- Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062880572
作品紹介・あらすじ
諭吉のキイワードは「自尊独立(自立)」、漱石のキイワードは「自己本位(自分らしさ)」。競争社会の困難さを「近代」から読み解く。仕事の能力もない、結婚もできない人への提言。
感想・レビュー・書評
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現代日本における自立とは何かを考察した本。
副題に福沢諭吉と夏目漱石に学ぶとあるように明治初期と末期の知識人の考えを引用しながら、現代の若者の自立について述べています。
諭吉の「向上心」は、社会が活性化している時のモチベーションとなる。よく学びよく働き、収入を得るのは社会の理想と考えた諭吉に対し、そういう時代を経た後の漱石は、その弊害ばかりが目立つ社会を否定的に捉えている。彼らの時代というのは、昭和の高度成長期からから平成の停滞期に陥った現代の日本人のマインドの変化に近いものがあると著者は考えている。
読んでみて、なかなか面白い考察で納得できる部分も多かった。けれども内田樹の主張に共鳴しているのか、後半はやや引用も多いのが気になった。過去の欧米知識人の考え方を紹介して論理的な考察を試みていますが、結論として日本人が今後どうあるべきなのかが、ややわかりにくい。いろんなメディアで、様々な知識や考え方を吸収した現代日本人にとっては、諭吉や漱石のようなシンプルな考え方で実践するのが難しい状況にあるのかもしれない。現代は様々な考え方に迷う「優柔不断な時代」なのだろう。そういえば、バブルの頃は「優柔不断な男」は嫌われたんだよね。高度成長期はそういうシンプルな時代だったのかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ひと世代違う両者を比較する事は、明治の前半と後半を比較する事でもある。両者は似通っているようでもあり、時代背景の故なのか対照的でもあり、興味深い比較になっている。
著者は歯学博士であり近現代史の専門家ではないので、内容は学術的ではない。が、現代社会の課題解決に向けて「歴史から学ぶ」というスタイルでアプローチしており、両者以外の思想家も引用しながら、単なる自己啓発ではない結構マジメな内容になっており、それなりに説得力もある。逆に言えば、書名や宣伝文句がキャッチーではあるものの、これを読んですぐに何かが解決するという本ではない事に留意する必要はある。 -
世のため人のために働く、自分のために働く。
ありきたりな理想論を語っていて、本当に困っている人の問題解決には全く役立たない。
(著者もその点は難しいと自ら言っている) -
2016.2.1
自立、、、頭が痛くなるようなテーマである。経済的にも精神的にも自立しきれてない私にとっては、一番直視しなければならない問いであり、かつ一番直視したくない問いでもある。本著は福沢諭吉、夏目漱石など日本の思想家、またミル、ロック、ホッブスなど西洋近代の思想家を挙げながら、なんでこんなに個人が自立しにくく生き難い社会になっているのか、そしてここからどういう社会にしていくべきか、またこのような社会において我々はいかに生きるべきかを述べた本である。が、あまり結論としては釈然としない。全体をまとめつつ私見を述べる。政治によって作られる社会において必要な原則は、まず個々人のスタートの平等、その後の努力の如何によって評価が適切にされる公平性、そしてその努力を誰でも行える自由という、初期平等、評価公平、努力自由であるように思われる。このような社会を想定した上で、いかに我々は経済的に自立し社会的存在として生きるべきか、それはやはり努力して社会的地位を上げることであり、そのためには学問が必要である。ここでデューイの実験主義を持ってくると、社会的貢献、社会という他者への貢献を価値とするなら、その価値に結びつく行動、その行動に結びつく思考、その行動と思考に結びつく学問こそ価値ある学問であり、それはやや実学的である。このような実学的学問の習得による社会貢献こそ各々が社会的存在として生きる道であり、貢献の度合いが多いほど評価も大きくなる。しかし一方で夏目漱石は、このような功利的な仕事に価値を置かず、究極的には自らのための精神的な仕事、即ち文学や芸術、哲学が持っとも価値ある仕事だとする。私は、欲望という観点から少し考えてみたが、これまでの経済的社会は欲望を満たすための生産から欲望を喚起するための生産へと移り、資本主義という名の欲望消費社会であったように思われる。生きることは欲望であり、欲望を満たしてくれるものに価値があり、価値あるものに人は対価を支払うからだ。