国力とは何か 経済ナショナリズムの理論と政策 (講談社現代新書)

  • 講談社 (2011年7月15日発売)
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  • 本 ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062881159

作品紹介・あらすじ

東日本大震災のような本当の意味での「危機」には、国家が強いリーダーシップを発揮し、国民が団結をして行動することにより生み出される「国力」が求められている。そして「危機」は自然災害や事故に限らない。金融市場の崩壊やデフレ不況という経済危機も、克服しなければならない「危機」である。本書は「国力」の重要性と、豊かな経済社会を取り戻すための経済ナショナリズムの有効性を説く。


日本の支配的イデオロギーは「グローバル化による国家の退場」だった。「規制緩和」「小さな政府」などの政策がその典型であり、「平成の開国」という標語も同じイメージを共有するものであったと言える。
しかし、東日本大震災のような本当の意味での「危機」には、国家が強いリーダーシップを発揮し、国民が団結をして行動することにより生み出される「国力」が求められている。そして「危機」は自然災害や事故に限らない。金融市場の崩壊やデフレ不況という経済危機も、克服しなければならない「危機」である。本書は「国力」の重要性と、豊かな経済社会を取り戻すための経済ナショナリズムの有効性を説く。

感想・レビュー・書評

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  •  本書を読み終わって、これは経済書でもあるのだろうが、世界経済の現状を鋭く分析し、日本が今後進むべき道を指し示した政治的イデオロギーの書でもあると驚嘆した。すごい本である。
     本書はまず「危機に直面する世界」で、グローバル経済と経済危機について考察している。経済がグローバル化した世界では「国家が労働市場の規制を緩和しなければ、国内ではなく海外へと投資するようになってしまう。それを恐れる国家は・・・労働市場の規制を緩和し・・・賃金を引き下げたりできるように・・・構造改革を実施するようになる」と語る。そしてその構造改革は、必然的に労働賃金の低下を招き、デフレへとつながる。本書は、「グローバル経済」と「構造改革」とそれを裏打ちする「新自由主義思想」、その結果の「労働賃金の低下」と必然的に「デフレ」を招く等の諸関係を整合的かつ論理的に主張しており、それは説得力がある。
    経済危機の背景である世界経済の「グローバルインバランス」についてもわかりやすく主張している。アメリカが過剰な消費で経常収支の赤字を積み上げ、東アジアの新興国と中東諸国が経常黒字を抱える世界レベルの経常収支不均衡の構造は、持続可能性がない構造だったというのだ。そうであるならば2008年のリーマンショックから現在に至る世界経済の危機は、必然だったというわけか。本書では、その根本的解決策として「リバランス」すなわち世界レベルの経常収支不均衡構造の是正しかないとしているが、現在の世界はそれに失敗しているとしている。どの国も自国での経済危機と失業率の増大を抱えて輸出増を目指しているが、今までのアメリカのように巨大な貿易赤字を積み上げてきた国が新たに出現でもしない限り、実現不可能だ。本書では、詳細な考察のもとに、「現在の世界的な危機は、かつての世界恐慌時より深刻」と結論する。この一見出口がない危機に対して、本書ではその解決策として「経済ナショナリズム」を提唱している。
    「経済ナショナリズム」とは、あまり聞いたことがない言葉だと思った。本書は「国家」と「国民」「国力」等について、歴史を含めて精緻な論理を展開するが、その内容は決して退屈ではない。これは、過去の「右」と「左」の概念を超えていると感じた。経済ナショナリズムの内容では「国家(ステイト)」と「国民(ネイション)」を区別することが重要だと主張する。「国家(ステイト)」は法の支配や権威によって人民を統合する。国民は「国民(ネイション)」共同体の一種だという。ここまで根源的に思考しなければ、世界経済の現状と危機は理解できないというのだ。これはイデオロギーだと思ったが、斬新にも感じた。
    そして「経済ナショナリストはネイション内における資本家階級と労働者階級の対立を招くような経済政策を採用しない」「経済ナショナリストが選択するのは、同じ国の資本家と労働者が相互に協力し、利益を分かち合うような政策理念なのである」と語る。著者が動画の中で、PTT賛成論者に対し攻撃的に「売国奴!」と罵る姿があったが、このような理論的基礎が背景にあったのかと思わず頷いてしまった。
    本書では「我々に残された選択肢は、国民国家をより良いものに改善し、国民国家の力をもって、グローバルな諸課題を解決する」「資本主義をグローバル化するのではなく、その反対にナショナル化していく、つまり国民のものとする」と主張する。じつに説得力のある素晴らしい主張ではないかと思った。
    まだまだ多くの議論を経る必要はあるだろうが、堅牢な論理と激しい攻撃性、冷徹な知性と、人間に対する深い愛情やロマンに満ちた本を久しぶりに読んだ。思わず読後にもう一度読み直してしまった。本書を絶賛したい。

