なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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本棚登録 : 325
レビュー : 53
  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062881135

作品紹介・あらすじ

なぜ/どうやって、ナレーションや音楽なしでドキュメンタリーを作るのか?なぜリサーチや打ち合わせなどをしないのか?インディー映画作家の制作費や著作権について。"タブーとされるもの"を撮って考えることは?客観的真実とドキュメンタリーの関係とは?映画『Peace』のメイキングを通して、このような問いへの答えを率直に語る、ドキュメンタリー論の快著。

感想・レビュー・書評

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  • 映画作家である想田監督が提唱・実践する「観察映画」とは?監督のドキュメンタリー論に触れて人、環境、社会、あらゆる出来事に対する見方が変わりました。想田監督の映画とあわせてオススメです!

    【九州大学】ペンネーム:カカオ

  • 途中で読むのが止まっていて、しばらくあいて読み再開したした時には、前半に内容は精細に記憶していたわけではなかったけど、興味深く読んでいたという記憶はあり、ひとまずそのまま読み進めた。

    とても面白かった。
    試行錯誤の過程での迷いや、経験から導かれた方針や考え方の理由が書いてあって、それも絶対善などと言わず、世の中にいろんな見方がある中で自分はこう考えるということで、共感できる部分もあるし、勉強になる部分もあったし、いろんな発見があった。

    SNSのが氾濫する現代社会では、1次情報にあたらずに情報が拡散してあたかも事実かのように信じる人も少なくなく、情報が少量限定的で、分析的でなく、相当に短絡的で未成熟と危惧するところだけれど、ドキュメンタリーは、SNSに比べれば、作者の主張のポジションがあったとしても、特に映像は、伝わる情報量が多く、1次情報に近いのではないかと感じる。(文字のノンフィクションも重要だが、映像に比べると説明的なものは情報が抜けたり読者によって読解自体の差異も映像に比べると生じやすそうな難しさはある。)

    ドキュメンタリーを見ると(本や新聞雑誌系のノンフィクションなら「読むと」だが)、掘り下げる題材について詳しく知らなかったことが、なんだか恥ずかしくさえ思うけど、それでも、知らないままこの先も生きていくよりは、今見て知って幅を広げて考えられるようになることの方がはるかに良い、精神衛生上も良いと私は思う。

    何より、著者の想田さんのドキュメンタリーは私は見たことが無いので、探して見ようと思うし、他の著書も読んでみたい。

  • (01)
    観察、そして参与観察という問題が、著者のドキュメンタリーの中心として語られる。当然、観察にともなる加害者性や暴力についても言及されている。
    人間の「やわらかい部分」を撮影(*02)し、公開することにおいて、被写体の同意があるとはいえ、著者も含め、ドキュメンタリー作家には罪悪の意識がともなわないわけではない。そのような加害性のある映像についての著述は、贖罪にもなりうるし、言い訳のように読めることもある。

    (02)
    ドキュメンタリー映画もフィルムからデジタルへと技術が転換し、低予算で多くの撮れ高を生産できるようになったことが、ドキュメンタリーの再興につながったと説明されている。また、編集作業は、観察映画にとって発見の過程であるとされる。二次三次にわたる取材内容の点検が作品の質に寄与しているが、それ以前の多産性は、ドキュメンタリーのより大きな可能性につながるように思える。映像素材の量的な氾濫は、ドキュメンタリーのみならず、映画の変革を促すのかもしれない。

  • 2019年7月12日読了。

    ●観察映画の源流となっているのは、1960年代にアメリカ
    で勃興した「ダイレクトシネマ」と呼ばれるドキュメン
    タリー運動である。それは、ナレーションなどの力を極
    力借りずに、撮れた映像と現実音で全てを直接的に
    (ダイレクトに)語らせる方法である。
    →『大統領予備選挙』ロバート・ドリュー監督/1960年

    ●ダイレクトシネマ
    「生の素材=現実や登場人物に雄弁に語らせる」ことを
    主眼にした、一種の思想運動と捉える事が出来る。
    「現実に耳を傾け、何かを謙虚に学ぶための装置」

    ●毎回1人の人物を取り上げる20分間のドキュメンタリー
    『ニューヨーカーズ』NHK

    ●『戦艦ポチョムキン』エイゼンシュタイン/1925年
    →モンタージュ理論

    ●観察映画で発揮すべき作為とは「無作為の作為」。
    作り手の「ああしよう、こうしよう」という作為を
    可能な限り消すこと。

    ●マース・カニングハム
    ニューヨークを拠点に活躍した、ダンス界の巨人。
    前衛音楽家のジョン・ケージと親交が深かった彼は
    1950年代、サイコロや易を使ってダンスの振り付けを
    始める。偶然性を基盤に振り付けを行う「チャンス・オ
    ペレーション」と呼ばれる手法を確立。

    ●ドキュメンタリーとは、「偶然の出来事の連なりをとら
    え、作品に昇華される芸術」

    ●本
    『ドキュメンタリーは嘘をつく』森達也
    「ドキュメンタリーもフィクションである」佐藤真

    ●世界初のドキュメンタリー映画
    『極北のナヌーク』ロバート・フラハティ/1922年

    ●『A』森達也/1997年、『阿賀に生きる』佐藤真/1992年

    ●原一男は自らのドキュメンタリー作りを「冥府魔道に入
    る」(踏み越えるキャメラ)と表現し、佐藤真は「あら
    ゆるドキュメンタリー作家は、いかに善人ぶったふりを
    していようと、本質的には悪党である」(ドキュメンタ
    リー映画の地平)と書いた。

