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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784062881135
作品紹介・あらすじ
なぜ/どうやって、ナレーションや音楽なしでドキュメンタリーを作るのか? なぜリサーチや打ち合わせなどをしないのか? 〈タブーとされるもの〉を撮って考えることは? 客観的真実とドキュメンタリーの関係とは? このような問いへの答えを率直に語る、いまもっとも注目される映画作家によるライブな表現論!
映画『Peace』のメイキングを通して語る、ドキュメンタリー論の快著!
著者・想田和弘は、いまもっとも注目される映画作家の一人。ニューヨークで映画を学び、卒業後もそのまま在住、テレビ・ディレクターとして、ドキュメンタリー番組を40本以上制作した。
2007年からは、事前のリサーチ・打ち合わせや台本なし、ナレーション、説明テロップ、音楽も使わない、「観察映画」と呼ぶ独特の方法論・スタイルでドキュメンタリー映画を撮っている。監督・撮影・録音・編集もほとんど一人で行う。これまでに、落下傘候補のドブ板選挙戦を描いた『選挙』、精神医療のタブーに切り込んだ『精神』と、一作ごとに大きな話題を呼んできた。
2009年のある日、彼は、韓国の映画祭から「平和と共存」をテーマとした映画を依頼された。テーマなしで虚心に撮るのを私是にしているのに先にテーマありきで、しかも「平和と共存」……「大上段すぎる」とためらいながらカメラを向けたのは、岡山で暮らし、福祉の仕事に携わる義父母とまわりの人々、義父が庭で世話する野良猫たちの静かな日常だった。
その作品『Peace』は、完成後、世界各地の映画祭で大反響を呼び、東京フィルメックスでドキュメンタリーでは異例の観客賞、香港国際映画祭では最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。
・なぜ/どうやって、ナレーションや音楽なしでドキュメンタリーを作るのか?
・なぜリサーチや打ち合わせなどをしないのか?
・インディー映画作家の制作費や著作権について
・〈タブーとされるもの〉を撮って考えることは?
・客観的真実とドキュメンタリーの関係とは?
このような問いへの答えを率直に語る、ライブな表現論!
みんなの感想まとめ
ドキュメンタリー制作の独自のアプローチを探求するこの作品は、著者の試行錯誤や思考の過程を率直に語り、読者に新たな視点を提供します。特に「観察映画」と呼ばれるスタイルは、事前のリサーチや台本なしで、ナレ...
感想・レビュー・書評
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途中で読むのが止まっていて、しばらくあいて読み再開したした時には、前半に内容は精細に記憶していたわけではなかったけど、興味深く読んでいたという記憶はあり、ひとまずそのまま読み進めた。
とても面白かった。
試行錯誤の過程での迷いや、経験から導かれた方針や考え方の理由が書いてあって、それも絶対善などと言わず、世の中にいろんな見方がある中で自分はこう考えるということで、共感できる部分もあるし、勉強になる部分もあったし、いろんな発見があった。
SNSのが氾濫する現代社会では、1次情報にあたらずに情報が拡散してあたかも事実かのように信じる人も少なくなく、情報が少量限定的で、分析的でなく、相当に短絡的で未成熟と危惧するところだけれど、ドキュメンタリーは、SNSに比べれば、作者の主張のポジションがあったとしても、特に映像は、伝わる情報量が多く、1次情報に近いのではないかと感じる。(文字のノンフィクションも重要だが、映像に比べると説明的なものは情報が抜けたり読者によって読解自体の差異も映像に比べると生じやすそうな難しさはある。)
ドキュメンタリーを見ると(本や新聞雑誌系のノンフィクションなら「読むと」だが)、掘り下げる題材について詳しく知らなかったことが、なんだか恥ずかしくさえ思うけど、それでも、知らないままこの先も生きていくよりは、今見て知って幅を広げて考えられるようになることの方がはるかに良い、精神衛生上も良いと私は思う。
何より、著者の想田さんのドキュメンタリーは私は見たことが無いので、探して見ようと思うし、他の著書も読んでみたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
映画作家である想田監督が提唱・実践する「観察映画」とは?監督のドキュメンタリー論に触れて人、環境、社会、あらゆる出来事に対する見方が変わりました。想田監督の映画とあわせてオススメです!