  • 良い意味でヤバイ本である。
    下手な経済学の教科書より経済のことが把握できる。
    自分より10歳年上だが、10年後に自分がこれだけキレのある論理と文章を書けるか・・・かなり自信ない。
    中野剛志氏の著書は3冊読了しているが、この本こそが彼の本領であろう。
    経済ナショナリズムという立場からの現状分析は新鮮で、クルーグマンらの新自由主義と比較すると一層価値あるものだと感じられる。
    前財務相の与謝野さんがクルーグマンとの対談で「日本の政策担当者は皆が先生の本を読んでいます」とかなんとか持ち上げていたが、中野氏の本も読んで頂きたいものだ。
    本書ではデータや数学的な分析が割愛されているため、かえって理路整然と見解が述べられ、読み進めやすくなっている。
    テクニカルタームもほとんど使用されていないので、経済学を学んでいない人にもオススメできる。
    むしろ是非ススメて欲しい一冊である。

  • 770

    中野剛志
    1971年、神奈川県に生まれる。東京大学教養学部(国際関係論)卒業。エディンバラ大学よりPh.D(社会科学)取得。経済産業省産業構造課課長補佐を経て現在京都大学大学院工学研究科准教授。専門は経済ナショナリズム。イギリス民族学会Nations and Nationalism Prize受賞。主な著書に『国力論―経済ナショナリズムの系譜』(以文社)、『 自由貿易の罠―覚醒する保護主義』(青土社)、『TPP亡国論』(集英社新書)などがある。

    国力とは何か―経済ナショナリズムの理論と政策 (講談社現代新書)
    by 中野剛志
    グローバル化の時代には、企業の利益と国民の利益が一致しなくなる。グローバル化に適応するための構造改革は、国民の利益より企業や投資家の利益を優先するという政策なのである。しかし、構造改革を支える新自由主義というイデオロギーが提示する世界は、利己主義的な個人や企業だけで構成されており、そこに「国民」という存在はない。構造改革が国民の利益を優先しないのも、哲学的に考えれば当然だと言えるであろう。

     我が国は一九九八年以降、このデフレから抜け出せなくなっているが、実は、デフレとは、単なる経済的な不調というにとどまらず、ネイションの連帯から生み出される国力を著しく衰退させるものなのである。  そもそも、デフレとは、需要不足、供給超過の状態が継続することによって、物価が下落し続ける現象のことである。物価が継続的に下がっていくということは、裏を返せば、貨幣価値が継続的に上がっていくことを意味する。デフレになると、貨幣の価値が将来的に上がっていくという見込みが生まれることから、企業はできるだけ支出を控えて資金を貯蓄しておこうとする。また、貨幣価値が上昇するということは、負債が膨らんでいくということを意味するから、企業は金融機関からの負債を早く返済しようとし、融資を受けて投資をしようとはしなくなる。こうして、企業が投資を控えるために、需要不足がさらに深刻化し、デフレがいっそう進むのである。

     需要不足と供給過剰のギャップが拡大していくと、企業は設備を廃棄したり、労働者を解雇したりして、供給力を削減していこうとする。それでも需給ギャップが埋まらない場合は、多くの企業が倒産してしまう。失業や倒産は、技術や技能の継承を途絶えさせ、技術力を棄損していくことにもなる。また、投資の減退は、生産能力や技術開発能力の将来的な低下を意味する。そして、設備廃棄、解雇、倒産は、その国の潜在的な生産能力の破壊を意味する。このように、デフレは、一国の生産能力を次第に衰弱させていくのである。ネイションが富を生み出す力、すなわち国力が損なわれるということだ。

    それだけではない。デフレは社会の格差を拡大させ、ネイションを分解させていく。一方で、実質賃金の低下により労働者の所得は低下する。他方で、企業、とりわけ輸出企業は人件費の圧縮が可能になり、企業そして株主は利益を増やすことができる。その結果、労働者階級と資本家階級の所得格差が拡大する。こうしてデフレは、階級間の格差を拡大し、ネイションを分裂させる方向へと働くのである。

    さらに、デフレ不況による失業は、組織や社会から個人を疎外する。人間は単に生計を立てるのに必要な稼ぎを得るためだけに職に就いているわけではない。職業を営むことで、社会との関係をもち、職場における人間関係に帰属し、他者から認知を得ているのである。仕事は、人間の自尊心やアイデンティティの源泉のひとつである。だから、自尊心や生きがいの源泉であった組織や社会との継続的な関係を失った個人は、気力や活力を失い、場合によっては社会に対して強烈な敵意や憎悪を抱くようになる。不況は、そのような個人を大量に発生させる。孤独な群衆は、彼らの劣情に訴えるポピュリスト…

