じたこと、考えたことを中心に書かれたエッセイ。
私が芸術面には疎いので、
マンガは映画の手法を取り入れているから、
もう一度映画に置きなおして実際に撮影する
という手法を解説しているなど、興味を覚える内容だった。
また、大学講師を通して「教える」ということに対して
感じたこと、考えたことは参考になる部分もあった。