    ●会話を入れ込むヒントとなった映画
    『フォーエバー』エディ・ホニングマン/2006年

    ●師匠・中村英雄
    日テレの『すばらしい世界旅行』などを制作。

  •  ナレーションや音楽をかぶせないということは、映像が本来持つ多義性を尊重し、残すということなのである。(p.90)

     そもそも、ドキュメンタリー=フィクションでいいなら、ドキュメンタリーというジャンルの存在自体がナンセンスである。ドキュメンタリーという分野が存在し、僕らを虜にするのは、実在する人物や状況を被写体とすることに、独特の面白さ、危うさ、残酷さがあるからである。また、作品に偶然性を取り込むことによって、作り手や観客の予想を超えた思いがけぬ展開=ドキュメンタリー的驚天動地が期待できるからである。(p.117)

    「観察」という行為は、一般に思われているように、決して冷たく冷徹なものではない。観察という行為は、必ずといってよいほど、観察する側の「物事の見方=世界観」の変容を伴うからだ。自らも安穏としていられなくなり、結果的に自分のことも観察せざるを得なくなる。(p.125)

    「観察」の対義語は、「無関心」ではないかと、ある人が言った。僕は、なるほど、と同意する。観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない。観察は、自己や他者の理解や校庭への第一歩になりうるのである。(p.126)

     橋下さんは自らの死について語るとき、必ずちらりとカメラを見るのである。たいていの場合、それはほんの一瞬なので、たぶん大多数の観客は気がつかない。僕も撮影のときには気づかない一暼が多かった。(中略)ただひとつ言えることは、橋下さんはカメラの前で、あたかも撮影されていないかのような、とても自然な振る舞いをされているけれども、実はカメラの存在に意識的であったということだ。少なくとも、カメラを一瞥する際、つまり自らの死について言及する瞬間には、カメラと僕の存在を強く意識していた。(p.165)

     映画作家が撮れるのは、撮影者の存在によって変わってしまった現実以外に、あり得ない。だとすれば、撮影者の存在必死でかき消し、“なかったことにする”ことに、僕は積極的な意義をあまり見出せない。(p.178)

  • 自分も学生の時からドキュメンタリー大好きだったので論文を書くために森達也、フラハティ、ワイズマンなどなどたくさんの映画観たなーと思い出した。

  • 東2法経図・6F開架:B1/2/2113/K

  • 映画
    ノンフィクション

  • ドキュメンタリー映画を最近好んで見る。多額のお金をかけずにプロの俳優も使わずに、自分たちのお金で自分たちの映画を撮るドキュメンタリー映画。有名になって大ヒットしたりすることもないけれども、じわじわと感じられるよさがある。

    そんな映画の中でもマイナーのドキュメンタリー映画の中で、ちょっと変わった映画が想田監督のドキュメンタリー映画である。彼はセレンディピィティを追い求めて映画を撮るという。
    “Serendipity” :思いがけないものを偶然発見すること、能力
    想田監督の映画は「観察映画」というスタイルを標榜する。台本を書かない観察映画の方法は予期せぬ偶然や発見を呼び寄せ人々の内面のやわらかい部分を描き出す。
    作り始めの時にはテーマもなく撮影がどうなるか分からず、一種のギャンブルともいえるが、偶然が拾える準備は入念にしておき、Serendipityが訪れるときを逃さない。

    もともと彼はNHKのドキュメンタリー番組を撮っていた。ひとつのドキュメンタリー番組では撮影スタイルは今とは間逆で、台本通りに撮ることに重きが置かれていた。
    一方、観察映画を撮るにあたっての10の具体的方法論は以下の通り。
    1. 被写体や題材に関するリサーチを行わない。
    2. 被写体との撮影内容に関する打合せは原則行わない(集合場所などは除く)
    3. 台本は書かず、撮影前や撮影中に作品のテーマや落としどころを設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
    4. 機動性を高めるためカメラ・録音は原則一人で回す。
    5. 必要ないかも?と思ってもカメラは原則長時間で回す。
    6. 撮影は広く浅くではなく狭く深くを心がける。
    7. 編集作業でもあらかじめテーマを設定しない。
    8. ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。
    9. 観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、その場に居合わせたかのような臨場感や時間の流れを大切にする。
    10. 制作費は基本的には自社から出す。

    本当に上記の方法でうまく撮影できるのだろうか、と思ってみてみたのが、想田監督の最新映画は「牡蠣工場」という映画。奥さんの実家のある岡山県牛窓で漁師さんに出会う。日本の漁業に関しての映画が撮れると思い、「仕事場」に行くと、そこは牡蠣の殻剥き工場。船で魚を撮るイメージを想像していたがはじめから大きく覆される。
    しかし、監督は観察を欠かさない。工場のカレンダーの脇に「9日中国来る」という書き込みがあり、そこから牡蠣工場の牡蠣剥きという作業が高齢化が進み中国からの研修生無しには成り立たなくなっている現状や、しかし中国から来た研修生がいつの間にかいなくなってしまって受け入れが必ずしもすんなりうまく言っているわけではない現状が次から次へと明らかにされていく。

    多分いいドキュメンタリー映画は遊びがあり、見た人それぞれの感じ方が異なり、いろいろな解釈がある映画を指すのだろうと思う。
    例えば、普段の仕事でも、計画通り(台本通り)にある決められた範囲の答えに向かって進めるのはとても大事なことだけれども、計画や結論ありきの仕事はこなす感じになってしまうし、なにかとても大事な出会いを失ってしまうような気もする。
    そんなことを考え、来るべきセレンディピティが来たときに気付けるように、適度に計画を緩めて過ごして行きたいと思う。

  • 778.7

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著者プロフィール

映画作家

「2017年 『護憲派による「新九条」論争』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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