    このため、EU加盟国が苦境に陥るような場合には、それらの国々は自力で自国民を救済することが困難になる。こうなると、EUが、各加盟国から資金を徴収して苦境にある加盟国を救済するという、ヨーロッパ全体としての中央集権的な調整を行うしかない。しかし、EUは、国民国家とは異なり、そのような中央集権的な権力を有していない(ジャック 2009)。制度面のみならず、心理面においても同様で、各加盟国の国民の多くは、多額の血税を使ってまで、他の加盟国を救済しようという同朋意識も、EUに対する忠誠心ももっていないのである。  例えば、二〇一〇年二月十四日のブルームバーグの報道によれば、ドイツで、財政危機に陥ったギリシャに対して、ドイツや他の加盟国が金融支援を行うべきかを問う世論調査を行ったところ、金融支援を行うべきではないという回答が六七%に達した。また、ギリシャ危機によってユーロの安定が脅かされる場合には、ギリシャにユーロ圏からの離脱を迫るべきだという回答は五三%に上った。ヨーロッパ統合に積極的であったドイツ人ですら、その半数以上が、実は、EUへの忠誠心よりもドイツのナショナリズムを優先していたのである。

     ギリシャ、アイルランド、ポルトガルといった財政危機に陥ったEU加盟国は、本書執筆時点(二〇一一年五月) においては、単に通貨制度を維持するために、緊縮財政を余儀なくされ、失業者が激増し、大規模なデモや暴動も頻発している。EUは、財政危機に陥った国々の国民(ネイション)よりもEUを優先したために、これらの国々のナショナリズムの反発を招いたのである。

     東アジアなどの新興国は、近年、目覚ましい成長を遂げているとはいえ、それは外需に依存したものである。その外需が世界金融危機の発生により大幅に縮小してしまったのである。そこで新興国は、財政金融政策により内需を拡大する必要がある。いわゆるケインズ主義である。しかし、ケインズ主義的政策は、実は、高度に統合されたネイションの存在がなければ、実効性を上げることは難しいのである。この点は第五章以降において詳しく論ずるが、ここではそのポイントだけ述べておこう。

     ここで改めて、「国家」と「国民」の概念をよりはっきりさせておこう。 「国家」とは、政治的・法的な制度あるいは組織である。「ステイト」は、支配力、法の支配または権威といった様々な手段によって人民を統合する。「ステイト」に対する忠誠のイデオロギーあるいは感情は、ナショナリズムというよりはむしろ、「ステイティズム」と呼ばなければならない。  これに対して、「 国民」とは、一種の共同体として理解される。それは、構成員の社会的想念により統合され、共通の歴史的記憶、公的文化、言語、領土、伝統といったものを基礎にする。社会学者アンソニー・スミスは、ネイションを次のように定義している。「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」(Smith 1991:14)。ナショナリズムは、そのような「ネイション」に対する忠誠のイデオロギーあるいは感情のことである。  ここで注意すべきは、スミスの定義に明らかなように、ネイションが共有するものは歴史、神話、文化、経済、法制度など様々であるが、いずれも言わば「 社会的現実」であるということだ。ネイションは、人種、民族(エスニック・グループ)、言語が同じである集団とは限らない。むしろ、アイスランドや日本のように、民族的に同質性の高いネイションの方がまれであり、ほとんどのネイションが多民族・多言語で構成されている。ネイションは、ある程度、多元性をもつ社会集団なのである。

    いずれにせよ、「ネイション」は共同体の一種であって、政治的・法的制度としての「ステイト」とは異なる概念である。そして、「ネイション」と「ステイト」、あるいは「ナショナリズム」と「ステイティズム」の区別は、経済ナショナリズムを理解する上で、本質的に重要なポイントである。経済ナショナリズムは、「ステイト」一般ではなく、「ネイション」に関する政治経済思想あるいは態度として理解すべきだからである。

    また、中国が世界貿易機関(WTO) に加入したのも、ナショナリズムによるものであった。すなわち、自国の発展段階を考慮した結果、中国は、国内市場の開放が国力増強に資すると判断したのである。

    カナダのフランス語圏であるケベック州、インドそしてウクライナが自由貿易を推進してきたのも、同じ理由による。これらのネイションは、ネイションとしての自律性、統一性そして同一性を強化するためには、自由貿易こそが有効だと判断したのである。  このように、経済ナショナリズムは、経済自由主義的な政策と矛盾するものであるとは限らない。むしろ、自由化政策を推進するのは、経済ナショナリズムである。経済ナショナリズムは、自給自足を理想とするイデオロギーでは必ずしもない。アメリカ合衆国建国の父たちの一人であり、代表的な経済ナショナリストとしても知られるアレクサンダー・ハミルトンも、ハミルトンの影響を受けたフリードリヒ・リストも、自給自足経済を目指したわけではなかった。経済ナショナリストは、貿易自由化の方向を目指すか、自給自足の方向を目指すかは、あくまで国力増進という大目的に照らして、プラグマティックに決めていくのである。