【九州大学】ペンネーム:カカオ -
以前、ドキュメンタリーについて学ぼうと読み始めたら、後半、映画『Peace』についての話になっていたので、そちらを鑑賞後に読もうとして5、6年経ってしまいました笑。
ドキュメンタリー映画についてというより、想田監督の制作日記的な側面があるので、映画を見て、裏話などが気になる方には楽しく読めると思います。 -
(01)
観察、そして参与観察という問題が、著者のドキュメンタリーの中心として語られる。当然、観察にともなる加害者性や暴力についても言及されている。
人間の「やわらかい部分」を撮影(*02)し、公開することにおいて、被写体の同意があるとはいえ、著者も含め、ドキュメンタリー作家には罪悪の意識がともなわないわけではない。そのような加害性のある映像についての著述は、贖罪にもなりうるし、言い訳のように読めることもある。
(02)
ドキュメンタリー映画もフィルムからデジタルへと技術が転換し、低予算で多くの撮れ高を生産できるようになったことが、ドキュメンタリーの再興につながったと説明されている。また、編集作業は、観察映画にとって発見の過程であるとされる。二次三次にわたる取材内容の点検が作品の質に寄与しているが、それ以前の多産性は、ドキュメンタリーのより大きな可能性につながるように思える。映像素材の量的な氾濫は、ドキュメンタリーのみならず、映画の変革を促すのかもしれない。 -
2019年7月12日読了。
●観察映画の源流となっているのは、1960年代にアメリカ
で勃興した「ダイレクトシネマ」と呼ばれるドキュメン
タリー運動である。それは、ナレーションなどの力を極
力借りずに、撮れた映像と現実音で全てを直接的に
(ダイレクトに)語らせる方法である。
→『大統領予備選挙』ロバート・ドリュー監督/1960年
●ダイレクトシネマ
「生の素材=現実や登場人物に雄弁に語らせる」ことを
主眼にした、一種の思想運動と捉える事が出来る。
「現実に耳を傾け、何かを謙虚に学ぶための装置」
●毎回1人の人物を取り上げる20分間のドキュメンタリー
『ニューヨーカーズ』NHK
●『戦艦ポチョムキン』エイゼンシュタイン/1925年
→モンタージュ理論
●観察映画で発揮すべき作為とは「無作為の作為」。
作り手の「ああしよう、こうしよう」という作為を
可能な限り消すこと。
●マース・カニングハム
ニューヨークを拠点に活躍した、ダンス界の巨人。
前衛音楽家のジョン・ケージと親交が深かった彼は
1950年代、サイコロや易を使ってダンスの振り付けを
始める。偶然性を基盤に振り付けを行う「チャンス・オ
ペレーション」と呼ばれる手法を確立。
●ドキュメンタリーとは、「偶然の出来事の連なりをとら
え、作品に昇華される芸術」
●本
『ドキュメンタリーは嘘をつく』森達也
「ドキュメンタリーもフィクションである」佐藤真
●世界初のドキュメンタリー映画
『極北のナヌーク』ロバート・フラハティ/1922年
●『A』森達也/1997年、『阿賀に生きる』佐藤真/1992年
●原一男は自らのドキュメンタリー作りを「冥府魔道に入
る」(踏み越えるキャメラ)と表現し、佐藤真は「あら
ゆるドキュメンタリー作家は、いかに善人ぶったふりを
していようと、本質的には悪党である」(ドキュメンタ
リー映画の地平)と書いた。
●会話を入れ込むヒントとなった映画
『フォーエバー』エディ・ホニングマン/2006年
●師匠・中村英雄
日テレの『すばらしい世界旅行』などを制作。
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自分も学生の時からドキュメンタリー大好きだったので論文を書くために森達也、フラハティ、ワイズマンなどなどたくさんの映画観たなーと思い出した。
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東2法経図・6F開架:B1/2/2113/K
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映画
ノンフィクション -
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778.7
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ドキュメンタリーというジャンルで映画を作っている監督が自分が撮った映画『選挙』『精神』『peace 』という作品をベースにドキュメンタリーについて、自分の作品について深く記述してある。ドキュメンタリーといっても様々な方法や手法があることや、監督自信が撮影するに当たって気をつけていることや自分の作品への回顧など、ドキュメンタリー映画の業界の事など、映画好きの人は楽しく読める。
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タイトル通り。
「選挙」「精神」「Peace」の裏話も知ることが出来ます。 -
「精神」や「選挙シリーズ」のドキュメンタリー映画監督の想田和弘が「PEACE」の撮影の裏側交え、ドキュメンタリー映画とは何かを語る。
ナレーションもBGMもない観察映画を手法とする想田監督。テーマを持たず撮影をし、撮り終えてからテーマが見えてくるのだと言う。だからこそ、映画を見る方は多彩な感じ方をすることができるのだと思う。
ドキュメンタリー撮影のカメラを向けることの怖さについても触れられている。その危険性は常にあるが、ドキュメンタリーの必要性は決して揺るがないと思う。
この本を読めば、想田監督の作品に限らずドキュメンタリー映画をもっと楽しむことができるはず。 -