しかしこのような在り方にも限界を感じる、なぜなら欲望は尽きることがないからである。ここでキーワードとして取り上げたいのが、自発性と内発性である。福沢諭吉は自発性、即ち自らの意思と行動によって生きる自立を主張し、また夏目漱石は内発性、即ち金や名誉など外発的なものによる意思や行動の喚起ではなく、自らの内から起こる動機によって行動していくことを主張した。動機を欲望と読み替えたとき、私は外発的動機/欲望と内発性動機/欲望の間にある差が気になる。それは近代社会が増やしに増やしてきた欲望の量的側面ではなく、欲望の質的側面である。ここに、これからの社会、そして人間の在り方を考えるヒントがある気がする。生きることは欲望である以上、欲望についての問いは避けることができない。しかしその問いを、欲望の量的側面から質的側面に変換することが重要ではないか。かくして私は夏目漱石的職業観に共感を覚えるが、しかしそれが社会的価値=欲望の量的充足とかみ合わない以上、やはり欲望の質的充足を求める生き方、仕事と、その仕事に対する社会からの報酬や評価は噛み合わないと思うので、どうしましょうか、という感じ。後半では現代社会の閉塞感というか、現状分析なのだが、あまり頭に入らなかった。やはり私は社会に関心を持てない、というより、社会を直視することが嫌いなのかもしれない、なぜならつらくなるからである。こんなんどうすりゃいいの?と思ってしまう。読めば読むほど絶望してしまう。これも、私が考えるべきは課題である。最後の方に述べられた互恵通貨制度の提案は悪くないと思った。金銭は我々人間の発明だが、なにも価値を金銭でのみ交換する必要もないのであり、またそのような在り方が求められている気もする。無論、絶対的基準がなくなる以上、対立も考えられるが。やはり社会は混沌としている。この社会で私はいかに生きるべきか、そこまでしか考える体力が私にはなく、社会自体がいかにあるべきかまでは考える意欲が持てない。皆が欲望の質的充足による人生を目指すような、そんな人類の未来はあるのだろうか、、、。消費そのものへの欲望、薄っぺらい人間関係、孤独、いい加減うんざりではないでしょうか。あと、諭吉と漱石のテーマとして自分、それは自尊独立として他者や世界に依存せず自己の責任と自由によって生きるべきであり、また自己本位として自分らしさ、自分の内発性によって私が本当に望むものによって生きるべきであり、このような人間として、私として生きるべきという考え方は、坂口安吾の堕落論、グラッサーの選択理論など、ある程度生き方の真理として説得力あるもののように思われる。絶望せずにはいられないこの社会で、いかに絶望せずに社会的に生きていくべきかを考えさせられた一冊。
2016.2.3 .p.s.
私は何者か。この自己による自己定義をどこにおくかによって、いかに生きるべきかという問いと答えも変わってくる。私は人間だ、では人間として如何に生きるべきか、これが私のメインテーマだった。しかし私はまた、社会的存在でもある。社会に出て、金を稼いで生きていかねばならない。私は社会的存在である、という自己定義から、生き方を考える必要もあるな、と思った。この時初めて、社会について知り、考える必要が私に生まれる。そう感じさせてくれたという意味ではいい一冊だった。 -
著者の本は以前にも読んだことありますけれども、あまりピンと来ませんでしたかね…タイトルは個人的にかなりピンと来たんですけれども…「人間嫌いの言い分」とか…僕にとってかなりドンピシャじゃないですか…!
だけれども、その内容を紐解いてみるとかなりアレというか、まあ、著者の顔とか見てみましたけれども、今作で言及されている通り、結構オタク気質な人なんですね…外見からして…
自分もオタク側の人間かにゃ?? と思って今日まで生きて参りましたけれども、どうにもオタク的な空気というか、匂いというか、そういうのに適合しない、と判断した自分はどうすればいいのだらうか…リア充的な空気にも相容れないものを感じるし…
ヽ(・ω・)/ズコー
まあ、そんなわけで全然今作の感想にもなっていないレビューではありましたけれども、決して悪くはないですよ! ただちょっと僕には相容れないだけで…ああ、だけれども、福沢諭吉には興味持ったかな? かなり潔癖な感じのする思想をお持ちの人のようで…興味を持ったのだけれども、今から「学問のすゝめ」などを読むのはちと荷が重いなぁ…などと思いつつさよなライオン…。
ヽ(・ω・)/ズコー -
同意できる部分と出来ない部分があった。
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請求記号:289.1フ
資料番号:011157740