     経済ナショナリズムは、経済自由主義的な政策のみならず、社会主義的な政策とも整合的であり得る。周知のように、一九六〇年代に独立した多くの発展途上国は社会主義体制を選択したが、それは、経済的にも旧宗主国から独立したいというナショナリズムゆえだったのである。

    経済政策を選択し、実施するのは国家である。そして今日、国家は基本的に国民国家である。ならば、あらゆる経済政策の選択や実施に関して、ナショナリズムは無関係ではあり得ない。イギリスの経済学者ジョーン・ロビンソンが指摘したように、「政策は、それを実施する権威がなければ意味がなく、そしてその権威はナショナルなもの」だからだ(Robinson 1964:117)。

    自由主義者の多くは、強力な国家権力は、個人主義の敵であると考えている。しかし、実際には、個人主義の実現のためには、強力な国家が必要なのである。なぜなら、個人の権利は、国家によって、社会制度として保障されるからだ。国家は個人の権利を保障するために、各個人に他の個人の権利を尊重する義務を課さなければならない。もし、国家が弱体で、個人の権利を他人による侵害から守ることができなければ、自律した個人はあり得ない。

    しかし、一般的には、強力な国家というと、どうしても非民主的な専制国家がイメージされる。こうした理解からすれば、個人主義の実現のためには強力な国家権力が必要だという主張は、受け入れがたいものであろう。しかし、最も強力な国家とは、実は、民主国家なのである。

     こうした前近代社会の因習や階級の特権を廃止し、伝統的な社会の 桎梏 から個人を解放したのは、強大な国家権力であった。解放された自由な個人は、まず、近代的な大規模生産に必要な労働力を提供した。また、生産活動や技術革新に必要な潜在能力を開花させることができるようになった。近代経済のダイナミズムは、解放された個人の能力から発生したのである。  近代国家は、個人を解放し、社会の世俗化と平等化を進めただけでなく、国内の通貨や度量衡を統一し、近代的な産業組織や市場取引に関する法制度や教育制度を準備した。すなわち、国家が、大規模な自由市場を創設したのである。

    経済発展は、人々や企業が長期的な視野に立って、経済活動を行うことによって可能となる。しかし、時間的視野が長期になればなるほど、将来の不確実性は高まり、大胆な投資はしにくくなる。例えば、いつ何時、財産が略奪されるともわからないような状態であったら、三十年後を目指して設備投資をしようにも、リスクが大きすぎて、できないであろう。したがって、国家が私有財産権を法的に保障せず、権力によって恣意的に奪われるような可能性のある前近代的な社会では、経済発展はほとんど不可能なのである。

    また、国家という存在それ自身もまた、一つの巨大な経済活動の主体である。国家は、民間では担うことができないような、基礎的な科学研究や巨大な設備投資を行うことができる。国家の経済活動をファイナンスするのが、税や国債である。そして、課税や国債発行それ自体もまた、国内経済のパフォーマンスに大きな影響を及ぼす。

    経済学によれば、国家は、「市場の失敗」の場合にのみ、経済に介入することが例外的に認められる。しかし、国家の経済における役割は、例外として扱える程度のものではない。近代産業経済においては、市場に委ねていてはできないことだらけである。しかもその「市場の失敗」は、近代経済にとって致命的…

    経済学の理解では、人間は、本質的に自分の経済利益を追求する動物である。そして、そのような利己的個人の活動の結果として、財の交換が行われ、市場という秩序が形成される。  しかし、この経済観は誤りである。実際には、人間は、経済利益にのみ動機付けられて経済活動を行っているのではない。そして、利己的に経済利益を…

    また、ビジネスマンが勤勉に働くのは、所属する組織のためであったり、仕事それ自体にやりがいを見出していたり、社会的に評価されるためであったり、あるいは勤勉それ自体が重要な価値であると信じているためである。人は、金のためだけに生きるのではない。

    経済学が想定するような、経済的利益だけに動機付けられている者もいないわけではないが、それは不道徳な守銭奴であり、異常な拝金主義者である。例えば、経済学者ジョーン・ロビンソンは次のように述べている。