ドキュメンタリー監督想田和弘が徹底してこだわるのは、リサーチ、台本、ナレーション、テロップ、BGMなどの添加物を排し、対象のリアリティをえぐりだす「観察映画」という方法。
本書はその具体的な方法論と撮影についてのエピソード、方法の背景にある哲学などをまとめたもの。
テレビが往々にしてそうであるように、ある対象に最初から楽しい、正しい、悪い、汚いというようなラベルを貼る「テーマ至上主義」は、作り手としても合理的、受け手としてもわかりやすい。
僕も研究をしていると、最初に明確なテーマを設定するかということを口酸っぱく言われる。
たしかにテーマ至上主義は合理的なんだけど、そうすると現実がもつ多様性、リアリティを枠にはめ込むことになり、つまらなくしてしまうのだ。
日常生活でもそう。最初から「近頃の若者は」とか、「限界集落はもはや」とか、ラベルを貼ってしまうことで見落としているものは多い。
安易な決めつけを排した「観察」を意識することは、他者への理解、やさしさにつながるはずだ。 -
ドキュメンタリー映画って客観的と思われがちだけど全然そうじゃないんやな。それがすごくよくわかった本。
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ナイロビへの乗り換えのアブダビ空港にて読了。
西南で原一男のドキュメンタリー講座を受けた -
恥ずかしながら今まで知らなかった映画監督、想田和弘さんの著作です。
「台本や事前のリサーチ、ナレーションや音楽などを使わない「観察映画」の提唱者」だそうで、本書ではドキュメンタリーとは何か、なぜ人がドキュメンタリーに惹かれるのかについて、想田さんの丁寧な言葉で綴られています。
4章にある、
究極的には「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくるのだと思う。
という意見に物凄く納得させられました。
私は観察映画と聞いて、大好きな「花とアリス」を連想しましたが、あくまであの作品から私が感じたのは、主演二人の演技力であり、それを引き出す岩井監督の技量であり、「人間の心の中を垣間見た!」とまでは思いませんでした。
と、いうワケで今、「映画作家が撮れるのは、撮影者の存在によって変わってしまった現実以外にあり得ない」と言い切ってしまう想田さんの作品をモーレツに観てみたい。 -
フレデリック・ワイズマン
結果的にテーマが出てくるのはよいが、製作中にテーマに縛られないことが肝心なのである
個人的には、タイトルはシンプルであればシンプルであるほど、観客の頭の中でイメージが広がりやすく、強い印象と余韻を残すのではないかと思っている
ショットが長ければ長いほど、観客に自分の目で観察・解釈できる時間が与えられるので、映像は多義的になる。逆にショットが短ければ短いほど、作り手による操作の強度が高くなり、映像は多義性を失っていく
観客に観察モードを立ち上げさせるために、長いショットを使う
つくづく思うのは、作品が結果だとすれば、方法論は原因である。旧態依然たる作り方をすれば、必ず作品もそうなる。原因をそのままにして、結果だけ変えようとしても無理だからである。逆に言うと、作品を変えたければ、方法論を変えればよい。それは映画だけでなく、あらゆる分野の「イノベーション」に言えることだと思う
マース・カニングハム チャンス・オペレーション
ブレアウィッチは、映し出された学生たちが現実に存在し、彼らの身に降り掛かった出来事が実際に起きたものだという前提があってはじめて、観客を魅了することができた
同じ映画を観ても、それをドキュメンタリーだと思って観るのと、フィクションだと思って観るのでは、こうも印象が違うものか
観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察にならざるを得ない
映像にはそのような言葉の呪縛、つまり固定観念を乗り越えられる可能性がある。既成の言葉を介在させることなく、現実をダイレクトに映し出すことが可能だからだ。だからこそドキュメンタリー映像は、うまくすれば、現実を理解する枠組そのものを溶解させ、更新するための契機になり得る。ドキュメンタリーにナレーションによる説明が不要であることの、もう一つの重要な理由であろう
演劇を観る人々は、「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくる(平田オリザ)
そして、俳優が演じる演劇なら、いくら人間の心の内側を覗き見ても、倫理に反することはない -
ナレーションもBGMもないドキュメンタリー映画『選挙』を観て、想田和弘という監督を知る。この手法を彼は「観察映画」と呼んでいる。ここでは、その理論と実践、方法論などが明かされている。
「観察」とは、製作者である監督のみが行うものではなく、映画を観る者も行うという二重性を持たせた概念である。そのため、「しっかり観ること」「耳を傾けて聴くこと」が基本となり、ナレーションもBGMも自ずから排除されることになる。しかも、台本もなく撮影が始まるので、「観察映画」は、「偶然に遭遇し続ける旅」の様相を見せる。そして、スクリーンで展開されるドキュメンタリーは、人生そのものへと変貌する。
「犬も歩けば棒に当たる」という言葉が思い浮かぶ。
「偶然とは街だ。限りなく真実をはらみ、変幻する街、それでいて書物より単純な街」というセリーヌの言葉も想起させられる。
寺山修司の『書を捨てよ、町に出よう』」というタイトルの本があったことも思い出される。
平凡な日常も、実は偶然の連続であることに気付かされる。すると、「私は、はたして、目の前に生起する毎日の出来事を<観察>しているのだろうか?」という自問が立ち上がってきた。
著者プロフィール
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