    国家が法制度を通じて国家政策を執行する際、ネイションはきわめて重要な役割を果たす。なぜなら、ナショナリズムは、人々の感情に働きかける強力な力をもっており、国家はそのナショナリズムに訴えかけることで、国家政策を効果的に遂行できるからだ。  とりわけ、民主国家は、人々の国家に対する高度な信頼感を必要とする政治体制である。国家が自分たちのために存在するという信頼感が国民の間になければ、民主国家は機能しない。ネイションとは、まさにこの信頼感の強力な源泉なのである。だから、歴史的にみても、近代民主主義の思想が国民自決権の理念を伴っている。これは偶然ではなく、理由があってのことなのだ(Miller 1995:89)。例えば、フランス革命は、民主主義と同時に、フランスのナショナリズムを産み落とした。これは、民主国家は、ネイションによって支えられるということを端的に示す事例である。

    前章で述べたように、国家は、人民を統治するために、「権威」を必要とする。「権威」とは、その定義からして、人々に有無を言わさずに受け入れさせるものである。政治的権威は、人々を統合し、政治社会というものを成り立たせる。

    この「権威」としての役割を極めて有効に果たすものとして、「ナショナル・アイデンティティ」がある。  ナショナル・アイデンティティとは、人々が自由に選択することができず、生まれたときから背負わざるを得ないものであり、一種の運命として認識されるものである。逆に言えば、逃れがたい運命であると思われるからこそ、ナショナル・アイデンティティは、人間にとって重要な意味をもつのである。

    もう一度、日本国憲法第一条の意義を確認しよう。そこには、天皇は国民統合の象徴であると記されている。これは、まさに、天皇が国民を統合する権威であり、象徴であることを端的に宣言したものである。すなわち、日本は国民国家であり、国民を統合する「権威」または「ナショナル・シンボル」は、天皇だということである。護憲派が何と言おうと、日本国憲法の根幹にはナショナリズムがあるのである。

    これに対し、例えば、アメリカ合衆国は、自由や平等といった理念に基づいて建設された近代国家ではないか、という反論があろう。歴史が浅く、多様な人種から構成されているアメリカ合衆国は、エスニックな文化ではなく、自由や平等といったイデオロギーによって統合されているという見解である。  しかし、実際には、ピューリタニズム、独立革命、合衆国憲法そして建国の父たちのような歴史的象徴が、アメリカのナショナル・アイデンティティの核となっているのである。それらは、アメリカ人にとっては、聖なる神話なのである(Smith 1991:149-150)。

    要するに、国家というものは、近代においても、イデオロギーや理念といった理屈だけでは、国民を統合することはかなわないのだ。人々を動員して、大規模な政治共同体を構成し、維持するためには、どうしても権威そして象徴が必要になる。だから、抽象的なイデオロギーや普遍的な理念ですら、実際には、ナショナル・シンボルとして、文化的な性格を帯びてしまうのである。

    国家は、ナショナリズムに訴え、政策を効果的に遂行しようとする。その一方で、逆に、ナショナリズムが国家政策を動かし、国民経済を形成することも見逃してはならない。  例えば、多くの発展途上の国民国家においては、ナショナリズムに動機付けられたエリート層が国民経済を運営し、経済政策上の決定を行っている。明治の日本や、東南アジアにおける開発独裁と言われる体制が、そのわかりやすい例である。

    国民が政治に参加する民主国家においては、国民は自らの負担が増大するような政策に対しては、基本的に消極的である。このため、民主国家が、長期的な国益のために、国民に負担を強いるような政策を講ずることは、容易ではない。しかし、国民は、自分がネイションの一員であることを自覚し、ネイション全体や後の世代に思いを致すようになるとき、国全体の長期的利益のための政策を支持する。すなわちナショナリズムに鼓舞された国民は、弱い立場にある他の国民や後世のために、必要な負担や犠牲を甘受するのである。

    もちろん、ナショナリズムに動機付けられた国家が、誤った経済政策を採用したために、逆に経済成長を妨げたことは少なくない。しかし、ここで言いたいのは、次のような真理である。どんな経済政策にも、人間が行うものである以上、「動機」というものが必要である。そして、ナショナリズムは、その強力な動機なのだ。

    全体主義は、ネイションの力を過激化する。全体主義に陥ったネイションは、薬物を投与されたスポーツ選手のように、一時的に、悪魔的なパワーを発揮する。かつてナチス・ドイツは、手の施しようのない恐慌にあったドイツ経済を奇跡的に復興した。それは、そのケインズ主義的な経済政策と全体主義によって、ネイションの強大な力を引き出したことによるのである。  しかし、全体主義という過激化したナショナリズムは、攻撃的で排外主義的なものとなる。そして世界を敵に回して孤立し、最後には、自壊していく。成熟した市民社会を欠いたナショナリズムは攻撃的になりがちであり、仮借のない国際紛争や内戦に突き進む傾向があるのである。ナチス・ドイツがまさにそうであった。

    経済自由主義は、全体主義を防ぐものではなく、むしろ、その原因である。市場経済に対する社会防衛の運動が、大衆民主政治と結びつき、全体主義という解決策に訴えるようになるのである。

    国家は、軍事目的の観点から戦略的に重要な産業を保護し、振興するために、補助金、保護関税、国有化、優先調達、研究開発等の経済政策を活用した。これらの経済政策は国防に貢献するだけではなく、経済発展の触媒としての役割も果たした(Sen 1984)。また、政府による巨額の軍事支出は、それ自体が財政政策的に作用し、総需要を刺激するだろう。これが、いわゆる「軍事ケインズ主義」と呼ばれるものである。

    国土の気候、地形、風土は、そこに住む人々に固有の習俗や生活習慣を形作る。国土は、ネイションの物理的な生活環境であるだけでなく、ナショナル・シンボルでもある。例えば、富士山は日本のナショナル・シンボルのひとつであるが、山岳がナショナリズムと結びつくのは我が国に固有の現象ではない。一八七四年に創立されたフランスのアルペン・クラブは、「山を通じて、祖国のために」という標語を掲げている。

     国土政策の中でも、交通政策はネイションにとって際立って重要である。アーネスト・ゲルナーが強調したように、ネイションの想像は、人々の高度な移動性とコミュニケーションから作り出されるという側面がある。交通網の整備は、人々の移動とコミュニケーションを拡大し、ネイションの統合と連帯を強めるのである。ネイションの統合と協働の強化は、国力の向上につながり、政治力や経済力を高める。  それゆえ、ドイツの経済ナショナリストであるフリードリヒ・リストは、鉄道事業にも多大な関心をもっていたし、ドイツを統一した宰相ビスマルクも、イタリアを統一した首相カヴールも、ともに交通網の整備を重視したのである。

    例えば、エネルギー企業、通信サービス業、銀行業などは、私企業といえども、広く公的利益に貢献するものであり、国力の死活を握る場合すらある。こうした国全体の利益に直結するような産業に対し、外国の株主、すなわち自国に対する愛国心もなく、義務も一切負わない者が支配権を握ることは、安全保障上、望ましいものではない。こうした場合には、国家の介入が正当化しうる。経済自由主義者が父祖と仰ぐアダム・スミスですらも、「国防は、富よりもはるかに重要である」として、安全保障を理由とした国家介入を容認したのだ。

     国民通貨こそが、国民国家の自律的な財政金融政策を可能にし、経済運営能力を大幅に拡大するのである。国民通貨がなければ、ケインズ主義的な需要管理政策はもちろん、福祉国家の実現も不可能であるし、防衛、技術開発、国土整備など、大規模な政府支出を伴う政策は実行困難になる。そうなれば、国民国家が、自らの理想とする国民経済の姿を構築することもできなくなるだろう。  国民通貨を基礎にした金融政策は、内国債を基礎にした機能的財政政策と併用されることで、さらに国民経済運営の自由度を拡大する。例えば、東日本大震災発生時のような、大規模かつ急な政府支出の要請が生じた場合の対応を考えてみよう。政府は、国債を発行して国内から資金を調達し、財政破綻を恐れずに、被災地の復興のために必要なだけ、財政出動を行う。もし復興のための資金需要が民間の資金需要を圧迫するような場合には、金利が上昇するという弊害が起きる。その場合は、中央銀行が金融緩和によって資金供給を増加させたり、あるいは国債を市中から買いとったりすることによって、金利の上昇を抑制する。その結果として、もしインフレが起きるような場合には、増税や金融引き締めといった手段によって、インフレの昂進を阻む。このように財政政策と金融政策を組み合わせることによって、政府は、財源による制約から自由に、かつ副作用をできるだけ抑えながら、被災地の復興のために必要な資金を調達することが可能となるのである。

    多民族民主国家の成功例とされるインドやアメリカ合衆国ですら、注意深く検証する必要がある。例えば、インドは、パキスタンとバングラデシュの分離独立後は、ヒンドゥー教という宗教的・文化的な統一性をもっていると言える。しかし、そのインドも、これまでのところ、カシミール地方やパンジャブ地方の分離独立運動に直面している。その意味で、インドは、多民族国家における民主主義の難しさを示す例に含まれるものと思われる。

    より重要なのは、アメリカ合衆国の例である。この国には、多様性のイデオロギー上のレトリックにもかかわらず、実は、文化的画一化の強大な圧力が存在しているのである。  チャールズ・リンドホルムとジョン・ホールは、アメリカの個人主義と民主主義の価値と制度の中に、強力な文化的画一化への圧力を観察している。それは、新たな移民が持ち込んだ異文化を吸収し、画一化されたアメリカン・カルチャーへと転換する恐るべき能力を見せつけている。リンドホルムとホールは、この点を強調するため、ヨーロッパでよく言われるあるジョークに言及している。「アメリカ合衆国は、人々が自由に選択することを望んでいるが、それは、人々がアメリカのやり方を選択する場合だけである」(Hall and Lindholm 1997)。

    本書は、二〇〇八年に出版した『経済はナショナリズムで動く 国力の政治経済学』(PHP研究所) を大幅に加筆・改訂したものである。 『経済はナショナリズムで動く』は、経済理論及び経済政策に支配的な影響を及ぼしている構造改革、そしてその基礎にある経済自由主義を批判し、筆者が研究する「経済ナショナリズム」という政治経済理論を提唱したものである。そのほとんどの部分は、二〇〇八年の世界金融危機以前に書きあげられたものであった。

    本書は、こうした危機感に強く押されて書きあげられた。この本もまた、例によって、世の中の大勢に何ら変化を与えることはできないのかもしれない。それどころか、世間からあらぬ批判や誤解を受けて終わる可能性すらある。しかし、そういったことは、正しいと信ずることを発言しない理由にはならないと筆者は思う。自分の祖国が危機に見舞われているようなときには、なおさらである。

  • 世界中の経済活動が相互に繋がった世界。ウクライナ紛争やスーダンの内戦、干魃や洪水などの災害が世界のどこかで発生すると、原材料の高騰や輸送手段が停滞して混乱を招くなど、現代社会はグローバル経済の名の下で綿密に絡み合っている。一方アメリカやイギリスでナショナリズムを鼓舞するような指導者が現れ、自国最優先を謳う政権が第1党になるなど、閉鎖的にブロック経済に向かう流れもある。とは言え一度絡み合った世界から抜け出すのは難しい。日本もTPP参加を積極的に進め、遅れてやってきた自由経済圏競争の流れに飛び込もうとしている。最近ニュースでも環太平洋諸国による強固な連携を強調することが多い。これはひとえに中国の南下政策への牽制の意味ではあるが、中国の経済力にものを言わせた覇権主義に対抗するためには、太平洋を囲む各国が経済的に連携・協力する事なしにこれを防ぐことはできない。
    本書はそのようなグローバル化する世界経済において、国力をベースとした経済ナショナリズムの優位性を説いていく。ナショナリズムというと、一時ニュース映像でも見かけた、国民の愛国心を煽って政府が国家一体の施策を強行するといった危険なものではない。ましてやナチスドイツ、帝国時代の日本とは全く違う。
    経済ナショナリズムそのものも複数の学説があり、自由主義に対抗する保守貿易などの閉鎖的鎖国政策を指すわけではなく、国としての政治・経済・文化・技術などの国が持つ能力を国力として蓄え伸ばすことを優先するものである。国が富む上では大きく力を以ってして他国から搾取・支配することによってもたらされるものと、自らが国力中でも経済を強靭化して富を作り出す方法があるが、後者について述べている。
    そもそも国自体に軍事力や経済力などが無ければ他国を支配するなど無理な事であるから、内部に力をつける考えは当然と言えば当然ではある。本書は能力を備えずにグローバル化する政府の方針には批判的だが、基本的に低生産性と独自の島国的な閉鎖社会を持つ日本が無策のまま世界に出ればどの様な結果になるかは火を見るより明らかだろう。
    筆者は後半そのような独自の文化圏や国民性を持つ日本において、今後どのように国力をつけて経済的な発展をすべきかヒントをくれる。経済的には失われた30年を経て、給料も経済も上向きする事なく停滞してきたが、日本は能力を失ったわけではない。寧ろそうした国民性は他国に比べてまだまだ強みであるし、米や酒、和牛にロボット、アニメなど先行している分野を強みとして生かしていく事で、本当の意味での国力を強化すべきと説く。
    労働者は皆、日本の給与水準が低いと嘆いているが企業の技術革新力や対外的な競争力低下を見れば

  • ネイション(国民)とステイト(国家)の違い、経済ナショナリズムの定義やらなんやら前半は難しかった。
    後半は明快で、
     ・新自由主義、グローバル化、構造改革の時代は終わり
     ・他国はステイトの力(軍事力、資源力)が強いがネイションの力は弱い
     ・日本はその逆、まさに経済ナショナリズム思想にふさわしい状態
     ・問題は経済自由主義のイデオロギーが上記を妨げていること。財政健全化など。
     ・日本の危機の真因はこのイデオロギーの支配から脱せないこと
     ・ここをパラダイムシフトしないといけないし、それができるのは国民の力のほかにない

  • グローバル化で、日本はデフレになった。アメリカは民営化されたケインズ主義によって、民間の債務が積みあがってデフレにならなかった。

    人間は将来の予測を正確にはできないので、将来の結果を期待するに過ぎない。結局資本主義は人間の期待に依存しているにすぎない。国際的な資本の移動性が高いと、金融危機が頻繁に起きる。

    民主主義国家のほうが、もっとも強力な国家。
    ルイ14世の絶対王政は、教会や都市ギルドの特権を修正する権力がなかった。民主主義は、法律で規制できる。

    勤勉の動機は利益の追求、ではなく、勤勉が利益追求の動機である。

    国民の意志は政党や議会の議論というフィルターでろ過される必要がある。その結果民衆のナショナリズムが穏健化する。議会、政党、行政組織、政治団体、市民社会など中間組織が存在しないと、民衆の意のままに先鋭化する。それが全体主義。
    戦後のルワンダやブルンジがナショナリズムが先鋭化したいい例。自由民主主義の制度さえ設ければ自由で民主化された社会ができるというのは、甘い見通しだった。

    経済自由主義は、社会防衛的運動の結果、全体主義の原因になる。戦後は、国際経済の自由化にはGATTなどの国家間の協議のおかげで、各国が先鋭化しないで済んだ。

    エマニエルドット=自由貿易は民主主義を破壊する。

    ラーナーの機能的財政=内国債は、国民の負担とはならない。
    国家資本主義=国家がプレイヤーとして市場を支配するシステム=アメリカの姿。

  • [評価]
    ★★★★☆ 星4つ

    [感想]
    経済ナショナリズムという言葉が新鮮だった。
    国力を増大させるために、経済自由主義や経済保護政策を柔軟に実行するということが驚きを覚えた。昨今の日本の政治は基本的にはグローバリズムや構造改革を訴え、なんでも自由にできるような政策が実施されているように思う。
    リーマン・ショック以降は世界的には経済自由主義をやめて、経済保護政策が活発になりつつあるということは大変に驚いたが、最近のアメリカが中国から輸入に対する高い関税をかけていることを考えると納得できることではある。
    この本で書かれている内容は主に経済面ではあるが、現在の日本は多くの面で旧来の制度では対応できない部分が多く発生しており、改革を進めなくては行けない時期なのだろう。
    そのような中で国民が幸福になりつつも、国力を増大させるために多くの方法を検討し、勧めていく必要があるのではないかと考えた。

  • 【要約】


    【ノート】
    ・MediaMarker検索で出てきた。

  • 『経済はナショナリズムで動く―国力の政治経済学』(2008年、PHP研究所)の加筆修正版です。

    著者は、東日本大震災によってネイションへの共感、同朋意識が高まったことを受けて、危機を克服するために健全なナショナリズムにもとづく「国力」をただしく理解するべきだと主張しています。さらに、グローバル経済に抗して、経済ナショナリズムの立場からケインズ主義的な政策を擁護しています。

    近年になって、戦後民主主義を牽引してきた丸山眞男は国民国家論者として、また大塚久雄は国民経済論者として、厳しい批判を受けています。他方で、彼らの思想はむしろ保守の立場からこそ、戦後民主主義という現代のわれわれの直下にある「伝統」をただしく継承するために見なおされなければならないにもかかわらず、そうした仕事はいまだ十分になされているとはいいがたいように思っていたのですが、本書が提示する経済ナショナリズムの立場は、こうした問題設定に親和的な立場であるように思われ、個人的にはおもしろく読みました。

    ただ、「国力」によって実現されるべきものはなんなのかという問題への取り組みが欠けている点については、すこし不満を感じます。たとえば丸山は福沢諭吉を評価するにあたって、個人主義者であることにおいて国家主義者であり、国家主義者であることにおいて個人主義者であるところに、彼が理念と現実とのあいだで折り合いをつけようとしていたことを見ようとしていますが、本書における「国力」についての議論からは、そうした問いかけが欠けているように感じてしまいました。

  • 【目次】
    目次 [003-006]

    序 大震災という危機 007
    第一章 危機に直面する世界 029
    第二章 経済ナショナリズムとは何か 071
    第三章 はじめに国家ありき 095
    第四章 国力の理論 115
    第五章 国力の政策 141
    第六章 経済ナショナリズムとしてのケインズ主義 183
    第七章 国民国家を超えて? 207
    第八章 経済ナショナリズムと日本の行方 227

    参考文献 [245-250]
    あとがき(二〇一一年五月 中野剛志) [251-253]

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著者プロフィール

中野剛志(なかの・たけし)
一九七一年、神奈川県生まれ。評論家。元京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治思想。九六年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。二〇〇〇年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。〇一年に同大学院にて優等修士号、〇五年に博士号を取得。論文“Theorising Economic Nationalism”(Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に『日本思想史新論』(ちくま新書、山本七平賞奨励賞受賞)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『日本の没落』(幻冬舎新書)、『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】』『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』(ベストセラーズ)など多数。

「2021年 『あした、この国は崩壊する ポストコロナとMMT』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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